【フェヒュ】無題ファーガス王国とセイロス教団の攻撃的なはさみ撃ちにより、帝国軍は相次ぐ敗戦の末、辛うじてガルグ・マクを取り戻すことができた。フォドラの中心を誰が占めるかによって、今後の戦況を簡単に左右できるものではなかったが、意味深い勝利だった。この戦いの勝利を記念するため、そしてエーデルガルト皇帝の即位三年を迎え、帝国の首都アンバールでは宴が開かれたそうだ。
皇帝は戦場で血を流しているが、誰か様は真紅の果実酒をテーブルクロスに溢しながら飲んでいるだろうと、軍を陣頭指揮する若い皇帝にも、兵士たちの愚痴が聞こえた。1日くらいはみんなでお祝い酒ぐらい飲んでもいいだろう。エーデルガルトはヒューベルトに話を持ち出した。かつて修道院だったガルグ・マクの倉庫には値段を付けることはできないが、長い間保管されてきた良い酒がたくさんあった。皇帝の命で各部隊に普及した酒は、長い戦争で疲れていた人たちに忘れられない贈り物になるだろう。
しかし、当の皇帝は乾杯の音頭をとり、宴会場から忽然と姿を消した。一時、ここで肩を並べていた同窓生やアドラークラッセの生徒らとは挨拶すら交わすこともできず。有事の際は「シュヴァルツァアドラーヴェーア」という名で集まるようにしておいたが、それぞれが将軍として各地域の敵軍に対峙していたため、一つの場所に集まる機会は殆どなかった。
宴会場でエーデルガルトの乾杯の言葉を聞いたのもフェルディナントだけだった。フェルディナントは将軍として宴会場のきちんとしたテーブルに座って杯を傾けることができたが、エーデルガルトの顔だけがやっと確認できた。勿論皇帝がこの場にいないことを喜ぶ人の方が多いだろう。もしかしたらそれを察して席を外してくれたのかも知れない。酔いが回ってきた宴会場に皇帝の事を気にする人はいる筈もないが。フェルディナントは自然にエーデルガルトの最も近い所で彼女と同行するヒューベルトのことを思い出した。
帝国の宮内卿、べストラー侯爵。彼を修飾する言葉は様々だが、彼もフェルディナントにとっては昔のガルグマク修道院で一緒に学んだ同級生だった。久しぶりに修道院に帰ってきて食堂に座っていたら、想い出も浮かべた。
担任教師だったベレスがよくヒューベルトとフェルディナントを並んで食事をさせた。同じクラスの生徒同士で親睦を深めるようにと言いながら。彼とフェルディナントがそれほど従順な関係ではないことは十分承知していたので、わざと下したのだろう。
「ずいぶんお久しぶりですな」
聞き慣れた声が聞こえた。ヒューベルトだった。フェルディナントは上を向いて周辺を見渡した。エーデルガルトはいなかった。
「そう、久しぶりだね。 ヒューベルト」
周辺の騒ぎのため、挨拶がうまく伝わったかどうか分からないが、彼に答えた。そうしたらフェルディナントの向こう側に座った人が立ち上がった。
「お久しぶりに会った仲ですか、ここの席に座って思い出話でもして下さい」
酔っぱらいの力は力士のようで、素通りしようとしたヒューベルトをとうとう席に座らせ、新しいグラスを握らせた。
「ちっ…」
「ハハハ…」
「このグラスが空けてから席を離れます。別に貴殿と話すこともありませんので」
「自由にしろ」
フェルディナントもヒューベルトをあまり意識せずに酒を一口飲んだ。
「エーデルガルトは?」
「陛下は先にお休みになられました。疲れてもおかしくないでしょう」
流石にヒューベルトも戦争中だからといって、皇帝の寝室にまで追い付くわけではなかった。
「何かご用件でもございましたか」
「いや、ただ…挨拶でもしたかっただけだ」
「お久しぶりに修道院に来たら学生時代でも思い出しますか」
「...君は違うか」
「…様々なことが変わりましたな。3年…長いといえば長いし、短いといえば短い時間で変わったことを意識してないと言ったら嘘になるしょう」
「例えば?」
久しぶりに会ったヒューベルトは少し早口だった。もしかしたら彼も疲れ気味で、雰囲気に、酒に酔って緩んでいるように見えた。
「貴殿の髪の長さとか」
「はぁ」
フェルディナントは失笑した。相手をからかう言葉づかいでヒューベルトについて行く人を見たことがない。
「どんな心境の変化でもありましたか」
フェルディナントの髪は長い間整えられていなかったので肩に触れるほどだった。くねくねした髪の毛が頬に張り付くのが嫌で髪を結うことはできても、切ることはどうしても先延ばしにしてしまった。
「よく分かったね」
髪を伸ばしてからずいぶん経った。髪が伸びたと聞いても今更の事だった。 心境の変化だなんて、ヒューベルトがそんなことを気にするはずがなかった。
「私にも目というものがありますので」
「私の髪よりも…君こそ目が二つになったじゃないか」
「私の目は元から二つだったのですが」
フェルディナントは人差し指を伸ばしヒューベルトの前髪を軽く触った。
「ここね、 学生の時はほとんど見えないように隠していたじゃない」
ヒューベルトはぎくりと頭を後ろに引いた。もっとしっかりしていたら、手の届かないうちに打ち返したはずだ。ヒューベルトも酒を飲んで酔う人だった。
「私が前髪を切ったのはもう2年前のことです。何故初めて見る人のように今更」
「それは私が言いたいことだが。これまで行き来しながら、一度も顔をあわせたことがないわけでもないし」
「挨拶もなかったのが寂しかったですか」
ヒューベルトはまだ相手を、いやフェルディナントをからかうことに興味を覚えているようだった。その点はあまり変わっていない。本気で接するのでもないのに、まるで猫がただ面白半分で狩るように。
「そう」
フェルディナントは、本音をいつも隠すヒューベルトよりも、はるかに率直に話せる人だった。
「寂しかった。君とエーデルガルトのあんな態度で」
「いつまで同じクラスの友達だと思うのですか」
「いや、別に同じクラスの時も、君は...ふぅ...もう良い...君との口げんかを恋しがったのではない」
フェルディナントが立て続けに酒を飲んだ。
「私は久しぶりに同窓生に会って平凡な話を交わすことができる今が結構楽しいです」
「え」
「戦争も戦争ですが、宮内卿という職責上国の仕事も担わなければならない立場ですので…陛下も苦労ですが、まだ宮には頭が古臭い、複雑な姻戚関係でもつれた官僚や貴族たちが……あ、貴殿と交わせるような話ではありませんでしたな…」
「いいじゃないか、そんなの…君が一体誰かにそんな愚痴をこぼせるか。どうせ君も私も、今日どんな言葉を交わしたのか明日になったら覚えないから。実は周りがとてもうるさくて君の声もよく聞こえない」
「はい?」
せっかく長く言ったら、今度はヒューベルトの方がよく聞き取れなかったようだった。
「酒の勢いに愚痴をこぼしてもいいと言った。今なら相手してあげるから」
フェルディナントは食卓の上に身を乗り出して、言葉がうまく伝わるように両手の手のひらをラッパのようにそろえた。
「は」
ヒューベルトはにっこり笑ってフェルディナントの耳にささやいた。
「気を使っていただいてありがとうございますが、私に任されたことの中には、誰にでも口外してはいけない機密事項もたくさんありますので…酒気が上がったところで生半可に口を滑らすわけにはいきません」
周辺の喧騒はすべて消す暗黒魔法でもかかったようだった。ヒューベルトの声が耳を擽る。学生の頃とは声が少し変わったようだった。彼のゆっくりした話し方には疲労感が滲み出ていた。飲酒でもなだめられず、誰も解消できない種類の古い疲れが。
「貴殿が何時か妥当な地位になられるのでしたら、その時は相談させていただきます」
「ああ」
ヒューベルトの声が遠く聞こえ、再び周りの騒音が戻した時、フェルディナントは喉が渇いてグラスを一気に空にした。
「ヒューベル、ウッ、ト、ウゥッ」
酒臭いあくびが出た。
「はい」
「前髪切った今の方がいいよ。君の目がはっきり見えて」
「お酔いましたか」
2年前、初めて髪を切ったヒューベルトを見てからずっと言いたかった。
「君は、隠していない方がもっと怖いから」
「ほめ言葉として受け取ります」
ヒューベルトは明らかに気まずい顔をした。
「私の髪についての感想は?」
「はぁ…別に何も思っていませんが…」
こうなると予想したかのように、ため息をつくヒューベルトだった。
「ため息しないで…」
「まぁ…見かけるたびに少しずつ長くなってるから、果たしてどのくらいまで長くなるだろうか見守ろうと、思ったことはあります」
「ふむ...そうか...」
いい加減な答えではなかっただけでも、フェルディナントは喜んで受け入れることができた。きっとヒューベルトなら今の言葉を全部忘れるだろうと、漠然と思いながら。