ハートはあなただけ「真経津さん、大丈夫ですか?」
扉を開けて開口一番、御手洗の動揺した声が獅子神邸に響く。
「あ、御手洗くん、わざわざ来てくれたんだ?」
呼ばれた当人はリビングの方からヒョイと顔を出して軽やかに手を振る。
真経津のスマートフォンに慌てた様子の御手洗から連絡が着たのはつい先程、獅子神が昏倒したのを受けて村雨が意識を確認している時だった。
「梅野の代理で薬をお持ちしました、出来れば皆さん服薬して頂けると良いのですが」
「うーん、ボクらもう大丈夫だと思うけど」
「そうですか、もう効果が切れてお体に問題なければ服薬しなくても良いとは聞いていますが」
にこにこと愛想良く御手洗を手で招き、さっさと客間の方へと向かう真経津を追いながら御手洗は手にした茶封筒を確認する。その中にはいまいち得体のしれない粉薬が入っている。
「へー、じゃあ薬が無効化する前に獅子神さんのがんばりでゲームが終了したってこと?」
獅子神の帰宅直後、担当行員である梅野が倒れて事態が発覚。ペナルティに使用された薬は客に対する見栄えを求めた末、ガラス張りの小部屋に噴霧される方法を取られ、結果衣服に染み込んだその薬が揮発し無効化するまでそこそこの時間がかかること、吸い込んだ衣服からの揮発した成分で周囲の人間もペナルティ同様の症状が発現する事、脳の一部に作用するその薬で意識低下等の副作用がある事などを知り、解毒作用のある薬とやらを特ニの担当者から譲り受け真経津の元にやってきた事を説明する。
「申し訳ありません。薬の効果時間に関しましてはお詫びをするしか」
「まあ御手洗くんが決めたわけじゃないからね、仕方ないよ。獅子神さんの担当さんは大丈夫?」
「はい、梅野は倒れた時にたんこぶが出来ましたけど、その程度ですぐ意識も取り戻しました」
「そうなんだ、良かったねー」
剣呑な村雨を意に介さず、ほのぼのと割り込む真経津に御手洗もにこやかに返す。
「皆さんもハートが見えたそうですけど、後に体調に変化があったらすぐにご連絡下さい。銀行が出来る事は致しますので」
「ハート、ね」
真経津が楽しそうに笑う。
✤
叶黎明は唯一人担当の所属班が違う。
だから宇佐美班の情報は入ってこないし自分から探ることもしていなかった。ゲームがつまらなくなるネタバレは許せない方だ。だが今日は違った。獅子神が帰宅する直前、担当行員から珍しく自分の居場所を問われ、獅子神宅にいる旨を返信すればペナルティで使われた薬物が残存している可能性を示唆された。
仲間たちは気付いて居ない。叶がスマートフォンをいじっているのはいつものことだから。
ならばどうするか?
面白そうだから、観測しとくか。
そうして叶は笑った。
「敬一君まだかな~。早く帰ってきたら良いのにね」
オレのハートとやらは、君にはどう見えるのだろう。
そうして帰宅した獅子神はほんのりと甘い様な香りを漂わせていた。
自分が気が付く程だ。鼻の利く村雨は玄関ホールで真経津と何やら話している時には既に眉を顰めていたし、騒がしく部屋に手を引かれて来た時には天堂も睫毛を震わせて獅子神を注視している。
一切の感情を捨てた機械の様に手際良く問診を始める村雨をよそに、椅子に腰掛ける獅子神の隣を陣取る。診察の邪魔にはならないよう少し距離を開けてスツールを置いて、その上で胡座をかく。
噴霧される様な薬ならば呼吸でオーケーかと適当にアタリをつけての行為。
感情が可視化されるだなんて眉唾だが、しかし。
「特に、話してる相手が好意的だとさ――」
村雨と話す獅子神がちらりとこちらを見渡すように視線を投げる。その一瞬。きらりと赤いハートが胸に浮かんだ。
配信画面の片隅で瞬いては消えて行くハートマークに似た薄いそれは、クルクル回る事に色を深くして厚みを増してゆく。
「触れてみるとちょっと暖かくて、少し……」
獅子神は膝にある何かを抱える様な仕草をする。パントマイムでもと言いたくなるように迫真の、そこにあるハートを抱きかかえる動き。少しだけ視線を伏せる。いつの間にかカットされた宝石かあるいは鏃のような姿に変化したハートは叶の心臓に向かってひたりと狙いを定めている。
ああ、まさかそんな感じか?
なら、オレのハートは、キミにはどう見える?
「面白いな!敬一君!オレのも解説!」
その胸に紅く光る鏃目掛けて飛び付いた。
✤
村雨礼二は医師である。そして一人の男である。
自認としては医師の方が先に立つ、そんな人間だった。
だからこそ真経津に手を引かれて来た獅子神の姿を見て、一瞬の半分に満たない短さで気持ちは医師に傾いた。部屋に入る前から気がついていた、何らかの化学合成された薬品を思わせる匂い。瞳孔の収縮具合、平素と違う発汗。血圧も脈拍も異常と言うほどではなく、だが変化を告げている。獅子神敬一には早急に医師の診断が必要だ。
「オレは大丈夫だから」「お前ら帰れよ」獅子神がそんな事を喚き立てる間に村雨の変化を感じた天堂と叶が脇を固めて連れて来る。
「さて、診察を開始する。経緯と症状は?」
胸ポケットを探り、メスを避けてペン型のライトを手に取る。何一つ見落とさない為、最近増えた道具の一つ。
「つまり?あなたは今自分に向けられた他人の感情――主に好意を――ハート形の物質として捉える事が出来る、と言うのか」
馬鹿げた結果に息を吐く。
脳裏に「最近はなんですかね、トンチキペナルティとか言うのが流行なんですよ」と嘯いている渋谷のニヤケ顔が浮かぶ。
感情が物体化?馬鹿げた話だがそう信じてしまったらそう受け取るようになるだろう。今まで無意識下で受け取っていた情報にラベルをつけて可視化しまうのならば――
「ふむ。獅子神、ハートとはどの様な質感だ?色や手触り、重さも教えて欲しい」
感情を本気で隠してくれよ、と獅子神は言った。それまでに足元を気にするように視線を巡らせていたから何某かを見ているのだろう。
だから努めて勤務先にいるかのように振る舞ってみる。兄の真似をした患者受けする笑顔も披露したが、獅子神の困惑した様な視線は胸から落ちる何かを捉え、周囲を気にするように走る。
隣に陣取っている叶黎明はカラーコンタクトに覆われた眼を好奇心で満たして獅子神を観察しているが、当の本人は気付いた様子もなく、膝の上にあるらしき何某かを抱き上げる。
その時。
獅子神の胸にぽかりとハート型の穴が空いた。
それはひゅうひゅうと幻の音を立て風を巻き起こす。断面は暗く、遠くにちかちかと瞬く星の様な光がある。
「…あ、丁度高反発素材の枕みてーな中身詰まってる弾力がある。色は最初水色だったけど、だんだん、うわ?」
獅子神が話す間も足元に積もっていたハートがどんどん獅子神の胸に吸い上げられてゆく。視線を落とすと私の胸から無数のハートが溢れ、それが全て獅子神の胸に吸い込まれている。
私にこれほどまで溢れ出る感情があるとは。
この感情が全て受け取ってもらえるなら、それは、あなたに。あなただけに
「ねー、獅子神さん気絶しちゃったよ!」
「この不信心者が。頭を冷やせ」
鳩尾を強かに殴られ、しばらく後に懇々と説教をされた。屈辱が八割である。
✤
天堂弓彦は片目を閉ざしたがその眼は光を増している。
なので友人の一人である村雨が本人も気付かぬ儘、奔流のような感情を胸の内に秘めていることも見えているし、獅子神が今日受けたペナルティが言う程面白い物でもないのに気がついている。
おそらくは化学合成の非合法薬物。暗示を真としてそれにより幻覚を見せるもの。
獅子神の傍にいる村雨、叶に比べ、真経津は一歩下がった場所で穏やかながら底の見えぬ表情をしているのがその仮説に柱を添える。
多分依存性は無いだろうが、神ならば迷う人の子を導いてやらねばならぬ。獅子神に抱き着く叶に声を掛けた。
スゲーな、と感嘆する獅子神の傍に歪な包みがある。子供が不器用なりに包んだ様な、薄く光を纏うそれが神への供物である事を天堂弓彦は知っている。
それは脈打つ心臓。キャラメル味の捧げ物。
そっと手にして赤い唇を開く。
「神は万能だ」
助けられた神の子が目を回して気絶するのを見て、右手を拳にする。傍らに棒立ちしている村雨に多少の手加減をした一撃。
目が覚めたなら愛について神の説教を聞かせねばならぬ。
「全く神は忙しい」
無様に倒れる訳にはゆかぬ。
髪を手ぐしで整えながらソファに寄りかかる。屍累々と言った有様だが、まぁしばらくすれば薬も抜けて皆目を覚ますだろう。
「導く人の子の多い事よ」
お疲れ様、と真経津が囁く声を聞いた。
✤
「あの、皆さんはどちらに……」
話の切れ間、御手洗が言い淀みながら問いかける。
「んー?みんな寝てる。多分村雨さんは起きたら天堂さんのお小言だ。叶さんもかなぁ?」
「大丈夫ですか?何か問題でも」
うーん、と天井を見上げて真経津がうなる。
「獅子神さん絡みの恋愛問題と執着かなぁ。でもそこは銀行関係ないしね。大丈夫だよ」
「れ、恋愛……?」
目を白黒させる御手洗に、真経津はにこりと笑いかけた。
「全員、見たいものを観たからね」