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    sakura_bunko

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    sakura_bunko

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    最初ははるこみ新刊にしようと思っていたのが、別のを書きたくなったので続きを書くのを一旦白紙にしたもの
    ただ、これの着地点も考えてはいるので、どこかで本にするか、短編集に入れるかなりしたい

    ##環壮

    無題 十八年近く生きてきて、何度か「変なところで勘がよくて怖い」と言われることがあった。そのたびに、失礼なやつだなと笑い飛ばしたり、どこが変なんだよとむくれたりしたけれど、自分の勘のよさに鳥肌が立ったのは、たぶん、これが初めて。
     それでも、勘がいいイコール正しいルート選択ができるとは限らないから、世の中って難しい。もっとこう、勘のよさを活かして、正解だけを選べないものだろうか。
     こんなときだけ、普段は信じてもいない神様に縋りたくなってしまう。あぁ、神様、今すぐ俺とこの人だけでも五秒前に戻してください! ……なんて。
     手のひらがしっとりしてきたのは、自分の手汗か、それとも、腕を掴まれているこの人の汗か。汗なんてかかなさそうな涼しい顔をしているくせに、歌っているとき、踊っているとき、それから、憧れの先輩アイドルに会ったときは、見ていて心配になるくらい汗をかく。ちょっとは俺にも動揺して、同じくらいの汗をかいてみればいいのに。そう思ったのが、最初だった気がする。なんの最初かは、恥ずかしくて言葉にしづらい。
     言葉にしづらい感情だったくせに、なんとなく「今かも」と思ったら、こうなった。
    「あー……、と」
     正解を選べなかったなんて生易しいものじゃない。もしかして、大失敗では?
     どうせ動くなら、頭の中で何度も妄想したルートにすればよかった気がする。環に腕を掴まれたままじっと待っている目の前の想い人を前に、心の裡で溜息をついた。ようやく絞り出せた声が「あー……」だ。むしろ、出せた声がこの程度なことで、失敗が確定したといっていい。
    「今の」
    「っ! ごめん、や、ごめんっつーか、その」
     反射的に手を離す。離して初めて、汗をかいていたのは自分だとわかる。ひんやりとした手のひらがなによりの証拠だ。でも、触れているあいだ熱かったのは、それだけ?
    「謝るなら、しないで。するなら」
     怒られると思って咄嗟に身構えたところに、壮五がぐっと身を乗り出してくる。
    「……こうやって、言い逃れできない場所にしてよ」
    「俺、できてなかった?」
     びっくりしたし、やわらかかったし、なんで、どうしてという言葉が一瞬で頭の中を埋め尽くしたのに、それを上回る疑問が口から出てしまった。
    「惜しかった」
    「惜しかった⁉」
     壮五の指が、環のくちびるの端に触れる。
    「ちゃんと狙いを定めなきゃ」
     つまり、環が直感に従って行動に移した着地点は、ここだったということだ。
    「怒んないの?」
     こんなことを訊いておきながら、その実、怒られるとは思っていない。直感のでどころは、壮五に拒絶されないと思えるだけの自信だ。壮五も同じ気持ちだという、自信。
    「言い逃れできないようなことを仕掛けたくせに、怒られるかもなんて思ってたの?」
    「……さっきから言い逃れって言葉使ってるけどさ、そーちゃんには、俺が言い逃れするようなやつに見えてんの?」
     だとしたら、とんでもなく失礼なやつだ。ケンカしてもやっていくんだと決めて、結成の頃よりはずっと仲良くなれたと思っていたのに。……そういえば、この人は仲良くなるにつれて気を遣うのをサボるようになってきた節があるから、さっきの言葉も、その一種なのかもしれない。
     少しむっとしたから、意趣返しのつもりで、今度はこちらから体を寄せる。ものすごく照れくさいし、恥ずかしさで目の奥がじわじわ熱いけれど、言われっぱなしで黙っていられるほど、優しいだけの人間じゃない。
    「環くんのこと、そんな失礼な子に見えないし、思ってもないから、待ってる」
     壮五が瞼を閉じたのを確かめてから、今度こそ、正しい場所にくちびるを寄せた。なるほど、さっきのお手本どおりに重なれば、こんなふうになるんだ。うん、やっぱり、最初のは思いっきり間違っていた。
    「……二回もしちゃったな」
     もっと先に言うべき言葉も、確かめるべき感情もあるはずなのに。
    「三回だよ」
    「惜しかったやつ入れたらだろ。あれはノーカンにして」
     どうせなら、格好よく告白したかった。何ヵ月先になるかわからないけれど、オフの日にお気に入りの服を着て、壮五お気に入りのレコードショップに行き、ふたりで何度か行ったカフェでおいしいものを食べ、少し遠回りして帰りながら、いい雰囲気になるのを待って、一生覚えていたくなるような言葉で告白できたら――なんて、夢を見ていた。決して「今かも」なんて直感を優先させて、衝動のようなキスを仕掛けるつもりはなかったのだ。そのキスも、最初のは失敗に終わったけれど。
    「まぁ、いいか。ね、それより、早く聞かせて。環くんのことだから、すごく格好よく決めてくれるんだよね」
     順番が狂ったせいで、告白の言葉も、夢見ていたものは一気に陳腐な気がしてきた。
    「なんか、ちょーハードル上げられてんだけど」
    「上げたつもりはないよ。今、この場ですぐに聞きたいだけ」
     熱っぽいまなざしに、環まで、熱に浮かされたような感覚に陥る。それでなくても初めてのキスを経験したばかりで、視界も心も浮遊感でくらくらしているのに。
    「さっき、そーちゃんの腕掴んでたとき、手汗やばくて。でも、触ってるあいだ熱かったの、俺だけじゃなくて、そーちゃんも、おんなじ気持ちだって思った。これって、うぬぼれじゃねえよな。ずっと、好きで……うぬぼれだったら格好悪いけど……」
     泣きそう。だめだ、我慢しなきゃ。――そう思った瞬間、我慢なんて無理なくせにと嘲笑うみたいに涙腺がゆるんだ。悔しい。一番格好よくいたいときに、自分の涙を抑えられないなんて。涙を拭ったら、泣いているのに気付かれてしまう。
     気恥ずかしさで俯いたふりをしていたら、壮五の腕が伸びてきて、あやすように抱き締められた。デビューしてすぐの頃、独断で引き受けた仕事で散々な目に遭わされたのが悔しくて泣いたときも、こうして、守るみたいに背中を撫でられたっけ。本当は、いつだって自分が、あの人を守りたいのに。
    「うぬぼれてたんだ?」
    「なんか……できそうな雰囲気だった」
     そうでなければ、告白をすっ飛ばしてキスなんてできっこない。
    「雰囲気って、どこでそんなこと勉強してきたの」
    「そーちゃんのこと見てただけ。だって、そーちゃんしか好きになったことない」
     壮五が共演者から連絡先を訊かれたのを断ったり、環目当ての共演者から会食のセッティングを頼まれたのを断ったりしていたのを、環はすべて把握している。そして、環もまた、連絡先の交換を求められても、壮五目当ての共演者から仲を取り持ってほしいと頼まれても、無知な振りをして全力で躱してきた。ふたりとも、自分以外の誰かが特別な相手になるのがいやだったから、笑顔で、必死の牽制をしてきた。こんなにも周囲への牽制をしておいて、気付かないほうがどうかしている。
     つまり、互いの気持ちを察するところまでは予定調和みたいなもので、そこから先に進むかどうかを探り合っているだけだったというわけだ。
    「……機嫌、直った?」
     泣いたのを慰めてもらっていたはずが、いつの間にか、自分が宥める側になっていることに気付く。
    「僕の機嫌は斜めになってたのかな?」
    「さぁ。でも、さっきのあんた、ちょっとおもしろくなさそうだった。俺がそーちゃんだけなの知ってるくせに、わざわざ言わせようとするし」
    「べつに、機嫌を損ねたつもりはなかったんだけど、決定的な言葉は環くんから言ってほしくて、必死だったのかもしれない」
    「言わせたかったの? なんで?」
     同じ好きなら、そっちから言ってくれてもよかったのになと思う。言い逃れできないようなキスをしろと迫ってきたわけだし。
    「なんとなく……」
     壮五らしくない曖昧な返しだなと思った。真意を隠したいのか、それとも、本当に言葉にできない〝感覚〟レベルの話なのか。
    「ま、いいけど。てか、そーちゃんも言えよな。俺ばっか打ち明け話してんの、不公平じゃん」
    「あれ、言ってなかったっけ」
    「言ってもらえてないー」
     本当、変なところで適当なんだから。くちびるをむっと尖らせていると、そこに吸いつくみたいにキスをされた。
    「環くんのことが大好きだよ。どんなことがあってもこの気持ちだけで生きていけるくらい、大事な気持ちなんだ。だから」
    「それなら、俺の恋人になって」
     たぶん、続きは自分から言ったほうがいい気がした。壮五が瞠目するのにも構わず、言葉を続ける。
    「絶対、大事にする。今までもしてきたつもりだけど、もっと、ちゃんと大事にする。相方でも仲間でも友だちでもできないくらいにそーちゃんのこと特別扱いして、誰より近くにいる理由、俺だけにちょうだい」
     相方でも仲間でも友だちでもこの人を大事にすることはできるけれど、それだけじゃたりない。要は、壮五をひとりじめしたいのだ。
    「いいの? お付き合いなんて……」
    「だめ? っつーか、好き同士なら、付き合うじゃん」
     好きだと言わせたがったくせに交際には乗り気ではなかったのだろうか。だんだん不安になってきて、壮五の顔を覗き込む。ぽぽぽと赤く染まった頬がかわいくて、思わず、そこにくちびるを押し当てた。
    「付き合う……うん、よろしくお願いします」
    「やった!」
     どうしよう、よろしくお願いしますって言われた。きっと同じ気持ちだという自信はあったけれど、本当に望みどおりの返事がもらえるなんて、夢みたいだ。心なしか、返事をくれたときの声がいつもよりきれいな気がする。いつもすごくきれいな声だけれど。
    「めっちゃ嬉しい。やばい。一秒前よりそーちゃんのこと好きかも」
     にやけそうになるのを我慢できない。変な顔だって思われるかも。
    「あー、どうしよう。俺、今まじでやばいかも」
    「どうやばいの?」
    「ずっとわーわー言いそう。あと、意味もなく部屋んなかぐるぐるしたくなる」
    「ふふ、……僕も、幸せで……ごめん、照れくさくて、ちょっと待ってね」
     そう言って、壮五が両頬を手で押さえる。普通なら「二十歳にもなってそんなあざといポーズをするな」と言われてもおかしくないのに、壮五がやるとかわいいから困る。これが漫画だったら〝きゅーん〟なんて効果音がつくんじゃないかというくらい、ときめいてしまった。こういうのが、惚れた弱みってやつだ。
     かわいい、どうしよう、本当にやばい。思いっきり抱き締めたいけれど、テンションの上がり過ぎで首のあたりに汗をかいてしまったから、今は我慢だ。だって、手汗を知られるだけでも恥ずかしかった。これ以上、恥ずかしい自分を知られたくない。
    「そーちゃん、好き。もっかい、していい?」
     シャツの裾でこっそりと手汗を拭ってから、壮五の指先に触れる。仕事で何度も触れたくせに、今、この場で大胆に手を握る勇気はなかった。手を繋ぐよりずっと難易度の高いキスを済ませたばかりか、もう一度キスがしたいと迫っておきながら、だ。
     壮五の瞼が伏せられたのを確かめ、さっき覚えたばかりの角度でくちびるを寄せる。最初は失敗したけれど、覚えてしまえば簡単だ。心のなかで三回目、と数える。
     今はこうやってキスの回数を数えているけれど、この先、数えられなくなる日がくるんだろうか。そうなる頃には、言葉で確かめなくても視線や雰囲気でキスまでの距離を縮めたり、手汗なんてかかなくなったり、もっと、余裕のある振る舞いができるようになりたい。好きな人にはいつだって格好いいと思われたいから。
    「……一回でいいの?」
    「は⁉ やだ、けど……、やだっつっても、別にがっつくつもりはなくて、一回でいいかって言われたら、ちょっとなーって感じ。でも、このまんまも、さすがに困る……」
     明日も普通に仕事だし。――本当は、やめどきがわからなくなりそうで怖いというのが本音だ。やり方を覚えれば簡単だとは思ったけれど、それはあくまでも技術面の話で、決して、一日でキスに慣れたいわけではない。しばらくは、その日のキスの回数を指折り数える楽しみに浸りながら眠る日々を送りたいのだ。
    「そうか……うん、僕こそごめんね。ちょっと、ううん、かなり嬉しくて」
     かなり嬉しい。壮五の言葉を頭の中で反芻する。頑張って普通の顔をしようと努力してみたけれど、無理だった。今、世界で一番、にやけ顔をしている自信がある。同時に、自分は世界一の幸せ者だとも思っている。
    「えっと、じゃあ、明日も仕事だし、俺、部屋戻るから」
    「あ、うん。おやすみ」
     にやけ顔を抑えられなさ過ぎて、自分の声が上擦ったのがわかった。それすらも恥ずかしくて、壮五の顔を振り返ることなく、少しばかり大股歩きで部屋をあとにする。
     ドアを閉めてから、あぁ、最後にもう一度〝かなり嬉しい〟の顔を確かめればよかったと思ったけれど、そんな余裕もなかった。


     まだ日付も変わっていない時間とはいえ、メンバーによっては早朝からの仕事に備えて早めに休んでいる者もいる。よろこびのあまり勢いよくドアを閉めそうなのをぐっとこらえ、ことさらていねいに、たぶん、ここで暮らし始めてから一番といっていいくらい、静かにドアを閉めた。閉めるなり、いてもたってもいられなくてベッドに飛び込んだ。
     恋人。口の中でその単語を転がす。味がついているとしたら、なに味? 王様プリン味だといいな。でも、キャンディみたいに、溶けてなくならないようにしなきゃ。
     MEZZO"の仕事の打ち合わせくらいでしか互いの部屋を行き来しなかった頃は、まさか恋をするなんて、思いもしなかった。歌声の相性がいいと褒められることは多かったけれど、――〝父親というものにいい思い出がなかった〟という共通点だけで仲良くなれるほど人の心は簡単じゃないし――歌声以外のすべてにおいて、自分たちは相性が悪いと感じていた。嫌われているとすら思いこんでいたこともあったくらいだ。
     そんな自分たちの関係を表すものに、今夜、恋人という名前が増えた。相方、仲間、友だち……すでにたくさんある名前のなかでも特に大切にしてきた、自分の一生で一人にしか使わない〝相方〟と同じくらい、この名前も大切にしたい。
     恋人。もう一度、口の中でその単語を転がす。口許がむずむずしてきて、とてもじゃないけれど、まともな顔なんてできない。今、誰かにこの顔を見られたら、十七歳にして早くも社会的にだめになりそうな気がする。
    「……あー」
     部屋に戻ってひとりになると、さっきまでの自分の振る舞いにおかしなところはなかったかと、脳が勝手に反省会を始めてしまった。
     明日も仕事だしと部屋をあとにしたのが、不自然だったかもしれない。いままではもう少し遅くまで一緒にいたわけだし。だいたい、翌日の仕事を理由に就寝を促すタイプなのは、あの人のほうだ。照れを誤魔化したのがバレているかもしれない。それって、すごくダサいでは? あぁ、どうしよう、今からでももう一度部屋に――そこまで考えて、それはそれでちょっと間抜けだろと思い直す。
     まだまだ眠る気分にはなれないから、なんとなく、壮五とのチャット履歴を遡ることにした。これまでの日々を反芻するのに最適なツールだと思ったからだ。無防備で見るのはいたたまれなくて、掛け布団で腹のあたりを覆う。
     ほとんど一緒にいるくせに、チャット履歴は万理や紡との個人チャットに匹敵するレベルなのがおもしろい。スタジオの出入り時間がずれたときのちょっとした連絡から、完成品を同時に見られない個人の仕事に対する感想はもちろん、眠る前にやりとりしていることもあった。部屋を訪ねるもっともらしい理由が浮かばなくて、でも、壮五との時間を一分でも長く確保したくて、くだらない言葉や意味のないスタンプを送ったものだ。
     眠る前のとりとめのないチャットが減ったのは、あるとき、壮五から「まだ起きてるなら、こっちにくる?」という返事がきたからだ。日にちが変わる頃には寝るんだよという条件つきで、部屋に呼んでもらえた。毎日部屋で話してから眠りたいけれど、さすがにしつこいだろうかと遠慮したら、いつの間にか、向こうからも部屋に来てくれるようになった。たぶん、そのくらいの頃から「もしかして」と思うようになった気がする。
     チャット履歴を読み返しているうち、自分から送ったものが恋愛感情だだもれに見えてきて、どんどん顔が熱くなってくる。よくも、こんなメッセージを送れたものだ。
     これらのメッセージを見て、どう思っていたんだろう。照れた? 照れてくれたならいい。ちょっと引かれたときがあったとしたら、どうしよう。どんなに好きで恋焦がれていても、好きな人のすべてを許容できるとは限らないわけだし。いや、付き合おうという言葉に頷いてくれたということは、ここまでの言動を――許容できたかは別として――あの人なりにうまく咀嚼したうえで、同じ気持ちを抱き続けてくれたと思っていいのでは?
     普段こんなことを考えないものだから、どこで思考を止めればいいかわからず、自分でも混乱しているのを感じる。でも、到達点のない思考整理でもしていないと、キスの気恥ずかしさが無限によみがえってきてしまうのだ。一秒か二秒だったけれど、今でも思い出せるくらいやわらかかったし、手入れをサボっている自分のくちびるに、あの人が愛用しているらしいリップクリームがちょっとついた。
     そういえば、キスの味とやらはわからなかったなと思い至る。味がないことこそが、キスの味なのかもしれない。
    「わー……」
     声を抑えたぶんだけ余ったパワーをどこかに預けないとやっていられない気がして、とりあえず、スマートフォンをベッドの端に放った。
     かれこれ一時間は経っているのに、一向に落ち着ける気がしなくて、意味もなく、ベッドの上で何度も寝返りを打ってしまう。なんなら、自分の部屋に戻ってきてすぐよりも恥ずかしい。世間のファーストキス経験者は、皆、この状況を乗り越えてきたのか?
    「……」
     今度は、いやな汗が背中を伝った。初めてだからとここまで浮かれているのが、自分だけだったとしたら?
     部屋に戻ってきてから何十回と反芻した、壮五とのキスを思い出す。
     言い逃れできない場所にしてと迫ってきたのが、やけに早かった。少なくとも、キスをしたつもりがくちびるに着地できていなかった自分とは比べものにならないくらい、キスできる距離に慣れていた気がする。キスシーン経験がないのはお互いさまなのに、こんなにも差があるなんて、プライベートでの経験有無なのでは?
     初めて壮五を見たとき「女性にモテそうな顔だ」と思ったし、ファンの中でも壮五はナギとはタイプの違う〝王子様枠〟にされているらしい。きれいな顔で物腰も――本人曰く「ちょっとおろおろした」場合を除けば――やわらかいし、黙っていれば普通にモテそうだ。だめだ、モテない要素を大至急探さないと、深みにはまってしまう。
     ……そうだ、芸術家の個展に連れて行かれたときに、高校生を連れて行く場所として選ぶにはセンスがないなと思って「そーちゃんモテねーだろ」と言ったら、今、その話は関係があるのかとキレられたことがある。あれを、図星を突かれたことによる逆ギレと捉えるのであれば、モテないイコール恋愛経験がないということになるかもしれない。
     そこまで考えて、環は大きな溜息をついた。好きな人のモテないポイント探しなんて失礼なこと、やるもんじゃない。あの人は三六〇度どこから見ても魅力的だから、モテなかったらモテなかったで世間のやつらは見る目がないなと腹が立つ。でも、モテたらモテたで、経験値の差があったらどうしようと不安になったり、自分より先にあの人のキスを知った人がいるのかという嫉妬心に苛まれたりする。
     どちらが正解でもいやだし、どちらが不正解でも安心する。面倒な感情なのに、どうしてもあの人が好きなんだから、自分のなかでうまく折り合いをつけるしかない。
     もやもやした気持ちでじっとしているのに耐えられなくなってきて、放ったままのスマートフォンを手繰り寄せた。少し逡巡してから、検索ワードを打ち込んでみる。恋人、過去、気になる――同様の悩み相談が大量にヒットして、他人のそういう悩みに目を通したところで、なんの解決にもならないなと思い、内容は読まないでおいた。アドバイスや推測を自分に置き換えてひとりよがりなショックを受けたくないし。
    「訊く……や、無理」
     実際のところどうだったかを確かめるなんて、怖過ぎるだろ。それで「実は大学時代にお付き合いをした人がいて」なんて答えが返ってきたら、顔も知らない過去の相手を激しく嫌ってしまうし、幸せで楽しいだけの交際をしようと思っているのに、嫉妬心をぶつけてしまいそうだ。あぁ、でも、気になる!
     ひとつだけ、方法がないわけではない。したたかに酔った壮五は自身の言動含めて記憶をなくしてしまうから、酒を飲んでいるときにそれとなく尋ねれば、きっと、環の知りたい答えがもらえるに違いない。
     でも、それってすごく卑怯な手段だし、壮五に対して不誠実だと思う。尊敬する人たちやファンに対して誠実でありたいと思う自分の信条にも反する。
     世の中、ままならないことはいくらでもあるんだし、このもやもやした疑問は自分の心の裡に隠して、あるのかないのかもわからない好きな人の恋愛経験を気にせず生きていけるくらい、余裕のある大人になりたい。時計のすべての針がてっぺんを指した瞬間に子どもから大人になるなんて変な決まりだなとは思うけれど、もうすぐ、大人の仲間入りをするんだから。
     大人の恋って、どんなのだろう。手を繋ぐ、抱き締め合う、キスをする――その先の行為も、知識だけならある。
     あの人は、自分より年下でかわいいところに顔をほころばせるくらいには〝十七歳のピュアな四葉環〟に結構強めの夢を見ているふしがあるから、もしかしたら、キス以上の知識はないと思っているかもしれない。本当はもう暗闇でも眠れるし、朝も自分ひとりで起きられる。恋の話は照れくさくて恥ずかしいままだけれど、キスと舌の意味も、とっくに知っているんだ。
     本当はいろんなことを知っているんだって教えたら、すごく驚くに違いない。さっきみたいに「どこで覚えてきたの」なんて訊かれるかも。なにもかも初めてだって打ち明けている以上、無意味なやきもちを妬かせることにはならないけれど……あるかどうかすらわからないあの人の過去にもやもやしているんだから、ちょっとくらい驚かせたっていいんじゃないか。
     どこか余裕があるように見えたあの人を、夢中にさせたい。かわいいより格好いいって思われたいし、もっといえば、こちらの言動に振り回されてほしいとすら思っている。
     両頬をぱちんと叩いて気合いを入れる。恋人になれたからって油断しちゃだめだ。明日から早速頑張らなきゃ。
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    sakura_bunko

    MOURNING最初ははるこみ新刊にしようと思っていたのが、別のを書きたくなったので続きを書くのを一旦白紙にしたもの
    ただ、これの着地点も考えてはいるので、どこかで本にするか、短編集に入れるかなりしたい
    無題 十八年近く生きてきて、何度か「変なところで勘がよくて怖い」と言われることがあった。そのたびに、失礼なやつだなと笑い飛ばしたり、どこが変なんだよとむくれたりしたけれど、自分の勘のよさに鳥肌が立ったのは、たぶん、これが初めて。
     それでも、勘がいいイコール正しいルート選択ができるとは限らないから、世の中って難しい。もっとこう、勘のよさを活かして、正解だけを選べないものだろうか。
     こんなときだけ、普段は信じてもいない神様に縋りたくなってしまう。あぁ、神様、今すぐ俺とこの人だけでも五秒前に戻してください! ……なんて。
     手のひらがしっとりしてきたのは、自分の手汗か、それとも、腕を掴まれているこの人の汗か。汗なんてかかなさそうな涼しい顔をしているくせに、歌っているとき、踊っているとき、それから、憧れの先輩アイドルに会ったときは、見ていて心配になるくらい汗をかく。ちょっとは俺にも動揺して、同じくらいの汗をかいてみればいいのに。そう思ったのが、最初だった気がする。なんの最初かは、恥ずかしくて言葉にしづらい。
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