蒼穹へ誓いをなかなか寝付かずぐずる弟をなんとか宥めようと同じベットに入り頭を撫でたり声をかけたり手を握ってはみたもののどれも効果はなく途方に暮れていた、どうにかしないとと言う焦りと不安に自分まで何だか泣きたい気持ちになってゆく。
弟の手を握る手に不意に力が篭ってしまい、痛がった弟が更に大きな声で泣き始めてしまった。慌てて手を離し謝罪したところでいよいよどうしようもない。
止まない泣き声が頭に響く、何も出来ない自分を責めているようにすら感じられた。
不安に押し潰されそうになっていた時、弟を宥めていた自分の手にそっと別の手が重なった。
見上げればそこには優しく微笑む笑顔が。自分の銀糸の髪を優しく一度撫でその手は弟へと添えられた。
魔法でも使ったかのようにその一瞬に弟の泣き声は止まる。そして頭上からは穏やかで優しい歌声が。
それは弟が寝付けない時に母が歌う子守唄だった。
あれだけ自分にはどうしようもなかった弟は本当に母の魔法のにかかったかのように穏やかな寝息を立てて眠ってしまった。ほっとしたのと同時に緊張の糸が切れて自分まで瞼が落ちてきてしまう。
ゆっくりとまどろむ意識の中もう一度見上げた顔は愛おしそうにこちらを見てまた優しく銀糸を撫でる。
よく頑張ったね
遠くへ行ってしまう意識の中、最後まで愛しい故郷の歌が頭に響いていた。
大規模な竜討伐作戦を終え死傷者が多大に出た戦いの中エスティニアンは多くの戦果を挙げ生還を果たした。この頃のエスティニアンは竜騎士団の中でも目覚ましい活躍を残しており、次期蒼の竜騎士は彼で間違い無いと噂は絶えなかった。称号に興味はなくとも蒼の竜騎士になればまたより多くの竜討伐へと赴きいずれは村を家族を奪ったかの竜へと辿り着くと考えていたエスティニアンにはそこを目指す以外の選択肢など無かった。
生き延びてイシュガルドへと帰還した者達は家族や恋人との再会を皆喜んでいたがエスティニアンにはそのような者は居ない。あの日故郷と共に全てを失いそれ以降は復讐に生きる事を選びいざとなれば全てを捨ててでも目的を果たすと誓った。その時に切り捨てるくらいなら最初から持たなければ良いのだと。しかし、そう思っていたはずのエスティニアンにひとつだけ予想外の事態が起きた。
最初に話しかけられた時は物好きの気紛れだと興味を示さなかったため名前も顔も覚えては居なかった、そのせいで2度目に会った時に知人と名前を間違えてしまい今でもそのことで揶揄われる事がある。友になる男の名だと、今まさに死にかけた自分の命を助けて恩を売るでもなくそう告げてきた男が居たのだ。
荷物になるものは何も持たずに生きると誓ったはずの自分の懐にするっと入ってきたその男はいつの間にか唯一の友と呼べる存在になった。月日と共に知って行った彼はその身に重過ぎる宿命を抱えながら、それでもこの国の為に理想を貫き生きる男だった。そんな大層な志も無く只々己の復讐の為にだけにしか槍を振るえない自分とは正反対で、他の者なら偽善だと笑い飛ばしたかもしれない彼の語る夢物語を、きっと彼なら成し遂げるのだろうと思えさえしたのだ。
蒼の竜騎士の称号を得たいと言う目的には少なからずそんな彼の後ろ盾になりたいと言う思いもあった。
気が付けば足が自然と彼の居る執務室に向かっていた。
「どこへ行こうって言うんだ」
自分で自分に吐き捨てるように言う。確かに彼は唯一の友には違い無い、しかし会いに行ってどうしようと言うのか。戦果を褒めともらうのか、それとも生還を喜んでもらうのか
「くだらん…」
踵を返してそのまま騎士団の訓練所へお向かおうと思ったその時だった、遠くからこちらへ駆け寄る人影が視界に入る。
「エスティニアン!戻ったのか!」
「アイメリク…」
こちらに気が付き笑顔で黒髪の男が駆け寄ってくる。今まさに自分が無意識に思い浮かべてていた相手が目の前に現れる。アイメリクは息を切らせながら駆け寄りトンとエスティニアンの肩を叩く。
「活躍は耳に入っていた、無事で何よりだ」
「これくらい当然だ」
自分の帰還を心から喜んでくれる無垢な笑顔に無愛想な返事をしてしまうのはいつもの事で、素直じゃないのは出会った頃からずっとだと分かっているアイメリクはそっぽを向くエスティニアンに気付かれないようにくすりと笑った。
普段は凛とした雰囲気を纏い先導する立場の人間であるアイメリクに対しておおよその者が抱く印象は知的で落ち着いた凛々しい男なのだろうが…エスティニアンの前ではコロコロと表情を変える子供のような顔をすることも少なくなかった。
「詳しい報告はそのうち上がってくるだろう、俺はこのまま訓練所へ行く」
そう言ってエスティニアンはその場を後にしようとしたが、引き留めるようにその手をアイメリクが掴む。
「今帰ってきたばかりじゃないか、少しは休め」
ぐっと腕を掴む手に力が篭る。
「まだ大丈夫だ、次の任務もそう遠くはない。気を抜いている場合では…」
エスティニアンが言いかけた言葉を飲む。アイメリクが少し体制を低くして竜騎士の甲冑に隠れたエスティニアンの顔を覗き込んでいた。不意に視線が合う。アイメリクの瞳は澄んだ薄い水色で、このイシュガルドでは滅多に見る事の出来なくなった晴れ渡る空の様だった。
その瞳に見つめられる、見透かされている様でエスティニアンは思わず目を逸らした。
「せめて休憩だけでもして行け、飲み物と食事を用意しよう」
そう言ってアイメリクはエスティニアンの手を引いたまま執務室に併設してある休憩室へと入って行く。大の大人の男同士が手を引いて連れ歩いてるところなど見られたら何と言われるか、頭ではそう思っていてもエスティニアンはその手を振り払うことができなかった。
「脱いでくれ」
部屋に入るや否やそう言われてエスティニアンは思わず固まってしまった。そんなエスティニアンを見てアイメリクは少しだけ首を捻ってそんな重い鎧を着たままでは休憩にならんだろうと手にしたティーセットを机に並べながら続ける。
一瞬頭を過ぎった良からぬ思考をため息と共に吐き出すとエスティニアンは頭の鎧を外した。言われた通り体を覆う重い甲冑を脱ぎ棚の上に並べていると不意に髪を撫でられ視線を上げる。
「随分伸びたな」
アイメリクがエスティニアンの銀糸のような髪の毛先くるくると指で弄ぶ様に触れる。
「…汚れているから触らん方が良いぞ」
「ふふっ、何日も任務で外で過ごした事もあるのに今更じゃないか?」
エスティニアンの髪に触れていた手を軽く押し退けられたアイメリクがくすくすと笑う。つい数時間前まで前線で命をかけて戦っていたのにあまりに穏やかな空気に張り詰めていた緊張が解けエスティニアンはぐっと押し寄せる疲れを認識し始めた。
「エスティニアン、大丈夫か?」
自分の名を呼ぶアイメリクの声と共にその手が頬を撫でる、再び空色の瞳がエスティニアンを捕らえた。全てを見透かされるような、その瞳の前では上手く嘘がつけない。体はきっと悲鳴を上げているのかもしれない、それでも一刻も早く成し遂げなくてはいけない事があった。
この空間は心地の良い場所だ、大切な者など作りはしないと思っていた筈の自分が唯一心を許した相手が迎え入れてくれる。2度と得るはずのない安息だった。ただその安息に留まってしまえばこの焼き付く怒りを忘れてしまうのではないか?もっと自分を追い詰めて苦しめて、鋭利になった自身という矛先で全ての元凶を討たねばならないのに。
だから、嘘は付けなくともそれを本当にして突き通さなくてはならなかった。
「大丈夫だ」
捻り出した言葉はギリギリの本当だった。アイメリクに伝えながら、自分にも言い聞かせるように。嘘ではない。まだ、大丈夫。
「エスティニアン」
再び名前を呼ばれる、視線を向けると声の主が穏やかな笑顔でこちらに微笑みかけていた。その瞬間視界が揺らぐ、足を払われてバランスを崩したエスティニアンの体は近くのソファーへと突き飛ばされる。
「この程度も回避出来ずにどこが大丈夫なんだ?」
アイメリクは自らもソファーの端に座りバランスを崩し倒れ込んだエスティニアンの身体を倒す。エスティニアンの頭が丁度アイメリクの足に乗る形になる。
「おい!アイメリク!」
「ん?」
ん?ではないと抗議の声を上げたがアイメリクは聞き入れる気は欠片も無いらしい。喚くエスティニアンの声を聞き流しながら銀糸の髪を撫でている。親友の膝枕という異様な状態にエスティニアンは眩暈を覚えたが、その手の優しさは忘れ去ってしまった筈の何かを思い起こす。
見上げた瞳に優しく手を当てられ伏せられる。そして降って来た穏やかな音は遠い昔に聞いた穏やかな歌。
「それは…どうして…」
視界は塞がれているが聞こえるのは確かにアイメリクの声で紡がれる歌。低音が耳に心地良い、懐かしいこの歌は遠い日に故郷で聞いた子守唄。何故アイメリクがこの歌を知っているのか、確かに故郷の話しを聞かせたことがあったが歌の事など当然話していない。
「エスティニアン」
名前を呼ばれる。声はどこまでも穏やかだった。
「よく頑張ったな」
体の力がスッと抜けていく。
それは相変わらず魔法のようでエスティニアンには争う術がない。身体の力が抜けると同時に眠気に襲われる、エスティニアンはなんとかその魔法に争い視界を覆っていたアイメリクの手を退かす。半分閉じかけた視界に映ったのは故郷の歌を口にしながら優しくエスティニアンを見下ろす空色の瞳が。何処か懐かしさを感じるその瞳は故郷でいつも見上げていた蒼穹の色のようで、焼け果てた思い出に手を伸ばす。アイメリクはその手を取りその頬へ寄せる。
「安息を恐れなくとも大丈夫だ、もう2度と失わせはしない。この場所は私が守ってみせる」
アイメリクの言葉を聞きエスティニアンの争う力が解けて意識は溶けていく。瞼が完全に落ち力を失った腕をそっとその身体の上に戻しアイメリクはもう一度その銀糸を撫でる。
眠りについたエスティニアンの表情はいつもの鋭さはなく何処か少し幼く見せる。もしも、故郷が失われて無ければこういう表情を見せる男になっていたのだろうかとアイメリクは思う。
戦場の最前線で戦う以上何も失わずに生きる事など出来るわけがないのは分かっていた、ならば大切なものなど作らないは確かに正しいのかもしれない。それでもその身を命を擦り減らすだけの生き方以外を知って欲しかった。
もしもこの場所を国を全てが終わった後に帰る場所、安息の場所だと思ってくれるのなら必ず守るとアイメリクは穏やかに眠る羊飼いの少年にそう誓った。
エスティニアンが目を覚ますとそこには既に誰も居なかった。机に並べられていた手付かずの食事は持ち帰れるように紙に包まれていて、紅茶は片付けられ代わりに水差しとコップが用意されていた。どうやらアイメリクが部屋を去ったのに気付けないほど熟睡していたらしい。
ゆっくりと立ち上がる、体が軽い。単純に疲労が回復した以上にのしかかっていた何かが軽くなったように思う。
これでまた高く、誰よりも高く鋭く飛べるようになるだろう。
窓から見上げた蒼穹の色を恋しく思う。
この想いはきっと、重りにはならない。