死ぬならこんな灰色の日がいい。繰り返し、繰り返し、寄せては消えていく波の音を聞いていた。
誰かが歌っていたかのような美しい青白い色じゃない。曇天をそのまま写したかのような灰色。吹き付ける海風は肌を刺すようで。吸い込む空気は潮の匂いが混じった不純物のように纏わり付いてくる。だというのにどこかカラカラと乾いていて、どこか不快で、どこか心地良かった。
しばらく遠い灰色の境界線をぼんやりと眺めていた南風原がぽつりと呟いた。「死ぬならこんな日がいいね」と。それには何も答えずに、彼と同じ方向を見た。どんよりとした雲が広がっている。やけに、空がいつも見るよりは狭い気がした。生きる予定は何もないくせに、こうやって死ぬ予定は決まっているのだ。可笑しな関係だ。
そっと彼の手を取った。それを別段特に拒否することもなく、彼はじっと自分を見つめていた。どこまでも灰色が広がった視界に、青が差した。手に取った指先はどうしようもなく冷たくて、まるで生きていないかのようだ。それなのに吐く息はすでに背景と化した海と空に簡単に混じってしまうかのように、どこまでも白い。ぎゅうと、再び手を握った。
「ねえ尾花くん」
少しだけ、指先に温度が宿る。自分の体温を少しだけ奪って。いっそのこと全部奪ってしまってもいいのに、それだけはしてくれないとでも言うかのようにそれ以上は温度は上がってくれない。何も答えはしない自分が気に掛かったのか、もう片方の手がそっと頬に添えられた。本当に冷たくて仕方がないのに、離れる気は起きやしなかった。
「わかってるよ」
そう一言だけ答える。そう、わかっているのだ。いつかはこんな海とひとつになることくらいはわかってる。それでも一瞬でも、もう少し晴れた日がいいとか、もう少し寒くない日がいい、とか不満めいたことを言って先に伸ばそうとした自分がいることに気づいたからだ。先に伸ばしたら、きっと離れ難くなる。今日まで過ごしてきた穏やかな日常とも呼べる日々と。
「でも今日じゃないだろ」
それでも、それでもと口を開いた。南風原は何も言わない。ただ、頬に添えられた手をそのまま滑らせた。その手は宙に浮いたままだ。いつかきっと失うことはわかってる。それでも日常は、思い出は生まれていく。あの寄せては消える波と一緒だ。思わず、その手も取った。相変わらず冷たくて、白くて、こうしていないといけないような気もした。
「南風原、」
何も言葉にはできないままだけれど、それすらも誤魔化すようにきつく手を握った。冷たい指先と自分の体温が触れ合う先から混じっていく。指を絡ませる。それに応えるかのように指先がそっと撫でられる。冬の空気に晒され続けた自分の手のひらもすっかり冷え切ってしまっているようだった。でも、それでいいような気もした。
「……南風原、」
「うん」
静かに彼は答える。ゆるゆると握った手を解いて、そのまま彼の背中に手を回す。2人の間を抜けていく海風の隙間を埋めるように、少しだけ背伸びをした。触れた唇は冷たいままで、僅かに震えていた。それを埋めるように、隙間を埋め尽くすように。触れては離れてを何度か繰り返した。それでもその隙間が埋まることは、ない。
「オレは、お前を許さない。だから離さない」
「うん」
そう言ったのに、彼は離れようとも引き離そうともしなかった。そのことにどうしようもなく安心した。安堵感というには重すぎる感情もそこには確かにあったけれども。でも、それでいいのだ。きっとこれがいい。
海と空の境界が薄くなっていくように、冷たくなったお互いの温度も曖昧になっていくような気がした。冷たい息が頬に掛かる。それには南風原の匂いが混じっているはずなのに、潮の匂いしかしてくれなかった。それがこの灰色に溶けていくようで、それは少し嫌だった。だから溶けてしまわないように、その隙間を埋めるように、境界を確かめるように、また触れた。
──ああ、死ぬならこんな灰色の日がいい。それは今日ではないけれど。