侵蝕 鳥もまだ眠っている早朝から俺の1日は始まる。隣で眠っている主人を起こさないようベッドから抜け出し、トレーニングウェアに着替えて街灯を頼りに街中を走った。ランニング1時間。素振り500本。筋トレ30分。最低限のメニューをこなしてから帰路に着く。
帰宅してすぐにシャワーで汗を流し、着替えてから朝食の準備を始める。以前までは効率的に栄養を摂取するためミキサーで混ぜたものを流し込んでいたのだが主人からそれはもう大変な不評を食らい普通に食べるようになった。「有り得ない」「キモい」と言われ続けたからでもあるが一番は「一緒にご飯食べたいよ」と言われからである。
母さんが起きてきた。キッチンに居た俺に「おはよう圭ちゃん」と言ってくる。
「おはよう母さん」
「あら、あの子まだ寝てるのね? もー、寝坊助なんだから。お母さん圭ちゃん起こしてくるわ」
「任せるよ」
母さんは俺たちが突然二人に別れても少し驚いたあとすぐ受け入れてしまった。そして区別することなくどちらも「圭ちゃん」と呼んでくる。ややこしいが雑な人だから仕方ない。それに母親に通称で呼ばれるのもしっくり来ないためあえてそのままにしていた。
母さんが2階に行き、戻ってからまもなく主人が階段をとたとたと降りてくる音がする。リビングの扉を開けて、アクビをしながら「おはよぉ〜」とアホ面で言った。
跳ねまくった寝癖と、買ったばかりのパジャマ姿でくんくんと朝食の匂いを嗅いでいる。
「いいにお〜い。朝ご飯なぁ〜に〜?」
「鶏五目の炊き込み、ほうれん草の胡麻和え、鰤大根だ。朝飯の前に顔洗ってこい」
「はぁい」
昨夜の内に下準備を済ませ炊くだけ煮込むだけの状態にしてあったので朝食はすでに出来ている。
時間がある時に母さんの負担を減らせるよう料理を覚えた。作ってみると存外楽しい。何より俺が作ったもので主人の血肉が作られるというのは気分が良かった。
ズボラな主人は腹が減ると菓子やパンばかり食べてしまう。一つの体を共有していた時の俺はそれを止めることは出来なかった。だが今は違う。主人と一緒に食事を摂るという約束をした。俺が飯を作るようになってからはとくに余計なものを口にさせないようにもした。あまり強く制限をかけると隠れて菓子を食べるだろうから、少しだけという条件で間食を許している。
「顔洗ってきた〜。お腹空いたよ、早く食べよ」
「昨日一緒に選んだパジャマ、やっぱり似合ってるわね。買って良かったわ」
「うるせーババアー、二度と一緒に買い物なんて行かねーかんな!」
「あら、この間スーパーでもそう言ってたけど結局付いてきてくれたじゃない」
「ちげェし、欲しいのがあっただけだし!」
「そうよね、新商品のお菓子とジェラートピケのパジャマが欲しかったのよねー。お店に行った時は女の子向けのお店かと思ったけど男の子も着れるものがあって良かったわ」
「高かったんじゃないのか?」
「大丈夫よぉ、お父さんのお小遣い減らして調整するから」
「ならいいか」
「可愛い息子が可愛いお洋服を着てくれるの嬉しいわぁ。今度圭ちゃんが欲しい服も買ってあげるからね」
「俺はいいよ。流行りとか興味無いから」
「そう? じゃあ服じゃなくてもいいわよ。欲しいものある?」
「いや、今はとくに……」
母さんがご飯をよそってくれている間、食器を運んでいた俺はその質問に濁して返す。イスに座ってスマホを操作している主人をチラッと盗み見てすぐに目を逸らした。
キノコの味噌汁が完成してから席に着き主人と声を揃えて「いただきます」をする。
「おいし〜、智将、料理上手くなったね! 今は家庭的な男がモテるってananに書いてあったし俺も料理覚えようかな〜」
「いいじゃない。お母さんが教えてあげるわよ?」
「いらねーし、ネットで充分だし」
「もー、恥ずかしがっちゃってこの子は」
主人が母さんを突っぱねながらテーブルの下で脚を伸ばしてくる。ショートパンツから伸びた主人の生足が俺の脛をつついた。
「行儀が悪いぞ」
「ね、智将が俺に教えて? 簡単に作れて女子ウケしそうなやつ」
「知らん。指切ったり火傷しそうだから主人はキッチンに立つな」
「そんなにドジじゃないですぅー」
会話している間も主人の脚は俺の脚を擽るようにすりりと懐いた。俺は箸を強く握って食べ物が喉につっかえないよう食事を続ける。無反応でいると悪戯に飽きた主人が擽るのを止めて離れていく。俺はこっそりと息をついた。
食べ終わった主人がソファに座ってピンクのクマを懐に抱く。葉流火と色違いでお揃いだというぬいぐるみは主人のお気に入りだ。無駄にデカいので自室ではなくリビングに置いている。
クマのぬいぐるみはストラックアウトゲームの景品だった。主人が欲しがり、葉流火が投げて獲得出来たらしい。水色とピンクのデカいクマが二体。セットで渡された葉流火は二体とも主人に渡そうとしたが主人が断りお互い一体ずつ所有している。俺はそれをまるで恋人のようなやりとりだなと思った。
葉流火は主人が欲しがるから渡しただけでクマのぬいぐるみを想い人へ渡す意味など知らない。『ぬいぐるみを自分だと思って大切にして欲しい』というメッセージはあの二人らしいが受け取ってお揃いがいいと返した主人も意味を知っていたわけじゃなかった。だから何も気にすることなどない、のだがこうしてぬいぐるみを愛でている主人を見るのは正直面白くなかった。
「インスタに映え写真アップしちゃおーっと」
主人はピンクのシマシマパジャマを着てピンクのクマを抱っこしながら自撮りしている。それをSNSに載せるとさっそく反応があったのかフォロワーからのコメントに満足げにしていた。
「うんうん、みんなこの可愛さを分かってくれてる。智将とは違って」
食器を洗う俺をジト目で見てくるが無視した。昨日の夜、新しいパジャマを着た主人は俺に向かって「どうよ、可愛いかろ?」と自信満々に言ってきたが俺はそれに「……脚が冷えるぞ……」と返すに留めた。主人は「オトンかてw」と笑っていたが本音は同意して欲しかったのだろう。男が男に、しかも自分に「可愛い」と言われたい心理は理解出来ない。けれど言ってやれば良かったとも思っている。言えば喜ぶことは分かっていた。しかしどうにも面映ゆい。
自分の感情を言葉にするのは躊躇いがあった。主人はアホだが他人の機敏には聡いため、こちらの思考を読み取られないよう平静を装わねばならない。俺はいつだって主人に「格好良い」と思われたかった。
主人はぬいぐるみをカーペットの上に置きソファの上でゴロンと仰向けになって膝を曲げる。その体勢のままスマホでレシピ動画を見始めた。ショートパンツから伸びる白い太腿。その内側に自分の罪の証拠が見える。
昨日の夜、スヤスヤ眠っていた主人が起きないように気を付けながら主人の太腿に唇を寄せた。こんな格好で無防備に俺の隣で眠る主人が悪いのだと己に言い訳をしながら、綺麗な肌にキスして鬱血痕を一つだけ付ける。俺の醜い欲望と執着の一片。
主人は今日も無邪気に俺を誘惑してくる。眩しい太腿の柔らかさを思い出しながら主人に膝掛けを掛けてやった。
「見てるこっちが寒い」
「智将だってハーフパンツじゃん」
「優しいのねー。圭ちゃんも圭ちゃんの優しさを見習ってほしいわ」
「なんか文句あんのかババアー」
「あ、そうださっきの話なんだけどね」
「無視すんなババアー」
「欲しいものがあったらちゃんとお母さんに教えなさいよ。あなたそういうの我慢しちゃうでしょ? お金のことは圭ちゃんが心配しなくていいんだからね?」
ごめん、母さん。俺は嘘をつきました。俺が欲しいのはあなたの大切な一人息子です。他には何も要りません。こんな俺をどうか許してください。
「ありがとう、覚えとくよ」
きっとどうやっても諦められない。毎日同じことを思う。主人が俺から離れて生きていけないようになればいいのに、と。
「ちしょー」
そしてそれはじきに実現する。今も構ってもらえず寂しくなった主人が俺の裾を引っ張っていた。
「どうした?」
甘ったれで可愛い俺の主人。早く俺のところまで堕ちておいで。
【終】