Question 振り乱れていたドアベルが落ち着きを取り戻すと、ようやく店内に静寂が訪れた。
人目を忍ぶように路地裏に構えられた純喫茶は、流れる時間も緩やかだ。カップからくゆる湯気が霧散した後も、壁に染み付いたコーヒーの幽香が窓ガラスを隔てた先の喧騒を忘れさせる。ガラス戸と窓から入り込む街灯の橙と隙間風がなければ、きっと外界そのものさえも。
閉店間際の店内に人気はない。
入口から一番近いテーブル席に、モスグリーンのエプロンが捨て置かれていた。机上から垂れた裾と紐が床を掃き、その身に土埃を纏わせていく。
未だに現役の黄色い公衆電話が据え置かれた長いカウンターテーブルの上には、コーヒーカップが一客。空になった器は、ほのかな温もりとほろ苦い香りを内側に孕んでいる。縁へ幾度も落とされた口付けの記憶を、褐色の雫が肌に焼き付けていた。
木目の平地に影を落とす物は、他にも在った。カップのハンドルと逆側に置かれた、右上だけ小さく折れた千円札。その斜め向かいに転がるボールペン。コーヒーサーバーに残った一杯分のドリップが自分を飲み干す者を粛々と待っている。
そして、山折りに立ち上がる一枚の注文伝票。それは橋のように、客と店員という立場あるいは役という川の対岸同士を繋いでいる。真ん中から縦一直線に入る折り目は甘く、三角形のトンネルは自重で徐々に沈み、やがて崩れ落ちてしまった。
伸び上がった体いっぱいに記されていたのは「128√e980」という数式だ。幾筋かのインク掠れが流星のように紙の空を走り、言葉を飾る。そうする位がきっと丁度良い。戯れに興ずるには、その答えは些か情熱的すぎる。
持ち主をなくしたエプロンはとうとう机から身を投げ、床の上で乾いた衣擦れを立てた。それを聞く者のも、咎める者も、今日に限っては誰もいない。
22.12.30