そうだ、ラブホ行こう。続 閉め切っていた窓を開ければ、部屋の中に新鮮な空気が一気に流れ込んできた。
六畳一間、十代の少年二人の慎ましやかな情事を終えた部屋は、すっかり酸素が薄まっていたらしい。道理で頭が痛むわけだと、むせ返るほどの性の匂いが掻き出されていくのを尻目に、匋平は吹かした煙草の煙を、ぼんやりと眺めていた。
遠く、夜の街はもう日付も変わっているというのに煌々と光を放つ。どこかで、パトカーのサイレンの音が鳴り響く。前の通りから、酔っ払いの歌声が聞こえてくる。
治安はそこそこ、普段使わないので二人にはあまり関係がないが、駅まで歩くには少し遠い。一歩裏道に入れば、途端、街灯の明かりは届かなくなる。
未成年二人で借りられるアパートなんて、たかが知れている。
知れているけれど、住めば都とはよく言うもので。
掠れて読めなくなったアパートの看板も、白からクリーム色になって黒ずんだ外壁も、剥き出しのガスメーターや古びた給湯機も。
手狭なはずの六畳の居間も、二人で身を寄せ合うには丁度いい。逆に、喧嘩したときにはこの上なく居心地が悪くなるのだけれど。
翠石の親父たちが暮らす家から移り住んできたときには、それなりに不自由さを感じたものだが、今ではすっかり愛着が湧いている。
とは言え、もちろん不満がないわけではなくて、挙げ出せばきっとキリがない。
天井に広がる謎のシミ。立て付けの悪い窓。時折機嫌を損ねるエアコン。なかなかお湯にならないシャワー。ささくれた畳の編み目。
あれもこれもと、正直、窓辺からぐるりと部屋の中を見渡すだけでも、無数に出てくる安アパートのダメなところ。
でも、どれもこれも、致命的な欠陥にはなり得ない。塵も積もればと言われれば確かにそうではあるが、生活に大きな支障があるわけではなく、きっとどこに住んだとしても、妥協しなければならないところは必ず出てくる。
「……ぁんっ、……いぃ、いいよぉ……」
実際、匋平と依織だって、妥協点を見つけて、暮らしている。その結果が、今匋平の足元に転がる、すっかり綿のよれてしまったサメのぬいぐるみなわけであるからして。
部屋には二人きり。先ほど、絶頂を迎えるや糸が切れたように意識を失った依織は、身体を清められ念入りに被せられた布団の中、穏やかな寝息を立てている。
テレビは、置いていない。そんな余裕はないし、興味もさしてない。必要な情報は親父や兄貴たちが与えてくれるし、クラブに行けば、世の中のこともそれなりに知れる。それに、持たせてもらっているスマホがあれば、十分事足りる。
「だめぇっ、……そこ、……いのぉ、……あん、やぁんっ!」
煙草を指に挟んで口から離して、吐き出したのは、果たして紫煙だったのか、溜め息だったのか。
窓の外にやっていた視線を、もう一度部屋の中に向ける。起きる様子もなく、今ばかりは年相応にあどけなく浮かべられる寝顔を確認して、匋平は諦めたように、また外に顔を向けた。
煙草を咥えなおして、匋平はそっと、耳を澄ます。
ごとん、右上の部屋で物が落ちた鈍い音。
あはははは、向かいの部屋からバラエティー番組の笑い声。
ジャーっと水の流れる音は、真下の部屋のシャワーか、はたまたトイレか。
ガチャンと、遠くで聞こえた玄関の鍵の回る音は、どこの部屋かまでは特定できない。
そして、極めつけが。
「あぁんっ、イくイくぅ! イっちゃうぅっ!」
隣室から聞こえる、女の、甲高い喘ぎ声。
今すぐここを出ていきたいほどの、生活に大きな支障を及ぼす不平不満はほとんどない。ないのだけれど、この異常なまでの壁の薄さに、匋平はわりと真剣に、ない頭を悩ませていた。
べつに、他人の生活音を気にするほど、繊細な神経は持ち合わせていない。こうして聞こえてくる生々しい隣人の性行為の音だって、うら若き青少年によっては、この上ないオカズにもなりうるだろう。
実際、ここに越してきて、はじめてそういう現場に直面したとき、匋平はそれなりに興奮した。依織にはアホらしと一蹴されたので、さすがにその場で本当にオカズにすることはなかったが、それを迷惑だと、思うことはなかったのだ。
けれど、今となっては、隣人の、正確には隣人と隣人に連れ込まれる女の遠慮のなさに、匋平はすっかり辟易してしまっている。
正直匋平は、この現状を妥協だとは思っていない。強いられていると、苛立ちさえ覚えることがあった。
「きゃあっ! もぉ、ゆるひてぇ……っ、イった、ばっかりなのぉ、………あっ、あぁ〜〜んっ」
それと言うのも、この隣人のただ漏れセックス音のせいで、依織が、セックスの際、声を出すことを極端に嫌がるからだった。
身体をどろどろに暴かれている状態で、際限なく発してしまう声が、どこの誰とも知らない奴に聞かれることを、依織は良しとはしなかった。まあ、一般的に、情事の声を他人に聞かれたい人間など、そうはいないだろう。加えて、自分たちは男同士。男の自分が喘ぐだなんて、そんななんとも常識的な思考とプライドが、依織をより意固地にさせた。
シーツを噛めるように、いつも体位はバックばかり。
いつかのとき、あまり歯を食い締めるのもよくなかろうと、見下ろした後頭部、口元に回そうとした手は、強かに叩き落とされた。おまけに、手負いの獣のように、苛烈な瞳が、涙をいっぱいに溜めて匋平を睨みつてくるのだ。それじゃあ逆効果だと言ってやりたいところだが、そのあまりの必死さは時に殺気をまとい、匋平の行動を抑止する。
それに加えて最近は、サメのぬいぐるみでも口を塞ぐことを覚えてしまった。
依織にしてみれば、シーツを噛むなと言ってくる匋平に対する妥協だったのだろうが、匋平が求めていたのは、何もそういうことではない。
元々の我慢強く、こうと決めたら曲げないタチなのもあってか、依織が実際、これまでに声を上げたことなんて、数えるほどしかない。もうきっと、両手で足りないほど身体を重ねてきているというのに。
セックスしなければいいだけなのだけれど、まだ十代でおまけに血の気の多い男の子が二人。一度覚えた快楽の味は麻薬のように、二人の感覚を狂わせる。
抱きたいと迫るのはもっぱら匋平のほうだったが、依織もそれにありえないという顔をしながらも、勝率八割ほどで応じてくれるのだから、満更でもないのだろう。
「あんっ、あァンッ、はげしい〜、……くん、もっとぉ、もっとおまんこ、ついてぇ……っ!」
昔は、依織とこういう関係になるまでは、こんな風に下品に喘ぐ声も嫌いじゃあなかったはずなのに。求められるのが好きだった。もっともっとと、淫らに誘われ、惑わされ、孕ませてほしいと欲望一色に媚びた目を向けてくる女に尽くして、暴いて、体力の続く限り。
今じゃあ、時折、巨乳のこの声の主と廊下ですれ違ったって、何も興味はそそられない。
それほど性欲の発散に困っていないというのもあった。けれど、何よりも、今の匋平の情愛の対象は、依織しかありえなくて。
──よ、へぇ……
ふと、思い起こされるのは、依織とはじめてセックスしたときのこと。残響するのは、苦しげに呼ばれた己の名前。
──ぁ、……っ、んっ、ぁ、あぁ……っ
お互い、男同士の知識も曖昧なまま、唯一正常位で及んだセックス。
余裕がなかったのは、言うまでもない。それでも、声を出すまいとしていた依織が、堪えられずに上げた控えめな声は、確かに艶やかな嬌声。挿入される苦痛を呑み込んで、必死に必死に、匋平を受け入れようと涙を溢れさせながら、虚ろに匋平を見上げたときの表情は、どんなAV女優よりも──
「あ〜、クソッ……」
気づいたときには灰が長くなってしまっていた煙草を、灰皿に押しつける。もう一本取り出そうとして、ガシガシとまだ濡れたままの頭を掻いた。
さっき一度ゴムの中に出して、後片付けをしてからトイレでもう一度抜いたはずなのに、スウェットの中が緩く勃ち上がっているではないか。
気づけば、近く、聞こえる範囲の部屋の物音は静まり返っていた。セキュリティが最低レベルの安アパートの入居者は、ほとんどが男なのだ。何を目的にしているかなんて、言うまでもないだろう。
「最悪……」
そんな中で、きっと一人、なんの感慨も抱いていないはずだったのに。結局、触発された、という意味では、他の浅はかな住人たちと、変わりはない。
深い、深い溜め息を一つ。がくりと頭を項垂れて、どうしたものかと己の股間と向き合ってみる。向き合ったところで、元気な股間は己の欲望しか伝えてこないのだから、結局、なんの解決にもならないのだけれど。
また、あの声が聞きたいのだ。依織の甘い声を、もう一度、聞かせてほしい。何をして欲しいのか、どこが気持ちいいのか、あの生意気な口から叫んでほしい。
それから、普段強気なあの小綺麗な顔が、どんな風にとろけていくのか、この目でちゃんと、確かめたい。自分の名前を呼んで、なりふり構わず快楽に溺れて、ぐしゃぐしゃに泣く顔を、どうしても、見て、みたい。