『君への目を閉じないと』序
太陽が起きて伸びをする頃、俺の一日が始まる。はっきり言って早起きは得意じゃないけど、長年料理屋をやってきたから今では勝手に目が覚めるようになった。朝食を作り、魔法舎で暮らす魔法使いと人間のそれぞれが起きてきたら出来上がった朝食に仕上げをして器に盛り付ける。大抵早いのが騎士さんとか羊飼い君あたり、それとシノ。この3人は鍛錬をしてるから朝からよく食べる。次にお子ちゃまやら若いもんが起きてくる。朝からほんとに元気だよな。リケなんかは明日の朝はオムレツだぞって言ってやるといつもより早く起きてきて、「ネロ!手伝いますよ!」っていうもんだからなかなか可愛い。
それから大人。百歳を超えた奴らは基本的に遅めの朝食になることが多い。婿さんやフィガロなんかは仕立て屋くんとかミチルに引っ張られて本来起きない時間帯だろうから、いつも眠そうに朝食を食べている。そして最後に来るのは大体ファウストかな。来ないこともあるけど最近は来てくれる。晩酌を共にした次の日なんかはほとんど昼みたいな時間に来ることもある。
俺はファウストが遅めの朝食を食べるのを見届けてから昼食の準備を始める。昼食は魔法舎で食べないやつも多いから簡単なメニューが多い。食べたあとは、後片付けをして少し昼寝。朝が早くて夜は割と遅めだから昼寝しとかないとやってけないんだ。料理人ってやつは結構、体力勝負だからな。
午後に起きて東の魔法使いの訓練に参加する。まあ今はほとんど座学だけど。さっぱり分からないのと寝起きなのとで意識とばしてファウストにはいつも叩き起こされる。これがなかなか痛い。俺が謝ると「全く君は…」とかぶつぶつ言って説教される。子どもらの前っていうのはちょっと嫌だけど、ファウストに叱られんのは悪くない。そんなんだから薬草の名前とか、その効用とか全然覚えられなくてテストでも大体追試を食らうんだけどな。
座学の授業はそんなに時間がかからないので終わったらおやつを作ることが多い。オーブンから良い匂いをさせてると呼ばなくてもお子ちゃま共が集まってくる。クッキー一枚食っただけでめちゃくちゃ笑顔になるんだからさ、もっと美味いもん食わせてやりてえなって思う。ああ、たまにファウストも食いに来る。シノに引っ張られてとか、偶然居合わせて、とかな。何故か、偶然会ったときに俺がたまたまネコとか羊の顔をしたお菓子なんかを作ってることが多いんだよ。そんなとこ見られるとまたネロの趣味はかわいいな、なんて言われちゃうから勘弁してほしい。みんなが食い終わったら少し休憩をしてから自室でのんびりと夕食の下ごしらえをする。
そして太陽が目を瞑りかける頃、俺はキッチンに戻り夕食を作り始める。夕食は二十二人がほとんど同時に食べ始めるので一日の中で食堂が最も騒がしくなる。俺もこの時間だけは食堂で食べる。
これが俺の一日だ。長々とご静聴ありがとう。まあ実はこれで終わりじゃないときもあるんだけどな。
例えば…
1
今日はファウストと晩酌の日だ。別に決まっているわけじゃないけど、3日に一回くらいは一緒に呑んでる気がする。流石に多いかな。指摘されないでも気づいているが俺は最近はしゃいでいるんだ。誰でもない…ファウストのせいで。
今夜の晩酌のメニューは何にしようかな。あまりのんびりと考えずに手を動かす。市場で買ったアサリを白ワインで蒸している間にポテトとクレソンを粒マスタードで炒める。どの材料を仕入れるときもファウストの顔が浮かぶ。もちろん、友達と晩酌するのが好きだから。
料理を皿に移す前に少し味見。こんなもんかな。つまみは俺が、酒は先生が、これも通例になってきている。言葉を交わさなくともお互い感情がわかるようになってきた。それは他の誰でもないファウストとのことだから特に貴重なことだと思う。人嫌いで引きこもりな呪い屋のあいつだから。…俺が言えたことじゃないが、誰よりも繊細なのに真っ直ぐなあいつだから。だから俺は彼の特別になれたんじゃないかってつい思ってしまう。期待とか、得意じゃないのにな。…正直舞い上がってる。純粋に築けた関係なんて初めてかもしれない。今までは奪われたり奪ったり、騙したり騙されたり。初めて出来た大事な人も俺が心を痛めてしまい、散々な結果になった。まあ今はそいつとも同じ賢者の魔法使いだけどな。こんな過去を持つ俺が人間のふりをして生活して随分経ち、腕の紋章が光ったと思ったら彼と出会った。今は消えることのない腕の紋章に感謝すべきなのかそうじゃないのかはまだわからないがこの生活も嫌いじゃないとは思う。
酒を飲む前から感情に浸っていると、コンコンとノックが聞こえた。俺はハッとして意識を"今"に戻し、扉を開けた。
「良い匂いだな。」
扉を開けるたびにわざわざ挨拶をする関係はとうに過ぎている。俺たちは目を合わせた瞬間に持ってきたワインの話だとか料理の話、それから今日や明日の話をする。先生からするとラフな会話ができるようになっただけかもしれないが俺からしたらそれが恥ずかしくてたまらないんだ。距離の近づいた今だからこそおはようとかおやすみとかそういう言葉がくすぐったくてしょうがない。
「今日も美味いな。君の料理は。さいこうだ」
「もう酔ってる?」
ファウストはなかなか飲めるやつで、顔は赤くならないが、分かりやすくテンションが上がってよく笑う。酒を飲んだファウストは呪い屋の皮を脱いだ、ただのファウストになる。
「酔ってないよ」
「酔った奴はみんなそう言うんだよ」
「………ネロ!つまみがなくなってしまった!」
「いきなり大声で呼ぶなよ。なんかあったと思ったじゃねーか。」
「ふふ」
追加。酒を飲んだファウストはテンションが上がって、よく笑って、そして意外にも声が大きくなる。これも最初の晩酌では知らなかったこと。どれも時間を共にして暴いたもの。俺は少しの優越感で酒を煽り、このことを知っているのが世界でただひとり、それが俺だったらいいのにな、なんて思ってしまう。ごくごくと喉仏が上下する。…ファウストが俺とだけ晩酌してくれたら良いのに……
「ぐらぐらしてきた。」
感情に任せてつい飲みすぎた。顔が熱くなるのを感じる。景色がぐらつく。
「一気に飲み過ぎだよ。ほら水、飲んで。」
受け取った水を流し込むことで上り詰めた感情が下っていくのがわかる。優越感も独り占めをしたいという感情も、俺は一体何を考えてるんだ。冷静になってくると酔いも醒める。酔ってたとはいえこんな感情を持った自分が嫌になる。こんなの持ってても辛いことくらいわかっていたはずなのに。
「ネロ、顔赤いよ。だから言ったのに。」
「ありがと。ファウスト……」
一応補足しておくと、だから言ったのにと言われたがファウストには何も言われてない。ファウストもなかなかに酔っている。2人揃って酔っ払って、だめな大人だよなあ。特におれは。
ああ、ファウストの顔が見れない。きっと自分は今情けない顔をしているんだろうな。感情は勝手に暴走して昇って昇って、あとは落ちるだけ。急降下していくテンションに、何かをする気など起きるはずなかった。
もうこのまま寝たふりをしてしまおうかな。思いつくがままに瞼を閉じる。もちろん考えなくて良いことまで考えてしまうので眠ることはできない。俺は誰にもバレないように心の中で大きなため息をついた。
どのくらい経ったのだろう。呼吸が落ち着いてきてそろそろ本当に寝てしまいそうと思ったその時だった。
「かわいいな。ネロ。」
かわいい…か。俺のどんなところがかわいいのかは理解できないが、最近ファウストがよく言う言葉だ。それも俺ばかりに。なんでだよ。俺なんかより…子どもたちとか、ネコとかに言えよ。てか、ファウストの方が…かわいいだろ。俺の料理を小さく小さく切り分けて一口をゆっくり大事そうに食べるところとか。ウェーブのかかった髪を気にしていて雨の日なんかはしきりに触っているところとか。ネコが好きでそれを隠してるところも…笑った顔も、実は怒った顔も……
すき
2
ハッとして起き上がる。目の前にファウストはもう座っていなくて、いつのまにか俺はベッドに移動していた。朝日が俺の目と頭を使い物にならなくさせる。……結局寝落ちしてしまった。昨日の晩酌はいろいろあった。本音を言うと忘れたい、けど頭はそんなに都合が良く出来てなくて、俺が気づいてしまった感情はしっかりはっきりと何度も何度もリピートさせた。俺は…ファウストが、すき?
これはなんて言う感情なのか、流石に見て見ぬ振りはできないのかな。
…恋……をするのは何百年ぶりなんだろう。「恋」という言葉で表現するのはストレートすぎて俺には向いてない。もちろん恋をするのも向いてるわけない。あぁ、駄目だ。
ファウスト。年に一度、厄災を倒すために集められた賢者の魔法使いとして出会い、討伐をこなすようになり、それだけだったのが仲間そしていつしか酒を酌み交わすようになり、友達になった。
昔と同じ結末になるぞ。そう囁かれた気がした。結局俺は逃げてしまうんだ。自分の感情にすら正面から向き合うことができない。こんな俺はずっと昔から嫌いだけど。こんな俺のあしらい方も、もう慣れてしまった。
「おはようネロ。昨日は大丈夫だった?」
「ああ…おはようさん」
「すまない。君を寝かせておきたくて勝手にベッドに運ばせてもらった」
「ありがとな。よく眠れたよ」
俺は上手く話せているだろうか。目が合わせられないのを誤魔化そうと必死にスープをかき混ぜる。慣れなきゃ。昨日の今日で目を合わせられるわけない。俺は…今まで通り同じ、東の魔法使いの仲間…いや同僚?……とにかく今までの関係に戻らなければ。俺は人と近づきすぎちゃ駄目なんだ。あんまり近づくといつか離れるときに苦しいから。たとえどんなに楽しくて幸せでも、離れる時のことをつい考えてしまう。ああ俺はなんて自分勝手で臆病なんだ。ぐるぐるぐつぐつと俺の面倒くさい感情まで煮込んだスープだとはバレませんようにと願いながらファウストに渡す。
「ほい。熱いから気をつけてな」
「ありがとう」
よし。この調子だ。
俺は結局1週間こんな感じで過ごした。もちろん飯は作るし授業にも出る。ファウストから晩酌に誘われることもあったけどあの夜過ちをもう一度犯すわけにはいかないからもちろん断った。体調が悪いとか都合が悪いとか適当に理由をつけて。いつもの日常と何も変わらない。今までも逃げてばっかりだったけどさ、俺はいつまで断り続ければいいんだろう。いつまで逃げ続けるんだろう。
ごめんな。ファウスト。
3
俺の新しい日常が始まって数週間経った。もちろんたまには先生と晩酌もするようにしている。だって同僚としてならたまには酒くらい一緒に飲むだろ?でも出来るだけふたりきりで飲まないように、酔わないようにして自分を保つことにしている。彼との新しい距離は俺が一方的に引いたラインだから、もしファウストが近づいてきたらまた引き直すのだろう。きっとこれからも誰とだってそうしていくんだ。
今日は珍しく一日中暇な一日になりそうだ。賢者さんは中央と北の奴らを引き連れて討伐に行っているし、ヒースとシノは領の仕事がなんかで帰っていった。静かな魔法舎は珍しく、いつも騒がしい分ひやりと冷たく感じた。こんな日はパンでも焼いてのんびり過ごそう。
自分の部屋にキッチンを設置してよかった。共用のキッチンまで行かずともひとり気ままに料理ができるし、自分には料理しかないから。
パンの生地を捏ねて寝かせて形を整えてオーブンで焼く。きっと俺は忙しくても暇でも料理ばかりするんだろうなと思いながらパンが焼けるのを待った。
今日はいつもより少し凝ったクロワッサン。上手く焼けたからといって、はしゃいでたまには中庭で食べようとしたのがいけなかった。俺が本を読み、コーヒーを飲みつつのんびりと午後の暖かな時間を過ごしていると彼がやってきた。さっきまでネコと戯れていたんだろう。所々にネコの毛をつけた彼はサングラスをカチャリと鳴らして正しい位置に戻している。あたかも自分はネコなんて撫でていませんでしたよ。みたいな顔をして。
ファウストは俺に避けられているのを勘付いているようだった。最近は声をかけられることも少なくなったように思う。なのに今日は俺の前を通ると、チラリとこちらを見てから方向転換しベンチの隣に座ってきた。
「………いい天気だな」
自分から言っといてなんだそれはと思う。
「…ああ」
ファウストはそれだけ言うと黙った。俺も黙った。そよそよとした風の音と虫の奏でる音だけが聞こえて来る。しばらくしてもう一度口を開いたのはファウストの方だった。
「君に言わなきゃいけないことがあるんだ」
その言葉に俺はごくりと生唾を飲んだ。ついに呆れられたか、問い詰められるか…どうしても最悪の想像をしてしまう。風が吹くと汗が冷えるのを感じる。友達としての距離を見誤って、さらに同じ賢者の魔法使いの仲間としても俺は間違ってしまったのか?
ファウストはダラダラと汗をかく俺の方を見ないでいた。
「ネロは僕のこと嫌い?」
当たってしまった。こんなことがあるから期待ってのは苦手なんだ。どうしよう。なんて言おう。嫌いじゃないよ。むしろ俺はあんたのことが……。
「嫌いなわけないだろ」
こんなときでも外面を繕うことだけは達者でへらりと笑う自分に腹が立ってくる。
「そうか。…僕は……」
ファウストが俺と視線を合わせた。俺は人と目を合わせるのは苦手でつい避けてしまいがちだけど、今だけは彼の真っ直ぐな目を逸らせないでいた。
「僕は君が好きだ。」
……え?ファウストは今なんて言った?頭が全然働かない。俺が動揺した顔を見せても、ファウストは構わずに続けた。
「でも、もし君が僕のことが好きだと言ってくれても、それは僕の好きとは違う。これは僕のプライドの問題で、ただ言いたかっただけだから。…それだけだ。君と僕は…友達だ。」
ファウストはそれだけ言って、俺の言葉も待たずにどこかへ行ってしまった。俺はガツンと頭を殴られたようなショックで、結局夕方までそこから動くことができなかった。
ぼーっとしながら夕食を作る。いつもより人が少なくて助かった。俺の感情が整理できているわけない。今日はいつもより簡単なメニューで済ませ、皿を洗う。ファウストは結局食べに来なかった。まあ、来られてもきっと動揺して目も合わせられないだろうけど。
やることもないし、何かをする気も起きないので早々にベッドに入ったが眠れるわけない。俺は悶々と今日の出来事について考えていた。考えた結果ごちゃつく脳味噌を無理矢理ひとつにまとめることにした。彼が言った言葉を信じる。
ファウストと俺は友達。たとえ俺たちが両思いだったとしても、目先の感情に囚われてはいけないのだ。だってもし別れることになったら…俺は今度こそ立ち直ることができないと思う。だからこそ俺とファウストは友達。きっと上手くいく。これでいい。
4
「ネロ!おはようございます」
「おはよう、リケ。夜中に帰ってきたんだな。お疲れさん。今日はシチューとコーンスープを選べるようにしたんだ。あとポテトサラダと一口サイズのアップルパイな」
「ネロ、今日は何かあるんですか?」
「ん?なんでだ?別に何もないと思うけど」
「……何もないのに朝からこんなに豪華な食事は堕落になるかもしれません」
「はは、ならねえから安心しな。たまたまだよ」
「……でもネロ、隈が酷いですよ」
やばい、早々にバレたな。まさか結局一睡もできなくて夜中からずっと料理してただなんてリケはおろか誰にも言えるわけない。とはいえ流石に頭が働かなくなってきたな。このまま大人が集まって隈のことをつっこまれても厄介だし…。
リケには悪いが、体調が優れなくてとか適当に誤魔化した。責任感の強い彼が後のことは任せろとのことだったのでカナリアも居るしいいかと思い自室に戻った。
靴を適当に脱ぎ散らかし、ベッドに転がる。もしあのとき、リケやブラッドならすぐに走って追いかけて自分の気持ちを伝えるんだろうな。昨晩も散々考えた言葉がずっと頭でループしている。きっとファウストが好きになったのが彼らならなんの障害もなく結ばれたのかもしれない。なんで俺なんかを選んだんだろう。何度頭で問いかけてももちろん答えてくれるものは誰もいない。そうして悶々としているうちに、だんだんと意識が薄れていった。
目を覚ましたのはガチャリという扉が開く音が聞こえたときだった。ノックをせずに入ってくる奴なんて限られる。ミスラかオーエン、ブラッドリーくらいしかいないけど。
「ネロ、生きてるか」
「シノ!ノックしろよ!」
「倒れてるかもしれないだろ」
シノとヒースか、できれば今は誰にも会う気がしないが、ドアを開けられたらどうにもできない。がばりと起き上がり、ボサボサになった髪をまとめ直す。窓の外を見ると、太陽はとうにてっぺんを超えていた。
「あー…お前ら授業は?」
「今日はネロにシュガーを作って看病することが授業だ。ネロを治さないと一生実技が出来なさそうだ、治せ」
「……先生が?」
「そうだよ。ファウスト先生もネロのこと心配してたから」
そう言われてもなんて返せばいいか分からなかった。ただ俺のことは忘れてくれないかなってつい思ってしまった。
「俺、賢者様とおじやを作ったんだ。賢者様の世界では風邪のときに必ず食べるらしいよ。食べれそうなら今持ってくるね」
「ああ、ありがとな」
返事をするとヒースは嬉しそうに駆けて行った。
「ネロ」
「お前は行かなくていいのか?」
「ファウストと何かあっただろ。お前ら二人は分かりやすすぎる」
シノは言い終わるとポケットからハンカチを出してそれを広げた。シュガーがふたつ、それはお手本のように綺麗な形をしていた。
「隠し通して渡せって言われたが俺には無理だから言う。これはファウストがネロにって作ったものだ。俺も貰ったことがあるがこんなのじゃなかった」
シュガーを受け取ると、シノがこんなのじゃなかったと言った意味がわかった。一見普通のシュガーだけど、魔力を辿ると、一通のラブレターを貰ったように感じた。ダダ漏れだよ、あんたの心。子どもらにまでバレてんぞ。
「ネロ、大丈夫だ。ファウストはああ見えて強いからな」
何が大丈夫なのかよく分からなかったが、シノなりの激励なんだろう。可愛いとこあるからな、こいつも。
「じゃあこれは俺からの餞別だ」
シノはそう言うと少し大きくて無骨な感じのする シュガーを一粒俺に手渡した。俺の方を向いて、にやと笑うとじゃあなと言って出て行ってしまった。
「ネロ!ごめん!」
シノが去ってから少し時間が空いた後、ヒースが戻ってきた。彼はノックをして扉を開けてすぐに謝ると、綺麗な目をうるうるさせて俺の方を見た。
「どうしたんだ?」
「その、ミスラが賢者様を押し退けて、ネロのおじやを食べちゃったんだ。だから、ごめん!今から作り直してくる!」
「大丈夫だよ、作り直さなくて」
「え?」
「ヒースも俺が風邪なんかじゃないの気づいてるだろ?」
俺が笑いながらそう言うと、ヒースは恥ずかしそうにこくりと頷いた。シノにバレてるんだ。感受性の豊かなヒースも気付いてるに違いない。
「ネロ、ネロは意外に繊細なところがあるから色々考えちゃうかもしれないけど…ファウスト先生なら大丈夫だよ」
ヒースはそう言うと小さめで形の整ったシュガーを俺に一粒渡してきた。ほんとによく出来た子ども達だよ。
俺はふたりに早々に気付かれていたことが恥ずかしかったが、その分嬉しくて合計四粒のシュガーを食べれずにいた。
ファウストの幸せが俺の幸せだ。だから俺とファウストが恋人同士になるのはファウストのためにならない。俺は人と近付くのが苦手だから、もしファウストを裏切ってしまったとき彼は人生でニ度業火に包まれることになるといっても過言ではない。
そんなことはとっくに答えは出てた。でも、それで良かったと幕を閉じるには俺のわがままで、子どものような感情がその"答え"を理解してくれていなかった。俺は瓶に入れておいた四粒のシュガーを見つめた。
5
徐々に陽が傾き始めている。まだまだ青い空の片隅にオレンジ色が差し込んできた。俺はついにファウストの部屋の前まで来ることができた。決心がついてから、ファウストを訪ねると言う新たな決心がつくまで少し時間がかかってしまい、もう夕方になってしまった。
深呼吸をしてノックをならす。
「…ファウスト……俺だ」
数拍置かれた後、控えめに扉が開かれた。目の前にはいつもの困り眉をさらにハの字にさせて、こちらを見ているファウストの姿があった。
「ファウスト…俺、あんたに」
「入れば」
言葉を遮ったファウストはつかつかと部屋の奥に歩いていった。ついていくとファウストはどこへ座るでもなく俺のことを見ながらこう言った。
「昨日のことなら…君を困らせるつもりはなかったんだ。すまない…その」
彼の目が泳ぎ始め、詰まった言葉と共についに下を向いてしまった。
「ファウスト」
俺が少し大きめの声で彼の名を呼ぶと、びくりとして俺の目を見る。俺はその目を逸らさずに言葉を続けた。
「俺はあんたが、好きだ」
「え」
「昨日の返事をしに来たんだ。」
「違う!…君のそれは僕の好きとは違う」
「同じだよ。ファウストが…好き。俺は友達のその先まであんたと一緒にいたい。キスとかハグとか…もっと先も。今と、これからをファウストと一緒に生きたいんだ」
俺のいきなりで重すぎるプロポーズをファウストは黙って聞いてくれた。なんなら終わった後もずっと黙っていて次に口を開いたのは俺がその間に耐えられなくて声を発しかけた瞬間だった。
「僕は君のことが好きで、君に幸せになってもらいたいから…だからこそ君の隣に僕が居てはいけないと思ったんだ」
「そんなわけねえだろ…てか俺もおんなじようなこと思ってた」
「は?僕が君のこといらないわけないだろ…最近やけに冷たいから僕の気持ちがバレて振られたんだと思ってた」
俺はこのファウストの勘違いがかわいくて、それ以上に申し訳なくて、あたふたと弁明するとファウストは調子が戻ってきたようでにやりと笑った。
「僕は君が必要だよ。君が僕を必要としてくれたら嬉しい」
「必要に決まってるだろ。」
自分で断っておいてなんだが、ファウストのいない晩酌は寂しくていつもより酒を煽ってしまう。おやつを作ったときだって無意識にファウストの分も作ってしまう。うさぎじゃなくてネコを描くし、ガレットが上手く作れたら嬉しくなる。結局俺はファウストを忘れようとしても無理だったのだ。自分がいつか耐えきれなくなる未来が見えたとしても、それを恐れて逃げて今の幸せが失われると辛くなる。そんな俺でもファウストとなら生きていける気がするんだ。
ファウストはいきなり関係が変わるという抱えきれない情報量に疲れたのかベッドに座った。ふぅと小さく息をつくと隣をぽんぽんと叩いた。こっちに座れと言う意味なんだろう。俺は気恥ずかしくてファウストから少し距離をとって座ると、ファウストはむっと頬を膨らませて隙間なく俺の隣に座り直した。
「…あー、ファウスト?」
「ネロ顔赤い。かわいい」
すっかりいつもの彼になっている。いつもは真面目でお堅いくせに、ふたりきりのときは意外にいたずらっ子になる彼が可愛くて仕方がない。ほんと、なんで俺なんかに捕まっちゃったかな。
「ファウスト…キスしてもいい?」
「…ぼ、僕がする。ネロ、目閉じて」
初めてなのに頑張っちゃうところもリードしたいって思われるのもたまらない。俺が目を閉じるとファウストはすぅと息を吸ってふぅと吐いて、右の頬に手をあてた。彼のキスは子猫のような初々しいものだった。目を開けるとファウストがぴたりと寄り添い、俺を見つめていた。
「好きだよファウスト」
「僕は愛してるよ」
彼の真っ赤な頬と耳と首筋を見ながら、これから先俺はこいつに振り回されるようになるんだろうなと思った。むしろ俺をこんな気持ちにさせたんだからもっと振り回してほしいとも思った。
「別れが来たらと考えるのが辛いよ」
俺の心は幸せと愛しさからくる甘えが満ちていて、無意識に臆病な一言を呟いてしまった。そんな俺にファウストは優しく髪を撫で、返事をしてくれた。
「もし僕と君が恋人じゃなくなったら、そのときはまた友達になるだけだよ。一緒に晩酌をしよう」
「ファウスト」
臆病な俺なんてファウストにとって、とうに知っている姿だったようだ。俺はその言葉を聞いてひどく安心した。頬が緩むのが抑えられない。今日は酒を飲んでないのにな。
「…まあ僕は君を離す気ないけど」
「…っ!」
咄嗟に後退りをする。ベッドの淵に到達するというとき、ファウストはじりじりと俺を追いかけてきてもう一度俺の頬に手を当てた。
「ネロ、目を閉じて」
前言撤回、もう俺はとっくにファウストに振り回されてて、逃げたくても逃げられそうにない。
《Fin》