get married to ____________.①
「本当にごめんなさい、でも、貴方と一緒にいるといつも寂しいの。」
机上の離婚届、置かれた揃いの指輪。
───まさかの四度目の離婚、それがテスカトリポカの昨晩の出来事だった。
◇
「あーーーー、オレがっ!オレが悪いのか!?」
都内某所、磨き抜かれたウイスキーグラスを乱暴にカウンターに叩きつける男が一人。
絹糸と見間違うばかりの淡い金の髪と、色素の薄い銀青の瞳は彼が異国の人間であることを教えてくれる。周りにいる客は外国人が何やら荒れているという感想を抱き、遠巻きにちらりと見つめるばかり。
もちろん、彼が腫れ物のように扱われるのは明らかに普通の職業の人間に単純に見えないからだ。
椅子にかけられているのは裏地が赤のダメージ加工された黒い皮のジャケット、同じ素材のパンツに、鍛えられた身体を見せつける白いシャツは胸元と腰回りが大きく露出され、両肩から二の腕にかけて青いタトゥーが入っている。
バンドマンと言われればそう見えなくも無いが、彼のまとっている空気はどうにも普通じゃない。本能的に避けたくなるようなそうな、重苦しいものだった。
しかし、初老のバーテンダーは肝が据わっているのか、「まぁた離婚したの〜?もう結婚は諦めた方がいいネ!」なんて軽口を叩いているが、ほとんどの人間は出来れば近づきたく無いのが本音だろう。そんな男は鏡面のように磨かれたテーブルに視線を落とした。
「…………オレは一人がお似合い、か、」
悲しそうに呟く彼───テスカトリポカを流石に不憫に思ったのか、そっと差し出されたのはテキーラベースのシャーベットカクテル。
先ほどまで煽っていたバーボンよりも度数はかなり控えめな甘い酒だった。
「これは私の奢り、一応は慰めといてあげるヨ。」
「……へぇ、あんたに慈悲の心があるなんてな。」
促されるままカクテルグラスに口をつけながらも、沈んだ感情を隠そうともせずテスカトリポカはまた溜息を吐いた。
「もう、結婚はしない、時間と金の無駄だと今回でようやく懲りた。自分でも驚くほど気づくのが遅かったな。」
「毎回、運命を見つけただのこれが最後だだの熱烈だったのに、急にドライになるネ〜?」
「……オレは本気で相手を愛していたつもりだが、向こうはそうじゃなかったらしい。それ、だけだ。」
自分でいうのはなんだが、給料はそこそこいいし、高身長で顔も小さくて9頭身、いや10頭身はある上に、身体もしっかり鍛えているし、もちろん顔は最高にイケメン。家事も全般出来るし、面倒見もかなり良いと自負している。
それに結婚生活中も、家事は分担していたし、声に出して愛していると伝え、惜しみ無く愛情を注いだ。そして、相手の要望は大体叶えてやったし、それこそ優しく、大切に、壊さないように、大事に接していたつもりだった。
それなのに結婚した女が立て続けに四人、全員が不倫するとかそんなこと起こるとは、流石に予想外過ぎて笑えない。
ほいほい結婚をした自分も悪いが、そんな女たちに引っかかること自体運が悪い。
ただ、原因はもしかしたら自分にあるのかも知れないと少しだけ思う。何故なら不倫以外の彼女たちの共通点はたった一つ。
『全員似たような琥珀を溶かしこんだ蜂蜜色の髪であったということ。』
3度目のとき、いい加減あの髪色は自分にとって良いものでは無いことは分かっていた。それでも同じ色の髪の女性を目で追ってしまった。単純に性癖と言われればそれまでなのかも知れないが、それとはまた違うもっと魂にこびり着いた残滓のようなものに感じている。
明らかに執着していた、あの色に。全員可愛らしかったが、彼女たちの優れた容姿よりもその髪を美しいと思っていた。
その上、ふとした時に何処か“違う”と思ってしまった事があった。
欲しいものを手に入れたのに、全く満たされない心を誤魔化すように優しく、更に愛情を注いでいた。女の勘は鋭い、もしかしたらそれが伝わって不倫の原因になっていたのかも知れない。
「ま、慰謝料はたんまりもらえるから、これでしばらくは遊んでるさ。」
5年という驚くほど短期間で結婚と離婚を繰り返したために戸籍は黒いし、理由を知らない輩には結婚詐欺師だと風評されるし、踏んだり蹴ったりとはまさにこれだ。
飲み干したカクテルグラスを先ほどとは打って変わって、そっとテーブルに置く。
「不倫を許せるような男に見えるのかねぇ、オレの愛は大分重いんだがな……」
「はは、その見た目じゃあ誰も信じないネ!」
次々と辛辣なことばかり言うバーテンダーに、本気で凹みつつ、追加でまたバーボンを頼もうと口を開きかけたときのことだ。
『テスカトリポカ……』
誰かに、名前を呼ばれた気がした。
強烈な懐かしさと愛しさが胸を支配する。少し高めの染み渡るような落ち着いた声を、聞いたことがあると、頭の中で誰かが訴える。
ばっ、と思わず振り返った。
「何、どうしたの?」という店主の声も聞こえなかった。
ただ、ブーツで床を歩く足音がだけが耳に入ってきて、近づいてくるごとに、心臓が五月蝿いくらい脈打って、その足音の持ち主を待っている。徐々に早まるその音がテスカトリポカの鼓動と重なった瞬間。
「テスカトリポカ、っ!!」
今度ははっきりと耳に届く自分の名前。
間接照明の薄暗い店内でもわかる、そうテスカトリポカがずっと恋焦がれていた鮮やかな蜂蜜色の髪と珍しいバイオレットの瞳を持った誰が見ても美しいというだろう『青年』が駆け寄って来た。
彼は迷うことなく、文字通りテスカトリポカに抱きついてきた。
自分のそう身長が変わらない男なのに、どこか幼なげでそれでも抱きしめてくる腕の強さは間違いなく成人のもので、仄かに酒の匂いがする。
どうして自分の名前を知っているのか、どうして初対面のはずなのに苦しいほどの猛烈な懐古の感情が胸に広がっているのとか、いや抱きしめられているから苦しいのかとか、混乱する頭で、肩口に顔を埋めている青年を困惑しながら抱きしめ返した。それが正解だと頭の中の誰がまた言っている気がしたから。
「会いたかったっ、……ずっと探してたんだ……テスカトリポカ。」
すん、と鼻を啜るような音がする。きっと、この青年は泣いている。ただの酔っ払いかも知れないのに、振り払うことなんて頭に浮かばず、うんうんと彼がポツリポツリと落とす音を拾うことしか出来ない。そして、ごく自然に形の良い頭をゆっくり撫でた。
さらさらとした感触は、ずっとこれを探してたというくらい手のひらに馴染む。
足りなかったピースが嵌まるような感覚と、見つけた、離さない、そう叫ぶ心は自分のものなのかと驚き更に狼狽えた。
そんな自分自身の感情すら上手く把握し切れないのに、目の前の男のことを気にかけることなんてテスカトリポカには出来やしなかった。
肩口がじわりと濡れている気配に、いよいよどうしたものかと思っていると、見かねたのかバーテンダーがカウンター越しに助け舟を出してくれる。
「修羅場なら、外でやってネ〜」
でも、そのセリフはどうかと思う。呆れて、少し冷静な頭になって、「あー、そのだな。」なんていつもの歯切れの良さが無い声が口から落ちた。
この抱きついて来ている男は男で周りのことなど一切気にならない質らしかったが、流石にテスカトリポカの困惑が伝わったのか、顔を上げると、そのアメシストの透き通る瞳に涙を浮かべて首を傾げる。
「……テスカトリポカ?どうして、名前を呼んでくれないんだ?」
悲壮な声に罪悪感に心臓を刺されながらも、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「悪りぃが、初対面だろ?オレたち。」
誰が見ても感動の再会であったのに、テスカトリポカの言葉で冷や水を浴びせられてカウンター周辺の空気が一瞬凍る。
絶望を絵に描いたらそんな表情になるんだろうと言うくらい、顔色が変わった男は今までの感情的な表情や声が嘘のように落ち着いて、袖でぐいっと涙を拭うと、感情が抜け落ちた無表情で「すまない、知人に似ていたから。」と年無相応に落ち着いた声を発した。
その切り替えの早さに面食らっていると、黒いコートを翻しすぐに立ち去ろうとするから、思わずその腕を掴む。
「これも何かの縁だろう?乾杯しようぜ、兄弟。」
逃してはならないと本能的に悟り、捕まえた男は、まさか呼び止められると思っていなかったのか、その大きな瞳を見開いた。
「オレの名前は、まぁその知人と同じテスカトリポカだ。すげぇ偶然で驚いた。なぁ、オマエは?」
「…………デイビット、だ。」
隣に座るように促せば、躊躇いつつも腰掛ける。
それでも頬をわずかに赤くして、「勘違いして、恥ずかしいよ。」と見せた年相応の可愛らしさに危うさを感じて、微かに目眩がした気がした。
「ま、色々あって景気がいいんでね、今日はオレの奢りだ。」
一連の流れを見ていたバーテンダーがテスカトリポカにはイエローのクセの強いカクテル、デイビットにはブランデーベースのオレンジ色のカクテルを差し出してくれた。まさに二人にはお誂え向きの酒だ。
「オレたちの出会いに乾杯。」
「………うん。」
それが今生のテスカトリポカと、デイビット・ゼム・ヴォイドの出会い。