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    kujira_noritai

    @kujira_noritai

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    kujira_noritai

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    『CHERISH』趣味は、君をスイカから引っぱり出すこと

    「新しい販促を試してみるべきだと思いませんか」
    「思いません」
     そんな会話の一週間後、ロナルドは新横浜ヴィレヴァヌショップのエプロンを着用して店内でうなだれていた。
     思いませんって言ったのに。
     己の担当に恨み言を募らせるが、どんな天変地異が起ころうともロナルドが担当本人に直接言えるはずもない。
    「本日の閉店時間は二十二時です。それまでがんばってくださいね」
    「……はい」
     有無など聞かぬ真っ黒な目で微笑まれて(微笑んだように感じただけだが)ロナルドは力なく返事を返した。イエス以外に言えることなどない。
    「ご覧ジョン、あれが限界原稿退治人ロナルド先生らしいよ。ロナ戦のイメージよりずっとゴリゴリしてるね」
    「てめえは普通に働けオラァ!」
    「ギャッ」
    「ヌーー!」
     座っていた椅子を振りかぶると吸血鬼は断末魔を残して死んだ。
     圧倒的雑魚。なぜ毎度敵いもしない相手にこうまで見事な煽りをふっかけられるのか。
    「ロナルドさん」
    「ヴャべァッ、ルパァブフフッ、フクマさん! いいい今ちょうど始めるところで!!」
    「良かったです。座り心地が悪かったのかと」
    「いやもうめちゃめちゃ快適ですいつものやつよりいいぐらいです本当に、ええ、ハイ」
     大嘘だ。
     ロナルドは一脚ウン万円すると名高いデスクチェアをそっと床に降ろして座り直した。確かに楽だ。目線の高さがちょうどいい。腰とかの負担も一切ない。今にも空を飛べそうなエアー感で執筆なんか苦じゃないかもしれない。いややっぱりそれはない。集中なんてできるかこんなん。ロナルドは少々自棄になっていた。

     最高級チェアを用意された場所は販促コラボ先であるヴィレヴァヌ店内。渡されたエプロンと愛用のノートパソコン。(なんで持って来ているのかなんて考える方が負けである)
     企画名の『大人気退治人にしてベストセラー作家ロナルドの店内生執筆~閉店までに一本完成~』という題字が壁のポスターを彩る。その壁の前にドンと置かれたデスクとチェア。
     本日のロナルドの仕事場はここだった。

    「ロナ戦の読者層ですが、現在中高生の占める割合も大変大きくなっています。若い世代への周知をさらに高めるため、新たな施策を社内会議にて検討中です」
     およそ一か月前の担当の言葉をもう少し真剣に聞いておけば。ロナルドの胸中は後悔で満ちていた。まさかこういう方向の企画が来るとは。
    「すぐに手が出るロナゴリ先生はおいといて、私たちで店内を探検しよう。これだけ広い店内でこうゴチャゴチャしてるんだ、きっと掘り出し物が見つかるよ!」
    「ヌヌヌヌヌ!」
    「働けよてめえもよ! 遊びに来てるんじゃねえんだぞ!」
    「わたしたちは自由にしてていいって言われてるも~ん。ロナルド先生メインの企画なんだからキリキリ書きたまえよ、ほらほら早く」
    「クソがぁっ!!」
     やり場のない怒りをフツフツとたぎらせつつロナルドはパソコンを立ち上げた。
     ドラルクはムカつくが、担当がこわい。こういう企画で連れてこられた以上やらない選択肢はないのである。つまり、閉店までに一本書き上げる。えっ、待ってあと四時間くらいしかなくない? 無理では?
     幸いロナ戦自体の新刊締め切りまではまだずいぶん余裕がある。本日書くものはライト層向けの軽めのスピンオフだ。単体で本になる予定もない。
    「のびのびと好きに書いて良いですよ」
     ロナルドの担当は気負わずに書けるよう声をかけたが、ロナルドは「好きにしてよい」と言われると逆に何をしたらよいか分からなくなる質だった。そもそものテーマ決めから考えなければならないのか。
    「見て見てロナルドくん、人間シャボン玉が作れるよ!」
     頭を悩ませるロナルドの頭上から直径一メートル以上あろうかという巨大な輪っかが降ってくる。犯人は言わずもがなドラルクだ。
    「ヌヌイ、ヌヌイ!」
    「おもしろいねえ、ジョン」
    「てめこのクッソ……!」
    「えっ、ロナルド様? 本物?」
     シャボン玉がパチンとはじけた瞬間、ドラルクをシャボン液に漬け込んでやろうと腰を浮かせたロナルドへ明後日の方向から声がかかった。
     振り返ってみると、どうやら己のファンらしい女子高生がすぐ目の前に立ち、「うわマジイケメン顔面偏差値えぐ」と呟いている。
    「あっ、えっと、どうも……」
    「うっわ声も良! 私めっちゃファンです! 生ロナルド様に会えるなんてウレシ~! 写真撮っていいですか?」
    「えッ? あっ、えっと……」
     矢次早にしゃべる女子高生にロナルドは一歩下がって周囲を見回した。日頃の退治で撮影を求められることなどないので、対処に困ったのである。
     店の中って写真良いんだっけ、とさらに後退すると、背後の壁にかかとがぶつかった。振り返った先のポスターに描かれたカメラマークと赤いバッテン。
    「あ、ごめんなさい、ダメっぽいです」
    「なんだざんね~ん」
     ちっとも残念そうではない口ぶりで女子高生は去っていった。
     肩すかしを食らった気分のロナルドだったが、普段ほとんどかかわりのない年代にもファンがいるという実感にやる気が頭をもたげた。
     そうか、あんな若い子でもロナ戦読んでくれてるんだ。ずっとファンって言ってもらうためにも、次もちゃんとおもしろいものを書かなきゃな。
     静かな決意を心に灯したロナルドの耳に「ハイチーズ!」と聞きなれた声が飛び込んできたのはほんの数秒後だった。
    「ヤッタ~! ドラドラちゃんありがと~! ヌイッター上げていい?」
    「もちろんだとも! 畏怖畏怖しい感じでよろしくね」
    「ドラチャン、友達と一緒に毎週見てるよ~! またメイク特集もやってやって~!」
    「オッケ~!」
     なんだあのフランク野郎。
     ロナルドの心に灯ったばかりのホンワリとやわらかな炎は、ドラルクというガソリンを直に投入されて一気に燃え上がった。
     こちとら堅実に働いてる傍ら毎日頭悩ませながらロナ戦書いてんだわ。遊びじゃねえんだわ。過労で死にそうなのに断り切れなくてこんな企画までやっちゃってんだわ。それなのにこちらの苦労も何もかも、いとも簡単に飛び越えやがって。なにが「畏怖畏怖しい」だ「ドラチャン」だ、チャラチャラしやがって。
     全力の貧乏ゆすりを始めたロナルドは、たとえ自分が逆の立場だったとしても初対面の相手に「ハイチーズ」なんて気軽に自撮りできないことを棚に上げ、イライラとパソコンの角を叩いた。
     ロナルドがムカムカしている理由は他にもあった。
     ここは吸血鬼退治とは何のかかわりもない一般店舗。ギルドでもVRCでもロナルド自身の事務所でもない。来店客のほとんどがロナ戦の登場人物としてのロナルドしか知らず、今日の自分はロナ戦販促のためのスペシャルゲスト。
     つまり、ここではドラルクのことを殺せない。
     いかに相棒を組んでいるロナルドと言えど、何も知らない一般人の眼前でホイホイとドラルクを殺すことはできない。もちろん殺しは普通誰の前でも推奨はされないが、ことロナルドとドラルクの間においてはその限りでないのだ。寝ても覚めても殺し殺され、ロナルドの前でドラルクが原型を留めていられる時間など半分にも満たない。それが二人の日常であり、当たり前のようにやり取りされる習慣づいた生活の一部だった。
     しかしながら、世間一般の人間はそんな事実など欠片も知らない。ロナルド・ウォー戦記のみからロナルドとドラルクを知る者は、敏腕退治人であるロナルドと、強大な力を持ちながら享楽に身を委ねて人間と手を組んだドラルクというコンビのイメージしか持ち得ないのである。よって、本日この場でロナルドがおいそれとドラルクを殺して見せることは、己のファンに対し自ら自著の多大なるイメージ崩壊をもたらすことになる。そのような顛末は決してロナルドも望んでいない。
     繰り返すが、ここは断じてギルドでもロナルド吸血鬼退治事務所でもない。この場でのドラルク殺害は、現状ロナルドにとって一番の禁じ手となっていた。
    「ロ・ナ・ル・ド・先・生~~」
     もちろんこの状況に気がつかないドラルクではない。
     享楽主義が行き過ぎて常日頃から身を滅ぼしているドラルクは、それでも飽きずにめげずに今夜の玩具にちょっかいをかけた。
    「ずっと執筆してると首が疲れちゃうよねぇ。そこに良いものがあったから、ぜひ使ってくれたまえよ」
     そう言ってロナルドの首に専用クッションを装着してきた。
     U字型をした、長時間フライトのお供としてよくチョイスされるやつである。それはいい。それなりの弾力とクッションの支えで姿勢も随分楽になる。
     けれど、そのデザインは真っ赤なU字クッションに鮭を模した後頭部クッションをくっつけた形状である。さながら、鮭の腹から取り出した筋子を首に巻き付けた異常性癖者。
     ロナルドのこめかみに青筋がうっすら浮いた。
     しかしこの程度序の口である。
    「前髪ジャマじゃない? いつものヘアバンド持ってきてないなら、これ使いなよ」と髪留めにつけられたのは霜降り肉の飾りがついたヘアピン。パッチン、と軽快な音で前髪をきっちりセンター分けにされた。
     ドラルクのイタズラはまだまだこんなもんじゃない。
     続いて、「おいしいコーヒーでホッと一息」と置かれたマグは女体の臀部型をしており、捲れ上がったスタートから縞模様の下着がのぞいている。ちょっと魔が差したこともあり、下から見上げようとマグを掲げたロナルドは通りがかりの大学生らしき女性に二度見された。
    「脳を使うと糖分欲しくなるよね」と口に突っ込まれたグミは普通の味だったのに、そこに促されるまま先ほどのコーヒーを飲むと思わず吐き出すくらいに不味かった。これが外だったらまず間違いなく毒霧の要領で吹き出していた、もちろんドラルクに向けて。
     余計な茶々はとめどなく続くのに原稿は一文字も進んでいない。このペースで閉店までに一本など土台無理な話である。
     しかしロナルドは担当がこわい。そしてドラルクが心底ウザい。
     極めつけとばかりに、「ティッシュケースも売ってたよ。そのグミ、好きじゃないならティッシュに出しなよ」とデスクに置かれた赤と白のシマシマのアレを見た瞬間、ロナルドの堪忍袋は、切れまくった尾を蠱毒のように戦わせた結果生み出された邪悪な何かを顕現させた。逆襲のロナルド誕生である。つうかロナ戦は全年齢なんだからTENUGAはダメだろクソが!!

    「ドラ公」
    「おっ、どうしたのかなロナルド先生。もしや相当お疲れでは? 癒しのおっぱいマウスパッドをご所望……か、な……」
     嬉々として振り返ったドラルクは、そこでニッコリと微笑んでいるロナルドの顔を見た瞬間砂になった。
     その瞬間を逃さず、ロナルドは空になった女体のおしりマグでドラルクの塵を掬う。
    「なあ、俺、常々お前には世話になってると思ってたんだよ」
    「へ、へぇ……それは大変良い心がけだね、大変、すばらしい……」
    「だよなあ」
     マグの中で再生できず蠢いているドラルクに向け、ロナルドはさらに笑みを深くした。
    「今日の企画な、ロナ戦の軽めのスピンオフを書かなきゃいけなくてさ、俺それはもうずっとテーマに悩んでたんだけど……。たった今、閃いたんだよ」
    「そ、それはなにより……、じゃあ私はおジャマにならないように店内の品出しでも……」
    「何言ってんだよ」
    「ヒィッ」
     砂入りマグに霜降り肉型ヘアピンを突っ込んでザラザラかき混ぜたロナルドは、心底楽しそうに「お前がいないと始まらないだろ」と宣った。

    「テーマは『吸血鬼ドラルク~その博愛と献身~』だ。俺は、日頃ジョンと俺のために尽くしてくれているお前をたたえるエッセイを書くぜ」
    「……なんて?」
    「『第一章・目覚め』」
     ドラルクの問いかけを華麗にスルーしたロナルドは、今まさに書き出した文章を一言一句余さず音読し始めた。
    「ロ、ロナルドく、」
    「『ドラルクの夜は早い。同居する俺と使い魔のジョンの衣食住を整えるためである。ドラルクは恐ろしい力を秘めた凶悪な吸血鬼と思われがちだが、実のところ大変な慈愛をその薄い身体に秘めている。口では自身を人間に害為す存在と卑下しているが、本来その心根は非常に優しく、デリケートで慎ましく、慈悲深くしなやかで、』」
    「イ~~~ッッ! かゆいかゆい何だその嘘八百物語は!? 今すぐ止めろ、そしてデータを消して書き直せ!!」
    「黙れ俺はこれを第十二章まで書く」
    「おいバカやめろ正気に戻れ」
    「第十一章では致命傷を負った俺を庇ったお前が『君のためならこの心臓、差し出す覚悟はできている』と言う」
    「本当にやめろドラマチックな展開やめろ後に引けなくなるぞ」
     ドラルクの必死の訴えにもロナルドは耳を貸さない。
    「最終章でお前は自分の本当の気持ちを自覚する。悠久の時を生きる吸血鬼である自分が、もう取り返しのつかないほどにこの家族を『愛している』ことに……!」
    「ごめんもう本当やめてください私が悪かったです頼むからお願いロナルドくん、」
    「何言ってんだよドラルク、」
     未だ霜降り肉ヘアピンでマグに円を描き続けるロナルドの目は据わっていた。
    「これは、お前が始めた物語だろ」
    「ウエーーーーン!!」

     その日ロナルドの執筆スピードは過去最高を記録し、店舗閉店の十分前までに最終章とエピローグ、外伝~壮大なるヒトとヴァンパイアの生きた証~までも校了した。
     閉店後に再度現れた担当フクマは、その全てをしっかりと読み切り、その場で「ボツです」と言い放って帰って行った。時刻は草木も眠る丑三つ時。「いっそ永遠に眠りたい」と、めずらしくロナルド・ドラルク両者の心がシンクロした瞬間だった。








    巨大な水槽も、私のリビング

    「すみません、夜間清掃のスタッフが全員休みなんて初めてで、恥を忍んで退治人ギルドさんにお願いする事態になってしまい……」
    「いえ、夜間となると吸血鬼も出やすい時間ですし、うちも今日は人手が足りてましたので」
    「ワ〜イ水族館! アクリル板があるから水に落ちる心配もナシ!」
    「ヌ〜イ!」
    「おい勝手にどっか行くな迷惑だろうが! それにてめえもやるんだよ掃除!」
    「エ〜ロナルドくんのお仕事でしょ?」
    「オマエうちの備品! オレの言うことキク!」
    「どうしたカタコトゴリラ、水槽を蹴破りたい衝動が暴れ出しそうなのか?」
    「てめえを蹴破ってやるわ」
    「スナァーーー!」
    「ヌァーーー!」
     照明を絞ったスタッフ通路で塵にされながら、それでも機嫌よくドラルクは館長の説明を聞いていた。
     夜間営業中の館内は人が少なく、水槽のロマンチックなライトアップや静かな音楽が作り出す落ち着いた雰囲気は非常に好ましいとドラルクは思った。
     海や川にはなるべく近寄りたくないが、かといって嫌いかというとそうではない。吸血鬼の本能が避けたがるだけで、そこに住む生き物もその生態も大変興味深いと感じているし、陸でしか息ができない人間が無理をしてでもその目で水中を確かめたいと思う気持ちも理解ができる。
     吸血鬼はどうだろうか。ドラルクはあっという間に死んでしまうから試してみることはできないが、父や規格外の真祖なら水の中だろうと問題なく過ごせそうだ。

    「ロナルドさん方にはこちらのショー用の巨大水槽の掃除をお願いしたく……」
    「これはまた大きいですね」
    「アクリル板ないじゃん!」
     案内された場所は施設屈指の人気イベント、イルカとオタリア、ペンギンなどがショーを行う水槽だった。
     正面ステージに併設された水槽はドラルクがのぞき込むのも恐ろしいほどの深度を持っており、むき出しのだだっ広い水面がドラルクを挑発している。
    「えーっと、私ここはちょっと……」
    「ロナルドさんは水槽の内側部分から清掃をお願いします。ウェットスーツとボンベはこちらにご用意がございます。ドラルクさんは観客席とステージ裏を……」
    「あっ、はい……」
     館長は案外押しが強かった。断りを入れようとするドラルクに二の句を次がせない。
     まあいいか、とドラルクは心中でため息を吐いた。
     うっかり落ちたりしないという保証はできないが、水槽の掃除はロナルドが行うらしい。それならドラルクは水槽に近づかなければ良いだけだ。それに、ずらりと並んだ観客席をきれいに磨くとくれば、なかなかやりがいがありそうだ。
    「ではよろしくお願いします」
    「良いでしょう! このドラルクのお掃除テクニックをとくとお見せいたしましょう!」
    「はしゃぐんじゃねえよ」
    「ヌンヌン!」
     館長は他にも持ち場があるようで行ってしまった。
     やるとなれば俄然張り切るのが吸血鬼である。元々の掃除好きもあり、ドラルクは胸を高鳴らせてバケツとブラシを手に取った。使い魔のジョンが揃いのセットを持って隣に並ぶのを待って……。
    「ジョン? どうしたの?」
    「ニュアン!!」
    「……えっと、ジョンさん?」
     使い魔の挙動がおかしいと確認すると、なんとそこにいたのはジョンではなかった。
     いや、ジョンには間違いないのだろう。問題は外見だ。背丈はそう変わらないが、そこに立っているのはどう見てもマジロではない。フワフワとした茶色みがかった体毛が全身を覆っている。みるからにやわらかそうな身体に見慣れた甲羅は影も形もない。
     つぶらな瞳、大きなシッポ、特徴だけならアルマジロに近しい部分も多いがこれは──。
    「ラッコ?」
    「ニュニュ〜ン!」
     涙を流してヨタヨタとドラルクへと歩み寄ってくる姿は、気配からしても間違いなくジョンだ。ていうかラッコって歩けるんだね。
    「えっと……、ラッコになってもかわいいね、ジョン……?」
    「ニュウ……」
    「いやいや違うだろう! なんでラッコ!? どうしたんだいったい、」
    「なんだかんだと聞かれたら!」
    「うおっ、ヤバいぞ嫌な予感がめちゃくちゃする!」
     唐突な外野の声にドラルクはビクリと飛び跳ねて一度死んだ。そして周囲を見渡す。
     気づけばショー用のステージをスポットライトが照らしていた。そのド真ん中には見慣れない人影が──この流れだと確実に吸血鬼だろう。それも相当面倒な類の。
    「……で? すみませんが、そちらさんの性癖を教えてもらっても?」
     これから掃除だと腕まくりをしていたドラルクは、期待していませんという気持ちを隠しもせずに問いかけた。新横浜というのはこれだからいけない。
    「我が名は『吸血鬼・水族館の哺乳類大好き』!!」
    「『吸血鬼・水族館の哺乳類大好き』!?」
     やっぱりロクな吸血鬼じゃなかった。
     性癖というほどは人聞き悪くない趣味だが、それで勝手に他人を水棲哺乳類化してるんだから、やっぱりどうしようもないやつに間違いないだろう。
    「ニュ、ニュウ、ニュ〜〜!」
    「そ、そうだぞ! うちのかわいいマジロを元に戻すんだ! ラッコのままでも十分かわいいとかそんなことは全然、いやちょっとも思ってないんだからな!」
    「フッフッフ、そこの同胞よ、これを見てもまだそんな偉そうな口がきけるかな!?」
    「なっ、なに〜〜〜〜〜!?」
     ザザン……ザザン……。
     バッシャアン!!
    「ドッ、どどドラ公……ッ!! どうしよう俺……っ、」
    「は、えっ、ハアッ? まさか、そこにいるのは……!」

     万が一に備えて距離を取っていた巨大水槽がおもむろに大きく波打ち、次の瞬間、突如そこから大型の海獣が躍り出た。
     ドラルクの身長をゆうに三倍は超える巨躯が月に向かって伸び上がる。
     その巨体は水槽から完全に離れ、水滴を散らしながら月明かりをも覆い隠し、ゆっくりとこちらを向いた。目が、合った。

     そして重力にしたがい、飛び出した時とは真逆の騒々しさを伴って水槽に落ちた。
     暴れ出した飛沫が観客席全面を襲う。どこもかしこも例外なく水浸し。避けようもなく、吸血鬼ドラルクもラッコのジョンも同様の有り様となった。
     あまりのことに再度死に、海水とともに水槽の手前まで流れ落ちたドラルクの目の前で、ハタ迷惑野郎こと特殊性癖吸血鬼がドヤ顔で言った。
    「理解したようだな! ずばりヌーパラに足りないのはシャチ! 私は水族館の哺乳類の中でも特にシャチが大好き!」
    「シャチのいる水族館に自分で行け」
    「それじゃ能力がもったいないでしょう。宝の持ち腐れって言葉知りません?」
    「少なくともこういう場面で使う言葉ではない。断じて」
     磯臭くなったドラルクが呆れ顔で言うも当人は気にする様子もない。「いいな〜!やっぱヌーパラにはシャチだよな〜!」とかなんとか自分の世界に浸って写真を撮りまくっている。

    「ヨシ満足しました! では私はこれで!」
    「ちょっと待て、どうすんだこの状況!」
     踵を返そうとした吸血鬼の肩を勢いよく掴み、ドラルクは反作用でまたしても死んだ。
    「夜明けまでには戻りますので、同胞は当初の予定通り掃除でもして待ってたらいいんじゃないですかね。観客席ずぶ濡れだし」
    「誰のせいだ、誰の」
     逃げ足ばかり早いふざけた吸血鬼の背中を見送り、ドラルクは吸対とVRCへの連絡を取り急ぎ済ませた。水族館からそう離れないうちに捕まることを願うばかりだ。クソ野郎が。

    「えっ、このラッコもしかしてジョン!? うわーうわーかわいい!!」
    「ニュア〜!」
    「こっちはこっちで、なんか楽しそうだし……」
     これじゃ今夜は自分だけが損な役回りじゃないか。
     雑巾を手にしたドラルクはこの予想外の惨状に、今宵一番のため息を吐いた。
     仕方ない、あちらは放置して今は掃除を済ませよう。普段ならば自分ばかりが働くなんて役割はそうそう受けたくないけれど、幸い彼らも多少姿が変わった程度で他人を脅かすような危険はないわけだし。
    「絶対に水面から飛び出ないように」とロナルドには言い含めて、ドラルクは座席の清掃に取りかかった。自分の巨躯を理解しているのかいないのか、ロナルドは大人しく水槽の中で行ったり来たりを繰り返している。

     ステージの明かりは知らぬ間に落ちていた。タイマー式だったのかもしれない。
     月が水面にうつり込み、穏やかな波に揺られた自然のスポットライトが円形に反射している。そこからロナルドが白黒の鼻先をのぞかせる。プカプカと浮かぶラッコのジョンをくすぐり、押し上げて背に乗せ、水槽を周回している。
     拭き続けること二千を数えた吸血鬼は、その様子を観客席の最上段から見つめていた。
     誰のためでもない、他のどこにもない今夜だけの光景に目を離しがたかった。

     ふとドラルクは、自分がキッチンのカウンター越しに見るリビングの景色を思い浮かべた。
     間近で聴けば騒々しい生活音も、ほんの少し距離を置くだけで途端に耳に心地よい音楽に変わる。会話だったり、寝息だったり、日毎に違うBGMの傍らで料理をすることはドラルクの生活の一部になっていた。
     シャチとラッコという突拍子もない組み合わせの一人と一匹は、巨大な水槽の中に場所を変え、それでも普段通り夜を過ごしている。今夜ここに、不思議なほどに違和感のない夜が存在している。静かに流れていく水のような時間を前に、ドラルクの夜も朝に向かっていく。

     序盤にポンチが出たとは思えないほどに、それはそれは穏やかな夜だった。
     有限の世界から一人分の座席を借りて、夜明けの足音が聞こえるまでのつかの間、ドラルクは目を閉じて、水槽が奏でる会話をしばし聴いていた。








    赤いセロリを掲げた吸血鬼

     その日ロナルドは、じくじくと、湧き出すような感覚を覚えていた。
     頭蓋が妙に窮屈に思えて、押し込められたように頭部が収縮する心地がした。夜風に吹き晒した頭が芯まですっかり冷えている。手足の感覚が遠いことに気がついたので無理やりに歩幅を広げ、ロナルドは明かりのついたビルに早足で向かった。
     扉の内側はよく知った空気で満ちていた。力が抜けていくのにまかせてソファに座り込む。いつもと同じ座面なのに妙に落ち着かない。横になるとますます感覚がおかしい。
     とにかく頭を温めたい、とロナルドは思った。
     片耳を背もたれに押し付けて、そこにいたマジロをちょっと拝借して頭に乗せた。ふわふわの腹毛が温かい空気をたっぷり含んでいる。頭のてっぺんは手近な吸血鬼の脚に押し付けた。これにより、ロナルドの周囲全方位の囲い込みが完了する。
    「なにしてるの」
     かけられた言葉に返事をせず、ソファからはみ出た手足を折りたたんで抱え込んだ。しかしどうにも安定しない。手探りで、背もたれにかけられたデカくて黒い布を引き込みその身体に乗せた。いくらかは違うが、まだ寒い。
     これ以上どうしたものかとロナルドはしばし考えた。
     エアコンの温度を上げるには、いったんここから起きなくてはならない。せっかく包まったのにまたやり直しだ。まずそんな気力もない。ドラルクかジョンに頼むにしても、彼らが離れてしまった箇所はひどく寒々しくロナルドを凍えさせるだろう。想像だけでも耐えられない、とロナルドはその未来を拒否した。かくなる上は自分で自ら運動し、振動熱を生み出して温まるべきか。
     そこまで考えたところで、ロナルドはもうとっくにガタガタ震えていることに気がついた。
     氷のように冷たい指がロナルドの額を掠めて、思わず口から「ひゃわ」と音が出た。
    「熱があるじゃないか、めずらしい」
     そう言われてやっと、ロナルドは自分が風邪をひいていることに気がついた。

     微熱というものは厄介で、実は一番タチが悪い。
     発熱しているのは間違いないが、熱冷ましが飲めるのは三十八度五分からだ。多少の鼻詰まりとのどの痛みは感じても、飲み食いに困るほどでもない。いっそさっさと寝たらいいのだけれど、体調不良と言うにはちょっと余力があるから、無駄にスマホなんか見て寝つきが悪くなる。何をするにも「なんかだるい」の状態のまま、しばらく良くも悪くもならない。
     立てる、歩ける、しゃべれる。そのどれも、進んではやりたくないだけで。中途半端で非常に歯がゆいが、頭が働かず口数も少なくボーッとしているから周りが気を遣わざるを得なくなる。かといって病院にかかるのはちょっと遠慮の気持ちが出る。もっと絶望的に具合が悪い人を優先してほしいと思ってしまう。
    「つまり君は今すぐ病院か予備室に行ってちゃんと布団を敷いて寝るべき」
     ここまで全て同居吸血鬼ドラルクの弁だ。
     ロナルドはドラルクの言葉通り、働かない頭をフワフワさせたまま、ボケッと口を開けてただ聞いていた。
    「よく知ってんな、ビョーキにもならねえのに」
    「何年君と住んでると思ってんだ。統計データだよ、とある二十代男性退治人の」
    「へえー」
     よくわかんねえなと思うと、「よく分からないと思っただろう」とドラルクに言い当てられる。
    「ロナルドくん、体調悪いとき「わかった」と「よくわかんねえ」しか言わないもの」
     そりゃ随分わかりやすいこった。いつか見せてほしいぜ、そのデータ。
     そんなことを思いながらロナルドが目を閉じると、ドラルクもそれ以上話し続けるのを止めた。
     目下温まらない頭の中で考える。
     熱なんて、一年ぶりくらいかもしれない。もっと言えば、前の発熱は怪我をして縫った時だったから、病気由来の熱なんて本当に久しぶりな気がする。ちょっとアガる。思った瞬間すかさず「アガってんな、寝ろ」とドラルクが釘をさした。言葉通りのお見通し。エスパーになれば、と間抜けなことをロナルドが口に出して、またドラルクがたしなめる。
     ロナルドがついにウトウトとまどろみ出すまで、そのやり取りは続けられた。

     吸血鬼と使い魔が同居するようになってから、熱を出したのは何度目だろうか。
     毎度ドラルクに文句を言われ、いつもは主人最優先のジョンがいつもよりロナルドを甘やかして、その愛らしさで全力で癒してくれる。そして……。
     ロナルドの記憶は、この辺りでいつもあいまいになっていた。
     えっと、なんか食べたんだったかな。おかゆとか? うどんだったかも? 寝て起きたらゼリーかアイスが用意されてたり、したんだっけか? いや、それって普段とおんなじか?
     病床に伏すこと自体は何ら初めてなどではないのに。そういう夜は、確かに何度もあったはずなのに、なぜだか毎回さっぱり忘れている。
     それほどまでに具合が悪いのだろうか。記憶も残らないほどの高熱なんて、それこそ縁がないはずだが。
    「急がなきゃ、はやく、急がなきゃったら」
     ロナルドがパッと顔を上げると、目の前をジョンが横切ったところだった。
     なんて素早さ。ピョンピョン跳ねてウサギのよう。さすが競マの覇者。世界を統べるマジロ。素敵な衣装に着替えて、時計まで持っていったいどこへ。
     やたら手足が軽くて動きやすいと思ったら、ロナルドはスカートを履いていた。
     水色の生地。白いエプロン。フリフリがかわいいけれど、普通に女の子が着た方が似合いそう。でも走りやすい。風を切るみたいに楽だ。へへ。
     ウサギのジョンを追いかけてロナルドは事務所を飛び出した。そして、ドアを開けた先で穴の中にまっさかさまに落ちた。
    「おや迷子かな? お茶はいかが? 君、誕生日は?」
    「ヌヌッヌリー」
     ウサギマジロが引いた椅子に遠慮がちにかける。落ちたと思ったらもう茶席だなんて、展開が穴だらけもいいところだとロナルドは思う。宴席の同伴は紫色のアポカリプスともキリンともとれる生物たち。テーブルの上にはカップにクッキー、小瓶にパイプと勢ぞろい。
     短気なロナルドは、もしも自分が監督ならこの映画は台本を引き裂いたのち世界から抹消する、と拳を握りしめた。何から何までお粗末だ。
     今にも強制終了できないものかとタイミングを見計らっていると、「君もせわしないねえ。ほら、もうお迎えだよ」と派手な帽子の相席人が告げた。
     向こうから蜘蛛とも蟹ともつかないおぞましい形状をした生物が、ペンキの刷毛を持って走って(走って?)来ていた。その後ろから、どこかの谷の住人のようなフォルムの生物がもう一体。こちらはゴルフクラブを持っている。
    「さあ、行った行った」
     弾かれたように立ち上がり、ふと一滴も注がれる間もなかったティーカップを振り返ると、「最初から空っぽだから安心しておくれ」とネズミ(コウモリ?)入りのポットを見せられた。ロナルド以外の全てにとって予定調和の展開に、ロナルドはいささか釈然としない。小さなコウモリは、いくらかかわいかった。
    「さあ、さあ、首をはねておしまい」
     偉そうなご身分の吸血鬼が声を張り上げている。そちらに関心が持てなかったので、ロナルドはスマホハンガーみたいな生物が植栽を赤く染めるのを見つめていた。あっちこっちとペンキが散って、ひとつ残らず染めていく。バラも、カリフラワーも、しし唐も。
    「いけない、塗り残しだ」
     いつの間にか足元にまでやってきた不安を催す輪郭を持った生物が、ポケットから取り出した物体を取り落とした。ダメだ、これはまだ緑色の──。

    「はい、お目覚めですか、うなされルドくん」
    「うぅ……、セロリはやめろ……」
    「君の悪夢ってワンパターンだよね」
     蛍光灯の明かりは人工的で、森の中とはまるで違う。それはそうだ。第一この吸血鬼が昼間の森にいられるわけもない。促されるままに持ったコップに口をつけてみると、無味のはずの水がたまらなく美味いように感じられた。ロナルドはすかさず二杯目を要求して、もしやなにか入れたのかと疑った。食べた覚えのないクッキーの後味が妙にじゃりじゃりと口に残るように思うのだ。
    「君が噛んだのは薬ね」
    「はあ?」
     道理でまずいわけだ。そもそも寝ている人間に薬なんか飲ませてはいけない。
    「死にそうな顔で口パクパクさせてたから、なにか入れてみたくなっちゃって」
     熱も上がってたから、ついでに。と悪びれなく言う吸血鬼に、ロナルドは脱力した。
    せめてそっちが目的であれよ、と声に出して暴れる元気はまだなかった。
     変な夢と目覚めの悪さで、ただでさえ落ちている体力がさらに削られたように思う。薬は、まあ助かるとして。ローテーブルに用意された小鍋も、感謝するとして。あたためを命じていたはずなのに勝手に頭部から離脱したことは許さないが。
    「ヌヌヌ ヌンヌヌ ヌヌヌ~」
    「わぁ~! ありがとうジョン! 魔法使いかな? かわいいね~」
     ジョンがロナルドの前に立ち、フワッとした衣装をひるがえした。最強マジロの魔法にかけられて、風邪なんて今にも治りそうだ。もしかしたらもう治ったかもしれない。
    「で、お前のそれは?」
    「マミーだよ。日本風に言えばミイラ男、あるいは包帯男だな。あれ、もしかしてハズレた?」
    「大ハズレだ、ド変態砂おじさん」
     はいダメお前のせいでまた風邪ひきました。せっかくジョンが治してくれたってのに。
     つーか人が体調悪いって時にクソすごろくやめろバカ。永遠にふりだしに戻れアホ。
    「アリスかー、惜しかったね」
    「ヌンヌン」
     時季外れの局所的ハロウィンたちは、ロナルドに拳を振るう余力がないことを承知でふざけているらしい。はしゃぐ一人と一玉に、そろそろ飯を食わせてくれと視線を送る。
    「どれ、アーンしてやろうか?」
    「いらんわ」
     自称真祖にして無敵の包帯コスプレおじさんはそもそも世話を焼くのが好きなので、本来ロナルドやジョンが黙っていても面倒を見ようと構ってくる。普段のロナルドはそう簡単にドラルクの世話になど甘んじないので、その手はほとんどジョンのものだが。
    大汗をかいたおかげか、寝る前よりもさっぱりしているような気がした。
     どうしようもないような夢を見たはずなのに、ロナルドは、もう何も思い出せなかった。寝起きに飛び込んできた情報のインパクトが強すぎたせいだ。ジョンはまだフローリングでクルクルと回っている。
     かわいい。かわいいけれど、目が回りそう。
     ロナルドの心配をよそに、そこにドラルクも加わって負けじとダンスを繰り広げ始めた。
     なんで? そういう発作? ロナルドには主従の意図が分からないので、奇妙な祭りを眺めながらおじやを口に運び続けた。
     そうこうしているうちに、ロナルドの脳裏にだんだんと過去の記憶がよみがえってきた。
     そうだ、こいつら、前にも俺をからかって変な格好で踊ってた。
     治ってからヒナイチに教えたら「風邪の時は変な夢を見るって言うもんな!」って信じてもらえなかったやつだ。
     霧が晴れるように、ロナルドの脳裏が過去の解像度をみるみる上げていく。
     ああそうだ、今ならハッキリ思い出せる。いつだったか、やっぱりおかしな夢を見て、そうしたら起きた後にも夢の続きみたいなドラルクとジョンが村の儀式よろしく練り歩いていた。その時は「元気になったら百遍殺す」と心中で呪いながら、ロナルドはごぼうを咥えさせられたのだった。次の日には全快したからすっかり忘れていたけれど、数少ない不調時は、思えば毎度こうだったかもしれない。

     人の体調不良をお着換えチャンスだと思っている同居人一号と二号はとうとう歌まで歌い出した。閉塞感のある自分の喉が今は悔しい。
    「なにがそんなに楽しいんだよ、人の不幸を喜びやがって……」
     ロナルドは包帯を巻きつけた背中に力なく愚痴を飛ばした。
     ドラルクの身体は骨が浮くほど痩せていて、今はかさましのベストも肩パッドも着けていない。ミイラというより、ただの不健康男だ。その手の衣装は体系的コンプレックスを悪目立ちさせやしないのか。
     思ってから、考えるだけムダだろうとロナルドは思考を止める。
     ドラルクが自分のガリガリボディすら「完璧で世界一かわいい」と心から思っていることは知っている。ロナルドが納得いかないのは、なんでわざわざ自分が一緒に着替えられない時に限って、そう愉快そうなことをするのかという一点のみだ。
    「ヌヌヌヌヌン、ヌッショヌ ヌヌヌヌヌヌ ヌヌンヌ」
    「別にいいけど。風邪ひいた俺が悪いんだし」
    「そうだねえ」
     てめえは殺す。体調が悪くてもロナルドは相変わらず短気だった。

     食べて腹がふくれると、また眠気がロナルドを襲った。
     寝ちまおうか。どうせ起きてたって今日は一行も書けそうにないし。
    「やあ、お眠かな。子守唄いる?」
    「いらんっつの」
    「オーおやすみベイベーおつきさまシンガソンー」
    「散れ」
     目を覚ます前より幾分楽になった左手でロナルドは大地を平らにならし目を閉じた。
     こう聴くと店長って結構歌うまかったんだな。いや比較対象があまりにもあんまりか。

    「……ンー、まあ今日のところはこんなものかな、ジョンさん?」
    「ヌン!」
     温め係にロナルドの隣に戻ってきた一人と一玉はやたら満足そうに笑う。
     笑いながら小さく揺れて、そのせいでロナルドの身体もゆらゆら揺れた。頭が痛かったのはもうだいぶ落ち着いていた。
     多分、もう変な夢は見ない。落ちていく意識の中ロナルドは、今夜のこともまた全部忘れてしまうような気がしていた。








    ゴリラの口に飛び込んで!

    「二百年も生きてると自分には縁がないと思っていたことも起きたりするもんなんだねえ。まさか、この私がアイドルとは」
    「どこにどういう需要を見出してるんだよガリガリおじさんだぞ本物の『ちょっとした』とか『痩せ見え』とかのレベルじゃない正真正銘の骨と皮おじさんなんだぞ」
    「やたら当て擦るな、悪意が見えるぞ」
    「純粋に心配してるんだっつーの、見る人たちの目を」
    「失礼ここに極まれり」
     煌びやかな衣装はあつらえたようにその細身にピタリと沿った。隣に並ぶことを強制されたロナルドには、反して鍛え上げた筋肉が強調されたデザイン。二者二様の対極さを全面に押し出しながらも統一感のあるそれは、非常にセンスの良いできばえだった。
     着る者がドラルクとロナルドでさえなければ。
    「さすがに度が過ぎてると思うんだよな、こんなんもう仕事じゃないだろ」
    「君もそう思うか、奇遇だな」

     地域別退治人マッチなる催しは数年前から激化の一途を辿っていた。
     神奈川県内のみならず、東京や千葉、埼玉と近隣よりの参加ギルドが増えに増え、それにつれて対戦テーマも過激さを増していく。当初はご当地ギルドカレンダーの販売数を競うようなかわいらしい競走だったものが、新横浜退治人ギルドのぶっちぎり優勝を良く思わない各地区のギルドたちが次々と種目のハードルを上げていったのだ。(新横浜退治人ギルドカレンダーの売れ行きが爆裂に良かった理由の一つに『彼らは全裸に慣れている』というものがある。のちに肌色カレンダーと呼ばれプレミアがついた逸品だ)
     体力自慢の退治人たちによるヌスケや、大型下等吸血鬼の退治という退治人らしい種目も一度は候補に上がったが、実力で新横ギルドに勝るのは難しいという理由で早々に却下されていた。他地区の退治人にプライドというものは存在していなかった。
     いかにして新横ギルドを引きずり下ろすか。
     初めの目的を大幅に逸脱した議論に苦言を呈するものはいなかった。
    「それで、なにがどうしてアイドル。……」
    「まあ私は何も知らないけどおもしろそうだから参加してみた」
    「死ね」
    「スナァ」
    「今年のバトルはこれだ!」と叩きつけられた題目に「バトル?」と首を傾げつつ受け取った挑戦状。そこに記された『アイドル対決』の文字。これをどう読み解けば地域別ギルドの親交大会と言えるのか。しかし全地区総出で決まったものは覆すことができない。
     余談ではあるが、ギルドマスター総会には当然新横浜ギルドマスターも参加している。
     ただし彼の主張は一貫して「観覧費などの収益が見込めればOKです」のみ。つまり総会内で自らのギルドを叩き落とそうと試行錯誤する他地区のギルドマスターたちを高みの見物で微笑んでいたわけである。そうして、決まった題目を持ち帰り「今年の種目が決まりました」とすっとぼけて大会要項を掲示する。全ては食えない男ギルドマスターの手のひらの上にあったが、新横ギルドメンバーにおいては一切預かり知らぬところであった。
     そして今大会にはロナルドとドラルクがノミネートされた。選考におけるありとあらゆる騒動についてはこの場では割愛させていただく。
    「それで、アイドル対決って何をすればいいの? 歌って踊る感じ?」
    「お前は歌うな」
    「えっ」
     ロナルドが間髪入れず返事をした。なんならドラルクの語尾に被せる勢いで言い放った。
    「いやでもアイドルって他にすること、」
    「お前は絶対に歌うな」
    「えっ」
    「ヌンチ」
    「ジョン? 私のジョン?」
     ドラルクがロナルドとジョンの顔を交互に見るが、一人と一玉は遠くを見つめ聞こえないフリをする。この問答は大会前日まで続けられ、結局ステージで何を披露するのかという肝心の部分をまったく擦り合わせられないまま、ロナルドとドラルクはついに本番を迎えてしまった。
    「で、どうするんだ。君らのせいで今日やること何にも決まってないぞ」
    「あー……」
     メドキが用意した衣装は他地区のアイドルたち(?)を見ても郡を抜く一級品だ。
     服飾の持つ見た目への影響力を身に染みて知っているドラルクは、当然その仕事ぶりに恥じないステージにしたいと考えた。
    「一発芸なんてタイプの衣装じゃないし、そもそもそういう路線のアイドルは稀少すぎるだろうな。あるいはバンドという手も……」
    「一回も合わせてないのにバンドなんかできるわけないだろ」
    「誰のせいだと思っとるんだ」
     具体的な打開策が出ないうちにとうとう新横ギルドの順番が来てしまった。
     一つ前で人気アイドルグループの楽曲を完コピした他地区のギルドが勝ちを確信した目で二人の横を通って控え室に帰っていく。もう後がない。用意されたマイクを握りしめ、ぶっつけ本番で階段を登る二人。
     無数の目が集中する中、まずはあいさつをと息を吸い込んだ瞬間、会場の照明が暗転した。
    「ハーッハッハッハ! お集りの紳士淑女の皆々様こんばんは! 我こそは『吸血鬼・アイドルの転落人生大好き』である!!」
    「「ダメなやつだ〜〜〜〜!!」」
     会場中に響き渡る超ド級のクソ性癖にロナルドとドラルクの渾身の一声がマイクを通して叫ばれた。
    「いやダメだろ心の中でどう思うかは勝手だけどそんなこと衆人環視の中で叫んじゃダメだろ周りをプレイに巻き込むな!」
    「そうだぞ同胞よ恥を知れ! しかもそれをこの場で叫んだということは相当な悪意を……、ハッ、まさか……!」
    「ハッハッハ、今さら気づいてももう遅い! そのステージ上は最早我が術中! そこの退治人と竜の同胞は我が『アイドル転落人生ビーム』を浴びてしまっている!」
    「最っ悪のネーミングだなてめえのビーム」
    「今すぐ捕まって何か大変な罵声を浴びろ各所から」
    「よく囀るアイドルたちよのぉ! 残念ながら、君たちは今から己の人生を転落させるような秘密を暴露してしまうのだ!」
    「……具体的には?」
    「このビームを浴びた者が口にするのは、誰にも言えない所帯染みたどうしようもないちっぽけな日常だ! 美しくなく、おもしろくもなく、キラキラしてもいない単なる人間としての一面をファンの前に晒し、彼らの熱を自ら覚まさせてしまうのだ!」
    「ウゲーー地味に性格が悪い」
    「そうして一人また一人とファンが減り、つまらない日常を送っていることに自分でも気づいたアイドルはやさぐれ、二度と輝かしい笑顔でステージ上に上がれなくなる! 私はこれを見るのが三度の飯より好きなんだ!!」
    「出禁になれーーーー!!」
     えげつない性癖をつらつらと語った変態吸血鬼は飛びかかったロナルドの鉄拳により沈められ、会場には沈黙が落ちた。問題即解決。さすが新横ギルドのエース。
     さて、ここからである。
     流れ的には敵性吸血鬼を退治したロナルドが会場内に安全を呼びかけ、待機を促す場面である。
     しかしロナルドは今『アイドル転落人生ビーム』を浴びている。この状態でマイクを握れば、今後の人生に関わる恐れがある。
     ロナルドはアイドルではないが、退治人であり作家だ。どちらも人気商売の側面があり、ファンに離れられることは進退を危うくさせることと同義だった。
    「ロナルドくん……、大丈夫……?」
     日頃の変態吸血鬼とは比べ物にならないレベルの能力を持った相手に、さしものドラルクもドン引きしており、常になくロナルドを気遣うような発言まで出た。ドラルクは例によって催眠の類は効いていない。
    「アレだったら無理にしゃべらなくても……、」
    「……する」
    「え?」
    「事務所のビルに明かりがついてると、安心する」
     シンと静まり返った会場にロナルドの言葉が響いた。
     思いがけない発言に、すぐ隣に立っているドラルクも目を丸くして二の句が告げない。
    「俺、怖いの、本当にダメで」
    「あの、ロナルドくん? えっと、みんな聞いてるから……」
     ボソボソと話し続けるロナルドを黙らせようとドラルクが遮ろうとするが、ロナルドの告白は止まらない。
    「一人で事務所立ち上げた時、毎日帰るの、こわかった。誰もいない、暗い事務所がこわくて、でもそこが俺の事務所だから帰らなきゃいけなくて」 
     しゃべっているロナルド本人は顔を真っ赤にしている。所帯染みていて、どうしようもない発言をしている自覚のある顔だった。
     どうやらこの催眠は一度話し出すと止まれなくなる副作用みたいなものもあるらしい。
    「だから今、同じ家に住んでるやつがいて、うれしい。ジョンと、メビヤツと、キンデメと、死のゲームと、……ドラルク」
     ロナルドはとうとうしゃがみ込んだ。
     その様子はロナルド・ウォー戦記の中で勇ましく敵性吸血鬼を倒す姿とはかけ離れたものだった。

    「飯が、毎日うまい。揚げたての唐揚げが食べられてうれしい」
     せめてマイクを置いたらいいのに。
     平素なら頭の回るドラルクも、自分がそのマイクを奪い取れば良いという簡単な発想が、この瞬間は思いつかなかった。
    「寝る前に、ジョンとテレビ観るのが楽しい。金曜日は映画観て、ポップコーン食べるのが一番の楽しみ」
     暗転していた照明が復旧する。
     ステージ上で情けなく言葉を紡ぐちっぽけな男が何千何万という観客の注目を集めている。
    「キンデメは金魚のくせに俺より頭がいい。頼りになる」
     魚に人生相談をする退治人のなんとカッコ悪いことか。
     ロナルドは続ける。
    「ドラルクが調子に乗ってる時、死のゲームに相談すると仕返しを一緒に考えてくれたり」
    「おい、それ私知らないやつだぞ」
    「夜中、目が覚めるとき、ソファの横にある棺桶見て、安心してる」
    「……そう」
     ドラルクが小さく返事をした。マイクを通さないそれは、きっとロナルドにしか聞こえなかった。
    「あと、」
    「おおっとここでタイムアップ! 残念ながら新横ギルドの持ち時間は終了となります!いや〜〜皆さんいかがでしたか!? 驚きのパフォーマンスを見せてくれた新横ギルドの二人に盛大な拍手をお願いします!」

     突如乱入した司会進行役のマスターの仕切りで会場中がハッと我に返り、一拍遅れて割れんばかりの拍手がアリーナ全体に轟いた。ステージはすでに空っぽだった。
     前回優勝チームである新横ギルドの出番が終われば、あとは結果発表を残すばかりである。
     しかし、優勝を高らかに告げられたチームのメンバーは誰一人ステージには上がらなかった。会場から全力で飛び出した二人を皮切りに、ギルド全員がそれを追いかけ、そのまま二次会へともつれ込んだからである。
     これ以降、各地区ギルド対抗大会は度を超えた種目を採用しなくなった。
     その理由を尋ねられると、どこのギルドも口を揃えて「新横にはかなわない」と笑ったという。
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