嘘偽りだとしても、あの人の命が続くなら……
赤子の泣き声がどこからともなく聞こえて、大般若長光は吸い寄せられるように歩みを向けた。
その背を黙って追うのは日本号たった一振。
一振にはできない、と何故か奇妙な感覚が胸中にあった。
「いた」
静かに紡がれた言葉に日本号ははっと顔をあげる。
本丸の外、茂みの中にその小さな存在は確かにいた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして世界の終わりのように泣く声に、大般若は膝を着いて思わずを伸ばしかけた。
はた、とその動きを止めたのは大般若を見た赤子の瞳と色もそうだったが、母を求めるように迷いなく伸ばされた小さな手だった。
「ぅうっ……あーっ」
大般若は直感的に“だめだ”とそう悟った。
この子に“自分”を覚えさせてはいけない、記憶させてはいけない。
ゆっくりと手を引く大般若を日本号は怪訝そうな顔を向ける。
開き掛けた口は大般若によって遮られた。
「この子を抱いて待っててやんな」
背を向けられて更に泣き叫ぶ赤子の声に反応するように、僅かに俯いた顔は影に隠れて見えなかった。
淡々言葉を紡ぐ大般若に反して日本号は動揺を隠せなかった。
「ちょっ、待て。俺は赤ん坊の世話なんて……」
「はっ……。おひぃさんに今まで関わって来なかったツケだな。ちったぁ反省しな」
尻を着いて座っているなら赤子の首もすわってるだろう。大般若は侮蔑とも自嘲とも取れる笑みを浮かべて日本号の横を過ぎて行く。
「安心しな。直に迎えがくる」
少なくとも“俺”ならそうする。
どれほど霊力が薄かろうと、身を隠そうと、辿って、見付けて、必ず迎えに行く。
大般若に置いていかれたのがそれ程までにショックだったのか、赤子はその背にすがるように声を上げて泣く。
このままではこの本丸の主の耳にまで届いてしまう。そうなったら……
日本号は背に冷たいものを感じたて慌てて赤子に駆け寄った。
「よーしよし、冷たい兄さんだなぁ……」
脇に手を入れゆっくりと持ち上げる。
宙ぶらりんになったままで尚も泣き続ける赤子に眉尻が下がっていく。
「どうすりゃいいんだ、こっから……」
振り返り見ても大般若の姿はない。
「おい、嘘だろ…」
思わず声が溢れた。
こちらの気も知らずにわんわん泣く赤子に泣きたいのはこっちだ、と視線を向けた矢先のことだった。
「あんた!こんな所に……」
覚えのある声と共に姿を現した男士の姿に日本号は目を見開く。
大般若長光。
極めてはいない姿に明らかに別の個体であろうその姿に何故だか胸がチクリと傷んだ気がした。
極めていようがいよまいが、別個体など自分を含めて見慣れている筈なのに。
「ケガはないかい?痛いところは?」
大般若長光はまるで日本号の事など眼中にないように赤子へ話しかけながら、手足、顔を見ていく。
赤子を抱こうと手を伸ばしてようやく日本号の存在に気付いたらしい大般若の赤い瞳が日本号を凝視する。
また日本号の胸の奥がチクリと傷んだ。
手から無意識に力が抜ける。
大般若の腕が赤子を抱きすくめた。
支えがなくなり宙に浮いた事に驚いたのか一瞬静かになっていた赤子が再び泣き出し、大般若は小さな頭を片手撫でながら日本号を見た。
「いや、うん…まぁ、元を辿れば俺のせいなんだが……落とすのはちょっといただけないなぁ…」
「いや、悪い…なんか動揺しちまって…」
「……まぁ、見付けてくれたのが同じく刀剣男士で良かったよ。遡行軍だったらと思うとぞっとする」
大般若は赤子の頭に顔を寄せる。
「うぅ…あぅ………」
「怖かったなぁ。よしよし」
大般若自身よほど慌てて出てきたのか、装備はおろかスーツの上着おろかベストすら着ていない。
辛うじて本体を佩いている位である。
小さな手が大般若の赤いシャツを握り、涙でぐしゃぐしゃの顔を寄せる。濡れて染みになった箇所が色濃く浮いた。
先ほどまで割れんばかりに泣いていた赤子が驚く程におとなしくなった。
なぜこうも胸の奥がチクリチクリと痛むのか…
日本号はゆっくりと踵を返す。
「あぁ、日本号!ちょっと…」
呼ばれ慣れている筈の名前。日本号はようやく胸の痛みを自覚した。
「いいよ、気にすんな。困った時はお互い様ってな」
肩口越しに一度振り返り見れば日本号は本丸へ向けて歩みを進めた。
本丸へ戻った日本号が大般若長光の刀解の報せを聞いたのは、翌日の事だった。
不思議と胸の奥の痛みも消えてただなにかが抜け落ちたような違和感だけが残った。