おまえにだけみせたい②Day.3
「よし、今日はこれで終わりだ。良くがんばったな」
テスカトリポカの一声で、デイビットの全身に入っていた力が一気に抜ける。
は、は、と肩で息をするデイビットを労わるように、血の滲む膝裏をガーゼで拭う。前回同様にワセリンをたっぷり塗り、新しいガーゼを当て、テープで固定する。ぴく、と痛みで僅かに動く脚をものともせずに手際よく処置をしていく。
「……ん、今回は、大丈夫だったよ……」
「ほう?そうかい。ならよかった」
強がりのセリフにふっと笑うような息が漏れた。
こちらを見る紫色の瞳に薄く膜を張る涙は、今回はあまりこぼれなかったようだった。テスカトリポカは、その蜂蜜色の豊かな睫毛に乗る雫が、瞬きのたびにぽろぽろと煌めくが好ましいな、と不自然に思われない程度に見つめる。
単純に綺麗なものは好きだからな、オレは。
デイビットの肌には、痛みからか全身に汗が滲んでいた。棚からタオルを出し渡してやると、素直に首や胸、腹、太ももと汗を拭っていく。
「前回に比べたら範囲は狭いし、ぼかしと筋ならオレはぼかしの方が痛くないみたいだ」
相変わらずあまり表情が変わらないが、どこか得意げで嬉しそうに下がる目尻は、年相応にやはり少し幼い。
「オマエの場合、一番辛いのは内腿だって言ったろ?細かく丁寧にぼかして、最高の鱗を入れていくから、覚悟しておけ」
「……そういえば、前回は頭から彫っていたが、今回は尻尾からなんだな?」
「あ?……あぁ、蛇を彫る時は最後は頭だと決めているからな。所謂、ポリシーってやつだ」
筋だけのまだ『生命』が吹き込まれていない蛇に、徐々に艶やかな鱗を持たせ、持ち主に住まわせていく。最後に頭と、瞳に色をのせることは、テスカトリポカが一番好きな工程だった。
「楽しみは最後にとっておく口でね。もしオマエが不満でも聞いてやれんが、いいだろう?」
「あぁ、もちろん。テスカトリポカの好きにして構わない」
あまりにも素直に受け入れる言葉を返すデイビットに、テスカトリポカは調子が狂ってしまう。「そうかよ」と短く答えて、結んでいた髪を解くと、さっさと扉へと向かう。
「疲れただろ、コーヒーでも出してやる。さっさと着替えてこいよ」
「……あぁ、分かった」
後ろも振り向かずに告げた言葉は、接客業としては最低だ。だが、デイビットは気にしない。
もちろん、テスカトリポカのネットや界隈での噂を知っていればその反応が『最善』なのだろうが、もっと違う、根底から感じる信用のようなもの。
ほぼ初対面にも関わらず、最初からこちらを知っているかのような対応に、テスカトリポカは少し違和感があった。もっとも、その違和感を不快に思っていない自分も大概だ。
(会ったことはない、それは間違いない)
そんな事を思いながら、テスカトリポカは買い換えたばかりの最新のコーヒーメーカーに、この辺では買えず、通販をするしかない老舗の気に入りのコーヒー豆を適量入れる。
コーヒーの香りが漂い始めるころには、デイビットが施術室から出てきた。
ソファーに座るように促すと、少し躊躇ったのち腰掛ける。その仕草にぴんと来たテスカトリポカはデイビットの側に膝をついて座ると、左脚に触れる。
「オマエ、一度ガーゼを剥がしたな?まだ時間じゃないと言ったはずだが?」
カーゴパンツの裾を膝まで上げる。案の定、僅かにずれているガーゼが顔を出した。
「……すまない、ズボンを履くときに引っ掛けてしまって」
叱られた子供のような顔をして謝る姿に、毒気を抜かれてテスカトリポカは盛大にため息を吐いた。一度パンツを戻すと、施術室からガーゼなどが入ったボックスを持ってきて、テーブルの上に置いた。
「ったく。せっかちなやつだな、オマエは」
デイビットを立たせ、左脚のたくしあげた裾を持たせる。一度取れたガーゼを剥がし、また施術部を覆っていく。先ほどよりもテープでしっかり固定すると裾を下ろしていいと声をかけた。
ほっとしたのか、短く息を吐いて腰掛けたデイビットに入れたばかりのコーヒーを差し出した。
「ほら、飲め」
芳醇でスモーキーな香りに、デイビットは目を細める。一口飲んで、「美味しい、」と独り言のように呟くとそのまま、またカップに口をつける。
「2、3時間したら剥がすんだからな?」
「……うん、分かった」
「仕上がりに影響するんだ、ちゃんと守れよ。ルールは守るためにあるんだ」
こくん、と頷く姿はやはり従順で不思議な気分になる。それでも、こちらを踏み込ませない雰囲気を纏っている。
そんなデイビットにテスカトリポカは一度踏み込まないと決めた。だが、この質問ならまだ許されるだろう、とあくまでも彫り師と客という線引きをする自分に心の中で言い訳をする。
テスカトリポカはさも今思いついたように、本来なら筋彫りの際にしたかった、一つの質問をした。
「そういえば、蛇のタトゥーの意味、オマエは知ってるか?」
「再生、永遠、豊穣、繁栄、だったか。再生、永遠は脱皮や、生命力から由来しているらしいが」
「ほう、さすが彫ろうっていうだけあって、意味は知っていたんだな」
こと、コーヒーカップをテーブルに置いたテスカトリポカは、デイビットを見つめて更に問いかける。
「なら、オマエは、どの意味を持たせる?」
元来のおしゃべり好きな性格と相まって、気に入りの人間が刺青をどう考えているのか、試すような質問をしてしまう。
もちろんデイビットがどう答えたかで、何が変わるわけではない。これは単純な興味だった。
「……これは死ぬまで消えないから、『永遠』だ」
ここに初めて来たときと同じ強い視線だった。冷たいようで燃えるように熱い。
こちらを見つめ返す、偽りのない眼差しに目を細める。デイビットは、やはり、自分が彫るに値する人物だと改めて認識する。
「あぁ、そうだ。永遠に消えない印だ。オマエの魂にまで刻みつけてやるよ」
「……っ!!」
そういう気持ちで彫っている、テスカトリポカの本心を伝えると、デイビットがその大きな瞳を見開いて、息を呑んだのが分かった。同時に、細かく震えている唇、握りしめられた拳。明らかに動揺している。突如として、取り乱した姿を見せたデイビットにテスカトリポカは片眉を釣り上げた。
「どうした……?」
「……っ、なんでもな、い」
いくら否定しても、デイビットの顔は蒼白になっていた。デイビットは俯くと「すまない、今日はもう失礼する」と立ち上がり、足早に立ち去ろうとする。
もちろん、突然の態度の豹変ぶりに、慌てたのはテスカトリポカだ。有無を言わさず去ろうとするデイビットの腕を気づいたら掴んでいた。
「っ、おい、大丈夫か?」
「……っ、放してくれっ」
無理矢理、こちらを向かせたデイビットは泣いていた。
彫られる痛みに耐えていた時よりも、ずっと静かに、感情が溢れ出すかのように大粒の涙が彼のまろみがある頬を次々と伝っていく。
施術中に見た泣き顔なんて、生理的なものだって一発で分かるくらい。心の底から悲しみが湧き上がっているかのような表情だった。
「っ、悪い……」
咄嗟に謝ったテスカトリポカに、デイビットは更に傷ついたように眉を顰め、涙をぼろぼろと溢してテスカトリポカを乱暴に振り払うと、扉を開けて出ていってしまった。
残されたのはまだ温かいコーヒーと、混乱するテスカトリポカだけ。
何かが、デイビットの心の琴線に触れてしまったことだけは確かで、でもそれを知る術を今のテスカトリポカは持っていない。
信用はするくせに、信頼はしない。こちらから近づけば、すぐに逃げていく。まるで野良猫のようだ。
初対面で、どこか野生の動物のようだと思ったことはあながち間違っていないらしい。
「はは、失敗した、か?」
正直に言えば、少し傷ついているテスカトリポカだったが、これでもう来なくなったら困るな、などと打算的なことも考える。
まだ冷めていないコーヒーをくい、と飲み干す頃には、何事も無かったかのように次の予約の連絡が来ることをテスカトリポカはまだ知らない。