お兄ちゃんだから※文舵練習問題8-1 複数の三人称限定視点を、進行中に切り替えながら書く。切り替え時は目印をつけること。
本当に出来た息子さんですよね。そう言われる事が増えて、父として喜ぶべき所だけれど、複雑な気分であるのも確かだった。
ウシオの隣には、せっせと服にタグ付けをするカツミの姿がある。小さい頃にも手伝ってくれた事はあったけれど、その記憶は両手で数えられる程度ない。野球に打ち込むようになったカツミに言うおかえりは、クワトロMの閉店後がほとんどだった。
だから、朝から晩まで店頭に立つ長男の姿にむず痒いような嬉しさもあれば、そうさせてしまった自分の不甲斐なさで心苦しくなる。
既成のメーカータグに、クワトロMの値札が括り付けられていく。細い細い糸を摘むカツミの爪先は、昔より白い部分が若干多くなっていた。爪がないと、紙やお札が扱いにくくなるからだ。
短く刈っていた髪も伸びていた。昔のお父さんに似て好青年だ、と言うと苦笑していた。あれは照れた顔だった。
セレクトショップの店員として、今まで以上に身だしなみに気を付けるようになった。初めての香水は、着ける量を間違えていた。初めては誰にでもあるし、今ではほんのり良い匂いが漂ってくる。
きっと、未だ浅黒い日焼け肌も段々白くなっていってしまうのだろう。それが寂しく思えた。
「父さん、終わったよ」
親孝行者だね。そう言われる事が増えた。クワトロMの従業員として、店に立つようになってからだ。
そうなると良いのだけれど、カツミはまだ仕事の勝手がわからない。この店舗兼自宅に十八年暮らしているというのに、わからない事だらけだった。実際に店に立たないと、従業員の立場にならないと、見えない物ばかりだった。
不慣れな自分に、父は、大きな声で「いらっしゃいませ」が言えるんだからそれで充分だと笑った。それだけでどうするんだという話だけれど。実際に今、自信を持って出来る事は、その挨拶と値札付け位だからしょうがない。
さて、次の仕事は。父に尋ねると、そろそろ商品管理についても覚えてもらおうか、とレジ下から厚めのA4ファイルを取り出してくる。
それってそこにあったんだ。レジ周りは大切な物がたくさんあるから、あまり近付いてはいけない。そんな事を子供の時から考えていたせいか、積極的に確認していなかった。まず、レジ前に立つだけで緊張するんだから。
でももう、そんな躊躇いはいらない。カツミは、クワトロMの正式な従業員になったのだから。
これから色々な事を覚えなくてはいけない。その内、車での配達も任されるだろうから、運転の練習もしなければならない。休日に、カツミが運転する初心者マーク付きの車に乗って、家族でピクニックに出掛ける。そんな光景が頭に浮かんだ。
その時、店の扉が開いた。入ってきたのは、想像の後部座席で横になっていた弟だった。おかえりと言っても、思春期特有の反抗期なのか、イサミはピリピリした空気を背負ったまま気怠げな目でカツミに視線を返すだけだ。
自宅側に引っ込んだ不機嫌なイサミに、父と二人で苦笑しながら、ファイルを開く。綴じられた在庫表と品番についての説明を受け、メモを取った。
顔を伏せる中、店側に戻ってきたイサミの影が自分の前を横切る。自習しに図書館へ出掛けるのだろう。最近多いな、と思いながらボールペンを走らせる中、ふと聞こえた小さな声に顔を上げる。イサミは既に去った後だった。
「俺、その匂い嫌い」
イサミくんのお兄ちゃんはえらいね。そう、昔からずっと聞かされてきた。それが嫌いだった。
子供の頃なら、弟として誇らしく思っていた事もある。でもイサミが成長するにつれて、段々と嫌になったきた。あんた達に言われなくてもわかってると叫びたくなった。知ってるに決まってんだろ、家族なんだから!
それでも、時が経つにつれて聞く回数が減ってきて、これからは単純にお兄ちゃんすごいねと言われる事が増えるのだろうなと、思っていたのに。
兄が高校卒業を間近に控えた頃から、また近所の人にそう言われるようになった。今もまた、だった。
お兄ちゃん、進学しない事にしたの。お兄ちゃん、野球は続けるの。お兄ちゃんはえらいね。お兄ちゃんは親孝行者だね。お兄ちゃんがお店にいるなら、イサミくんもお兄ちゃんと一緒の時間が増えるね。
相槌を打つ内、相手はじゃあと離れていく。もう今日は、これ以上聞きたくないなと早歩きで家から距離を取る。
何度も何度も、事実を再確認させられてるみたいで嫌だった。苛立ってしょうがなかった。知ってる。知ってるよ、言われなくたって。
父の為に、イサミの為に、大学も野球も自分の未来も蹴った先で、兄はクワトロMの店先に立っている。
父には自分が決めた事だからと話して、イサミには何も言ってくれなかった。それがなんだか恩着せがましく思えて、悔しくて、悲しかった。寂しかった。兄のそういう所が嫌いだった。
爪が伸びた。髪が伸びた。服装に気を付けるようになった。似合わない香水を着けるようになった。暑苦しいカツ兄には、汗と、デオドラントの安っぽい石鹸の匂いの方がお似合いだよ。
ふと気付けば、図書館ではなく、兄と昔遊んだ場所にイサミは立ち尽くしていた。子供の時のように、二人で一緒に遊んだのもいつが最後なのだろう。
兄が変わっていく。大人になっていく。イサミを置いて。イサミの言葉も聞かないで。それがとても嫌だった。許せないと思った。
駄々をこねる子供と一緒だ。わかっている。でも、イサミは十四歳の――激しく認めたくないけど――子供だ。聞き分けのない子供だから、怒りを抱いたって、反抗したって仕方がない。だから、今はそう思わせてほしい。
「カツ兄のばかやろう」
2022.09.29