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    月紙しろっぷ

    ネロファウ、ミチブラ、ミスルチ
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    月紙しろっぷ

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    仁川さんの企画( #仁川ネファ企画 )で書かせていただきました。
    初大作。

    #ネロファウ
    neroFau

    「綺麗だな」それが初めてファウストの姿を見た時の印象だった。


    【Anemone coronaria:Nero】
    あいつと初めて会ったのは家を買いに来た時だ。俺が世話のしている庭が付いている大きめの邸宅に見るからに若い彼は独り身だと言って買いにきたもんだから、少し、いやかなり驚いた。黒のシャツは清潔で、きっちりした服のせいで露わになった華奢なラインを隠すように肩から巻いたストールをなびかせ、背筋を伸ばして歩く姿は百合の花であった。栗毛色の髪の隙間、眼鏡の反射をすり抜けた瞳は静かな菫の様な紫。忘れるはずもない。皐月の陽気が草木の黄緑を柔らかくしているような、新生活と言うには中途半端な季節だった。いつも通り我関せずと仕事を続けていると、後ろから不意に声を掛けられる。振り返ると、先ほど不動産屋に案内されていた解語の花が立っていた。
    「きみが、ここを?」
    発せられた声はその見た目に反して低めで、はっきりと耳に響いた。突然声を掛けられた俺は、そんな綺麗な人と泥だらけで前に立っていることに急に恥じらいを持ってしまう。
    「おい、なんか言ったらどうなんだ。」
    立ち尽くす俺への二言目は容赦がない。正面からよく見るといわゆる美人系の顔立ちであった。腕を組んだ凛とした態度に、自分よりも背が低い相手であるにも関わらず気圧されそうになる。深紅の薔薇なんかを相手にしているみたいだ。
    「…まあ、一応。そうなるかもな。」
    庭を見やる様に目を逸らして答える。なんだその曖昧な返事は、と言いたげな気配を感じつつ横目で彼を見やると目元を緩めてまっすぐにこちらを見る姿が見えてしまった。
    「手入れが行き届いている。嫌いじゃない。」
    「そりゃ光栄だな。」
    絶妙なカーブのかかった誉め言葉らしきものに恭しい言葉で照れ隠しをしてしまう。
    「ところでいくらあったらうちの庭師になってくれる?」
    「は?」
    「僕はここに住むことにしたが、この広い庭を手入れできる気がしない。」
    「はぁ…」
    そりゃあそうだろうけれども。むしろできると言われたら粗末に扱われたようで少し気分が悪い。少し躊躇ったのち、こんなことまで言ってくる始末だった。
    「こう見えても金ならある。」
    「いや、こんな家を買うくらいだ。疑っちゃいねえけどよ、だけど」
    先ほど見に来てほぼ即決。郊外とはいえ、近くに学園都市もあり所謂パークタウン。そこそこの地価だった気がする。自分には縁の無い土地だと思っていたから調べたこともなかったけれど。
    「きみの好きなように手を入れてくれて構わない。」
    「いや、でも俺は…派遣だし……」
    なかなかの好条件に心が揺らぐ。現在、郊外のアパート暮らし。好きに手入れできるのはせいぜいベランダに置いてきたプランター程度。今は華奢なノースポールが咲いているのを思い出す。
    「派遣会社を通せばいいのか?」
    「は?」
    「きみ、名前は?」
    「えっと、ネロです。ネロ・ターナー」
    いや、そういうことじゃ、という言葉は飲み込んでしまってめちゃくちゃ正直に名乗ってしまった。
    「ここにはどのくらいの頻度で?」
    はぐらかそうとしても真っ直ぐに向かってくる瞳から逃れられる気がしなくて、どんどんとボロを出す。
    「週に1、2日」
    わかった、と言って彼は携帯を取り出し程なくして呼び出し音がなる。淡々とした一連の動作に、驚くべき行動力にもはや口を挟む間もなかった。もしかしたら挟まなかったの方が正しいのかもしれない。この家は2年も家主が見つからずその間ずっと自分が手入れをしていた自負が邪魔をしているのはよくわかった。そんな後からしてもしょうもない反省は自宅のノースポールを見て思い出させられる。純白で高潔なその姿がなんだかあの家主のようで。グラスに注いだソーダ割に映る月を仰いだ。

    そんなことがあって結局、一週間後俺はいつも通りその庭園に来ていた。いつもと違うのは依頼主くらいのものだったが、そのせいで会社から預かったマスターキーで入っていたからどうしたものかと立派な門の前で頭を抱える羽目になった。
    「そんなところで何をしているんだ、きみは」
    門の中から現れた彼は、清潔感のある白いシャツに黒いベスト、そしてなぜか白衣を着ていた。
    「あーいや、今来たっつーか…」
    「門は開いているよ」
    さらりと言われたその言葉に思わず突っかかる。
    「はあ?危機感なさすぎだろ?俺が悪い奴だったらどうすんだよ」
    「は?どうせ入れるんだから変わりないだろう」
    呆然とする俺に対し彼ははあ、とため息をついてじゃあと柱に着いたベルを鳴らした。優雅な音が屋敷で鳴り響いたのが分かった。ここまでもかすかに聞こえるような音量であるのにどこか心地よい、優美な音であった。
    「わかったよ。呼び鈴を鳴らしてくれ」
    その瞳にはなんだか俺に対する何かしらの、おそらく冷たくはない感情があったような、気がする。そんな目を直視できなくて目を逸らしながら我ながら愛想のないことを言ってしまう。
    「鍵はちゃんとかけとけよ」
    「きみはしっかりしているな」
    それに対してふふ、と笑いをこぼした彼は白衣を風になびかせながらついてこいと背中で伝えるように歩き始めた。門の扉をしっかり閉めて慌てて着いていく。薔薇の垣根に囲まれた石畳をまっすぐに歩いていく。花も木々もこの間までとほとんど見た目が変わらないにも関わらずなんだかよそよそしい、しばらく会っていない同級生に会ったかのようなくすぐったい雰囲気を感じてしまう。空気が柔らかくてすっきりと甘い香りさえするような気がしてくる。自分の肌とは微妙にそぐわなくて妙にそわそわしてしまう。
    「どうした?」
    「いや、うまく言えねえんだけどさ。…手え加えた?」
    「まさか。腕利きの庭師が来るのに素人の僕が手を付けるわけがないだろう。…ああ、屋敷はもちろん住み始める準備をしているけれど。」
    俺の視線の先の屋敷を彼もつられて眺める。ぼーっとしていて気が付かなかったが、かなり近くまで来ていたらしい。改めてみると立派な家だなと思う。なんだか珍しい壁画でも見ているような、手の届かない美術品が並ぶ美術館を眺めるときの様な遠さを感じていると、彼はおもむろに鍵を取り出して扉を開け、さも当然のように芸術品の体内に招き入れようとした。
    「え?」
    「打ち合わせでもしようと思ったんだが、庭を見ながらの方がよかったか?」
    自分の所属する会社は基本的にBtoB企業である為、依頼主が個人であるという状況にひどく不慣れであった。個人的な付き合いにならないよう就職先に気を付けていたはずだったことを思い出し一人で呆れてしまう。
    「ああ、そういう…そうだな、見ながらあんたの好みを教えてよ」
    石畳から逸れて緑の上を草木に気遣うようにゆっくりと歩きながら苦笑いを浮かべた。
    「きみの好きなようにしていいのに」
    「あーいや、俺にこんな豪勢な場所、似合わないよ。持て余しちまう。」
    そんな俺を見て黙った依頼主は少し困った顔をして遠くを見つめる。
    「この状態の維持でも僕は好きだけど。売り物のままで寂しいから、来月か、再来月かに咲くような花をおすすめで植えてほしいな」
    「承りました。」
    先ほどまでの態度と打って変わって、恭しい態度をとってみる俺に彼は少し驚いたような怪訝なような顔をした。こんな短時間言葉を交わしただけで、少しふざけてみようなんて考えるなんて。この人の子供の様なある種の危険性を孕んだ無邪気さに、真っ白なシクラメンのような無垢さに当てられたのかもしれない。天使が通った後のように静まったその場に春風が残り香を置いていったのを合図に彼が、ううん、二人で微笑んでしまう。この時はまだ社交辞令も混ざっていたけれどそれだって大切なことだった。そんな距離感が心地よかった。仕事が少し楽しみかもしれない、珍しくそんな浮かれた予感を持った。そのあとも他人の距離で会話を重ねながら好きな花の色なんかと軽い自己紹介を今更ながらに済ませた。彼は、ファウスト・ラウィーニアという名前でここから近い国立大の植物科学の准教授らしい。なんでも先任が体を壊したらしく、急に呼びつけられたとか。それでこんな家を買うのも酔狂だな、と言ったら植物を研究しているんだからこんな庭が手に入るなら安い出費だよと言っていた。



    【Syringa vulgaris:Faust】
    「ふふ、そんなこともあったね。」
    ネロが入れてくれたダージリンを飲みながら出会ったころの僕らの話をする。あれからあの時に植えてくれた花たちが二度目にこの庭園での開花をする頃までに、色んな事があったと思う。程度でいえばネロが僕のために淹れてくれた紅茶で研究の息抜きをするくらいに、と言ったところだろうか。
    「俺がどんだけいたたまれなかったか理解してくれた?」
    呆れ顔のネロを確認して目を伏せる。
    「どうだろうね。…あ、スコーンがおいしい。今日は紅茶の茶葉が練り込まれてる?これはマリーアントワネットかな。」
    「正解だけどさ…先生、話逸らそうとしてない?」
    今度はわかりやすくため息をついた。呆れの中に僕のちょっとの奔放さを許してくれる風味を感じてしまって、つい自由に振る舞ってしまう。
    「どうだろうね。外側がサクッとしていて内側はなめらかだ。本当にシェフは腕がいいな。」
    ネロは僕が大学教授であることを、先生なんて呼んでたまに揶揄ってくる。だから僕も彼をシェフと読んだり、園丁さんと呼んだりしてしまう。そうすると彼は自分から始めたくせに照れるのだ。その顔が見たくて、つい。
    「どっちが本職かわかんなくなってきたな…。そりゃどーも。」
    複雑そうにそして案の定少し照れ臭そうにそう言うと、彼は外に放置している筈なのに白いままの椅子をひいて向かい側に座った。自分で作ったスコーンを頬張り頷く仕草は何度も目にしたのに見つめてしまう。庭園の隅にある、アイビーに囲まれた空間は外界と隔たれていた。大通りの車の音は裏の森に吸い取られ、木々のこすれる音を代わりに届けてくれる。まるで現世の音でゼンマイを巻かれたオルゴールのように。そんな空間の中心、屋根付きの空間は薔薇とこちらもアイビーに囲まれた心地の良いお茶会の場となっている。けがをしないようにとネロが気遣って木香薔薇で飾ってくれた柱はいつ見ても癒される。この落ち着いた雰囲気の一角はファウストがネロに半ば無理やり押し付けた空間だ。本当に好きなようにデザインしてくれという依頼を突き付けた。ここに来るたびファウストはネロの趣に触れるような心地になって少しずつ彼の壁に開いた小さな穴から霞のように見え隠れする彼のことを盗み見て、あるいは残り香に思いを馳せることができるような心地になる。 「そうだ、ネロ。明日大学の植物園に用があって行くのだけど、もしよかったらきみも来ないか?」
    急な誘いだし無理にとは言わないけれど、と言いかけたがそれに覆いかぶさるように楽しそうなネロが返事をした。
    「いいのか?」
    控えめな文言とは裏腹に声には喜びが着色されていた。
    「僕から誘ったのに悪いことがあるか。」
    間違いねえなと目を伏せて笑う彼は返事をする代わりに紅茶、いる?とポットを差し出してきた。空になったカップを夕焼け色の様な、溶かした蜂の巣のような彼の瞳のような色で満たされる。
    「明日の朝飯は何がいい?」
    「ガレットが食べたいな。」
    「はは、あんたはそればっかりだな。」
    そう言いながら冷蔵庫の中身を思い出してくれている彼を傍目に紅茶を口に含む。上品だがくどくなく、爽やかな香りが広がる。落ち着く味と温かさ。ネロがこの家に住むようになったきっかけを思い出す。


    秋口くらいだっただろうか、コスモスが綺麗に咲いていたような気がする。学校周りの道が黄色で覆われた季節。学校中のいたるところから中間試験の愚痴が聞こえてくる、そんな季節。新任であるにもかかわらず80人規模の講義を任されてしまったことによって毎日のように提出されたレポートたちと睨み合っていた。全く、大変なのは学生ばかりではないなと思いつつため息などついても終わらないと言い聞かせて業務にあたった。熱心な生徒も多く、楽しい作業である事だけが唯一の救いだろう。忙しくしているうちにネロが来る日になっていたらしい。忙しくすると日にちや時間の感覚がなくなるのは悪癖かもしれない。呼び鈴の音で土曜日が来たことを知った。
    「うわ、先生、どうしたの?!寝てないだろ?」
    よほど僕の顔がひどかったのだろう、今までにないくらいまじまじと見てくる。その瞳からは狼狽や心配のような色が揺れていた。
    「ああ、多分な。」
    「多分って…飯は?」
    「何かは食べている、一応。」
    「あのなあ…」
    「悪いが今日は様子を見に行けそうにない。すまないな…。」
    「気にすんな。そんな暇があったら寝てくれ。」
    宥める様な声色で僕の身を案じてくれていることが分かった。つくづく優しい人だ。ネロの作業を見に行けないというのは個人的にも寂しいものだったけれど、心の隙間を埋めるように仕事に戻った。時計の針が何周もして夜を連れてきたらしい。らしい、というのも僕はまた呼び鈴を鳴らされるまで外が暗くなっていたことにも、ネロがもう何時間も前に帰っていたことにも気が付いていなかったからだ。重い体を引きずって扉を開けるといつもの作業着ではない、白いパーカーにアウター、デニムジーンズをはいたラフな格好をしたネロが立っていた。
    「あー…よっ、せんせ」
    「忘れ物でもしたか?」
    いや、と気まずそうに目を逸らし、手に持っているものを隠してしまうのを見つけた。のぞき込むと観念したようにビニール袋を差し出してくる。
    「もしよけりゃなんだけど…」
    「これは…きみの手作り?」
    中を見るとタッパーに入れられた色とりどりのそれこそ庭の様なポテトサラダや、トマトソース系の煮込み料理、柑橘類が添えられたポワレのようなもの…など視覚にも楽しいものが並んでいた。
    「まあ…。」
    「なんできみはいつも歯切れが悪いんだ。とてもおいしそうじゃあないか。」
    歯切れの悪さを示すように袋の中には市販のゼリーなんかも入っていた。これは後からわかったことだが、もっと親しくなったネロはゼリーだって作ってきてくれる。これは本当に彼なりの線引きだったのだろう。
    「味は保証するけど、あんたの好みはわかんねえから…今度教えてよ。」
    「わかった。ありがとう。…心配をかけてすまなかったな。」
    「気にすんなって。好きでやってることだしな。」
    黙りこくった僕に彼は柔和な人好きのする笑顔を浮かべて僕の頭をポンと優しく叩いた。
    「ま、悪いと思うなら無理はすんなってことだ。」
    頷くと彼は陽だまりのように笑った。いつもはあまり合わない視線が交差する。夕日を浮かべた海のような瞳に心臓が高鳴るのを感じた。彼が恥ずかしそうにそそくさと帰ってしまうと、夜が来たのもあってだろうか寂しさが主張してきた。それを紛らわせてくれたのは、ネロの持ってきてくれた料理で、ひどく空虚な無機質な本の海を照らすようなランタンの光と言っても差し支えない。照れるくせに行動を起こしてくれた、彼のそんなところを考えると胸がきゅっと締まるような心地だった。電子レンジに入れて温めようと料理を取り出すと、かなりの量であった。重さで気付いてはいたが、視覚情報になるとすごい量だな。最後の一つを取り出すと一枚の紙が一緒に飛び出して、落としてしまう。拾い上げると彼らしい流れるような筆記体で保存の仕方やおいしい熱し方、アレルギー配慮のためだろうか使った食材が細かく書かれていた。食べられる量だけをお皿に移して残りは明日以降の楽しみにしよう。栄養ドリンクばかりの冷蔵庫に花が咲いたような心地になり笑顔になってしまう。


    そんなことを学生試験のたびに繰り返す僕を見かねてネロは頻繁にうちに訪れるようになった。冬に寒空の下、一度家に帰ってからうちに戻ってくるネロのかじかむ手を眺めて、僕は彼の手を取って引き留めた。
    「知人からいい少し前にワインを貰ったんだが…一緒にどうだ?」
    「え、それめっちゃいいやつじゃん?!じゃあ、お言葉に甘えて。」
    ボトルをみせると想像以上に食いついたネロはかなり可愛かった。銀杏の葉が散り始めたくらいから時折、晩酌をする仲になった。他愛もない話をする距離感が心地よい。しかも彼のお手製つまみ付きだ。僕の家のキッチンはずいぶん使い勝手が良くなっていったように思う。
    「帰るかあ。げ、雪降ってんじゃん。」
    ボトルが空いて余韻が覚めたころ、カーテンを開けて外を覗いたネロが驚いたような嫌気の指したような声をあげる。
    「ふふ、そうだね。綺麗だ。」
    「そうだな。」
    そう言いつつも顔を見合わせて同意してくれる。
    「泊っていけばいい。君は明日休みなんだろう?」
    「そうだけど…」
    「遠慮はいらないよ。勿論、君が嫌でなければだけれど。」
    こんなことを言うのは何回目だろう。そのたびに彼は少し困ったように眉を下げ、承諾したり遠慮したりを繰り返していた。
    「じゃあ、お言葉に甘えて。」
    本日二度目のその言葉は少し申し訳なさそうに発せられた。


    翌朝、目が覚めるとネロはもうすでに起きていてキッチンからは小気味のいい音と卵の優しい香りがした。
    「はよ、キッチン借りてるぜ。」
    「おはよう、ありがとう。朝食まで用意してもらってすまない。」
    「俺が作んないとまた先生は珈琲とかで済まそうとするからいいの。」
    そういうネロは初めて僕の家に入った時のことを思い返しているのだろうか。栄養ドリンクと味気ない栄養食ばかりの戸棚や冷蔵庫を見て目を白黒させていたことは忘れようもなかった。別に繁忙期以外は炊事をするがネロのような腕前の持ち主を前にして言えるはずもない、というのは理由の半分で僕がそんな状態だからと料理をしに来てくれるこの関係を手放すのが惜しいというのが残りの半分だ。
    「ふふ、間違いないね。」
    僕が起きる時間が分かっていたかのように、エッグベネディクトにカリカリに焼かれたベーコンの乗ったシーザーサラダ、コーンスープにフルーツという花束の様な豪華さと優美さを兼ね備えたような食事をすぐにサーブしてくる。机の上の花瓶にはブルーデイジーが生けられていて、一人でも食卓は寂しくなかった。せっかく作ってくれたものだし、とゆったりとした朝食の時間を楽しんでいるといつも珈琲で済ましていることもあって遅刻しそうな時間になってしまっていた。急いで身支度を整えて家を出ようとすると、焦ったような足音が聞こえてきた。
    「ファウスト!鍵、忘れてんぞ!」
    机の上、花瓶のそばに添えていた合鍵を持ったネロがネモフィラのような適当に括った髪を揺らしながら走って玄関まで来てくれた。
    「ああ、それきみにあげるよ。今日も僕がいない間に出入りするだろう?」
    「…は?」
    「じゃあ、遅刻してしまうから行ってくるよ。もし迷惑だったなら、ポストにでも入れておいてくれ。」
    「おい!あーもう!言いたいことはあるけど後の方がいいよな。これだけ持ってってくれ」
    「そうしてくれると助かるよ。これは?」
    「昼飯。ちゃんと食えよ。」
    「ふふ、ありがとう。」
    今度こそ扉を閉めると、少し強引だっただろうか、とか実は一か月程前から作っていた合鍵をようやく渡せたという喜びだとかで落ち着かずそわそわとした足取りで車に乗り込む。時計を確認するといつもなら余力を持って研究室にいる時間だった。少し飛ばした方がいいな。


    遅刻はしていないものの、いつもより遅く研究室につくと軽薄な男が声を掛けてくる。
    「あれ?ファウスト今来たの?珍しい。この生活に慣れてきた?」
    「もとはと言えばあなたのせいだ。」
    背後に現れたのは薄花色の髪と草木の様な瞳で軽薄と書いたような男で、僕を教授に推薦した男だ。せっかくいい気分であったところを邪魔されたので、包み隠さず悪態をついてやる。
    「ごめんって。でも山奥に籠ってるのも心配でさ。」
    俺の元ゼミ生で教授なんて任せられるのはきみくらいだからとも。
    「別に…。」
    「楽しくない?辞めたくなったらいつでもやめてもいい。君に無理強いをしたいわけじゃないんだ。」
    急にしおらしくなる相手に心地が悪くなる。
    「ふん。ここでの生活は悪くないし、気に入っている方だ。もう僕はフィガロの生徒じゃない。」
    そっか、という安堵の息も束の間、僕の手を見るなりニヤつきを露わにする。
    「あれ?お弁当?恋人でもできたの?」
    なんだ、と思った時には既に遅くネロに握らされたお弁当箱に目ざとく反応される。
    「は?あなたには関係ないだろう。」
    もう行く、と振り払って講義へ足早に向かった。恋人、なんて言われて動揺したのに気が付かれないように。


    急いで出ていったファウストを、手を振って見送り終えたネロは車のエンジン音が聞こえてくるや否や空気を抜かれた風船のようにその場にへたり込んでしまう。
    「はぁ~…どうしろってんだよ…」
    手には所謂、合鍵が握られてしまっていた。ファウストの忘れものだと思ったそれは不覚にもネロの手に握られてしまっている。ファウストの屈託のない笑顔と、鍵を渡してくるときでさえいつもの然とした態度を思い返すとネロは一人の空間にまたため息をつく。その音は一人には広すぎる邸宅に消えていった



    【Ixia hybrida:Nero】
    朝がやってきたことが燕の鳴き声で気が付く。初夏の予兆を伝えるように肌を撫でる温かい空気は日が昇ったことを教えてくれた。ガレットの生地をフライパンに流し入れるとじゅわあ、と小気味の良い音がする。窓から見えるライラックのファウストの瞳の様な鮮やかな紫が、昨日の会話を想起させる。

    鍵を受けとったあの日、とりあえず飯を作ってファウストの帰りを待った気がする。料理も庭の手入れも花瓶を変えるのも終わってしまってもファウストは帰ってこなかった。ファウストの部屋、というより家のいたる所に本が詰まれており、壁はほとんど本棚であるその家は、普段家にいるときには聞こえてくる生活音や隣人の息遣い、そんなものからは一切遮られており驚くほど静かで、人付き合いが特段好きではない俺でも寂しさを感じざるを得なかった。
    「…ファウストは、寂しいのか…?」
    だから、俺なんかと?確かにいつ来ても家にいるし、基本的には研究室や書斎にこもりきりだったような気がする。思いついた結論は言葉として僅かに空気を震わす程度だが口をついて零れてしまう。
    「僕が、どうしたって?」
    「ファウスト?!お帰り」
    気が付くとファウストが帰ってきていたらしく、後ろに立っていた。驚きと一方的な気まずさで、声が裏返る。
    「ただいま。そんなところに立ってどうしたんだ。」
    部屋のおかしな位置に突っ立っていた俺を怪訝そうに見つめる。丸眼鏡の奥の瞳がまっすぐにこちらを見ているのがよくわかる。
    「あ、いや。本、見てたんだ。植物図鑑くらいなら俺でも楽しく読めるし。」
    わりい、勝手に見ちまって。と付け足すと彼はふっと笑った。
    「構わないよ。触られて困るものならしまっているし。それに僕が入っていいと言ったんだ。」
    「あーそのことなんだけどさ、合鍵は…流石に…。俺みたいなのが勝手に出入りするのも」
    本音を言えばこの曖昧なほどよい距離感を関係を壊すのが怖かったのかもしれない。
    「そうか…。ここに住めば僕の職場ときみの職場は近いから毎朝送迎も可能だが…。」
    今は原付で通っているが、これから雪が降ってくる。そうなると朝から込んだバスか雪の中を徒歩で歩く羽目になるのは確かにしんどい。正直言って魅力的過ぎる提案だった。ん、待って?
    「は?住む?」
    「泊っているようなものだろう?ここに住めば家賃もかからないぞ。」
    「めっちゃ魅力的…じゃなくて!え、同居のつもりで渡してきたのか、これ?」
    鍵を指してそう尋ねると、ファウストは目をぱちくりとさせて考え込んでしまった。しばらくの沈黙ののち、何でもないような、朝起きて花に水をあげるくらい当たり前のことのように
    「そうだな。」
    と言い切った。
    「そうか…」
    突然一人で越してきて仕事に追われるファウストが寂しがっているとして、この推論が正しいのか確認する度胸はないけれど、もし仮にそうだとして頼ってくれた年下のこの子を、しっかりしている癖にちょっと危なっかしくて純朴な彼を放って帰ることができるだろうか。もしかしたら無自覚の寂しさを埋めるためかもしれないけれど、それでも俺を頼ってくれたことが多分俺は嬉しいんだと思う。おはようも、おかえりも言ってあげたい。考えた結果その週末は休みをもらって荷物をファウストの家に移動することになった。ファウストに車を出してもらって、運ぶのも手伝ってもらったので初めて家に上げた。窓の外のプランターを覗くファウストに今年も咲いた純白で華奢なノースポールがやっぱり良く似合っていた。
    「きみらしい部屋だね。こっちに越してきてもよかったかも。」
    「やめとけって。狭いだろ。なんもねえし。」
    「ふふ、片付いていていいじゃないか。ね、ご飯食べたい。」
    突然そんなことを言い出したから驚いてしまった。
    「え、腹減ったのか?いいけどさ」
    ブランチを取ってからまだ2時間程度しか経っていない。動いていたとはいえ少食なファウストが空腹を訴えるほどではない。
    「ううん。でもちゃんと食べるよ。きみがこの部屋で料理をするところを見てみたい。」

    あの時も作ったのはガレットだったっけ。好きな料理だと言われて練習していたためそば粉が残っていたのがばれてしまったのを覚えている。ふと目線をフライパンにもどすと、ガレットの端が焦げかけていた。
    「うわ…やっちまった…」
    急いで皿に上げたがしっかりと焦げていた。
    「おはよう。…何かあったのか?」
    この世の終わりみたいなかをして、と寝起きのファウストが近づいてくる。何となく、焦げたそれを体の後ろに隠してしまう。
    「そんなひどい顔してる?」
    「うん。あ、ガレットを作ってくれたのか。いつもありがとう。」
    「いや、これは焦げちまったから…」
    そう言って取り上げようとするより先に伸びて来た手はガレットの端をちぎってしまう。ぱきっという折れたような音がして、想像以上に焦がしたんだなと感ぜられ波のように重い気分が押し寄せる。それをファウストは何の躊躇もなく口に含んだ。
    「せんせ、焦げてるからいいよ、作り直すし」
    「ふふ、きみが作ったものなら何でもおいしい。ガレットの焦げたところ、僕は好きだよ。」
    ヘタに誤魔化すわけでも、馬鹿にするわけでもない、優しく包み込んで失敗すらも受け入れてくれる声色に気恥ずかしくなって照れ隠しをしてしまう。
    「先生、俺のせいでちょっとお行儀悪くなったか?」
    「さあ、どうだろうね。卵のとろとろの部分も食べたいから運んでいい?」
    「やっぱ苦いんじゃん…」
    「ふふ、好きだと言っただろう。」

    予定より少し遅れて今日の目的地に着いた。大学というのも何年も前に卒業して久々だったし、自分の通っていた大学に比べて敷地がとにかく広い。幸いにも休みの日である為学生や職員の姿はほとんどなくて安心した。警備員に職員証を見せて挨拶をするファウストの姿は本当に教授さんなんだという、なんだか新鮮な一面を見た気分だった。今日は珍しく白衣も着ていないし。形から入る彼は仕事となれば家でも着ているのに。
    「彼は来賓です。」
    「えっ、ああ、どうも。」
    不馴れな場にそわそわしていたところに突然話を振られてたじろいでしまう。
    「申請されていましたね。」
    「ああ。」
    通されて歩いていく。おしゃれな塔が点在しており、映画に出てくる学生寮だとか、アウトレットのようであった。あたりを物珍しそうに見ていると、ファウストは笑いながら
    「はぐれないようにな。」
    「子供扱いすんなって。」
    「きみが初々しくて、つい。」
    ついってなんだよ。でもここで不服を態度に零せばファウストはまたよくわからないツボでご機嫌になってしまう。それは悔しいけれど、ご機嫌なファウストは可愛いから複雑だ。どうしたものかと思案すれば眉間に皺が寄ってしまったのだろう、ファウストから柔らかい雰囲気が飛んでくる。楽し気なファウストの扱いに困りながら、泳いだ視線は木や垣根を追ってしまう。有名大学なだけあってしっかりと手入れされている。暫く歩き続けると大きなガラス張りの建物がビルの様なもの、ファウストいわく彼の研究室のある棟らしい、の陰から現れた。ガラスだが、逆マジックミラーのようで外から中の様子はあまり見えないよう配慮されているので中が見えず期待が高まってしまう。
    「着いたよ。」
    「すげえな…」
    施設に近づくと大きさや広さに俺が圧倒されている間に、ファウストが先ほどの職員証を横の機械にスキャンすると扉が自動で開く。中からは植物特有の緑の香りが吹き抜ける。中に入ると天井が高く、熱帯系の大きな植物も収まって余りある恐るべき空間の取り方をしていた。天井すらもガラス張りで、太陽光を目いっぱいに取り込んでいる。大木に絡まる蔦を天井付近の柱にも巻き付いており、のびのびとしていた。その足元には付近の花屋では取り扱っていないような大きな絵の具の原色をこぼしたようなビビットな花が咲いていた。商業施設ではないので道が碁盤目状に動きやすく設計されており、奥を見渡すとガラスの扉で仕切られている空間や、温室などが点在しているようだった。朝から行くのか?と疑問に思っていたが確かにこの広さを堪能するなら時間はいくらあっても足りない気がしてきた。
    「すごいな…。熱帯植物?」
    「見てわかるんだな。」
    「まあ、ある程度は」
    「基本は熱帯植物だが、区切られている部屋ごとに気候が変えられているんだ。…あ。」
    「どうかしたのか?」
    「温室専用のカードキーを研究室に置いてきたみたいだ。取ってくるから、好きに見て回っていてくれ。」
    「いいのか?出歩いて。」
    用事があるって言っていたし、温室に用があったんだろうけどファウストが忘れ物なんて珍しい。今日はなんだか色んなことが新鮮な日だった。温室は研究のためにあらゆる季節や環境の植物が集まっているらしい。自然の摂理には反しているが、そんな光景は確かにちょっとだけ楽しみだった。
    「他に人もいないはずだし、いいだろう。何かあったら僕の名前を出すといい。」
    「わかった。」
    ファウストがいなくなってしまうと水の音くらいしか聞こえない空間を適当に歩いてみることにした。緑や色とりどりに囲まれた空間は少しばかり異世界じみている。普段見ない大きさの植物に囲まれて視界もあまり開けてないことも空間の不思議さや漠然とした不安定さに拍車をかけている。大きな葉に囲われたガラスの戸を超えて視界が開けたところ、水の音の源であったのだろう、噴水のある広場、というには少し狭いが丸く切り取られたような空間に人が一人立っていた。吹き抜けから差し込んだ日に照らされた桔梗のようなさらさらとした髪色を垂らして何かを懸命に見ていたその立ち姿は、華奢な影がまっすぐ伸びているようで何となく直感して学者さんなんだろうな、と思わされた。彼の纏う空気感は独特でそこだけ空間が歪んでいると言われても信じてしまいそうなほどであったが、しかし悠然とした姿は少しだけファウストを彷彿とさせた。まともに知ってる学者がファウストしかいないと言うのもあるのかもしれないが。少ないサンプルだが、学者というのは少し変わりものなのかもしれない。立ち尽くしていると、その人はこちらを振り向きこちらを舐めるような目で足から頭まで一瞥した。観察された、と言っても問題ないような不躾な、見透かされるようなスキャンされるような視線に背中を蛇が這っているようにぞわっとした感覚が引き起こされる。冷や汗が頬を伝い、半歩後ろに引いてしまう。そんな俺に彼はふっと綺麗な、作り物めいた微笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
    「驚かせてすまないね。俺の講義の学生かもしれないと思ってしまって。」
    謝意を込める様なポーズで胸に片腕を当てる恭しい挙動は驚くほどに紳士的であった。
    「ああ…いや、こちらこそ驚いて、すんません…」
    「うちの学生だったらすまないね、あまり覚えていないんだ。」
    「あ、いや、違うんで…大丈夫です。」
    その返答に彼が見せた瞳の色はわかりきっているという表情。
    「うん、だと思ったよ。大方、ファウストくんの連れだろう?非番であるにも関わらずわざわざ植物園の使用許可と来賓承諾書を申請していたみたいだからね。」
    「え…?」
    「ところで、きみこの花の花言葉を知っているかい?」
    目の前まで来た彼が指しているのは白くて可憐な花。気が付かなかったが温帯のゾーンに移動していたみたいだ。気にしてみれば少し寒くなった気がする。
    「あ、触んない方がいいですよ。それ、野茨っすよね。」
    「ああ、そうらしいな。」
    下に書いてある、と指さしてくれた。学名で書かれた看板は読むのに少しだけ手間取る。不意に目に入った彼の革靴は高級ブランドのものであった。
    「花言葉は、『素朴な愛』『才能』『孤独』でしたっけ…?」
    「さあ。」
    そう言ってこちらをのぞき込むように、物理的距離は縮まっていないのに急に踏み込まれたような居心地の悪さを感じてしまう。
    「『素朴な愛』…なるほど。愛とは厄介なものだけれど、じゃあ素朴って何だろうね?愛は総じて素朴でないからこの花が存在しているのだろうけれど、じゃあ素朴じゃない愛とはどんなもの?きみは愛を何と定義する?」
    そう言ってからもう一度花を見やって語り出した。教授というよりは語り部で、仕草は聴衆を意識しているのに、俺に学が無いせいかもしれないが、こちらはまるで置いてけぼりであった。それにも関わらず、問いかけてきた彼はこちらが話すまで待つというような余計な配慮があった。開ける口があるなら俺はいくらでも待とう、という圧を感じる。空気を吐き出す機能のみを行う唇を震わせる。何か、言わないと。口をついて出た言葉は、心根だろうか。
    「愛…は、執着、に近いんじゃないですか。」
    変わらず追いつめられる様な瞳がある意味を持った光を宿して、ほう、面白いね。続けて、と促されればあまり考えたことのない世界の言葉を紡がされる。いつもより頭を回転させて慎重に話す。一年前、ファウストと契約した時に庭に持っていたのは愛着か執着か、それと向き合わせられるように。そして、今は?
    「好きなものを手放したくない、みたいな…」
    「きみは愛着は耳障りのいいだけの言葉であると考えるわけだ。」
    「そう、なのか…?」
    「曖昧だね。曖昧なものの話をしているからそれもきみなりの答えと言えば答えだろうけれど。…『ある母親』の話をきみは知ってるかい?」
    首を横に振ると彼は目を伏せて諳んじ始めた。
    「我が子のために茨を抱きしめて温め春を与えるんだ。自身の体、片目すら失おうとひたむきな姿は無償の愛の代表例として語られるが、きみはこれも執着だと思う?或いは、愛着という名でもいいけれど。その愛は同じもの?」
    「……。」
    「ネロ。…と、ムル先生?」
    ずいぶん奥に来てしまっていたから探してくれたのだろう、俺を呼ぶ声に喜色が見受けられたように感じたのは俺の願望だろうか。助けを求めるようにファウストを見てしまう。きっと情けない顔をしてしまっているのだろう。
    「やあ、ファウストくん。奇遇だね。」
    「操作された事象は偶然とは呼びませんよ。」
    「それはそうだ、俺がきみを冷かしに来たとでも?」
    「意味もなく花を愛でるような方ではないでしょう。」
    そう言われてしまうとムル、と呼ばれた彼はこちらを一瞥し、何かを理解したようににこやかにとは言えない笑顔を浮かべた。
    「そういえばファウストくん、去年の今頃あげた就任祝いのワインはどうだった?飲んだかい?」
    「ええ。冬ごろに。おいしかったですよ。ありがとうございました。」
    そう、それは何よりだと目を伏せた後、立ち去るかと思えた彼は振り向いて誘いを投げかけてきた。
    「ここで会ったのも何かの因果さ。今夜久しぶりに飲みにでも行かないかい?大人になったかもしれないきみに、相も変わらずわかりやすいきみが複雑性を獲得したのか興味がある。」
    「今夜は先約があるので。」
    先約とは多分俺のことだろう。優先してくれるのは嬉しいが、ファウストには就任祝いをくれる様な同僚、でいいのだろうかを大切にしてほしかった。一緒に半年暮らしてもファウストの交友関係が全く見えなかったから、こういったしおらしいというかしゃっきりしていて、嫌がっているように見せながら邪険にはしない、俺には取らない態度を見られたのが嬉しかったのもあるのかもしれない。
    「いいよ、ファウスト行ってきな。最近俺とばっかり飲んでるだろ?」
    少しは、先ほど言われた執着がファウストに向いていないと自身に言い聞かせたかったからかもしれないけれど、予想以上に落ち着いた寂しそうな声が出てしまって焦る。
    「いや、僕は」
    「きみも一緒に来るといい。あのワインを勧めてくれた店主の店だ、気に入ると思う。じゃあ、またあとで。そうだ、ネロくん。」
    「はい?」
    突然名前を呼ばれて背筋が緊迫で伸びる。
    「さっきのは古い童話の話だよ。ただの思考実験さ。」
    「はぁ…」
    そう言い放った彼の態度はひどく淡白で飄々としていた。彼にとっては何でもない時間であったのだろう。きっと彼の生徒たちの顔と同じように忘れてもいいことなのだろう。
    「このままきみたちを観察するのも非常に愉快ではあるだろうけれど、いささか野暮と言ったところかな。無骨で、気品に欠けるだろうから。失礼するよ。また後程。」
    そう言って立ち去る背中が見えなくなって俺はようやっと深い呼吸ができた。
    「大丈夫か?何か言われたか?なんというか…あの人は昔からああなんだ。怒ってもいいぞ、僕が許可しよう。」
    「いいや、大丈夫。そんなことしたら花にも悪いだろ。」
    負の感情を与えてしまえば繊細な花に影響が出てしまわないとも限らない、というのを建前に感情を顕にすることは苦手だし、何よりファウストの前でそんなことはしたくなかった。
    「さすが、腕利きの園丁さんだな。」
    「いや、そんなんじゃ…」
    それに、せっかくのファウストとのお出かけだ、ファウストにとっては慣れた場所だろうが俺はできるだけ楽しみたかった。出鼻を挫かれた様ではあったが、その意をくんでくれたのだろうか、それだったら恥ずかしいなと思いつつ、今度こそ二人だけの空間で日が暮れるまで花や植物を飽きるほど見た。飽きるほど、というのは俺にとっては言葉の綾だけれども。俺とファウストでは植物に対する態度や見方、目の付け所が違うので話していても聞いていても楽しかった。俺の話にも耳を傾けてくれるファウストは優しく受け止めてくれるようで、心地のよさを再認識する。
    夕暮れ時、一方的に取り付けられた約束まで時間があるし、せっかくだからと大学構内を案内してくれた。ここが、ファウストのいつも見ている景色…。
    「あれ、ファウスト先生?」
    「ああ、ヒースクリフとシノか。」
    ふと、ファウストが二人の学生、だと思う、に声を掛けられる。名前を呼び返すファウストに先ほどの出来事のせいだろうか、感心してしまう。
    「どうも。何してるんだ、こんなところで。」
    「こっちの台詞だ。」
    「今日は臨時のセミナーがあって。」
    「そうだったのか、お疲れ様。」
    警戒で、でもファウストが少し先生ぶったような大人の対応をしているのを横で聞いていた。いつもは甘えたで少し横暴な年下の顔ばかりを見ているから、知らない場所で見るファウストは俺の知らない面ばかりだ。少し、心に冷たい風が通り抜けたような心地で聞いていると突然、話を振られてしまう。今日はこんなことばかりだ。
    「そいつは?」
    「ああ、僕の友人だ。」
    「そうだったんですね、こんにちは。」
    「あ…こんにちは。」
    友人。そんな言葉を反芻していたから少し反応が遅れてしまった。華奢で目にかかった金髪の奥の少し自信なさげな瞳を怖がらせないようにできるだけ優しい声を急いで作って口角をあげてみる。安心したようにこちらを見てくれたので、ほっとした。
    「あんた、友達いたんだな。」
    「こら、シノ!すみません、先生。」
    「帰るぞ。またな、ファウスト。」
    「先生、だろ!あ、シノ!…失礼します。また来週もお願いします。」
    お辞儀をする青年とすたすたと歩いて行ってしまう青年を、手を振って見送るファウスト。
    「先生、って感じだな。」
    「は?何を言っているんだきみは。」
    「んー、いやしっかり先生してんだなって。」
    「訳が分からないな…。」
    「褒めてんだよ。」
    そういうとファウストは目をぱちくりとさせてそうか、と俯きがちに呟いた。そう、その今見えている少し子供っぽいあどけなさの残るファウストは俺の知っているファウストだった。それによって安心した自分を見て見ぬふりをして笑う。
    「さ、待ち合わせに遅れちまうし、行くか。」
    「はあ…そうだった。不本意だが…」
    「いい酒が飲めるってよ、あんたワインは好きだろ?」
    「きみも一緒だしね。」
    そう言って俺に宥められて笑うファウストのことを今日あった人たちは知っているのだろうか。そんな考えを振り切るように目を伏せる。
    「ファウスト、案内してよ。俺は生憎この大学の地図が頭に入っていないんだ。」
    「仕方ないな。こっちだ、ついてこい。」
    得意げなファウストはやっぱり可愛かった。



    【Nigella:Faust】
    ムル先生に連れられるがままやってきたのは繁華街から一本横にそれたいかにも高級そうなバーだった。内装や家具、調度の一つ一つまでもがこだわりぬいているのが伝わってくる世界観の構築具合、並んだワイングラスには埃の一つも見受けられない。人がまばらに何人かいるのに、みなそれぞれにお酒に、空間に酔いしれており蓄音機の静かな音色とそれに合わせたような心地の良い人の話し声や気配で静かな空間であった。そんな店内、バーカウンターの奥に店主と思しきチューベローズのような男性が一人立っていた。ムル先生は慣れたように彼に向けて微笑み、一直線にカウンターに向かっていく。僕とネロは顔を見合わせて戸惑いを共有してからついていった。こんないいところに来るならもう少しいい服装をして来ればよかったな、と後悔しながらカウンターに近づくと店主が良く見え所作の隅々までが洗練されていることが分かった。綺麗な人であったが唯一、ムル先生を捉えて眉を引きつらせているのがバランスを妙に崩していた。
    「やあ、シャイロック。」
    「いらっしゃい。…おや、貴方が人を連れてくるなんて珍しいですね。拐しは犯罪であることを存じ上げないのですか?」
    僕らを見るなり、信じられないといった様におどけてみせた。外見よりユーモアを介した人だなと思った。
    「きっと、きみの気に入りになると思うけどね。それに、きみも会いたかったんじゃあないかな。」
    「二人もここに座ると言い。人気者の店主を独占できるよ。」
    はあ、貴方の店ではないのですが、と呆れの色を隠そうともしないため息をついてからようやく僕らを認識したようでにこっと優しげでどこか妖艶な微笑みを浮かべて迎えてくれた。
    「お客様、こちらへどうぞ。」
    言われるがままに席に着くと対話が始まる。お酒はどの程度嗜むのか、好きな味やつまみの種類、趣味や恋愛経験などについて。暫くしてカクテルが一杯出てきたのを見て、先ほどの質問の意図を察すると同時に「恋の話は好きなんです」という一言に必要ないことまでたくさん喋らされたな、これが話術かと感心してしまった。ムル先生が店主に絡んで躱すという熟成されたやり取りを見てムル先生の言う事に動じるのは自分が未熟な証拠か、それとも店主の態度はこの二人の間にある信頼の証の賜だろうか。この二人はきっとついたり離れたり、悪いところに露骨に嫌な顔をしながら友人なのだろう。僕はさっきネロのことを咄嗟に友人と表現したが僕はネロとこうなりたいのだろうか?こういった形でなくとも時折酌み交わすお酒がおいしければいいのだろうか。多分、この感情はもっと違う気がする。気がするんじゃあなくて、ずっと前から気が付いてはいたけれど。確かめるように横に座るネロを見つめてみると彼はどこか遠くを見つめてぼーっとしている気が付いた。
    「ネロ、大丈夫か?」
    「ああ、別に。ただ…場違い感がすごくて落ち着かねえっていうか。」
    「それはちょっとわかるかも。」
    「そうなんだ?ファウストはてっきりなれてるもんかと。」
    至極安心したように彼が笑う。グラスを庭仕事で筋肉のついた腕や指が支えるのを見ると彼の方がむしろ慣れていそうな貫禄があった。
    「きみが言ったんだろう。きみくらいしか飲む相手がいないって。」
    「そこまでは言ってねえよ。」
    先ほどの上げ足を取れば笑いながら訂正をしてくれる。
    「ふふ、微笑ましい。」
    声が大きかったのだろうか、店主が長髪を揺らしながら微笑む。
    「最近、ファウストくんの機嫌がいいのはきみのおかげかな?とっつきやすくなったって専ら噂だよ。俺の耳に入るくらいだからね。どう思う、ネロくん。」
    すかさず、隣に座っているムル先生も入ってくる。店主に呆れられたからだろうか。というかそんな不本意な噂話、聞いたこともないが。僕が言えたことではないがあんなに孤立しているムル先生も聞くような話というのは些か怪しかった。
    「え、俺っすか…?」
    「ムル先生。」
    声色に制止のニュアンスが含まれていたのはきっと昼間のせいだ。
    「ふふ、何だい?愛しいものに触れられそうで焦燥した?」
    「愛しい人を壊されそうで嫌気がさした、の間違いです。」
    次の瞬間、カマをかけられたことに気が付いた。哀れな僕を引き返せないところへ引きずり込むことに成功した不遜な学者は瞳に揶揄を浮かべて笑みをたたえていた。
    「愛しい人、か。どう愛しい?それは友人として?それとも別の感情?わざわざ彼のために植物園の開館許可を取った?」
    ため息が出る。彼の講義を受けていた当時からこの人は嫌なところに何の躊躇もなく一気に踏み込んでくる。触れられたくない部分を明かすことを啓蒙だとでも思っているのだろうか、と何度辟易したことか。それでも初めて先生の言葉を浴びせられた日を忘れることができない。なんて人だろうか。
    『知っている筈のことを知らないことに、その逆に。一夜にして、いやたった一言によって変えられてしまう。それが哲学であり、すべての学問の根本だ。そしてそれは知らなくても咎められるものではないし、知らない方がいいという者もいる。世界から乖離した感覚に屈するようであればこの魅惑的な書斎から出ていくことを許可しよう。気の惑わせるような探求、度を越えた動揺さえ学問として扱うこの深淵に耐えうる気がないのなら、三分待つ。けれどもしも、理性の惑いの先へと辿り着き、知への愛を振るう勇気があるのなら愛を持って歓迎しよう。知の扉へと手を掛ける知への弛まぬ敬愛を期待しているよ。』
    学生だった当時、あの広い講堂でなんでもなさそうに、そう言われた瞬間に出ていっていれば。それを聞いて漫ろと講堂を後にした他の生徒たちと同じように行動していれば。そんなことを悔やんでも今は仕方がないことだとわかっていても、今口から出た言葉をどう弁明するか酒の回った頭では不十分が過ぎるという物だった。素面でもこの人になんて勝てないのに。こんな、売り言葉に買い言葉でネロへの気持ちを表したくない、その一心で押し黙ってしまう。そんな僕を心配してだろう、ネロは
    「ファウスト、落ち着いて。愛しいは言いすぎだろ?訂正されても別に傷付かないから、」
    なんて言ってくる始末だ。僕の不始末で。
    「違う…そこじゃあない。僕は、」
    そこまで言うと僕の携帯電話の呼び出し音が鳴る。画面を確認すると学会関係であった。ひどく間の悪い時に、とさらに苛立ちが募る。
    「出ておいで。」
    感情的な僕を落ち着かせるためでもあったのだろうが、穏やかな声でムル先生に促されると、ネロも頷いてくれる。その後に続く言葉も思いつかず、仕方なく僕は一度席を外すことになった。

    戻ってきたときにはネロの姿が見えなかった。ムル先生曰く、ついさっき出ていったとのことだ。俺の奢りだ、というムル先生に一応礼を言って僕はとにかく店を走り出た。本当はお詫びでしょう、と言いたいところであったが。


    青年が走り去ったバーの店内にて。
    「酷い人。」
    本気で突き放すような冷たい声色は、常連の誰も向けられたことがない音色。
    「つけでお願いするよ。」
    「お断りします。高名な学者様なら一冊本でも出してこれまでの分もまとめてお支払いください。…でもそんなことを言うなら、なぜ格好つけたんです?」
    「あのワインをあげたのはあの子になんだ。一緒に飲むことのできる人ができたら飲みなさいってね。」
    「無粋な人。」
    青年たちに気を使っていたのだろうか、それとも高慢な彼の態度に嫌気がさしたのか、店主は取り出したパイプから口を離して煙を吐き出す。
    「愛着とは呼んでくれないのかい?」
    「お勉強し直す必要があるのでは?」
    にこやかに皮肉るシャイロックにムルは面白いものを見る目を浮かべる。
    「俺にそんなことを言うのはきみくらいのものさ。…最初は百人越えだった。俺の名前で集められた学生ばかりだったな。だからかな、一回目の講義で七人まで減った。だからテーブル議論に講義を変えた。こういう風にね。その年最後まで残った三人のうちの一人だったんだ、ファウストくんは。少しばかり目を掛けてしまうのも納得だろう?」
    「酷い講義ですね。」
    「学長から呼び出しをされた気がするよ。俺は悪かったと思っていないけれど。こうして彼が成長したのを見届けられたしね。」
    「よく破門にされませんでしたね。」
    「ほら、俺は引く手数多だから。」
    「つくづく、嫌な人。」
    何が愉快なのだろう、学者は杯を煽って笑った。



    【Hydrangea macrophylla:Nero】
    気がついたら行く当てもなく、お代も払わず歩き出していた。幸いファウストの家や職場の近くだったから土地勘がないわけではないが、どんな顔をして帰ればいい?
    ファウストが席を外した途端、ムルさんの矛先は俺に向かった。
    「聞いたかい?彼はきみを壊したくないって。よかったじゃあないか。」
    先ほどのファウストの思いつめたような悔しさの滲んだ顔を思い出す。俺には何ができる?
    「彼は、ファウストくんを敢えて一言で表現しようとするならば高潔で純な人間だ。その認識に齟齬はある?」
    俺は力なく小さく首を横に振るので手いっぱいだった。
    「彼がきみに愛を断言した時、彼はきみのために茨を抱くことも厭わないだろうね。」
    薄々、気が付いていた。もしも、願いがかなったとして、一般に同じとされる感情を抱いていたとして、俺のとファウストのはぴったり重なるのかって。同じ感情を持つ期待なんてしていなかったから考える必要もないから目を背けていたけれど。否、もし真理に近づいてしまったらファウストにいつもみたいな顔を向けられなくなってしまう気がして考えたくなかったからかもしれないが。それは月明かりの下、不躾な哲学者の墓荒らしにあった気分だ。一日にして、一言にして価値観や生活を変えられてしまう、そういった強さが針のように鋭く刺さる。その痛みに耐えられず、空気を吸ってくると言い残して、体裁も何も気にせず出てきてしまった。どれだけ歩いただろうか、気が付くとたまにファウストとコンビニに行くときに通る公園に無意識に足が向いていたらしい。雨が降ってきたことに髪が濡れていることによって気がつく。滑稽で、心が痛くて、涙が零れる。
    「ネロ!」
    幻聴まで聞こえてくる始末だ。俺は多分、ファウストのことがどうしようもなく好きになっていた。きっかけも思い出せないくらいずっと誤魔化してきた。面倒を見たくなる可愛い年下だと思い込み続けてきていたことに無理やり目を向けさせられた。
    「ネロ!」
    手を握られてようやく、幻聴などではなかったことに気がついた。
    「…ファウスト……」
    息をしている肩は同じように雨に濡れてしまっている。だめだよ、ファウスト。風邪引くよ、戻りなよ、言いたいことは沢山あるのに今彼が目の前にいることが凄く嬉しい。頬を伝った暖かいものを躊躇いがちに伸びてきたファウストの白くて細い指先が掬う。
    「ネロ、すまなかった。」
    「どう…して…」
    掠れて、情けない声を絞り出す。
    「どうして…って、」
    「どうして、ファウストが謝るんだよ…俺が、」
    俺が?なんて言おう。それだけ聞いたファウストは冷えた体をゆっくりと包み込んでくれる。耳元で囁くのはあやす様な優しい声。
    「嫌だったら離してくれ。勘違いしてしまうから。」
    どうしたらいいのだろう。抱き返せないでいる俺の行動を何と汲み取ったのだろう。少しずつ温もりが離れてしまう。離れきってしまう前に、袖口を握ったのは、無意識。
    「違う、違うんだ…。」
    「うん。」
    それから嗚咽が邪魔をしないように大きく息を吸い込む。自分の汚い部分をさらけ出すような聞き苦しい言葉の羅列をファウストはまるで美しい詩歌に耳を傾けるように愛しさの籠った瞳を合わせて聞いてくれる。時間をかけて話してしまう。
    「勘違い、じゃない…。でも、俺随分情けなくて。ファウストみたいな真っ直ぐな気持ちじゃないんだ。もっとぐちゃぐちゃしてて、蔦みたいに纏わりつくみたいな…」
    思い返せば、知らないファウストを見る度、理解しがたい不安と嫉妬に似たような感情を巡らせていたことにようやく向き合う。
    「僕だって随分狡いことをしたと思わない?」
    「え?」
    「きみは僕のことを心配だ心配だと言うけれど、きみだって余程危ういよ、ネロ。きみを好きな酒で釣って泊まらせて、ほぼ強引に同居に持ち込んだ。きみの優しさに先に付け込んだのは僕だよ。どこが真っ直ぐだって?」
    「でも、俺は」
    あのファウストに貰った花園の一角をこんがらがって絡まったアイビーと薔薇で先に囲んだのは俺の方だったような気がしてきた。
    「うん。でもそんなところも含めて、うううん、そんなきみだから。ネロ、きみの事が好きだよ。」
    きみはどう、と聞いてくるファウストにはいつも自信のこもった態度が威勢がなかった。ファウストも不安なのか…?だとしたら、俺はここで逃げたらいけない。あの時聞き損ねた大外れの推測の答えがここにあるのに。そしてこんな自分をそんな目で見つめてくれる人から逃げてしまったら、好きだと言ってくれたファウストまで貶めてしまう、そんな気がした。
    「俺も…」
    小さすぎる声にもファウストは穏やかな声でうん、と返事をくれる。
    「俺も、ファウストのことが好き。」
    よかった、と胸を撫で下ろすファウスト。そしてこちらを覗き込んでふふ、と彼はいつもと変わらず微笑んだ。
    「きみ、こんなに濡れているじゃあないか。僕らの家に帰って、温まろう?」
    あまりにもいつも通りのファウストになんだか、先程までが嘘のようで、俺も自然と笑っていた。僕らの家、というのがなんだか今までと同じ言葉のはずなのにやけにくすぐったい。
    「うん。暖かいスープでも作ってやるよ。」
    それは楽しみだ、というファウスト。いつもと違うのは、ファウストが俺の手に触れてきたことだ。驚きつつも、おずおずとその甘えるような手を迎える。気が付けば通り雨はもうやんでいた。2人とも冷えきった手を温め合うように指を絡めて、帰路に着いた。



    【Tulipa gesneriana L. :Faust】
    後日譚。
    あの日のことは忘れられない。一緒に帰って、お風呂に入って暖炉の前でゆっくり互いの気持ちをひとつずつ紐解いていった。丁寧に、歪でも花束を作る様に。ムル先生に乗せられて言いたくなかったこと、そうさせられたのも、そうでもしないと思いを告げられなかったことが悔しかったことも全部赤裸々に話してしまった。言葉にしてしまえばなんとチープな感情、或いは情動だろう。それでもネロは僕のことを高嶺の花だのなんだのというから、後日白いアザレアを押し付けてやった。
    「そういう態度が眩しくて…でもあんたのその強い部分と子供っぽいところが好き。」
    と受け取ってくれた。子供っぽいとはなんだ、と言うとそういうところ、と返される。じゃれ合う様なやり取りはまだ少し目新しく、くすぐったくて、幸せだった。
    とはいえ、ネロと晴れて恋人になってからも僕らの生活はそんなに変わりなかった。元々一緒に住んでいたし、仕事だって僕は変わらずだ。購入住宅だから発生しないというのに家賃を払うと言ってきかないネロを説得するためネロの勤める会社との庭師契約を解除してネロに趣味の範囲でうちの庭の整備をしてもらうことになったが、結局やってることは変わりないとネロは言う。仕事にプラスで大変じゃないか、と聞いたら「自分ちを掃除するのは当たり前だろ?それと一緒だよ。あんたは片付けが下手だけどな。」と言っていた。他に強いて言うならば、実はこっそり浮いた家賃で免許を取っていたネロが運転を交代してくれるようになったり、たまに一緒に寝るようになったりという程度だ。あとは。
    「ただいま。」
    「おかえり、ファウスト。」
    今日はネロが運転の日だから大学の駐車場まで迎えに来てくれた。乗り込むとすぐ、ネロが近づいてきて僕の肩を引き寄せる。
    「ん?」
    頬に触れる微かな感覚とかかる吐息。すぐに感触を目で追えばネロの顔がすぐ近くにあってキスされたことに気がつく。
    「きみは…こんなところで…」
    じとりと見つめると悪びれもせず笑いながら悪い悪い、とハンドルに向き直る。最初の頃こそ手馴れているようで複雑な気持ちになっていたのに、この軽い態度が照れ隠しだと気がついてからはそれすら愛おしいのだから僕も困ったものだった。エンジンの音に隠して幸福なため息をつき景色を目で追うと燃えるような彼岸花が目に飛び込んでくる。その深紅にところで、と思い出す。
    「チューリップの球根を貰ったんだけど、植える場所はあるか?」
    「あるけど…なんで今の時期?」
    「実験で使わなくなったからって押し付けられた。本当かは知らないけど。」
    「ま、捨てちまうよりいいか。帰ったら植えてみようぜ。」
    紙袋に入れられたそれを信号待ちにちらりと見て、そんなにあったらチューリップ畑でも作ってみてもいいかもな、なんて素敵な提案をくれる。
    「僕も一緒にいい?」
    園丁としての仕事に手出ししてしまうみたいで少し気が引けたが、彼は快諾してくれた。それも、嬉しそうに。
    「もちろん。」
    何色の花が咲くのだろう、なんて考えるのは気が早いだろうか。車窓から見える一番星にきっと綺麗に咲いてくれますように、と願ってはみるものの、心を占めるのは自慢の恋人が一緒なのだから来春には綺麗なチューリップが見られるだろうという根拠の無い自信だったりもする。

    春告げ鳥が鳴く、紫とピンクが咲き誇った広い庭。初めての日の話を、何度でもしよう。いくつも重なった花弁のようにも思い出も増えていくから、いつか終わらなくなってしまうかもしれないけれど。
    「ネロと初めて会った時か?そうだな、『繊細そう』だと思ったよ。」
    そんな言葉でまた、思い出話を始めよう。人に対して壁を作って自分も他人も守ろうとする優しい心根が植物に惜しみなく向けられているような、気がしたんだ。そしてそれは間違っていなかった。ネロの作った花園で春を迎える度、何度もワイングラスの重なる音がする。そんな未来を僕たちはまだ知らない。



    【注釈】
    アネモネ:「期待」「可能性」
    ノースポール:「誠実」「高潔」
    白いシクラメン:「清純」
    アイビー:「友情」「信頼」「死んでも離れない」「永遠の愛」
    カスミソウ:「清らかな心」「親切」
    ブルーデイジー:「幸福」「協力」
    イキシア:「秘めた恋」
    紫のライラック:「恋の芽生え」「初恋」
    桔梗:「気品」
    野茨:「素朴な愛」「才能」「孤独」
    紫陽花:「寛容」
    ニゲラ:「戸惑い」
    チューベローズ(別名:月下香):「危険な楽しみ」
    白いアザレア:「あなたに愛されて幸せ」「充足」
    ピンクのチューリップ:「愛の芽生え」「誠実な愛」
    紫のチューリップ:「不滅の愛」
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