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    kujira_noritai

    @kujira_noritai

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    kujira_noritai

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    『DINNER』おねだりフレッシュトマトのスパゲティ

    「でっかい肉のスパゲッティが食いてえ!」
    「ヌヌヌイ!」
    「カリオストロでも観たか」
    「ち、違えし!」
    「じゃあわんわん物語か? どっちにしても今日は無理だよ、ひき肉がない」
    「ウエーーン」
    「ヌエーン」
     悲しい現実を告げると、私は手元の雑誌にまた目を落とした。
     買い物に行ってもいいけれど今日はあいにくの雨模様だ。外を見るだけでもテンションが下がるし、このまま大人しく棺桶の中で過ごす一日っていうのもアリだろう。
     実は先月から某誌に某クソゲーマーコラムが載るようになったのだ。これがまた私とは一線を画すクソっぷりで、文章も世界観も破綻していて表題のゲームについての説明もまったく的を射ない。だがそれが逆にクソコラムって感じで良い、みたいな意見も若干数あるのだ。これは由々しき事態である。もちろん私の圧勝ではあるが、早いうちから芽を摘んでおくのは悪いことではない。完璧な私は世界中の誰もが賞賛する存在でなければならない。そして、こんな雨の降る夕方には、慌てず騒がず優雅に目覚めの一杯を傾けるのだ。
     というわけで本日は食いしん坊たちのママはお休みです。
    「食べたいよなー、ジョンー」
    「ヌヌヌヌヌン ヌ ヌヌヌイヌヌ―」
    「甘えた声を出しても無駄です。ていうかそれでイケると思われてるの心外だな」
    「なぁ頼むよー、我が家のインテリジェンスナンバーワンクソ吸血鬼さまー」
    「ヌヌヌヌヌヌ―」
    「めちゃ畏怖ウルトラクソ砂キッチン戦士さまー」
    「ニューン、ニュニュニュンー」
     真祖にして無敵の私だが、畏怖られ耐性がめちゃくちゃ低いことで我が家では有名である。
     これだけ褒められれば思い出し畏怖ニーが三日は捗るだろう。
    「あーーーもうしょうがないなこの褒め上手が! あとロナ造のやつは減点だからな!!」
    「ガーン」
    「ジョンが世界一のかわいさで挽回したのでマイナス分がひっくり返っただけだから。ジョンに平身低頭感謝するように」
    「ありがとうジョーーン!!」
    「ヌヌン!」

    「さて、と」
     なんだかホッコリした空気が流れかけたが、ひき肉がないことには変わりない。メニューは多少変更しなければ。
    「やったな、ジョン!」
    「ヌヌヌン!」
     喜ぶ一人と一玉の背後からさりげなくネットフィリップスを起動、ヨシ。音量は小さめに、だんだん大きくしていけば自然な流れで腹ぺこコンビの注意を引ける。
     おなじみの青い画面が映し出されたところで一人と一玉の会話が止んだ。オープニングが軽快なリズムで期待を誘う。この間に準備を済ませねば。
     まず御真祖様特製のパワーマスクを装着。顔をしっかり覆った上で極厚手袋も身に着ける。床下の生物兵器を取り出すためだ、防御はしてもし過ぎることはない。
    『おとうさん、キャラメル』
     うん、いいぞ。守備は上々、まだ爪の先ほども死んでない。包丁を取り出して、構える。
     ここまではほんの序の口だ。君らはそこで橋の下でも眺めていろ。畏怖い私はこれから一世一代のオペに入る。
    「ジョンはお化け屋敷って好き? 住んでみたい?」
    「ヌーン……」
    「こら、私のジョンに答えづらい質問をするんじゃない」
    「何も答えづらくねえだろ! えっ、もしかしてジョン住んだことあんの、お化け屋敷?」
    「ヌ、ヌヌー」
     まな板の上の合戦はほんの三十秒ほどで片が付いた。ドラドラちゃんの手際の良さに恐れ入ったか。対策をキチンととった上で行動すれば悪魔の野菜おそるるに足らず!
     お次はトマトだ。この後の工程も考えればマスクはしばらく外せない。ていうかコレ匂い対策としては万全だけど、このままじゃ息苦しさとかマスク内の湿度上昇とかそういう原因で死にそう。策士策に溺れるとはこのことか。ちくしょう、私のIQがめちゃくちゃ高かったばっかりに。
     死にそうな予感に目をつむりながらトマトをカットする。大きくて、きれいで、食べ応えがありそうだ。ジョンとロナルドくんに任せるとだいたい売場で一番大きなやつを選んでくる。誇らしげにまだ青みを残したトマトを差し出してくるので、私はいつも二日ばかりキッチンでそのトマトたちを並べておく必要があった。
    「俺さ、こうやって自転車に三人乗りするの憧れてさぁ」
    「ヌンヌン」
    「だから兄貴とヒマリとやったんだよ。めっちゃくちゃコケて大変だった」
    「ヌエー……」
     今日はシンプルイズベストでいくので、下ごしらえはこれでおしまい。
    沸かしておいたお湯がもうもうと湯気を立てている。この鍋をのぞき込むのはご法度だ。だけど塩は絶対入れなければ。
    『焦げてる』
     大丈夫、私は焦がしたりしないから。柄の長いスプーンで遠くからえいやッと塩を投げ込む。続けてパスタも。ギュッと握って、鍋の上で手を離す。バラリ。こういう美学って、きっと料理する人だけの特権だよね。
    「あのピンクのやつ甘くてうまいよな。いっぱい食べたくなる」
    「ヌイシイヌ」
    「あれって原材料何か知ってる?」
    「えっ、ピンクの砂糖じゃねえの」
    「ヌヌヌヌ?」
    「フフ、調べてごらん」
    『私は、自分も会えたらいいなと思っています』
     換気扇に吸い込まれた湯気はダクトを通って新横の街に放出される。
     この街じゃまっくろくろすけは見られないだろうな。蛍がきれいな川にしか棲めないように、あの手の存在もこうやかましくっちゃ嫌気が差すに違いない。
     うっかり画面に見入ってしまったけど、こうしている暇はない。
     悪魔の野菜とたっぷりのオリーブオイル。フライパンを火にかけて、さあここからはさらに厳しい戦いになるぞ。
    「なんかめっちゃいいにおいするー。あー、腹へったー」
    「ヌイヌヌイー」
    『おばあちゃんの畑って、宝の山みたいね』
     ここだ!
    「あっ、ああ~~!!」
    「ヌヌヌヌヌヌ?」
    「んだよ、うっせえな」
     私は画面を指差す。
    「なんておいしそうなトマトだろう!」
    「トマト?」
    「ヌヌヌ?」
     冷たい川の流れにさらされて涼し気に揺れている野菜かご。きゅうりにかぶりつく姉妹。
     ロナルドくんとジョンの喉がごくりと動いた。
    「私ね、いつもこのトマトを食べるシーンを「いいなぁ」と思っていたんだよ」
    「へえー」
    「すっごくおいしそうだろう? かぶりついたら最高だと思わないかい?」
    「ヌヌ……」
    「たしかに……」
     ここでもう一押し。私は両手に持った爪楊枝をうやうやしく掲げた。
    「そのおいしそうなトマト、ここにあります」
    「オッ」
    「ヌッ」
    「ハイあーん」
     間髪入れず私はそれぞれの口にトマトを差し出した。池の鯉のようにばくりと食らいつく一人と一玉。
    「おいしい?」
    「うまい!」
    「ヌイシイ!」
     うんうん、かわいい子供たちめ。私の手のひらの上で踊らされているとも知らず。
     目の前で翻した指先でまな板の上に二対の目を誘導する。
    「ご覧ください。こちらに山盛りのフレッシュトマトがございます」
    「食べたい!」
    「ヌヌヌイ!」
    「これを特別の主役にできる料理がありますが~~? 食べたい人は~~?」
    「はい!!」
    「ヌイ!!」
    「良いお返事だ。見ていたまえ」
     凶悪な香りを立てるフライパンにトマトの山をザザザと流す。まな板に残った汁も余さず入れ、木じゃくしで大きくかき混ぜる。
    「ここからが肝心なんだが……、このミッションは難しすぎて私にもこなせるかどうか……」
    「ヌエ!?」
    「ドラ公が作れないなんて、そんなん誰にも作れねえじゃねえかよ!」
    「いやまだ手はある!」
     私はロナルドくんとジョンに震える手で木じゃくしを手渡す。そしてすかさず砂になる。
    「君たちが……次のヒーローだ……!」
    「ヌヌヌヌヌヌ……ッ」
    「ドラ公ッ……てめえの雄姿、忘れないぜ……ッ」
    「いいから早く混ぜて」
    「おう!」
    「ヌン!」
     ロナルドくんがフライパンの中身をかき混ぜ始めたのを確認して私はキッチンの入口まで後ずさる。ここから水分がめちゃくちゃ跳ねるのだ。特に中身は例の野菜入り。アレが飛んで来たら私には料理どころじゃない。
    「なあ、これって混ぜてるだけでいいのかよ?」
    「トマトの水分が飛ぶまでしっかり炒めるんだ。おいしいソースになるんだよ、これは重大な任務だ、しっかり励みたまえ」
    「ヌヌ……!」
    「ジョン、一緒にがんばろうな!」
     お手伝い組が団結しているうちに私はテレビのリモコンを手に取った。ここから先の展開は不安要素しかないので私はちょっと苦手なのだ。
    『松郷です』
     こんな迷子みたいな顔をする子供なんて見たくない。
     短い人生なんだから、もっと楽しいものを作ればいいのに。私は名作もクソ映画も貴賤なく観るけれど、全てを区別なく愛しているかと言うと、ちっともそうではない。
     悲恋もの、喪失もの、不穏ものというのは、作品そのもののおもしろさとは別に観終わった後に釈然としない感情を私に残す。人間という生き物の、理解できる部分と、理解できない部分の後者の方。
    「おいドラ公! これもういいのかよ!? まだ!?」
    「ヌヌヌヌ!」
    「大丈夫、焦げてないよ」
     煮詰まったソースは美しいトマト色。こういうものばかり見せてあげたい。少なくとも、この子たちには。
    「こっちのボウルにゆで汁を取っておいて、そうそう。そしたら、いい頃合いだからパスタもざるに上げちゃって」
     シンクからもうもうと上がる湯気が狭いキッチンに立ち込めて、慣れ親しんだマジロ色と健康的な肌色以外見えなくなった。
     たった一瞬の、こういう光景が私の生涯に焼き付くんだろう。
     理由は分からないけれど、直感的にそう思う。
    「よし、じゃあパスタはこっちのフライパンだ。ジョンはテーブル拭いてお皿を出してくれるかい」
    「早く食べようぜ!」
    「ヌヌヌヌイヌ!」
    「せっかちさんたちめ、一分お待ち」
     ソースの絡んだパスタを見て二人の目はさらに輝いた。もうすっかりミートボールの件は忘れているようだ。計画通り。
     畑に育った色のまま、彼らが食料品売り場で選んだ時のまま、みずみずしいものを見ていたい。せっかくの赤だ。ひき肉なんか混ぜるのは無粋じゃないか。








    午前七時の鯖の塩焼き

    「普通にホラーだったじゃん!」
    「私はコメディサスペンスかなって思ったけど」
    「そんなジャンルあってたまるか」
     寝起きの私を待ち構えていた若造は開口一番文句を言った。とんだクソレビュアーだな。
    「なんかほのぼのファンタジーとか、兄妹ものとか言ってたじゃん、お前……」
    「違いないだろ」
    「ぜんっぜん、違ったんだけど!?」
     暴れゴリラは絶賛お怒りである。こら唾を飛ばすんじゃない。動物園に帰りたいのか?
     こうなると、機嫌をとるのは食べ物が一番だ。
     流しには朝食の皿が置いてあった。私が眠る前に用意しておいたものだ。グリルからもれる香ばしい香りも、沸き立つ湯音も、彼の読書を妨げることはできなかった。きっと読み終わった後に、朝方食べたんだろう。不満そうにしている割にはしっかり空になっている。
     そういえばテーブルに置いていたはずのメモは見当たらない。焼き魚に添えた『ミカちゃんの生まれ変わりかもしれないな』と記したメッセージ。ゴミ箱の中にビリビリに破られた紙くずがあったから、もしかしなくてもそれかもしれない。
    「斬新でおもしろかっただろう! あれはロナ戦にも通じるものがある」
    「ねぇーよ!!」
    「いいや、あることないこと『嘘じゃないけど……』って感じにまとめてるんだぞ何が違う。新横外の人からしたらポンチ吸血鬼の存在次第がファンタジーだ」
    「ウッ、それはそう……」
    「作家ならインプットは大事だぞ」と私がおすすめした作品は、どうやらロナルドくんのお気に召したらしかった。今も天井や壁をビクビクと見つめ、ちょっと離れてソワついている。
     これは小さな蜘蛛でも見つけたら発狂するかもしれないな。メビヤツを録画モードにしておいて正解だった。
     案外真面目な(その上流されやすい)ロナルドくんの本棚に真夏の空みたいな真新しい青が並んでいる。こうして時々新しいものを追加して、それとなく「おすすめだよ」と言って様子を見る。いつからか始まった私たちの遊びだ。
     最初は確か、普通に吸血鬼研究に関する本だった気がする。父が持って来たんだったか、御真祖様が掘り出したんだったか。知らぬ間に手元にあった一冊をなんとなしに本棚に押し込んだのがきっかけだった。
     ロナルドくんは何でもバカ正直に読む。児童向けのベストセラーや哲学書、スポーツ漫画も歴史書も。勧められれば当然のように手に取る。二回に一度はセロリの押し花が挟み込まれていたとしても。よく学習するくせに、まったく学習しない子だ。
    話は変わるが、干物にした魚を焼いて朝食に食べるという文化は、正直なところ私にはいまいち理解できない。
     ルーマニアの魚料理というのはそこそこ高級品である。メインは肉料理がほとんどだから、あえて魚とくればムニエルやコーンミール揚げなんかでどっしりコッテリ食べることが多い。けれど、この国ときたらまるで真逆だ。
     はじめて日本の旅館でジョンの朝食を出してもらった時は(朝食メニューを夕方にお願いした)、それはもうカルチャーショックだった。あばらの浮いた私の身体そっくりのアジの開きに醤油。ずいぶん質素に思えたが、それなりの高級旅館だったこともあり、一級品を提供しているだろうことは明白だった。実際食べたジョンは「ヌイシイ!」と太鼓判を押していたし。要するに、文化の違いだ。雑なまとめ方をするなら。
     せっかく日本に住んでいるんだからと、料亭の料理長や下町食堂のおばちゃんに師事して日本食の作り方を覚えた。干物の焼き加減なんて三ツ星シェフのお墨付きだ。合わせて古今東西の味噌を使った味噌汁の作り方、副菜に出番の多い胡麻和えやひじき煮、冷奴にだし巻きに究極の白米の炊き方まで、ありとあらゆる日本食を教わった。完璧な私にできないことなどなく、数か月ののちには由緒正しい日本式の朝食というものを私は立派に身につけた。
     その後数十年にわたり出番のなかった習練がロナルドくんとの同居でようやく日の目を見るかと思ったのに、なんと彼は朝食を摂らない派だった。これには私も驚いた。知識として知ってはいたが、現代日本人の食生活というのはこうも様変わりしていたのか。
     朝と呼べる時間にはだいたい寝ている若造に、私は頭を悩ませる。そして閃いた。ロナルドくんの不摂生なんて知るか、作りたい時に作ればいいじゃん、と。
     できれば焼きたてを味わってほしいが、生活リズムの違いからそうはいかない。それでも冷めてもおいしいドラドラご飯は若い胃袋を魅力的に誘う。彼は空腹を満たせる。私は腕が鈍らないよう習熟を高められる。ウィンウィンと言って差し支えない。そういうわけで、もっぱら執筆明けや徹夜の退治明けは特製焼き魚定食が振る舞われることが定番となった。
     今朝はサバの一夜干しを出した。
     白くふっくらした姿が、どことなく爬虫類然としているかも? と思ったからだ。
     私の行動原理のほとんどは嫌がらせやおふざけの類いなので、趣味が悪いと言われるかもしれないがそこは大目に見てほしい。
     さて、憤慨ゴリラの鎮め方は何通りかある。手っ取り早いのは食事だが、私のお茶目心に怒りを沸き立たせた彼は一筋縄ではいかないかもしれない。
     ならばジョン……、と、そういえば出かけていたんだったな。何かしらの友人とどこかに行くんだったか。どこでもうまくやっていけるジョンについては私はなんら心配いらない。ちゃんと連絡はするように。あと私以外の料理は食べちゃダメだからね。
     ともかく、ジョンのことより今はこっちだ。
     エサがダメなら風呂はどうだろう。クールダウンして人語を取り戻した例も多い。さっそくシャワーを勧め……、あーダメだもうパジャマじゃん。こりゃ生活自体は全部済ませた上で、私に文句を言ってやろうと待ってたってわけだな。詰んだ。
    「うーん、一つ聞いていい? ……率直に、つまらなかったかい?」
     少々荒っぽいが仕方ない。最終手段・『議論』発動。彼を私のフィールドに引きずり込む!
    「エッ……? いや、ウーン……、つまんねえってことはなかった、と思う、たぶん」
    「多分?」
     あいまいにされた部分に切り込む。作家としての彼が顔を出し始めればこっちのものだ。
    「気味悪い、っつーか。内容が異常なのに、語り口が子供の一人称だから、かもしんねえ」
    「なるほど」
     うまく言えないという顔に、人の作品にマイナス評価をつけたくないという表情を混ぜて、ロナルドくんはそれだけを絞り出した。落ち着かない視線が空中をあっちこっちとさまよって、結局本棚の方を見る。人を離さない青だ。それはきっと、君みたいな。
    「それは、この本に対しては誉め言葉だよルドくん。作者はそういう読まれ方も狙っていると思うし、なにより印象強く頭に残る」
    「それは……、たしかに、うん」
    「ぶっちゃけ好みが完全に割れる本だと思うしね」
     世にあふれる本の中から何百、何千と目を通したところで、記憶に残れなければある意味負けだろう。絵や音といった方向からアプローチできない小説媒体は、いかに活字にインパクトを盛り込めるかが分かれ道なのだ。
    「それともう一つ、」
     イイ感じに彼の興味がうつってきた。作戦成功。あとはこの場をうまく切り抜けられれば。
    「君が今言った感想。それって、ロナ戦と何が違うんだい?」
    「え……」
     ロナルドくんの目に、確かに痛みが走ったのが見えた。
     あちゃー、やりすぎた。あと一歩、というところで一歩どころではない歩幅で踏み出してしまうのが私だ。それで失敗したり痛い目を見たことなんて、それこそ星の数ほどあるのに。
     私こそ、人のことを「学習しない」と笑えない。
    「君の目で見た奇々怪々な世界を君自身の言葉で綴っているのがロナルド・ウォー戦記だろう。あの趣味の良い本を気味悪いと思いながら読んだ君と同じように、君の書いたロナ戦にある種の尻の座りの悪さみたいなものを覚えた読者もいただろう、ということだ」
    「あ……、そ、んな、俺……」
    「君の語る『吸血鬼ドラルク』を、瓶の中の哀れな化け物と思う人もいるかもしれない」
     ひまわり畑が見つめる我々は、あの物語の登場人物たちとそう変わらないんじゃないか。
     真相はどうだったかなど、第三者には分からない。
     私はロナルドくんの書く物語が好きだし、彼の目線で語られることを心地よく思っているが、読者の数だけ解釈はあるのだ。そこを割り切って取捨選択できないから、この子の自己肯定感は育ちづらい。
    「それに爆発オチ的なアレも一緒じゃないか。驚いたよねぇ、物語の幕を自ら引いてしまう主人公なんて!」
    「ロナ戦は爆発オチじゃねえよ!」
    「ハイハイ」
     当初の勢いを無くしたロナルドくんは、それでも今はおおむねスッキリした顔をしていた。
     誰かと感想を言い合いたかったけれど、自分でも好きと言えるか自信のないものを人には勧めづらい、みたいな理由から、発散されない感情のやり場を探していたのかもしれない。
    「ところで朝食はどうだったかね?」
    「? どうって、いつもと変わんねーよ」
    「フフ、そうかい」
     ひまわりも、焼かれた魚も、張本人でさえ真実は知らないもの。
     きっと一生忘れられない一冊になる。そう確信して私はこの本を選んだ。








    夜更かし屋さんのお茶漬け

    「我こそは吸血鬼・B級映画監督!」
    「キャラかぶってんじゃねーか!!」
     わらわら湧いて出る変態も300話を超えれば被りも出てくる。またアホみたいな映画の役者にされるのは勘弁。サッと叩き込んだ拳にて強制終了。コンティニューはなし。もはやワンパン退治が十八番になった。
    「クッ……、いったいどんなB級映画を撮る気だったんだ……!」
    「ちょっと惜しんでんじゃねえよ」
    「だっておもしろそうじゃない」
     まるで役に立たないガヤが喧しいのもいつもの通り。一日にそう何人もアホを相手にしたくはないので、こんな夜はさっさと片付けて帰るに限る。まあ、並み居るアホのうち一人は何をどう間違ったのか我が家に常駐しているので、帰るとなると自ずとついてくるわけだが。
    「なんか、久しぶりに映画観たくなっちゃったかも」
    「昨日も観てただろうが」
    「違うって、たまには名作のやつ!」
    「いやいつでも名作を観せろや」
     ヴァミマで新作の炭酸を買おうとして、名作を観るならとコーラに留めた。せっかくだから余計なことを気にせず画面に集中したい。ポップコーンも定番の塩味。ジョンはポッキーを手に取った。
    『いかにも普通』みたいな日常は、新横で暮らしているとどうしても縁遠い。
     だけど同居人がクソを愛しているっていうだけで、普通だって平凡だって決して悪いもんじゃない。そういう夜があったっていい、と思うタイミングがどうやら同じらしいので、俺とこの吸血鬼とその使いマジロの生活は、なんだかんだうまくいっている。
     いつからか取り付けられたプロジェクターを引っぱり下ろし、メビヤツを所定の位置にセッティングする。カーテンを閉めて明かりを落とし、何食わぬ顔でパーティ開けしたポップコーンを一つ摘まんだ。「ヌヌヌヌヌン」とつまみ食いをたしなめられて口止めにもう一つ。
     グラスを持って来たドラ公は我々の素早い犯行を見逃さず、「このフライングゴリラめ、そわそわし過ぎだ、もっとバレないようにやりたまえ」と、ため息をついた。うるせえ。
    「で、なに観んの」
    「ジャジャーン」
    「ヌヌーン」
     こいつのドヤ顔はマジでアレだけど、お揃いポーズをするジョンは最高にかわいい。
    リモコンを持った腕をクロスさせ、おかしな角度でネットフィリップスを起動させたドラ公は「ちょっと待ってね」と言いながら、普通の角度に戻した手で作品検索を始めた。
     ハ……、いやバッ、ク、ト、ウ、……。
    「ジャジャーン」
    「ヌヌーン」
    「わかったっての」
     クロスした腕からリモコンを取り上げて音量を上げる。画面いっぱいのロゴデザイン。車のイラスト。文句の付けどころのない名作がドラ公と同じドヤ顔で俺を見ている。
    「ねっ、本当にちゃんと名作でしょ! どれから観る? スリーにしよ!」
    「いきなりスリーはないだろクソが」
    「ヌンヌ、ヌーヌイイ!」
    「えー、ロナルドくんは? スリーが観たくない?」
    「いや俺1も2も観たことねえし」
    「えっ、スリーだけあるの?」
    「んなわけあるか観たことねえんだわ一個も」
    「ヌエー!?」
    「アンビリーバボー!!」
     一人と一玉は同じ顔で俺をちょっと遠巻きに見てきた。ムカつく。砂かけポップコーンは食いたかないので控えるが、俺の殺害衝動ゲージは順調に溜まってるぜ、クソ野郎。
    「ンー、じゃあ無印にする? いきなりスリーでも全然おもしろいとは思うけど」
    「いや1から観る」
    「本当に? じゃあ無印観たらスリー観る?」
    「お前のそのスリー推しなんなの」
     ジト目攻撃をスルーしつつ、第一作目を表示した画面を確かめ、再生ボタンを押す。「クララがちょっと好きなんだよね」と砂おじさん。誰だよクララ。
    「賢い女性って、アイコンとしては、ちょっとめずらしい時代だったのさ」
     オープニングが流れ出すとドラ公はクララの話を止めた。
     俺も記念すべき初回なのでちゃんと観たい。よってその件については保留にしてもらう。
     どうせ観るし、3も。
    「オッ、見たまえ、ヘビー級ルドくん」
    「黙っとけや」
     タイムトリップものということは知っていた。
     過去の自分からのメッセージだとか、未来の世界のタイムパラドックスだとか、その手の世界設定の定番とも言える展開と、いかにもアメリカ映画っぽいジョークとケンカ。とりあえず、コーラにしといて良かったみたいだ。
     もちろん俺はアメリカの日常的なケンカ(それも時代的に結構古いものだ)を見たことも聞いたこともない。けれど煽られると律義に挑発に乗ってしまう主人公は、自分を客観的に見るようでもあった。だってクソ砂が俺のこと五歳児って言うんだもん。コイツが先に言ったんだもん。お前の気持ち、わかるぜマーティ。
    「彼って、本当に魅力的だよね」
     筆頭挑発砂クソ野郎がしみじみと言う。
     俺は作品の持つ瑞々しい勢いに夢中になっていた。公開から何十年も経つのに、まるで古さを感じさせない。音楽が抜群にかっこよくて、ここぞというところにバチッとハマって、それだけで鳥肌が立った。
     長年愛されるのも頷ける、主人公以外は。
    「ウーン、そんなにか? 正直微妙じゃねぇ?」
     浮くスケボーかっけえな、と思いつつ、俺は首を傾げた。
     共感はできても、魅力みたいな部分はピンとこない男だと俺は思う。
     いまいち締まらないし、学習しないし、いいところなんてほとんどない。隣で、それこそこの映画の歴史の五倍以上生きている吸血鬼がそんなに目を輝かせる理由がわからない。
    「完全完璧じゃないキャラクター性が最高だ、って話さ」
     ドラ公が傾けたのはホットミルクのマグだ。
     いつもと変わらぬその中身は、映画鑑賞の時だけ薄赤い色をしている。混ざる血は秘蔵のボトルからだったり、そこらの自販機のパックのものだったり、あるいは俺のものだったりする夜もある。でも見た目には変わらぬレンチンミルクだ。そういうことだろうか。
    「この映画観て、科学者もおもしろそうだなと思って、一時やってたんだよ」
    「はあ? 影響されやす過ぎか?」
    「多才でマルチタスクでフットワークが軽いと言え」
     無理がある。と秒で思ったけど、よく考えたらそこまで無理でもないのかもしれない気がしてきた。少なくとも、コイツに関しては。
     だって頭は多分良いっぽいし、実家は太いから金もある。設備なんかパパ活で一発だろう。時間もあるし、失敗とか後悔とか、そういうメンタルは持ち合わせていない。もしかして、めちゃくちゃ科学者向きなのか、ドラ公。
    「近所の子に目をかけてやってさ、そうしたらその子が未来の私の作ったタイムマシンに乗って私を助けにくるんだよ、すっごいロマンじゃない?」
    「……なんで、やめたんだよ?」
     めっちゃありそうな想像を浮かべながら、今も似たようなことやってんじゃねえか、とか思いながら、俺は一番気になる疑問を投げた。それはもう、前々から気になっていたから。
    「ん? 単に死に過ぎるからだけど」
    「クッッッソ雑魚!!」
    「もちろん続けていればノーベル賞もイグノーベル賞も毎年私のものだっただろうが……」
    「惜しまれつつ引退、みたいな顔すんな」
     前言撤回、やっぱ向いてねえわ。ていうか本当に生きるの向いてねえな、そもそも。
     すぐ死ぬことを含めても自分を完璧と豪語するドラルクは、ジョンのデロリアンの真似を微笑ましそうに見つめている。確かにアレはそそられる。飛べそうだもんなージョンー。
     時刻は深夜三時を回ったところだ。ぶっ通しの映画鑑賞もいよいよシリーズ三作目に突入する。するとドラ公は立ち上がって、おもむろにエプロンを着けた。
    「イチ推しのスリーだぞ、観ねえのかよ」
    「もう空でセリフが言えるほど観た」
    「ふうん」
     あんだけ言ってたくせに、ワケわかんねえ。
     気まぐれ、奔放、無責任。楽しいことだけ追いかけたい享楽主義。さすが、『やりたいことだけするし、いたい場所にいる』を命題に掲げるだけのことはある。
     冷蔵庫を開け閉めするドラ公の目と鼻の先で、冷蔵庫どころじゃない開拓時代の彼らが馬に乗って走っている。このちぐはぐ感ちょっとおもしろい。あとガンマンってかっこいい。
     ふと画面を見つめながら考える。もしもこのシリーズに吸血鬼が出てくるなら、あらゆる時代に、同じ姿かたちの生き物が何度も登場することになるんだろうな。
     画角の端々に映り込んだ黒い影。ちょっとしたウォーリーを探せじゃん。吸血鬼役だけは同日に全部撮影できるし、やるのは結構簡単だろうな。自分は三部作にそのまま出演しつつ特殊メイクで歳をとったり若返ったりする共演者を眺めたら、疑似的に長命種サイドの体験ができるのかもしれないな。
     古い時代の、あんまりおいしくなさそうな食事を眺めながら、さみしくなってきた胃袋を撫でる。
     手袋を外して、袖を腕用サスペンダーみたいなやつで捲り上げた手先が何やら用意しているから、もう少しの辛抱だ。
     映画を観て夜更かしをした日には、キッチンに立つ吸血鬼が眩しく見える時がある。
     こんな仕事だから体調管理は最低必須条件だ。
     食べるものが残念な自覚があった頃は空き時間があればとにかく寝ていた。現場で寝不足で倒れるなんて許されない。眠れなくても、腹が鳴っても、時計の針を数えて無理やり六時間は目をつむっていた。だらだら映画を観て夜更かしをするなんて、ドラ公たちが来るまでは考えられなかった。
     外がうっすら白んでいる。そりゃそうか、一晩に三つも観りゃ夜も明ける。
     ドラ公お気に入りのクララが一大見せ場を乗り切って退場した。いよいよ佳境だ。目の前には湯気を立てる茶碗。お茶漬けだ。マグロの漬けが乗ってる、俺の好きなやつ。
    「マジの名作だったじゃん」
    「私だってクソしか観ないわけじゃないと言っとるだろうが」
    「それでも意外だったんだって」
     熱い米をサラサラ流す。腹が満ちていく気配。量は少ないけど、満足感がある。
     海苔とあられを噛みしめながらだんだんと近づく終わりを眺める。
     本当は意外だった。この吸血鬼は、おもしろいことだけ、今この瞬間だけを愉しむ生き物だと、俺は思っていたから。
    「タイムトラベルなんてズルしたらつまらないじゃない」くらいは言いそうだと思っていたから。
     分厚いマグロはドラ公が切ったものだ。「柵で買わなきゃ足りやしない」とぶつくさ言うくせに、こんなに厚く切るからあっという間になくなる。コピー用紙くらい薄く切れば何日も持つのに。言ったらまたバカにされるから言わないけど、そういうことだろ。
     スリーでもあの格別にかっこいいテーマソングは変わらない。本当にいい曲だ。西部開拓時代の大波乱を眺めながら食べる漬け茶漬けはうまい。
     隣に座り直した吸血鬼が映像に釘付けになっていた。不規則な生活だから俺はほとんど刺身は食べないけど、こういう生魚を漬けたやつは大体いつも冷蔵庫に入っている。小腹が空いたらタッパーを取り出して、レンチンご飯に乗っけて漬け丼にしたりする。
     ドラ公の横顔を盗み見る。日本人とは似ても似つかぬ高い鼻。マグロとかサーモンの漬けを冷蔵庫に常備しておく生き物。数百年の生き字引。しみったれた部屋で見つめる170歳当時に公開されたタイムトラベル映画。人間の夜更かしに並べられた棺桶。
    「ラストが好きなんだ。だから、やっぱりスリーが好き」
     確かに、最後のシーンの演出がタイヤ跡っていうのは、マジでかっこいい。
     この三作目を観終わって、一作目と同じ締めが来るんだから、ファンは痺れただろうな。
     もう一度シリーズ通して観たくなるかも。こういうのロナ戦に生かせないかな。あっ、だめだ、ビキニオチの天丼にしかならねえもん。
     すっかり空になった茶碗はドラ公の細い腕が回収して行った。ジョンはぐっすり寝入っている。
    「いつだって、最後までは起きてられないんだよ」とドラ公は大切そうに零した。お気に入りの三作目のラストシーンを見せられないことが残念なのかもしれない。
     ジョンを寝床に移動させると、ドラルクも棺桶の蓋を開けた。「洗い物は置いといて。君がやると割ったり欠けたりしてしょうがない」とアゴで指すから、寝ているうちに片付けてやろうと誓う。メビヤツをスリープモードにしていると、横になってスマホをいじるドラ公が「そういえばさ、」と話しかけた。
    「さっきの科学者とか研究職ってね、吸血鬼はやる人少ないんだよ、実際」
     これは不思議な光景なのかもしれない。スマホもネグリジェも人間が作ったものだ。時間という概念が止まったような吸血鬼に似合うはずもないのに。
    「我々って長生きでしょ? 調子に乗って研究論文とか出してもみなよ。そしたらそのうち新説とか反対論文とかが出てくるのをその目で見ることになるんだ。考えてもごらん。生きてるうちに持論を取り下げて世間に赤っ恥かかされるんだよ。私は絶対、ぜったい嫌だ」
     熱弁というよりも、誰かの何かを思い出しているような口ぶりだった。
    どちらにしても、俺はいよいよ眠くなっていて、ドラ公の言うことを「何言ってんだコイツ」くらいにしか聞けなくなっていた。あきらかに船を漕いでいる俺を咎めることもなく、ドラ公も棺桶で寝返りを打った。
     ぼんやりと霞がかった脳裏が憂う。
     吸血鬼は夜起きて、朝眠る。映画を観たりお茶漬けを作ったりしながら、こうして隣にいる今と、隣にいない今を繰り返し、ずっと続けていく。2023年の俺がドクにしてやれることは何か。なんとなくわかった気がする。そうとも、俺の武器は銃じゃない。
     朝日の中で眠るのは、思っているより眩しくはない。暗闇が引いていった寂しさに、まぶたを開けられないだけで。
     決めた。俺は絶対、今夜のことをロナ戦に書く。








    ご褒美のリンゴのケーキ

    「あれ」
     冷蔵庫の中身は空でも言える。誰がこの家の炊事担当だと思っているんだ。
     のぞき込んだ箱の中身は、予想とは少し間取りが違った。あるべき場所に記憶通りの物がなければ、疑うべきはこの私の天才的な頭脳ではなく同居家族一号・二号の他にない。
    「パイシートがない。おかしいな、買ってあったと思うんだけど」
    「ギクッ」
    「ヌヌッ」
     聞こえよがしに声を上げれば大げさに肩を跳ねさせる一人と一匹。共犯なのね、なるほど。
    「……君たち、冷凍のパイシートにかぶりつくほど飢えてるの」
    「ちげぇよ! その、テレビで、シートだけでもトースターで焼けるって見て……」
    「ヌッヌヌヌヌヌ……」
    「それで全部食べちゃったの? フィリングも無しに?」
    「お前が作って置いてるジャムとかつけて……」
    「ヌーヌ」
    「そう! チーズとかベーコンを燻製にしてたやつあるだろ? しょっぱいのも合うんだよ! なっ、ジョン!」
    「ヌイシヌッヌ!」
    「パーティだったってわけね。いったいいつの間に……」
    「ほら、お前がオータムでクソゲー耐久帰れま10でカンヅメしてた……」
    「あの日かぁー」
     思い当たる節に私は膝を打つ。
     言われてみれば作り置きが少しずつ減っていた。腹ぺこ五歳児がつまんだものとばかり思っていたけれど、そんな楽しいことになっていたとは。というか言いなさいよ、そんなおもしろそうなことするなら。ドラドラちゃんの腕によりをかけて和洋折衷甘いのもしょっぱいのも、好きなもの乗せ放題ナイトフィーバーを開催したっていうのに。
    「……まあ、使ったら言いなさいね今度から。予定が狂って泣くのは君らだぞ」
    「ハイ」
    「ヌイ」
     そんな時くらいジャンクなものを食べたって良いのに。留守の間も私の作ったものを喜んで食べたと聞かされれば、叱る気もどこかに失せてしまう。かわいくてズルい。私の次に。
    「しかし、そうだな、アップルパイが作れないとなると……」
     いただきもののリンゴを指で転がしてうなる。
     君はこんなに赤くてツヤツヤなのに、居心地悪そうで申し訳ないね。
    「コンポート、あるいは焼きリンゴ……、しかしもっと手をかけたい気分だし」
    パウンドケーキ、ゼリー、いやいやもっととびきり面倒なものが作りたい。手間暇かかって、煩雑で、リンゴの味がぎゅっと凝縮されて、一口ごとに幸せを覚えるような。
    「ヌヌヌヌヌン!」
    「さすが私のジョン! そうしよう、私とジョンの思い出の味だ」
     世界の丸にしてリンゴの貴公子も務めるジョンはいつだって名案を思いつく。
    良いじゃない、タルトタタン。シンプルなのに面倒で、奥が深くて、リンゴが主役だ。
    「なんだよ、思い出って」
    「そりゃ思い出は思い出さ。私とジョンは共に生きて180年だぞ? 思い出のタルトタタンの一つや二つ当然あるわ。それに、思い出のシチューだろ。思い出の筑前煮。思い出のロシアンたこ焼きに、思い出のいなごの佃煮も」
    「思い出カウンターバグってない?」
    「共に作って共に食べたのなら思い出以外の何ものでもないだろう。今日のタルトタタンは私とジョンと、それにロナルドくんの思い出の味になるのさ」
    「……ふうん」
     私はロナルドくんの「まんざらでもない」の声色が分かる。
    「それならいいけど」も、「ちょっとうれしい」もお見通し。そうとも、毎日ぜんぶ思い出だとも。これからだって、君が食べ切れなくなるくらいお腹いっぱい作ってやる。
    「さて、じゃあ取りかかるか」
     エプロンの紐を結び直して顔を上げると、キッチンまでついてきた一人と一匹が私を見つめていた。この子たちに二時間は待てないか、しかたない。
    「とりあえずクッキーでも摘んでなさい」
    「えっ、クッキーあんの? ……じゃなくて!」
    「リンゴはダメだよ、案外たくさん使うんだから」
    「つまみ食い待ちじゃねえよ! その、俺たちも……」
    「ヌヌヌヌイ!」
     おねだりとは違う目を向けられて、めずらしさに驚いた。
    「え? 君たちが?」
    「……パイシート食っちまったし」
     反省という言葉を知ってたのかこのゴリラ。そのまま言えば即殺された。解せぬ。
    「うーん、まあそういうことなら……」
    「ヌンヌヌ!」
    「おっ、俺もがんばるぜ!」
    「ほどほどにね」
     エイエイオーって運動会か君ら。
     優しさマックス懐デラックスのドラドラちゃんなので「正直不安」とは口に出さない。出さないけれど、なるべくなら座っていてほしいかな。あ、やるのね、うん。そう。はい。
    「手洗った! ドラ公!」
    「ヌヌッヌ!」
    「じゃあリンゴもお願い」
     やる気をみなぎらせる一号と二号を控えめに応援しつつ、まずはリンゴを洗ってもらう。
     包丁なんかとてもじゃないが持たせられない。洗う、待つ、他に彼らにできることは……。
    「そうだ、ブリゼを作らなきゃ」
     計量ならゴリラにもできるだろう。バター、小麦粉、砂糖、卵と材料を並べていく。秤にボウルとビニール袋をセットすれば完了だ。
    「はい、ここにどんどん入れて」
    「お、おう……」
     粉をまとめて入れた袋を振らせればふるいにかける必要はない。床もテーブルも汚れない。ちょっと拝借して塩もひとつまみ。おっと、卵黄を分ける作業だけは私がやらなくては。
    「バターはこう、カードで切って」
    「俺は手で潰せる」
    「溶けたら困るんだよ子供体温ゴリラくん」
    「これが終わったら殺す」
     放り込んだバターをそのまま袋の中で刻んでもらう。太い腕に袋の口が狭そうだけど、作業自体は簡単だろう。バターを細かくしたら水を混ぜた卵黄を──。
    「ビニール破れた」
    「……交換しよう」
     前言撤回。前途多難だ。
     ビニールは大変繊細です、ゴリラの腕力は五百分の一まで下げてくださいと言い含め、続きを促す。大きな体が背中を丸めてちまちま手先を動かすのが、ちょっとかわいいなとは言わないでおく。早々ビニールを無駄にするのも忍びない。
    「ジョン、卵混ぜて」
    「ヌン!」
     優秀な使い魔は混ぜるだけなら超一流だ。チャカチャカ動く泡立て器の音を聞きながら、私はしまい込んだ丸型を取り出す。
    「混ざったらその袋に、そう、粉の中に入れていいよ」
     さて重石はどこにやったかな。そろそろリンゴも切らなくちゃ。坊やたちの手元も見ておかないといけないし、思ったより忙しいなこりゃ。
    「ドラ公、次は?」
    「ちょっと袋を振ってごらん、すぐまとまるだろう」
    「ん」
    「くれぐれも揉んだりするなよ、バターを刻んだ意味がなくなる」
     数回袋の上から押してやればそれらしくなった。冷蔵庫に入れさせて生地はひと休みだ。私の手はまだまだ休めないけれどね。
    「今のところうまくいってるよ、はいご褒美」
     リンゴの切れ端を差し出すと同時に飛びつく一号二号。私はイルカショーでもしていたんだったかな。
     期待に満ちた目。いやいや、まだもう少し芸を覚えてくれないと次のご褒美はないぞ。
    「さてカラメルだな。出番だよ、計量ルドくん」
    「誰が細マッチョだ」
    「君のどこに細い要素があると思ってるんだ。その体で軽量級に出られるわけないだろ」
     計り入れたグラニュー糖を中火にかけ、鍋を揺すりながら溶かしていく。ジュワジュワと泡が大きく沸き出したところで大きな手のひらにバトンタッチ。
    「えっ、俺?」
    「揺らしてればいいよ。焦がすんじゃないぞ」
    「わかるわけねえだろ!」
    「ほらほら、手を止めない」
    「ウワワワ」
     大きな泡、小さな泡、と均一になってきた頃を見計らって火を小さくする。端から色づく飴色。香ばしい匂い。
    「焦げてる!」
    「焦げてません」
    「茶色いだろ!」
    「まだ平気。ほら、揺すり続けて」
     見守るジョンとロナルドくん、二人で顔を合わせながら「焦げてない?」「ヌヌー?」なんて言い合っている。本当にまあ手のかかる子たちだこと。
    「おっと、そろそろ焦げるぞ」
    「ウエーン違いがわかんない!」
    「いいから火を止めろ」
     茶色が濃くなったところで打ち止めにすると大きな五歳児が息を吐いた。びっしょり汗をかいているのがおかしくて笑ってしまう。
    「はいバター」
    「ん?」
    「入れて。残りのグラニュー糖も」
     もう一度着火するとロナルドくんは「焦げちゃう」と小さな声でつぶやいた。焦げるわけないだろ、私が監修してるんだぞ。さてリンゴだ。
    「ソテー、分かる? 炒めるの」
    「炒める? リンゴを?」
    「ヌヌー?」
     どうやら炒めるイコール肉か野菜、みたいな感覚らしいな、この子は。
     あとジョンは分かるはずでしょ、何回一緒に作ったと思ってるんだい。
    「ヌヌヌヌヌヌ ヌ ヌヌヌヌヌ ヌヌヌヌッヌヌ」
    「……熱烈だね、君は本当に」
     当然のように、私の手元しか見ていなかったと胸を張る使い魔にいたたまれないような気持ちになる。そういうのは二人きりの時にしておくれ。ストレートな愛情への喜びと同時にゴリラの嫉妬と羨望の視線を浴びすぎてどういう顔をしていいか分からないから。
     リンゴ全体に絡ませた飴色はまだまだ序の口といったところ。これから水分が出る。荷崩れするのでガチャガチャ混ぜるのはもうおしまい。
    「揺する程度でいいよ」
     もちろん目は離さずに。
    「リンゴと言えばさ、やっぱり白雪姫だよね」
    「ヌヌヌヌヌヌ!」
     ジョンの顔がパッと輝いて私を見上げた。きっと同じことを考えている。
    「あれは本当に驚いたなあ」
    「ヌンヌン」
     じんわり汗をかき始めたリンゴの両面に浮かぶ水滴のように、今でも昨日のことのように新鮮に思い出せる。まだ百年も経っていない。
    「ちょっとひっくり返してね、焼きが甘い部分を下にして」
    「おう」
     ゴリ造くんにはターナーよりも菜箸の方が力加減ができて良いようだ。見かけによらず箸の持ち方がきれいだこと。
     歌う白雪姫の元に集まりひしめき合う鳥たちのような鍋の中身から、赤が濃いものを取り出していく。まだ捨てない。皮の赤はタタンの赤になる。
    「知ってるかい、あの頬の赤みは本物のチークを使ったんだよ」
    「へえ」
     分かってるんだか分かってないんだか、適当過ぎる返答にため息が出そう。
    しかたないか、彼にとっては古典もいいところだ。フルCGアニメーションの時代の子にはあの凄さは理解し得まい。
    「そっち、見ててね」
    「見てるだけでいいの?」
    「歌でも歌ってくれても構わんよ」
     クラシックを聴かせるとサボテンが喜ぶみたいな話も聞いたことがある。
    そういう意味じゃ、この場で白雪姫を再生しても同じ効果がありそうだ。さぞおいしいタルトタタンになるだろう。一口で永遠の眠りに落ちそうな気がしないでもないが。
     そろそろ小鍋の方はいいだろう。
     取り出した皮はすっかり茶色くなってクタクタだ。軽く絞った汁ごと煮汁を鍋に戻す。残りはもうお役御免。あまり味はしないと思うけれど、イルカショー第二部も大満足のご様子。
     そんな絞りカスでニコニコしてたら、手間暇かけた私のタタンなんて、食べる前から幸せになっちゃうんじゃないかい。
    「ねえこれ合ってる? 合ってんの? 大丈夫?」
    「フフ」
     じっくり時間をかけるところだから、もちろん大丈夫なのだけど、せわしないゴリラくんは私が黙っていると心配になってくるようだった。
     沈黙が苦手で、怒られてる気分になる人っているよね。でも君、新人とかに構い過ぎてウザがられるタイプじゃない? そっちこそ大丈夫? 案外そういう理由でフラれたんじゃないの、高校の頃の一時間彼女にも。
    「ヌヌヌヌヌン、ヌヌヌイヌ」
     落ち着くように声をかけるジョンは、打って変わってとってもお兄ちゃんだ。
     さすがのマジロ様。生きた歳の数だけ頼りがいが増していく。併せて愛らしさ、甘え上手、ずる賢さ、人の目を盗む技術の向上も顕著だ。そんな目をしてもダメです。ここからはつまみ食いなし。型入れした時にリンゴが足りないとみっともないだろう。
    「うん、もういいかな、そろそろ」
    「食える?」
    「寝言は火を消してからにしてくれたまえ」
     カラメルのとろみも、リンゴの透き通り具合もちょうどよい。よくこの五歳児を操ってここまでできたもんだ。私もますます畏怖さに磨きがかかっているな。
    「そうしたら型に並べるんだけど、うん、まあ私がやるか」
     しっかりみっちり詰めないと焼成後に崩れるし、今この子たちに任せたらずいぶん嵩の少ないタタンになりそう。ヨダレ拭きなさい。
    「その、残ってるゼリーっぽいのをここと、ここに」
    「これ?」
    「美しいエッジのためのマストアイテム、ペクチンさんだ。ロナルドくんよりよっぽど良い仕事をするからな、心からの感謝を込めて敬礼し、こら、キッチンで殺しはご法度だぞ」
    「どこでだって殺されるんじゃねえよザコ」
    「筆頭殺し屋ゴリラが言うセリフじゃないな」
     リンゴの分量も隙間の埋まり具合も申し分なし。ここまでくればほとんど成功したと言っていいだろう。このオーブンの加熱癖も最適な焼き時間も私にかかれば目をつぶってたって分かる。誰がこの家のキッチンの主だと思っているんだ。
    「何分で焼けんの? 五分くらい?」
    「はいバカー。ブブオを笑えないレベルのバカー」
    「そんなに!?」
     焼くのはだいたい四十分。ラスト五分でブリゼも乗せて焼く。
     ていうか今日は食べられないんだけど、そこのところ分かってるのかな。
    「待ってる間に映画でも観るかね」
    「ヌヌヌヌヌヌ!」
    「いいねー!」
     そういうと思った。
     笑い合う私たちの後ろから痛いくらいの視線再び。君ね、そう簡単に百八十年の絆に割り込めると思うんじゃないよ。分かったから。分かったから、エプロンの紐を引っぱるんじゃない。赤ちゃんか。
    「小人が炭鉱で宝石を掘り出してるの、夢があるよね」
    「そうか?」
    「君は知らんだろうが、フルカラーの長編アニメーションとしては世界初の作品だったんだ。これが白黒だったらこんなに爆発的な大ヒットはしなかっただろうよ」
    「へえ」
    「聞いてる? 今のは歴史を直接見てきた私をめちゃくちゃ畏怖する場面じゃない?」
    「この母親こえー」
    「物事の真理の分からない若造め……!」
     そりゃ「心臓を取ってこい」なんて言われたら私じゃなくても怖じ気づいて死んじゃうかもだけど。原作だと持って来させた心臓を食べるんだよ、恐ろしいよね。
     子供たちにアニメを見せている間に洗いものでも片付けようかな、と浮かせた腰は一瞬でソファに逆戻りした。ロナルドくんの大きな手がテレビの真正面に私を座らせる。膝の上には愛するジョン。これは抜け出せないぞ、なんて恐ろしいんだ。
    「バターのにおいがする」
    「君もおなじだよ。ジョンも、いつにも増して」
     カラメルは甘い匂いだし、部屋中にしみ込んだようなバターの香りはとっぷり浸かりたくなるほどの香ばしさ。どうしよう、ちょっと夜寝がしたい心地になってきた。
    『できれば、恋のお話とか』
     画面の向こうで小人が催促している。
     そうだなあ。恋もいいよね、きっとリンゴみたいに甘酸っぱい。
    「ヌヌヌヌヌヌ、ヌヌシヌヌヌヌ」
    「ありがとう、ジョン」
    「寝すぎて焦がすなよ、タルトタンタン」
     なんだその愉快なタルトは。突っ込みきれずに瞼が落ちる。惜しいな、久しぶりに観たっていうのに。
     リンゴのように真っ赤な頬をした彼女は、つかの間の幸せをほんの一日しか経験できずに眠る。
     城育ちとは思えぬ手際の良さで食事を振る舞い、歌って踊り、だけれど全部を置いて王子の城へ行ってしまう。絶対に小人たちといた方が楽しいのに、女の子って分からない。
    「ヌヌン、ヌヌヌ ヌヌヌイヌ」
    「ねー、腹減ったよねー、ジョンー」
     あの子も、タルトタタンでも作ってみれば良かったのに。
     食べられるのは明日だよと言われた小人たちの顔ときたら、さぞかし見ものだっただろうよ。きっと、私のように幸せな眠りにつけただろう。
     たとえたった一日の楽しみだったとしても。
    「ヌヌ ヌヌンヌ!」
    「はいはい、今行くよ」
     ところで、映画はどこまで進んだ? 
     こっちはとりあえずあと五分。ブリゼに重石を重ねながら、冷蔵庫の中身を思い出す。
     昨日作ったグレープフルーツのマリネは食べられていないことを祈ろう。それに、焼いておいたキャロットケーキ。クリームチーズはあやしいな、パイシートパーティに使われてないといいけど。
     さてさて、君と違って、私は寝てるばかりは許されない。
     オーブンを覗く小人たちが納得するような、今宵のおやつを作らなきゃ。
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