鳴かぬ蛍が身を焦がす食事に行こうと度々誘っていたのに、散々断られていた彼から行きたいところがあるとの誘いがあった。いつも身勝手だなと思いつつ、好いた弱みで結局は喜んで待ち合わせ場所に向かってしまう。夜、繁華街のいつもの待ち合わせ場所に着くと、下ろし髪に着流しを着た賀来が提灯を持って待っていた。
久しぶりに会える喜びもそこそこに、どこか飲みに行くのかと思えば、繁華街を通り過ぎて人気の無い方に歩いて行くので私は怪訝な顔を隠さずにいた。「もうちょっとやから」提灯の心許ない明かりと私の表情も気にも留めず、明るい声と柔らかい表情で賀来が言う。提灯の明かりと月明かりを頼りに、私は黙って彼を追いかけて河川敷を歩く。
「わぁ、」
綺麗、と口から溢れた。提灯のロウソクをふっと吹き消している賀来を見ると、視線が合って眼鏡の奥で目を細めて目尻にシワを作る。「ちょうど今の時期が最盛期なんやって」小川の上を小さな黄緑色の光がひっきりなしに飛び交ってはまたたいている。蛍なんて見たのは子供のころ以来だろうか。繁華街からそう離れていないところに、こんな場所があるなんて知らなかった。穴場らしく、まばらに人が黒いシルエットで見えるくらいだ。静かな川のせせらぎに合わせて、無数の光は浮かび上がるように闇の中を漂う。
「機嫌直った?しばらく会えなくてごめんな」
「うん、気にせんでええよ。綺麗だしええ場所やね。蛍も久しぶりに見た」
「よかった」
「ふらふら飛んで光っては消えて見えなくなる、誰かさんみたいやわ」
「あはは、誰やろな、そんな悪い男」
本当に、悪い男だ。いつものように嫌味もさらりと流される。毎度約束を反故にされたり放って置かれたりする度に本気で嫌になっているはずなのに、結局会うと居心地が良くて離れられなくなる。賀来の仕事柄仕方がないことも分かっている。
「少し歩こうか」
足元に気をつけて、とさらりと腰に手を添えられて、川辺を一緒に歩く。賀来は背が高いが、歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれる。
「後拾遺集の、音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ 鳴く虫よりもあはれなりけれ、とか昔の人は蛍が燃えて光ってると思っとったみたいやけど、実際蛍が光るのは燃焼反応やなくてルシフェリンとルシフェラーゼという物質の熱の出ない酸化反応。熱のない光やから冷光と呼ばれてるんやって」
「ふぅん」
「まあ、恋に身を焦がすって解釈のがロマンチックやけどね」
「やけど蛍燃えてたら川めっちゃ熱くなって、こんな情緒ないやろな」
たしかに、と頭の上に小さく笑い声が降ってくる。
小川に短く板張りの簡素な橋が架かっていて、傍に佇む木に蛍が集まっていたので少し立ち止まって眺めた。垂れた枝先の葉に蛍が止まって、小さく光る花が咲いているようにも見える。
綺麗やね、と言いかけた賀来の言葉が途切れるように止まった。不思議に思い振り返る。
「泰明さん?」
「……」
じっと私を見つめてくる賀来が、手を伸ばしてくる。スラリとした長い指がうなじに向かって伸びて、髪に触れる。賀来の顔が近づいて来て、慌てて目を閉じる。次の行動を待ち望む心臓が跳ねる。
「…蛍も別嬪さんが好きなんやね」
へ?と思い目を開けると、私の髪から離れた手が水をすくうように合わせられて、手のひらがほんのりと光っていた。どうやら私の髪に蛍がとまっていたから、それを捕まえてくれたらしい。
「でもこの子は私の、やからあげられへん」
眼鏡の奥で揺れるまつ毛が淡い光に照らされている。綺麗な形をした目の輪郭に、鼻、唇。男性にしてはキメの細かい肌に緩やかにかかる深い黒色の髪。柔らかい所作の長い指。月の青い光を受ける美しい男が手のひらの中に向かってそう言うと、小さな光は所在なげに浮かび上がり闇に戻っていく。
その様子をぼうっと眺めていた私を男は見留めると、先ほどの美しい表情とは打って変わって少し意地悪な愛嬌のある顔で笑う。
「で、この可愛い子は何を期待して目つぶってたんかな?」
「え!?いや、別に、何も!」
「そうなん?目閉じてめっちゃ可愛い顔してたけど」
「うっさい!」
顔が熱くなるのを誤魔化したくて、からかってくる賀来の脇腹を軽くつねると、イタタと大げさに痛がる。
「ほんま可愛ええな」
「何がやねん!」
「素直じゃないとこが」
もうええ、と体ごと後ろを向くと、ごめんごめんと賀来が腕に触れてくる。
「私、好きな子には意地悪したくなんねや」
「性格悪いわ」
「ごめんて、許して」
しょうがないなぁと私が言うと、賀来がふふふと笑って、つられて私も笑う。
「泰明さん」
「ん、そろそろ帰ろうか」
振り向くと、月を背にした賀来が手をこちらに差し出している。私がその手を取ると、するりと指の間に少し冷えた指が滑り込んでくる。絡め合った指先が燃えるように熱くて、熱が体中に伝わって体の内側が焦げてしまいそうだ。体温の低いはずのこの男に触れる度にいつも思う。闇の中で蛍たちが名残惜しそうに、寂しい無数の星のように瞬いていた。