あの頃はそんなことまだなにも知らなかった。そう表現するとまるで自分が無知なようで苛立つがオーエンにとって必要のないものなのだから仕方がない。
吹きすさぶ風は冷たくも、雪は降らなくなった頃。ミスラと一緒に木の上にいた。ほうきに腰掛け、湖のほとりを見下ろしていた。血色のない肌をした女に、男が何度も口づけをしている。
このあたりにあった集落が潰えたと聞いて、ミスラもまたここから離れただろうと思い遊びにきたのに、遭遇してしまった時は運の悪さにため息をついた。
黙って立ち去ろうか一戦交えようか迷っていると、湖の端が揺らいだ。ミスラの視線もそっちに向いていた。男が、水の中から女を引き上げていた。魔力の気配はないから二人ともただの人間なのだろう。生かす必要も殺す必要もない存在だ。
だけどオーエンは偶然にも立ち会えた人間の死に、ミスラと出くわしてしまった不満はなくなっていた。
死んでいるのか、あるいはそれに近い状態の女。こいつを使えば、男の顔を歪ませられるだろうか。オーエンが顎を撫でて笑みを浮かべたその時、男は女と口を合わせた。数十秒して顔を離し、また繰り返す。
たまたま出会った死体だというのに、律儀に舟の準備をしようとするミスラの腕を掴んだ。
「……ねぇ、ミスラ。 あいつ、なんであんなことしてるの」
「さぁ」
「そもそも口付けってなんのためにするの」
「気持ちいいからじゃないですか?」
「したことあるの?お前が?」
「はぁ、まあ……」
「ふうん」
「……なんでしたっけ。 家族とか……恋人、とかチレッタが言っていた気がするので、人間にとってはそういう感じじゃないですか」
「そう」
それがどういう感じなのか分からなかったが、問いただすことはしなかった。この様子ではどうせミスラも知らないのだろう。
「舟に乗せる直前まで死体を抱きしめたりああいうことをする人間は多いですよ。 なかなか引き渡してくれないから面倒なんですよね」
「へぇ」
やはり人間のすることは分からなくて、不可解さにからかう気力はすっかり失せていた。ミスラが仕事をするのであれば戦闘をもちかけても碌に相手にされないか、すぐに殺されて楽しめずに終わるだろうから、他の場所に移ろうかと考えて始めたとき、肩に重みを感じた。ミスラの手が乗っている。
「試してみましょうか」
「は?」
「あなた、死んでも石にならないでしょう」
そう言うと同時に肩を押され、湖に落ちていく。箒を手元に呼び戻そうとしたが、伸ばした左手を取られ、指を絡められた。息をのんだ。戦闘中ですら、魔法で攻撃するからこんな風に触れ合ったことはない。逃がさないと言わんばかりにもう片方の手が腰に回される。意図が分からずミスラを睨もうとすれば、顔が思いのほかすぐそこにあって、いや、ぶつかる、そう思った時にはたがいの唇と唇が触れ合っていた。
派手な音を立てて湖面を突き抜けたはずなのに、その音はどこか遠くに聞こえた。水は氷になる寸前くらいの温度しかなく、服を侵しては肌にそして骨に噛みついてくるように冷たい。
死の湖で溺死する人間は呼吸ができなくなるよりさきに体温が下がって死ぬんじゃないかと思うくらいに、冷たい。それなのにどうしてか、左手と唇だけは緩やかに温度をあげてゆく気がした。
腰に回されていた手が後頭部に触れて、さらに顔を引き寄せられる。ぴったりと、じっとりと、唇同士が密着する。
家族とか恋人がする行為。
ミスラの言葉を頭のなかで反芻する。
人間や若い魔法使いが大事にしている関係、程度の認識しかないそれはオーエンには縁のないものだった。ミスラとはそのどちらでもなくて、じゃあこれはいったいなんなんだろうと考える。
そうしている間に息が苦しくなり口を開けば、気泡が飛び出した。競い合うように湖面に昇ってゆく。
空気を呼び込む魔法くらいなら呪文が唱えられなくても使えるか、あるいはこのまま一度死んだ方がいいか、オーエンが考えていると、口の中が塞がれた。
水と違って、ぬるぬると生温かく、水圧よりも確かな質量が無抵抗な口内にある。空気を送り込まれて、水と一緒に飲み込んだ。
その時。ミスラから与えられた空気が心臓のあった位置に到達した時。なにかが、びきりと音を立てて割れた気がした。熱いものが溢れ出しているような、流れ込んでくるような、初めての感覚だった。血が噴き出したときに似ていて、だけど、痛みはなく、ゆるりと蜜のようななにかが満ちていくような感覚。
なんだろうと考えたくても、既に目も開けられないほど体が死に近づいていて、思考するほどの力は残っていない。
「まだ、もう少し、死なないでくださいよ」
魔法で、おそらく頭に直接流しこむようにして伝えられたミスラの声。
だけど肺にどんどんと水が流れ込んできて、息はますます苦しくなっていく。
ミスラから送られる空気を飲み込むたび、胸のあたりで呼吸のようななにかが、これまでにないくらいゆっくりできている気がした。
もはや冷たさも分からないほどあらゆる感覚がなくなっていたけれど、死ぬ瞬間まで、左手と唇だけが熱かった。
目を覚ましたのは見慣れないベッドの上で、一瞬身構えたが、「やっと起きましたね」と顔を覗き込んでくるミスラに自分の家だと説明された。引き上げてやったので感謝してくださいという言葉は無視した。
「試してみて、どうだった」
「は?」
「死んだ僕に口付けてみて、何か分かった?」
「あぁ、忘れてました」
予想はしていたものの、やはり死んだだけ損だった。どうせミスラに人間の感性が理解できるとも思っていなかったが。何かを得たのはオーエンの方だけだったらしい。
ベッドから離れようとするミスラの服の裾を引っ張る。
怪訝そうに歪んだ唇に、今度は自分から重ねてみた。
「ん、」
鼻から抜ける、無防備なミスラの声は初めて聴くもので、鼓膜がくすぐったい。
さっきと同じように口をあけてみれば、ためらいなく舌が入り込んでくる。それは冷たい湖の中でなくとも熱かった。
されるがままにしていると、呼吸も思考もおぼつかなくなってゆく。だけどやはり胸のあたりが、生まれて初めて安堵したような感覚を訴えてくる。これを得るためなら死体にも口付けたくなるかもしれないと、ほんの少しだけ、名も知らない男に共感していた。
唇を数センチだけ離して、「まだ死なないで」と伝えてきた真意を問うと、ミスラにしては珍しく、答えが返ってきた。
「なんだか悪くない気がしたんですよね。 他の誰にも邪魔されない場所で、あなたとああするのが」
結局すぐ死んじゃいましたけど、そう笑いながら今度はミスラから唇を重ねてきた。髪の毛の先まで汗をかいているかのようにじっとりと全身が重く、熱かった。
随分あとになって、あれは人間の救助方法なのだと知った。あの男はおそらく、女がまだ生きていると思って助けようとしていたのだろう。ミスラの言う通り、最期の別れを惜しんでいたのかもしれないけれど。どっちにしたって、オーエンには関係のないことだ。
結界が破られる気配がしたが、瞼は閉じたままでいた。寝たふりで誤魔化せないだろうか。闖入者は「珍しいですね」と言ってベッドに上がってくる。確かに、いつものように部屋を出ていればよかった。
唇が塞がれる。千年近く時が経っても、変わらない。オーエンが寝ていようがいまいが、この男は挨拶もなくのしかかかり、好き勝手に皮膚と粘膜に触れてくる。
寝ているふりに努めるのも馬鹿らしくなって瞼を持ち上げると、緑色の目が少しだけ見開かれた。
「ん、ふ……」
視線で促されるままに口を開ける。ぬらりと差し込まれた舌を自分の舌で受け止めて、擦り合わせて、吸い合って、緩く嚙み合って。一度離し、また繰り返す。もうあの時と違ってされるがままではなく、仕返す方法を知った。
湖の中で初めて口付けを経験した日から、唾液と体温を吸って吐き合うこれも、呼吸に思えた。息は苦しくなるけれど、心臓に火を灯されるのを待ちわびているように、胸の奥が開いてゆく。
それが何なのかはわからないままだ。だけど自分の中にある感覚が、他人の手垢で汚れた言葉に押し込められてしまうなんてまっぴらだった。だから名前をつけないまま、この胸の空洞に隠している。