HONEY NIGHT「…遅い、いつもなら帰っているはずなのに。」
クロノクルの家に着いたのは時計の針が21時を過ぎたころ。玄関の扉を開けると、いつもは帰っているはずの彼の姿は見当たらない。寂しさと、少々の苛立ちを込めてそう呟く。もちろんその言葉に答えが返ってくるはずもなく、余計に寂しさが波のように押し寄せた。彼が仕事で暇ではないことも分かっている、しかし今日はバレンタインという特別な日なのだ。理由を付けてプレゼントを渡せるそんな日に、例外なくクロノクルのためにチョコレートを用意していた。わたしを連れ出してくれて、優しくて大好きな彼のための手作りのもの。それを直接渡したく来たというのに。
そんな気持ちを胸に抱えながらクロノクルの帰りを待つことにしたわたしは、玄関から真っ直ぐに進んでリビングへと向かう。ソファに腰掛けても寂しさや一抹の不安は拭うことはできなかった。優しくて素敵な彼はきっとチョコレートを自分以外からも沢山もらっているのではないだろうか、そんな子供じみた不安が頭の中を大きく支配する。結局はわたしも子供で、女なのだ。そう思案すると綺麗に包装した彼宛のプレゼントを指でなぞって、ひとつ溜息を零す。─早く帰ってきてほしい、こんな日なのだから連絡のひとつくらい寄越してくれたっていいのに。そんなわがままな想いにふたをするように、プレゼントを胸に抱き込んでしまえば緋色の瞳を伏せた。
◇
がたん、と玄関の扉が開く音で微睡みから現実へ意識を引き戻されると、どれくらい寝てしまったのかと急いで腕時計で時間を確認する。時刻は22時を過ぎを指しており、彼が部屋の扉を開く前にと慌てて制服や身なりを整えた。部屋の扉が開くと荷物を持ったスーツ姿のクロノクルが入ってきた。
「カテジナ…!来ていたのだな。すまなかった、待たせしまっただろう。」
「いえ、大丈夫です。仕事お疲れ様です。」
やや驚いたような表情をわたしに向けると彼は荷物を置いて隣へと腰掛ける。こういう風に気遣ってくれるのがクロノクルの美点なのだ。待ち侘びていた逢瀬に胸を高鳴らせながら抱えていたプレゼントは彼から見えないところへ忍ばせ、渡すタイミングを伺っていた。
「今日は仕事が長引いてしまってな、帰るのがこんな時間になってしまったのだ。…カテジナ、今日は学校があったんだろう?」
「それは大変でしたね。ご苦労様です。ええ、今日も学校でした。バレンタインだって皆浮足立っていて先生も半分呆れていたんです。」
ジャケットを脱いで、朱色のネクタイを軽く緩めるクロノクルの所作を一瞥し言葉を返す。自分も密かに浮足立ったうちの一人だったということは隠していたい、見透かされてしまっているのだろうか。
「私が学生の頃と大して変わっていないのだな。…そんな甘い雰囲気が嫌で今日は来たのか?」
「…まさか。甘い雰囲気は嫌いではありませんよ、ただ今日はあなたと一緒が良かったから。」
「嬉しい事を言ってくれる…カテジナ。」
彼が名前をわたしの名前を呼ぶと優しい手つきで腰に手を回して抱き寄せられる。更に近づく距離と触れられる嬉しさを隠せずに肩に寄りかかる。隻手でプレゼントを手繰り寄せながら甘えた声で彼の名前を呼んだ。
「クロノクル、もっと嬉しくさせてあげましょうか?」
「…それは?どういう意味だろうか。」
「意地が悪いですね、分かっているくせに…今日が何の日か言ったじゃないですか。」
いたずらにチョコレートのその先の期待を含みを込めてそう呟く。しかし彼の方が上手なのだ。此方を真っ直ぐに見詰める蜂蜜色の瞳と、わたしの言葉の続きを期待するように僅かに力の込められた指先に満足し微笑んでは彼宛の箱を差し出した。するとクロノクルは一瞬驚いたようで目を見開き、そのあとに嬉しそうに柔らかく笑うのだった。
「分かっていたさ、君の可愛い顔が見れると思ったから。つい。」
「もう、」
「はは、すまなかった。…だからそんな顔をしないでくれ。」
わたしはわざと拗ねたふりで俯いてみると、プレゼントを片手に持った彼は私の目元に口づけを落とした。機嫌を直してほしいと宥める合図だ。今はそれひとつで頬がほんのりと赤く染まってしまうほど嬉しくて、態度とは裏腹でなんだかあべこべだ。
「…有難う、カテジナ。早速だが食べても?」
「いえ、どういたしまして。どうぞ、手作りなんです。」
「それは楽しみだ。君の手作りならきっと美味しいだろうな。」
腰を抱いていた手がそっと離れると、彼はプレゼントのリボンを解いて紙の包装を剥がしていく。私はその仕草から目が離せなくてじっと見詰めていた。箱を開けて中身が明らかになると、クロノクルは感嘆した様子で小さく幾つかに並んだチョコレートへ視線を落とした。するとその中の一つを手に取り口の中へと放り込んだ。─やはりわたしは、目を離せない。美味しいと感じてくれているのだろうか、嬉しいのだろうか。幾ら態度で目に見えたとしても微かな不安は心の隅に残るのだ。
「…ン、美味しいな。甘くて綺麗だ。」
「…!良かったです、そう言ってくれるのなら私も作った甲斐がありました。」
ずっと待ち侘びていたその言葉に、不安も無くなり嬉しさがこみ上げると思わず顔を綻ばせた。するとクロノクルが自分の膝の上を軽く叩きながら口を開いた。
「カテジナ、こっちに来てくれないか。」
「…?はい、良いですけれど…。」
隣ではだめなのだろうか、と疑問に思いながらも促されるままに彼の膝の上へ座りなおすとぽす、とクロノクルに体を預ける。感じた疑問を問いかけるべくクロノクルの方へと顔を向けた─その瞬間にぎゅっ、と後ろから大きな手が伸びて抱きしめられる。重なるあたたかな体温に出ていくはずだった言葉は消えてしまった。
「今度は君から食べさせてほしい、折角のバレンタインだからと言っては…駄目か?」
「だからこうしたんですか?そんなことしなくたって、良いって言うのに。」
その言葉への答えは返ってこないものの、その代わりにわたしに甘えるようにクロノクルはもぞり、と首元に顔をうずめた。─ああ、なんて。なんて愛おしいのだろうか。ときめく気持ちが駆け上がって体温が一気に上がったような気がする。わたしの返事に抱きしめる手の力も強まったように感じた、離さないと言わんばかりのその仕草に嬉しさもこみ上げた。ローテーブルに置かれた箱の中から一つ、ハートの形のチョコレートを取り出す。今度こそクロノクルの方へと顔を向けながら口元に持っていけば、
「どうぞ、食べてください。」
「ああ…、」
チョコレートが指先から離れて彼の唇へと渡る。刹那、不意に片手で顎を持ち上げられるとキスをされた。これじゃまるで口移しのようだ。─甘い、やけに甘ったるい。だけどこれはきっとチョコレートだけの所為じゃない。反射的に口を開けると舌が入り込んできて上顎や歯をなぞられ、熱い互いの舌先で徐々に溶けてゆく。
「…は、っ」
口づけの合間にどちらからともなく零れる小さな吐息がまた、熱をくすぶらせるような気がする。─クロノクルが味わいたいのはどちらなのだろうか、少し不器用な彼なりの口実なのかと内心思案した。静かな部屋にちゅ、ちゅと響く音がやけに恥ずかしくて私は瞳を閉じると、見えない彼が小さく笑ったような気がした。─きっと今夜は飛び切りに、チョコレートよりも甘いその先を二人で感じ合うのだろう。