俄に押し寄せてきたざわめきに、グラスを拭いていた手を止めて、顔を上げる。
開店まであと三十分を切った、そんな頃だった。
開店準備に慌ただしい時間帯ではあったが、そういう喧騒とは明らかに異なる種類の落ち着きのなさに、何かイレギュラーが起きているのは一目瞭然だった。ただ、緊急事態、とまではいかないのは、なんとなく感じ取れていて、一先ずグラスを置いて、何事かと近くのスタッフと顔を見合わせる。
今しがた気づいた自分と同じように、近くにいたキャストやスタッフたちも、状況は理解していないらしい。首を傾げ合い揃って視線を店内へと向ければ、前方にいた奴らの視線が、ある方向へと向いていることに気づく。
店の奥のこの位置からは、簡単に店全体を見渡すことができて、そう視線を巡らせることもなく、自分と同じように店の手伝いをしていた、相棒の姿も確認できた。
自分たちが出る必要があるのだろうかと、情報共有もかねて相棒に近寄ろうとした刹那、それは、唐突に。
「ちょっと! 困りますってっ!」
響いた声は、表に掃除に出ていた黒服のもの。出どころは、さっきからずっと、注目を集めていた、いつもと変わらないはずの出入り口。
今、その扉が、派手な音を立てて、押し開かれようとしていた。
押し込まれるようにして入ってきた、慌てた様子の黒服と、どう見ても扉向こうとで繰り広げられているのであろう攻防に、店内に一瞬、緊張が走る。夜の世界を生きる人間たちだ、程度の差はあれど、身構えたのは当然の反応である。
とは言え、一般の黒服一人、助けを求めてくるでもなく、いまだ押し止められる範囲である。相手がヤクザかチンピラともなれば、用心棒を任されている自分たちがでしゃばらなければならないが、そうでないなら門外漢。
ここは、男と女の愛憎渦巻く、眠らずの城。夜の蝶が乱れ飛び、金銭を対価に、憩いを、あるいは狂乱を提供する大人の遊戯場。
闖入者は、何も裏稼業の人間ばかりではない。つまり、俺や旦那で相手にできる輩ばかりとは、限らないわけだ。
腕力がものを言うか、人生経験がものを言うか。何事も、プロに任せるに越したことはない。
なるほど、今回は自分たちの手に余ると察してしまえば、代わりに、珍しいこともあるものだと、好奇心が芽生え出す。高級クラブにあたるうちは、嬢も客も、弁えた人間が多い。他の店の事情がどうかは知らないが、自分がここに出入りするようになってもうそれなりになるが、いまだそういう現場に遭遇したことはほとんどない。そりゃあ、多少なりとも痴情がもつれる現場を見ることはあったが、こうも正面切って乗り込んでくるというのは、なかなかあることではないはずで。
嫁か、はたまた彼女か、愛人か。なんて、下衆な勘繰り。
「離してってば! ここにいるのわかってんだからねっ!」
「お客様! まだ準備中ですからっ!」
「客じゃないわよっ! いいから、そいつ出しなさいよっ!」
ざわつく店内に、黒服の困惑した声。それに重なったのは、若い女の子の、声だった。
誰か加勢に行ってやればいいものを、そこは、この店で働く人間の気質だろう。面白いことになりそうな予感を目敏くキャッチして、傍観者に徹する。対応している黒服は必死なのだろうに、薄情なやつらだ。
「よーへい、出てきなさいよっ!」
しかし、そのおかげで、どうしようもなく愉快な展開に、ありつけそうなわけである。
こういういざこざは、大抵、私の彼氏を誑かしたのはどこの女よ、という女同士によるものだとばかり思っていたのだがこの様子では、どうもそういうわけではないらしい。
皆の視線が、一気に名を呼ばれた男へと注がれる。この店に、その名前の人物は、一人しかいない。
当の本人はと言えば、よもや自分の名前が出るとは思っていなかったのだろう。集まった視線に、きょろきょろと周りを見渡して、ワンテンポ遅れたのちに、は!?と発せられたデカい声が、本人の心情を物語る。動揺と困惑に揺れる横顔は、年相応の拙さを伴っていた。
「よーへいってやつ、いる?」
さっきまでの怒号が嘘のように、落ち着き払った声は、逆に空恐ろしい。
出入り口で競っていた黒服が、あまりの剣幕に押し負けたと見える。まだ外の掃除をさせられるような新人には、荷が重かっただろうか。いくらかやり合ったのちに、逃げ込むように店内へと入ってきた黒服に続いて、声から想像していた通り、若い女が一人、不自然なくらいの笑顔でうちの扉を潜った。
「……俺、だけど」
それぞれの思惑が飛び交うのが、一瞬にして見て取れた。期待、興奮、嫉妬、呆れ。悲喜交々、この先の展開を思いやって逡巡したわずかな時間、一様に皆が口を閉ざした刹那に、当事者は当事者なりに、答えを出していたのだろう。素直に名乗り出たのは、バカ正直にもほどがあるとは思うが、こうも視線を集めてしまっている状態では、遅かれ早かれ、だ。
ここまでくれば、下手に逃げ隠れするほうが厄介なことになるのは、遊び慣れた男ほど、よくわかっている。
「あんた、が……!」
心当たりが一つや二つで済まないであろう男は、当然その先に自分に起こることも予見していてもよさそうなものだが。
それでも、喧嘩慣れしている旦那が、手も足も出ないとは、いやはや、恐れ入る。
この上なく軽快な破裂音とともに、鮮やかな平手打ちが、色男の頬を撃ち抜いた。
「このクソ野郎ッ!」
「え? は……?」
「あの子に二度と、近づかないでっ!」
女が旦那を認める間、距離を詰められる間、大きく手を振りかざした間。対応するタイミングは確かにあったはずなのに、それをしなかったのは、何も旦那が、己の過ちを潔く認めたからでは、決してないだろう。
頭一つ分ほど小さい女に平手打ちされた程度で、よろめいた拍子に背後のテーブルにぶつかって座り込んでしまったくらいだ。この状況で、よもやぶたれるとは思っていなかったと言うのなら、なんともおめでたい。
呆気に取られて、テーブルに腰を落とした位置から、女を見上げる旦那の浮かべる表情の、情けないこと。ふっ、と思わずこぼれた吐息は幸いにも、誰の耳も届かなった。
「まあまあまあまあ、落ち着いて〜」
「話なら聞くよ〜」
「大丈夫、悪いようにはしないから!」
本来なら強制的に外に放り出すなり、然るべき対応をするところだが、真っ先に動いたのは、キャストたちだった。控え室にいた姉さんたちも出てきて、旦那に追撃をせんとばかりに鼻息を荒らげる女をぞろぞろと取り囲むと、そのまま近くのソファに座らせる。
姉さんたちの顔を見れば、場を丸くおさめてやろうなんて高尚な理由でないことは丸わかりだった。好奇心の強い彼女たちは、言葉通り、話が聞きたかったのだろう。いつも隙を見つけてはオモチャにしている若い男が、一体、どんなヘマをやらかしたのかの真相を。
恐らくこのあとしばらくは、そのネタで弄られるのであろう旦那を、いい気味だと心の中で笑う。
「お前、顔が良いからってほどほどにしとけよ?」
「そのうち刺されても、知んねぇぞ」
「もうちょっと上手く遊んでると思ってたけど、まだまだやっぱりガキだなぁ」
女が女を取り囲む一方で、男は男の肩を叩く。
いまだ惚けたままの旦那を心配するでもなく、擁護するでもなく。妬み嫉みの嫌味でもなければ、きちんと同情のそれだった。