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    ツイッターでぽちぽち曦澄小説のまとめ(未完)

    閉関していた藍曦臣を蓮花塢に連れてきた江澄のゆっくりしたお話。

    -題名未定- 重い瞼を開くと目の前には見慣れない天井が広がり、藍曦臣は呆然とした。
     当惑する感情の一方、頭は素早く回転し、昨晩の行動を思い返す。観音廰での一件以降、藍曦臣は外部との接触を全て絶ち、閉関している。一日の大半を雲深不知処内の自室である寒室で過ごし、外に出ることは滅多にない。閉関当初こそ、藍啓仁の命令で内々の会議や内弟子の前に顔を出してはいたが、普段と変わらない姿であろうと努めてはいても、翳りを帯びた気を隠すことはできなかった。
    白を通り越して青くなった肌に黒ずんだ目元、絃が緩んだ琴のような声、何枚にも重ねた衣が酷く重たそうで、そんな藍曦臣を見た周囲の人々は戸惑い、表情を硬くする。そのような状態だったため、藍啓仁は頭を抱えると鳩尾を押さえ、「暫くは顔を出さなくてもよい」と言った。そのため、ここ数ヶ月寒室から出たことがない。
     閉関した藍曦臣の代わりに、藍啓仁と藍忘機が姑蘇藍氏に持ち込まれた陳情の対応や仙門生家との会合に出ることになったが、藍忘機は不満の一つも溢すことはなく、寸暇を見つけては寒室に訪れると、藍曦臣の気を紛らわせるために様々なことを話した。藍忘機の話は飾り気がなく、事実を淡々と並べるようなものではあったが、情景を思い浮かべやすく、特に魏無羨との細やかな日常を聞いている間は、藍曦臣の身のうちに吹き荒れる嵐が僅かに収まった。
     魏無羨が子供の頃に雲夢でやっていた遊びを一緒にやってみたことや、夜狩に出かけた街で見つけた美味しい料理の話。身を裂き凍える冬を越え、春和景明、たわいもない幸せを享受している姿は藍曦臣の心を掬い上げる。
     昨日もいつものように寒室を訪れた藍忘機はひとつふたつ話をすると、俄かに躊躇うような表情を浮かべたあと、一つの香を差し出した。それはうまく眠れないと溢していた藍曦臣のために、魏無羨が特別に調合した物で心身を緩和させ、深い眠りを与えてくれる効果があるとのことだった。
     藍曦臣は弟たちの心遣いを有難く受け取ると、その夜、さっそく香を焚いた。ふわりと漂う香りは白檀を主軸に茉莉花や檜などが仄かに感じられる。繊細に考え抜かれたのだろうその調合に魏無羨の気遣いを感じ取り、藍曦臣は己の不甲斐なさに視線を落とす。
     空虚な腹を暗澹たるものが満たし、見慣れた室内が熱く歪んでいる。重苦しい身体を引きずるように臥牀に運ぶと、そのまま身体を無作法に投げ出した。深い渦に飲まれるように落ち込む意識――そこまでの記憶は鮮明に残っていたが、そこ後の記憶が全く無い。
    香の効果は絶大で、夢の一つも見ることはない、深い眠りだった。
    彼のもつ類稀なる才能は尊敬に値するが、今はそれを褒め称している場合では無い。まずは自分の身に降りかかっている不可解な現象を把握することが先決だ。臥牀から体を起こすと、ぐるりと室内を見回した。朔月はそばに立て掛けられており、文机の上には裂氷も置かれている。また、体内を巡る気の調子は澱んではいるが悪くは無い。
    ここが一体どこで、何があったとしても対処は可能であると判断し、静かに胸を撫で下ろす。閉関してからというもの碌な修練を行っていなかったが、万全では無いが人間にしろ妖魔鬼怪にしろ、簡単に遅れをとるような事はない。 
     寝起き特有の怠さの残る体を引きずるように立ち上がり、部屋の細部を検めようとした瞬間、部屋の外から微かに足音が聞こえてくる。少し早い足取りは一歩一歩、しっかりと地面を蹴っている。足音の間隔や響きから推測すると、それなりに上背があるが背に比べると重量は軽い。
     藍曦臣よりも僅かに小柄な男だろう。藍曦臣は朔月を手に取ると、鯉口を切った。だが、剣は鞘を飛び出すことはなく、カチンと軽い音を立てて元の場所に収まった。
    「なんだ、起きていたのか」
    「江宗主……?」
     扉が開くと切れ長の大きな目が印象的な美貌の青年が顔を見せた。その青年は、藍曦臣も良く知る人物で雲夢江氏の宗主・江澄だった。驚きの表情を隠せない藍曦臣を気にする様子もなく、江澄はすたすたと部屋に入ると卓の上に幾つかの椀を並べ始める。
    「突然のことで驚かれているかとは思うが、まずは朝餉を食べてくれ」
     有無を言わさない強さに促されるまま、緩慢に立ち上がった藍曦臣は卓の前に座る。並べられた料理の数々は姑蘇では見られないような彩りに溢れ、野生を感じる香りが広がる。温かな湯気が立ち昇る粥は米の一粒一粒がつやつやと輝き、何とも美味しそうではあったが藍曦臣は僅かに眉尻を下げた。
    「せっかく用意して頂いたのに申し訳ないですが……」
    「碌に食事をされていないと伺っている。飯を抜くのも結構だが、それに何の意味がある」
     江澄は匙を手に取ると粥を掬い上げ、それを藍曦臣の口元に突き出した。「食え」と語る目には、拒絶を許さない迫力がある。
    物心がついてから、他人の手から食事を与えられるような経験をした事がなく、困惑に胸がざわめき立つ。だが、江澄はそんなことを知る由もなく、また知っていたとしても引く事はないだろう。抵抗して唇を閉ざしても無意味で、ただただ気まずい時間が流れ続けるのであれば、それは酷く億劫だった。
     唇にうっすらと温もりを感じ、乾いた皮膚を湿らせる。抵抗を諦めて小さく唇を開くと、すぐに匙が押し当てられ、口内にとろりとした粥が流れ込んだ。雲深不知処で出されるものとは違う塩味の効いたしっかりとした味付けが舌全体に広がり、冷えた胃に小さな火が灯る。徐々に熱が体に巡り始め、藍曦臣は自分の体が酷く冷えていたことに気がついた。人の手から食事を与えられる初めての経験は何とも形容し難い、むず痒い感情が体を満たし、もう一度味わいたい欲望が首をもたげる。
     江澄は藍曦臣の顔に仄かに熱が宿るのを確認すると僅かに表情を緩めてみせた。だが、それも瞬きひとつで掻き消され、常に見せる不機嫌にもとれる顔に戻ると匙の持ち手を藍曦臣に向ける。あとは自分で食え、とでもいうかのように突き出された匙をどうしてか受け取る気にはなれない。
    「藍宗主?」
     匙に視線を落とすばかりで、一向に動こうとしない藍曦臣に江澄は首を僅かに傾け、焦れた声を出す。だが、藍曦臣は胸に沸いた欲望に促されるまま、震える唇を上下に開いた。まるで餌を待つ雛のような行動に、江澄の目はくるりと丸くなる。
    藍曦臣自身、姑蘇藍氏ましてや宗主である立場の自分にそぐわない行動だと自覚している。だが、膝の上に重ねた指がぴたりと張り付いて、口を開く以外の何一つ出来そうにない。思案げに揺れる紫苑の瞳を真っ直ぐに見つめると、眉間に深い皺が一つ刻まれ、江澄は小さく息を吐くと粥をもう一匙掬い、藍曦臣の口に運んだ。
    「顔色もましになってきたな」
    「ええ、お気遣い頂きありがとうございます。ところで……私が此方にいる理由を教えて頂けないでしょうか」
     結局、椀が空になるまで江澄に粥を食べさせてもらった藍曦臣は、何事もなかったかのように尋ねる。江澄は眉を顰めはしたが、何も言わずに居住まいを正した。
    「長い間、あなたが部屋から出ていないと藍先生にお聞きした。それならば、気分転換にでもしばらく雲夢で休まれてはどうかと持ち掛けたところ、許可を戴いた。あなたに正直に話をしたところで、断られるだろうと踏んで、寝ている間に運ばせていただいた」
    江澄の予想を超える話に藍曦臣は言葉を失った。宗主の身である藍曦臣をどうこうできる人間といえば叔父である藍啓仁しかおらず、また眠っている藍曦臣を雲深不知処から雲夢まで運べる者は、弟の藍忘機くらいだろう。
    「あぁ、言っておくが連れてくる方法について、藍先生はご存知でない。あなたの意思で雲夢に向かったと思われている」
     強引なやり方で藍曦臣を雲夢に連れくるとなれば藍啓仁が許可を出すわけもなく、烈火の如く怒り、血を吐いて江澄を藍曦臣に近付けさせないようにしただろう。
     藍忘機も即座に頷くことはなかっただろうが、香を用意したのが魏無羨であったことを鑑みれば、彼が二人の間を取り持ったことは明白だ。
    「そう、ですか……」
     藍曦臣はそれ以上何も言えず、膝の上に置いた拳を小さく握る。
    「思うことはあるだろうが、今はあまり時間もない。とりあえず、この衣に着替えてくれ。あなたの身丈に合わせたものを用意する時間はなかったから、少しばかり不恰好になるが我慢してくれ」
     そう言って江澄が差し出したのは、雲夢江氏の門弟が纏う紫の袍だった。手に取り広げると確かに身丈の高い藍曦臣には少し丈が足りないようだ。
    「これを私が……」
    「蓮花塢でその白い衣は目立つ。閉関中の姑蘇藍氏の宗主が他家にいるとなれば、要らぬ噂を招きかねん。あぁ、あとはその目立つ容貌と剣も隠していただく」
     江澄は懐から符を二枚取り出すと一枚を藍曦臣の広げた袍の内側に貼り付け、霊力を込める。すると、符はじわりと袍に溶け込んで消えてしまった。
    同じように剣にも符を張り、霊力を込めた。
    「この符を使うと、他者からその姿形を正確に認識されにくくなるらしい」
     符は魏無羨がこの日のために開発し、江澄に渡した。魏無羨は蘇渉が墓荒らしの際に使った黒い霧で素性を隠す術を目にした時から「見た目を隠す術なんて、面白いし何かと便利そうだな。だけど、黒い霧だとあからさまに過ぎて実用性に欠ける。もっと自然に隠せれば面白いんじゃないか」と常々考え、溢していたので、江澄から話を持ち掛けられたとき、良い機会を得たとばかりに、その才能を遺憾なく発揮した。
    「術者と修位が近い者やより高位の者には効果がなく、術の対象者となる人間の霊力をよく知っている者などには効果が薄いそうだが、雲夢にいる間はまず問題ないだろう」
     江澄は僅かに苦々しい表情で鼻を鳴らす。雲夢において宗主である江澄よりも修位の高い実力者など、強制的に連れてこられた藍曦臣を除けばいない。それは傲慢でなく江澄の努力の賜物であり、紛れもない事実だ。しかし、その身に宿る金丹が自分の生まれ持ったものではなく、魏無羨から譲り渡されたものだという現実から江澄は自らの努力の成果を素直に認められずにいる。
     ――藍曦臣は観音廟で見た江澄の涙を思い返す。
    燎原の火の如く広まった悔しさとも哀しみともつかない感情を吐き出し、静かな雨で頬を濡らす姿が鮮明に蘇る。どうして今まで思い出さなかったのか不思議なほどに生臭く重たい空気の匂い、地面を叩く水の音、赤黒い斑点の落ちた床の色、落ちた影の闇の色、当時の光景が次々と思い起こされる。
     江澄の鋭く細められた目元は弛み、丸くなった目は幼さを感じさせる。だんだんと目の淵が赤に色づくに従って、水滴は堰き止め切れずに涙となって零れ落ちていく。震える肩はか細く、風に吹かれようものなら崩れて消えてしまうのでは無いかと不安を煽った。
    思わず触れようとした指先を骨肉に身に染みついた自制心が静止した。伸ばしかけた指先と胸に宿った感情は行き処を失い、怒涛のように押し寄せる感情の波に飲まれ、沈んで消えた。
     そして、今の今まで浮かび上がる事なく、すっかりと忘れ去っていた。
    「あとで人を遣す。それまでに身支度を整えておいてくれ」
    過去に思いを馳せていた藍曦臣を他所に、江澄は一方的に話を切り上げると空になった椀を手にとり、返事を待つことなく部屋を去った。一人残された藍曦臣の手の中には、鮮やかに揺らめく紫の袍が残されている。
     藍曦臣は深い息を吐きだすと――空虚な色を、体から滑り落とした。



     ほどなくして部屋を訪れた門弟に案内され、藍曦臣は試剣堂に足を踏み入れる。陽の当たる蓮の玉座に座る江澄は険しい表情を浮かべ、書簡に目を通していた。
    「江宗主」
     控えめに声をかけると江澄は顔を上げ、紫を纏う藍曦臣の姿をまじまじと見やった。無遠慮な視線に僅かな羞恥を感じはしたが、不思議と嫌な気はしない。
    「どこかおかしな所でもありますか」
    「いや、さすがだな。貴方は何を着ても様になる」
    「ありがとうございます。自分では良く分からないもので」
    感嘆の声の混じった言葉に、藍曦臣が恭しく拱手すると江澄は片手でそれを制した。
    「あとは額の物さえ無ければ、完璧だがな」
     江澄は皮肉じみた笑みを浮かべ、剥き出しの己の額を突く。藍曦臣の額に巻かれた抹額はその存在を誇るように、戒めるように白く輝いている。
    「これを外すことはできません」
    「そんなことは知っている」
     低い声で目を細めた江澄に、先ほどの言葉は彼なりに場を和ませようと言った冗談だったのだと気づく。言葉のままに受け取ってしまい、江澄を辱めてしまった。慌てて謝罪しようと口を開くが鋭い視線に射抜かれ、言葉を飲み込んだ。
    江澄が傍らに控えていた門弟に下がらせると、試剣堂には静けさが広がる。二人きりとなった空間に、おさまりの悪い空気が広がる。扉一枚隔てた先からは、鍛錬に励む威勢の良い声や木剣のぶつかり合う音、雑談に沸く華やかな笑い声、様々な生活の音が聞こえてくる。
     雲深不知処の座学で初めて顔を合わせてから、幾度となく顔を合わせ、世間話をする程度には親交はあったがいつも藍啓仁や藍忘機、金凌。両家の門弟や他家の宗主たち。そして、胸にかかる鉛色の雲の原因――金光瑶。誰かが必ず同席していたため、今まで二人きりで話すような機会がなかった。先ほどの食事の場においても、二人きりではあったが、藍曦臣は現状の把握と久しぶりに口にした食材の味に気を取られ、ろくな会話をしていない。
     藍曦臣にとって江澄は友と呼べるほど近くはなく、だからと言って他人と呼ぶには遠くない。
    以前の藍曦臣であれば何事か話題を作り、重苦しい空気を和らげることなど造作もないことだったが、今は何一つ言葉が浮かばず、疲労感に息を飲んで耐えることしかできない。
    「立ったままでいられると気を遣う。そちらに腰掛けてくれ」
     藍曦臣が言われた通りに腰掛けると、江澄は目の前の円座に座った。
    「皆には貴方のことを眉山虞氏に縁のある仙士でしばらくの間、客卿として蓮花塢に身を置くと伝えている。夜狩には出てもらうが、それ以外は自由に過ごしてもらって構わない。部屋で休んでいても良いし、雲夢を見て回るのも良いだろう」
     一方的に進む話は鼓膜を滑り、思考にたどり着く頃には糸の切れた数珠のように散らばり、単語は理解出来ても、話の意味がわからない。江澄は藍曦臣の困惑に気づいていないのか、気づいていて知らないふりをしているのか、冷静に見える表情からはその真意を掴むことはできない。表情が乏しいと言われる弟の藍忘機の心情を言葉がなくても察することができるのは、得てして経験の成せる技なのだ。
     紫水晶の深い瞳を覗いても、そこに映るのは見慣れぬ姿の己のみ。何も読み取ることはできない。
    「何か質問はあるか」
     江澄の問いに首を振る。
    「本当にないのか」
     今度は首を縦に振る。江澄は整った容貌を険しく歪めると「分かった」とだけ吐き捨てるように呟いた。江澄は分かっていたのだろう、今の藍曦臣の問いは未来にはない。間欠泉のように噴き出る問いは、灰色に塗られた過去にある。
    「早速で悪いが、今から夜狩に同行して頂く。貴方は久しぶりの夜狩だろうから、今日はただ付いてくるだけで構わない」
     江澄は静かに立ち上がり、足早に扉へと向かっていく。その背を早く追わなければならないと分かっていながらも、鉛のように重い身体は動こうとしない。
    「……何をしている。早く立て」
     扉に手をかけた江澄は根を生やしたように動かない藍曦臣に、片眉を跳ね上げる。行きたくないと言えばどうなるのだろうか。以前、玩具を見ていた子供が買い物を終えた母親に帰ろうと言われ、嫌だと喚めいているのを見かけた。母親は疲れた表情を浮かべ、我儘を言うなと子供を叱りつけ、小さな手を無理やり引いていく。子供は顔いっぱいに不満を貼り付けて、それでも抵抗することを諦めてとぼとぼと歩き出す。
     藍曦臣はその小さな背中がどうしてか――羨ましいと感じた。
    「藍曦臣」
     急かすような低く沈んだ声に苦笑すると四肢に力を込めて立ち上がる。慣れない蓮花塢の床はどこか歩き辛い。
    「ここを出れば、貴方は藍宗主でもなければ沢蕪君でもない。雲夢江氏に身を置くただの一人の人間だ」
     扉に向き直った江澄の淡々とした言葉の真意が掴めず、藍曦臣は隙なく結い上げられた髪を見つめる。
     ゆっくりと扉が開き、差し込んだ日光の眩さに反射的に目を細める。ゆっくりと振り返った江澄の表情は、逆光に隠されて見えない。息を呑む気配がして、その次に藍曦臣の耳に聞こえたのは「曦臣」という馴染みのない響きだった。
     雲夢の埠頭に辿り着くとすでに数名の江氏門弟たちは江澄たちがくるのを待っていた。整然に並んだ紫の一群は生き生きと気力に満ち溢れている。江澄は彼らをぐるりと見回し頷くと、「行くぞ」と短く号令をかけ、軽やかに御剣する。その後に続き、鮮やかな紫がふわりふわりと空に舞い上がり、その様子はまるで花吹雪のように美しく目を奪われた。
    「あの、早くしないと置いていかれますよ」
     空を見上げ立ち尽くしていた藍曦臣に年若い門弟が不思議そうに声をかけてきた。見るからに修練の浅い少年は経験を積むために同行するのだろう。彼の視線は藍曦臣と次々に飛び立つ門弟たちを忙しなく往復している。先を行く江澄や師兄たちに置いていかれやしないかと今すぐにでも飛び立ちたいだろうに、慣れない土地に客卿としてやってきて、いきなり夜狩に連れ出された不憫な人間を放っておくことができないのだろう。
     なんと優しい子なのだろうか。胸にささやかな火が灯り、不思議と体が軽くなった。
    「えぇ、行きましょうか」
     藍曦臣は頷くと、音もなく空に舞う。地上から上がる歓声は瞬く間に遠くなった。久しぶりに飛ぶ空は広くて暖かく、瑞々しい蓮の香りがした。
     半刻ほど飛び続けていると高くそびえ立つ険しい岩山が見えてくる。岩山に近づくにつれ、肌に触れる風に重苦しい水気が混じり始める。程なくすると岩山の中腹に黒い大きな穴ががっぷりと空いているのが見えた。洞穴は光を飲み込み、その中の様子を窺い知ることができない。けれど、澱んだ気配はそこから流れ出していることは明白だった。
    一行は洞穴のちょうど真下にあたる山の麓に降り立った。
    「陰気が強いな」
     江澄の言葉通り、辺り一帯は陰気を含んだ深い灰色の霧に覆われている。太陽の光を遮るように生い茂った木々のせいで昼間だというのに薄暗く、湿った地面からは黒茶色の根が飛び出している。木の幹に触れると樹皮がたやすく剥がれ落ち、藍曦臣が少しでも力を込めようものなら容易に倒れてしまいそうだ。
    奔走する門弟たちの間を抜け、厳しい表情で洞穴を見上げている江澄の隣に立つ。江澄は横目で藍曦臣を見上げたが、何も言わない。騒めきの中にぽつりと空いた静寂の心地の悪さに、何か言葉をかけるべきだと思ったが、何も思いつかない。いつから自分は口下手になってしまったのだろうか。体が熱を失い、凍てついたように冷たい拳を握る。
     吐き出された息の音が、藍曦臣の耳に強く響いた。
    「無理して話す必要はない」
     鼓膜を刺されたのかと思うような衝撃に、横に顔を向ける。線の細い横顔からは言葉の真意が掴めない。ゆっくりと顔が傾けられ、長い前髪が頬を滑る。現れた紫がかった瞳は僅かな光をも取り込んで煌めき、幽鬼の如く青白い顔を映し出す。
    「何か話したいことがあるのなら別だが、無いんだろう」
    「そんなことは」
     ない、と否定しかけて、口を閉ざす。
    「嘘は家規に反するか」
     軽い口調でそう言った江澄は片方の口の端を吊り上げて笑った。
    「私は……無理をしているのでしょうか」
    「あなたのことだ、俺が知る訳がない」
     渋い表情を浮かべた江澄は短く息を吐く。自分自身のことすら満足に応えられない自分に呆れてしまっただろうか。だが、藍曦臣の知っている自分はあの日の観音廟で、大切な義兄弟たちと共に失った。雲深不知処の寒室で、朝と夜ともなく自問自答を繰り返し、ますます自分という人間が分からなくなる。
    「何て顔をしてるんだ」
     初めて聞く柔らかな声に顔をあげる。
    「まるで虐めているような気になるだろう」
     その表情を例えるならば、冬の終わりの日差しのようで手を伸ばしたくなるような暖かさを感じさせる。けれど、それは触れてはいけない温もりで、藍曦臣は硬い笑みを作る。
    「その様に情けない顔をしていましたか」
    「あぁ、そうだな。だが、下手な笑顔よりもよっぽど良い」
    「良い、ですか」
     この顔が。手のひらで頬に触れる。痩せて乾いた肌は冷たく、強張っている。周囲の人々に好まれ、望まれた顔は見る影もないというのに。江澄は変わっている、藍曦臣は早々に結論づけると思考を遮断した。
     その後、周囲の探索と結界を張り終えた門弟たちが江澄の周囲に集まってくるまで、二人の間に会話は無かった。けれど、凍てついた体に熱が戻っていた。
     一行は山の麓に数名を残し、陰気を放つ洞穴に足を踏み入れる。洞穴内は饐えた臭気が充満して、鼻腔の奥がツンと痛む。そこかしこから悲鳴が上がり、静かな洞穴は俄かにざわめく。
    横目に江澄を見やるとさすがに声を上げたりはしないものの、眉間の皺が深くなり、長い睫毛が忙しなく羽ばたいている。
    「静かにしろ、行くぞ」
     江澄の鋭い声と洞穴に瞬いた紫電の光に、それまでの浮ついた空気は消え去り、門弟たちの表情が引き締まる。江澄は彼らを一瞥すると、大股で洞穴の奥へと歩き出した。洞穴は高さこそあるものの横幅はそれほど広くは無く、江澄を先頭にして、二列で進んでいくことになった。
    藍曦臣は列の一番後ろを御剣の際に声をかけて来た少年と並んで歩く。少年は緊張しているのか灯りがわりの符を持つ手は震え、照らされた顔は蒼くなっている。
    「顔色が良くないですが、大丈夫ですか」
    「ひぇ、あっ、は、はいっ……大丈夫、と言いたいところなんですが、駄目ですね。どれだけ鍛錬しても、夜狩となるとどうしても緊張してしまうのです。こんなことを言うと師兄たちからは笑われるのですが、邪祟がどうしても恐ろしくて、足がすくむのです」
    少年は抑えていた感情が堰を切って溢れるように口早に話しだし、藍曦臣は少年の話に静かに耳を傾ける。
    少年の家は雲夢で小間物屋を営んでいたが、十数年前に蓮花塢を襲った岐山温氏の焼き討ちの余波で、商売が立ちいかなくなった。それでも両親は長年暮らした雲夢を離れる気はなく、いつか以前のような活気が戻ることを信じ、雲夢に止まり続けた。雲夢に住む多くの民が同様の思いで、互いに支え合い、耐え忍び過ごしていたある日、苛烈で眩い閃光が走った。それまで深く立ち込めていた暗雲を切り裂いた。
    若く血気に満ちた宗主は瞬く間に岐山温氏がいた痕跡を消し去って、雲夢の民に光を与えた。宗主は蓮花塢を再建するかたわら、雲夢の民の崩れた生活の基盤を整え、平和を齎した。もとより雲夢の民は江氏に対し、親しみと敬意を持って接していたが、それがこの事件をきっかけにより強固なものとなった。
    少年の夢はいつしか雲夢江氏の宗主、江澄のもとで働き、彼の力になることになった。
    「僕のような庶民の出の人間が四大世家に入るなんて、本来なら到底考えられないことなんです。けれど、江宗主は幼かった僕の願いを聞き入れ、雲夢江氏に迎え入れてくださった。当時は今よりももっと人手が足りない状況で、僕のような人間でもいないよりはましだったのかも知れませんがね。それでも嬉しくて、必死に修行して、ようやっと最近になって、小さいながらも金丹ができ、夜狩にも出られるようになったのですが、この有様です」
     少年は話し終えると肩を落とす。暗い洞穴内では、灯りはあっても先頭を歩く江澄の姿は見えない。
    「えっと……」
    「名乗っていませんでしたね、曦臣とお呼びください」
    「曦臣、さんですか」
    少年は思い当たる人間がいるのか、瞳を大きく開いた後、同情するような表情を浮かべる。
    「その名だと苦労することもあるでしょう」
     藍曦臣はその言葉に曖昧な笑顔で返す。
    「曦臣さんは、邪祟が恐ろしくはなかったですか」
     少年の言葉に幼いころの記憶を遡ってみる。物心が付いたときには、すでに四千にものぼる姑蘇藍氏の家訓をすべて記憶し、それに準じる生活を送っていた。剣と琴の修練に励み、座学のみならず、蔵書閣に籠っては多くの知識を蓄えた。藍啓仁に付いて、初めて夜狩に赴くことになったとき、緊張はしたものの恐怖はなく、邪祟と対峙した時でさえ、藍曦臣の心は穏やかで、心を乱すことは無かった。
    「恐ろしいと思ったことはありません」
    「はぁ……仙門の家系で生まれ、そこで育った人間と僕のような庶民じゃ、そもそもの資質が違いますよね……江宗主も邪祟を恐れるようなことはなかったんだろうなぁ」
    「江宗主に聞いてみてはいかがですか」
    「そ、そんな恐れ多いっ」
    「どうして。私には話してくださったじゃないですか」
    藍曦臣の問いに、少年は驚きと呆れがない交ぜになった表情を浮かべ、頭を搔いた。
    「はぁ、だって、宗主とあなたは違うじゃないですか。宗主は我ら雲夢江氏の頂点でおいそれと些細な悩みをするような相手ではないですよ」
     藍曦臣も姑蘇藍氏の宗主ではあるが、少年は術のせいでその姿は平凡な青年に見えている。まさか、今しがた出来ないといったばかりの些細な悩みを四大世家の宗主の一人に話しているなどと、露ほどにも考えていない。もし、この瞬間に術が解けたとすれば、少年の体から瞬く間に血の気が抜け、狂屍にも劣らない顔色になっただろう。藍曦臣がいくら物腰柔らかく、自然に接したとしても、相手はどうしても委縮してしまう。向けられる笑みの下に隠されたものを見せてはもらえない。それはどう努力をしてもまるで意味がなく、自分ではどうしようもない。今までであれば「仕方のないこと」だと流せていたものが、泥のように沈殿していく。
     藍曦臣は小さく笑うと、そうですね、とつぶやく。
    「けれど、それは少し寂しいものです」
     思わず出た声は洞穴の奥から響く獣の咆哮に切り裂かれて消えた――
    藍曦臣が洞穴の奥に辿り着いたとき、戦いはすでに始まっていた。
    「江宗主」
    「曦臣、あなたは前に出るな。他の者は距離をとり、弓を放て。光を絶やすんじゃないぞ」
     洞穴の奥は円状に広くなっており、その中心に妖獣がいる。すり鉢で石を擦るような不快な音を発し、江澄たちを威嚇していた。
    門弟たちはそれぞれ弓を構える者、灯りの符を掲げる者と分かれる。妖獣の見た目は虎のようにも見えるが、鼻は潰れて陥没し、大きく裂けた口からは太い牙が何本も覗いていた。ほっそりとした体は腹だけが異様に膨らんで、ぼこぼこと収縮している。妖獣は四方八方から放たれる弓を軽やかに避け、一足飛びで弓を構えた門弟との距離を詰めると鋭い爪を振るう。息をつめた門弟の前に紫色の閃光が走り、妖獣の爪を弾き飛ばした。
    妖獣は弾かれた爪を赤黒い舌でべろりと舐め、針のような体毛を逆立てた。眼球は真っ赤に染まり、開いた瞳孔はまっすぐに江澄を捉えている。
     並みの妖獣であれば、紫電で打たれればひとたまりもないが、目の前の虎の妖獣は怒りを体中に漲らせ、ふうふうと鼻息を荒くしている。隙を見せれば、その瞬間に襲い掛かってくるだろう。
     江澄は妖獣に少しも怯むことなく向かっていくと霊力を込め、紫電を振るう。ばちりと肉の弾ける音がして、妖獣の体から赤黒い血が飛び散り、けたたましい咆哮が響く。咆哮は衝撃波となり、一行を襲う。藍曦臣は難なく衝撃波を受け流したが、防御が間に合わなかった門弟の数名は吹き飛ばされ、壁にしたたか打ち付けられた。
    「宗主っ」
    「俺は平気だ。あいつの相手は俺一人でやる、お前たちは負傷した者を連れて下がれ」
    「ですが……」
    「二度は言わん」
     江澄は三毒を抜き、妖獣に切っ先を向ける。門弟は唇を引き締めると江澄の命令に従い、倒れている者を助けに走っていった。
     藍曦臣は吹き飛ばされた門弟の一人を助け起こしながら、そのやり取りを見ていた。常人よりもはるかに耳の良い藍曦臣には会話の内容はしっかりと聞こえている。
     妖獣は当初に想定していたよりも強力な力を蓄えていた。穴の隅には動物だけでなく、人の骨が無数に転がり、いくつもの小さな山を作っている。外で襲った人間を洞穴の奥に引きずり込んで喰らっていたのだろう。至る所に乾いた血や体液の跡が残っており、それが腐臭の原因の一つだろう。
    妖獣に食われた人々の怨念は暗く狭い洞穴から出ることが出来ず、ぐるぐると彷徨って漂い続け、そのうちに妖獣の禍々しい気に取り込まれる。
    「肉だけでなく魂までも喰うとは、なんとも強欲な獣ですね」
    喰われた者の怨念を鎮めれば、妖獣の力も弱まるだろうか。
    藍曦臣は懐の裂氷に触れる。
    久しく奏でていなかった裂氷が、待ち侘びていた時を喜ぶかのように手に良く馴染んだ。



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    recommended works

    ちょびを

    DONE祓本パロ。悟が収録中に日ごろの傑への不満を訴える話。前後の話2本ほどまとめて支部にのっけます。
    ちどりさんの某番組ネタとか諸々参考にしてます
    来週もまた見てくださいね! カチンコが鳴り、スタジオに心地よい緊張が広がる。
     女性アナウンサーが透きとおった声で口火を切った。
    「さぁて始まりました、『これだけ言わせて!』今週はゲストに俳優の七海健人さん、灰原雄さん、そして女優の家入硝子さんをお迎えしてお送りします」
     セット外にいるアシスタントがタオルを振り、観覧席から拍手と黄色い悲鳴があがった。順調な滑り出しにアナウンサーは小さくうなずいた。横一列に並んだゲスト席を向くとわざとらしく目を見開き、上ずった声を出す。
    「ってあれ、五条さん? なぜゲスト席に座っているんです?」
    「どーも」
     軽快に手を振る五条悟と私、夏油傑のお笑いコンビ祓ったれ本舗。
     2人がメインMCを務める冠番組『これだけ言わせて!』は、ゲストが持ち込んだ提言を面白おかしくイジり、番組内で叶える構成になっている。モテないと悩んでいる先輩芸人がいれば大改造に取り組み、いっぱい食べられるようになりたい! と言うゲストがいれば、私と悟も1週間のフードファイトに付き合ってきた。
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