『夢のつづき』 ネロ・ターナーは雨が苦手だ。外へ出るには気合のような一歩が必要で気楽に行動できない。彼の自由を奪ってくる雨が窮屈で仕方がないのだ。
一方ファウスト・ラウィーニアは雨がわりかし好きであった。雨の音はBGMにしては心地いいし、雨を理由にして引きこもることができるので彼にとってちょうど良い存在なのだ。
そんな対極的なふたりはいつものように図書室で勉強をしていた。三校が合併して、ネロがバイトを始め、ファウストが図書室に登校するようになり、そしてふたりは出会った。いつからかネロが分からない問題をファウストが教えて、勉強そのものを授業するようになった。生まれ育った環境も通っていた学校も正反対。それなのになぜか心地良いリズムが生まれる。呼吸が合う。いつしかふたりは先生(これはネロが冗談で言ったあだ名)と生徒という関係から純粋な友達になった。
そうして友達として毎日図書館で勉強、ときどきネロがパンやお弁当をファウストに与える。初めて学校外で会ったのはファウストが観たがっていた映画をみたとき。この頃からふたりはお互いの距離を気にしあっていて、ネロなんかはあわよくば友達としての関係を脱してより深い関係になりたいなと思っていた。晴れて恋人関係になれたとき聞いて驚くかもしれないが実はファウストから想いを伝えたのである。
こんな雨の中、放課後に残る生徒など珍しく、先生さえ帰宅し鍵を任されていた。ネロとファウストは付き合ってそろそろひと月が経とうとしていた。しかし、キスはおろかハグのひとつもしたことがない。たまにふたりきりになるこういう瞬間に少し手を握るだけで精一杯で、これがとてつもなくくすぐったく幸せなのだ。
雨は昨日の晩から降り続いていて、電気がついているのにどこか薄暗い部屋はネロを眠りに誘った。先程も言ったが、ネロは雨が苦手だ。低気圧は精神的にもくるものがあり、全ての行為を億劫にさせる。細かい文字を読むのは元々苦手なのに今日は特に教科書の文字が読めなかった。彼の意志とは関係なく瞼が下がっていく。ぐらぐらと揺れる首がテーブルに着地したのを見計らいファウストが声をかけた。
「ネロ起きて」
ファウストは少しだけ怒っていて、残りは心配しているような声でネロを起こした。その声はネロに届いているが彼の眠りはファウストが思っているより深いところにあった。ファウストがこっそり彼の手に自分のを重ねる。初めてファウストはネロの手に触れた時、俺の手はあったかいからパン作りに向いてんだ、なんて言って空気をほぐしてくれた。そういう優しくて少し臆病な彼がファウストは好きだった。ファウストがただ一人に熱意を傾けたのはこれが初めてのことであり、溢れ出る想いを少しでも消化しようと手を繋ぎ続けた。
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「ネロ起きて」
ファウストがネロを起こす。いつもは逆。ネロはのそのそとベッドから起き上がると目を擦り、起こしてくれたファウストを自分の方に引き寄せて抱きしめた。
「ファウスト…おはよう」
「おはよう」
今日の朝は快晴で、爽やかな風がカーテンをゆらめかせた。ネロは、今日はなんでいい日なんだと思った。軽く身支度を済ませ、リビングに行く。白米と焼き鮭の匂いが部屋の中を満たしていた。
ここはふたりで借りているアパート。いつからふたりで暮らしているんだっけ。ネロの頭は動きが遅く、なかなか答えが出ない。首を傾げつつソファーに座った。ネロを起こし終わったファウストもネロの隣に座る。ネロと1ミリの隙間なく座るファウストはこれが当たり前だという感じでネロを見つめた。
ファウストはネロの目を見つめ、彼の潤んだ唇を見つめ、もう一度彼の青空のような目を見た。ネロは今から目の前の恋人が自分にキスをするということがわかっていた。ふたりのルーティンの一部なのだ。朝にはキスをし、夜には共にベッドに入る。たまに風呂にも一緒に浸かる。たまに喧嘩するけど何となくネロの方が謝る。いつからそうなったのか思い出せない。しかしネロはいつまでも平穏でこの上なく幸せな日常が続けばいいと思った。
ファウストの顔がネロに近づいていく。ネロはゆっくりゆっくり目を閉じた。
好き。
その二文字がネロの頭を満たしていった。
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もう一度目を開けたときには薄暗い部屋の中、目の前には本棚があり、窓の外はざあざあと雨が降っていた。ネロは自分が高校生でさっきまで図書室で勉強をしていたことを思い出した。そして自分はなんて恥ずかしい夢を見ていたんだと顔を青くした。もう一度寝てしまおうかなという怠惰な心の中、頭を下げた先にはネロとは対照的に顔を真っ赤に染めたファウストが机に突っ伏してネロの方を見つめていた。
「おはよう」
「お、おはよう…えっと……ごめんな…その寝ちゃって」
ネロはその林檎みたいに赤い顔はどうしたんだとは聞けなかった。自分が夢に出て散々いちゃいちゃした相手が目の前にいるという事実に目を向けるだけで精一杯であった。また、こんないたたまれない状況から早く逃げたいという気持ちでもあった。しかし、雨のせいで迂闊に外には出れない。ネロはすらりと伸びて落ちる雨粒がまるで鉄格子のように感じた。
「ねえ」
いきなりのファウストの声にネロの体がびくりと動いた。ファウストは返事を待たず言葉を続けた。
「さっき、君は夢を見ていたのか?…その夢に…その夢に僕も出てきた?僕と何してた?」
ネロの夢にファウストが出てきたことがバレていることにネロは言葉を失った。
「ねろ……こたえて」
ネロはそう言われても、ファウストと朝からいちゃつくふたりきりの生活の夢だよとは言えるわけない。
「…ファウストと一緒に過ごす夢だよ」
言ったはいいが、あまりに抽象的すぎて何か言われたらどうしようと冷や汗が出そうだった。
「そうか」
焦るネロとは裏腹にファウストは満足そうに答え頭をぐるりとネロの方に向けた。
「僕は君が初めての恋人だから…そのそういう言葉も行為も分からなくて」
ファウストは至極真面目な顔で続けた。
「君が夢の中で僕を呼んでくれて……す、好きって言ってくれて嬉しかっただけなんだ」
真っ直ぐ見つめられながら話を聞いていたネロの顔は先程のファウストの林檎のような顔がうつったようだった。ネロは咄嗟に明後日の方向を見る。視線の先には壁と時計と窓の外。自分がまさか寝言(しかもすごく恥ずかしいセリフ)を発していたなんて思ってもいなかった。
「あ…雨、止みそうだな」
気づけば雨はポツポツと小降りになっていて昨日から続く長い雨も幕を閉じそうだった。
「……やまなくていいよ。雨」
ファウストはネロが急にそんなことを言うもんだからいじけたようにそう言った。
「ネロ…こっち向いて」
ネロはなかなか呼ばれ方を見ず、赤い顔を早く落ち着かせようと口の中を少し噛んでいた。そうして下を向いたまま、ばつの悪そうにファウストの方を向いた。
「んっ」
ファウストの薄い唇がネロの唇に触れる。たった数秒のことだったがネロはものすごく長い時間に感じた。まるで時間が止まっているようで、そのときは雨の音など聞こえなかった。
「夢の続き…」
ネロがぽつりと呟いた言葉にファウストは首を傾げる。ネロはファウストの傾げた首をぐっと掴み、もう一度唇を重ねた。
ファーストキスより少し長い時間のニ度目のキス。ふたりは晴れた空に気づかぬよう目の前の輝く双眼を見つめていた。