星屑のワルツ 室内に小さく鳴り響く着信音。
たったワンコールしか鳴っていないのにも関わらず、見計らったように通話を繋いだ潔は、ゆったりと淡緑色のカウチソファーに身を委ねながら耳元へとスマートフォンを当てる。
「よ、お疲れー」
どうせ向こうから話し出す事は無いだろうと予期していたのもあって、ついているテレビの音量をもう片方の手で掴んだリモコンで下げながら発した潔の声はどこか間延びしていた。
完全にプライベートモードな潔が着ているのは、声色に似合いのよれたスウェットの上下──それらは"青い監獄"時代のものであり、特徴的な胸元の印字は掠れている。
潔にとって特に感慨深い品ではなく、いつまでも取っておくつもりもなかったが、着なれているのもあって自宅で寛ぐ時の服として未だに活用されていた。
すっかりリラックス状態の潔の耳に飛び込んできたのは、応答代わりの鋭い舌打ちがひとつだけ。
かけてきたのはそっちだろ、と潔が苦笑を洩らしたのをしっかり聞き取ったのか電話の向こう側で凛はようやくその口を開いた。
『なんで起きてんだよ』
「いや、普通起きてるだろ。まだ十一時前だし……」
『さっさと寝ろ、チビ』
「超理不尽だなぁ。いまさら寝たって伸びないだろ。それにお前のが俺よりガキだからな」
「身体ばっかりデカいお子ちゃまこそ早く寝ろ」とまで煽りかけて潔は流石に唇を噤んだ。
あまりにも煽ると凛は本当に電話を切ってしまうだろうし、またかけ直すのも二度手間になると踏んだからだった。
その間も表示の変わっていくテレビで放映されているニュースでは、今日起こった事件事故などと共に、凛が所属しているP・X・Gや潔のホームであるバスタードミュンヘンの試合結果が一気に流れてくる。
日本でもサッカーは比較的メジャーなスポーツだが、やはり本場である欧州には遠く及ばない。全体の実力が、というよりは、世間の盛り上がり方が違うのだ。
そうして電話越しに会話をしている男が今日の試合でハットトリックを決めたハイライトが流れてきて、今度は潔の方が眉をしかめた。
別リーグのチームとは言え、これだけ完璧なハットトリックを決めても当然だと言わんばかりの表情を浮かべている凛の顔が画面に抜かれたからだ。しかも絡みにいった七星を鬱陶しそうに追い払っている。
せっかく今年こそバロンドールを狙えると考えていたのに、また引き離されてしまった。
欧州に活動拠点を移してもう数年経つが、未だに潔と凛は追って追われを繰り返す宿敵のままだ。
でも"青い監獄"とはまた違って、宿敵以外にも二人の間には異なる関係が紐付いていた。
「どうせすぐ切るつもりだったんだろ。そうはいかねぇからな」
煽るのを止めた分、そう指摘してやる。黙り込んだ凛はやはり図星だったのだろう。
全くもって素直じゃない恋人だと、潔はクツリと軽い笑みをこぼすと、身体をずらして座っていた状態から肘置きを枕にする形で横たわった。
そのままスマホを顔の前に持ち直してから静かに声をかける。
「なぁ、ビデオ通話にしてもいい?」
未だ無言のままだったが、名前だけが書かれていた無機質な画面が切り替わって、カメラの位置を知らないのかと思うくらいの近距離でほんのりと頬の赤い凛が映っている。
軽く体が動いているのと、薄暗い背景にまばらに散っている細かな星屑が艶を帯びた黒髪越しに見えて、どうにか凛が屋外に居るというのが分かった。
こんな夜中に凛が外に出ているなんて珍しい。
しかしながらハットトリックを決めたのだ、陽気なメンバーが揃っているフランスチームの奴らに飲み会にでも駆り出されたのだろう。
頬がすこし赤みを帯びているのも寒さと酔いからなら納得がいった。
『おい。寝てんじゃねぇよ』
「え?」
『ソファーだろ、そこ』
寝ろと言ったり、寝るなと言ったり忙しい男だ。
だが、続けられた言葉に凛の伝えたい事を理解する。
潔が自宅の合鍵を渡す程度には信頼している凛は、例え画面越しであってもリビングに置かれたソファーの布地が分かるのだろうし、実際何度もソファーで寝てしまった所を叩き起こされた経験があった。
アスリート二人で横たわっても大丈夫なくらい大きな物に買い換えたので杞憂だとは思うものの、引っ越してきて最初の頃に身体を痛めたのをまだ覚えているのだろう。
あの時はオフシーズンだったし、そこまで重症では無かったから午前中には何事も無く治っていたが、潔よりも気を揉んでいた凛はコーチでもないのに必要以上にイラついていた。
「電話切ったらちゃんと寝室行くから平気だよ」
そう言った潔を画面越しに見ている凛の目には呆れが乗っている。
このままでは寝室に移動するまで見張られそうな気がする。凛は意外にも潔のコンディションについて神経質なまでに配慮しがちだった。
どうにか誤魔化そうと別の話題を提供する為、潔はさらに言葉を紡いだ。
「てか、今度のオフいつ? こないだ来て貰ったから今度は俺が行こうかなって。そっちのがケーキとか美味い店多いし」
相変わらず黙ったままの凛の身体は揺れていて、頭上でキラキラと光を放っている星々の中央にいる凛の瞳が細まる。
黒いコートの上に巻かれた薄水色のカシミヤマフラーは昔、潔がプレゼントしたものだった。
なんだかんだ文句を言いつつも潔が渡したものを長く愛用してくれる凛のマメさも、知っているのは潔くらいだろう。
『ケーキ、食いたいのか』
「……まぁ、なぁ? 一応?」
『一応ってなんだよ』
手に持っている物を持ち直したのか、がさがさと小さくビニールの音がして、今度は画面全体が揺れる。
その際に一瞬見えた街並みは凛の住んでいるパリの大通りとは少し異なっている気がして潔は目を凝らすが、また凛はわざとスマホを自身に近付けたようだった。
薄暗い路地を進んでいるのか、石畳の上を凛が歩く音がする。
「この年になると誕生日のお祝いって感じでも無いけど、なんとなくな」
凛がその言葉に反応する事はない。しかし、心なしか足音が速くなった気がした。
背後に映る冷えた空気に滲む凛の呼気が白く伸びていく。もう四月になるとは言え、フランスやドイツは朝晩になると冷える。
体調管理を怠ったりはしないと知っているが、首元を覆っているマフラーを渡しておいてよかったと内心で潔は考えていた。
『やっぱりガキじゃねぇか。カロリー摂り過ぎてトレーナーにキレられんぞ』
「ばか、逆にもっと太れって言われてるくらいだから丁度いいんだよ」
日本では平均以上な身長体重である潔も、ドイツのプロチームに入れば途端に小さく見える。
高校時代よりも伸びたとは言え、元からの血統というものには中々勝てなかった。
かわりに小回りの利く体格と遥か天空から見ているかのような視野、それから並外れたゲームメイクセンスによって強豪チームであるバスタードミュンヘンのツートップの片方を任されている。
そのうちワントップにしてやると同じチームのカイザーと【味方なのに敵】と周囲から言われるくらいバチバチにやりあっているのも"青い監獄"から変わらなかった。
「いつかケーキをワンホール丸々食べてみたいんだー。チョコを山ほど食うって夢は叶ったし」
『……絶対途中でリタイアするだろ』
「そうかなー。でもさぁ、ほら……凛の家の近くにあるパティスリーあるじゃん。あそこのやつなら甘さ控えめでいける気がしたんだよな」
ソファーの上で寝返りをした拍子に、潔の頭頂部にある双葉のような癖毛が揺れた。そうして仰向けだった状態から横向きになったのを見て、凛の眉根が明らかに寄る。
このまま眠るつもりは無いのを示すように、あえてスマホを持っていない方の腕を潔は頭の下に差し込む。安定しない土台の上では流石に眠らない筈だ。
無言でそんな主張するのを忘れないまま、会話を続けた。
「それに二人でワンホールなら余裕じゃね? 凛だって甘いの好きだろ」
『好きったってそこまでじゃねぇ』
「たまになら良いじゃん! 俺が買うからさぁー。な、お願い!」
自分のバースデーケーキを自分で買うから一緒に食べてくれ、なんて頼むのもおかしな話だ。
どうせ明日になればチームメイトや各国に散った“青い監獄”時代の友人たちからメッセージやらプレゼントやらを贈られるのはもう分かっている。
でも、それとこれとは別の話だ。凛が潔と付き合って意外にも神経質な部分があるのが分かったのと同様に、潔は凛と過ごす記念日や思い出を存外大切にしたがった。
『……お前が自分で買うのか』
「そう。それなら一緒に食べてくれるだろ」
我ながら意味の分からない理屈をこねていると自覚しながらも、冗談めかしてそう言った潔を画面越しに見ていた凛は何故か長い溜息を吐き出した。
そうして今度は階段を上がっているのか、コツコツという靴音がする。
凛の暮らしているパリには歴史あるパティスリーやブーランジェリーが軒を連ねている。
潔がパリに赴く度にひとつずつ試すように近くの店舗を巡っているお陰で、その近くに住んでいる凛よりも潔の方が周囲の情報に敏くなっていた。
『それは却下だ』
しかしそんな潔の甘える声音をバッサリと切り捨てた凛は、何かを探しているのかコートのポケットをまさぐっている。
ムッと顔をむくれさせた潔が文句を言う前に、ガチャガチャと自宅の鍵が開かれる音がして潔は横になっていた状態から一気に飛び上がった。
シーズン中はお互いのサッカーに支障が出てはまずいから、よっぽどの事が無ければ相手の元には訪れない。試合後ならなおさらだ。
しかも、ハットトリックという快挙を遂げたエースが疲労していないワケが無い。
潔は持っていたスマホを繋いだままソファーに放り投げると、大急ぎで玄関へと駆け出していた。
走って向かった先の玄関にはいくつかの荷物と、繋がれたままのスマホを掲げている凛の姿。
思わず勢い余って抱きついた潔を難なく受け止めた凛は、フンと小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「マジで気がついて無かったのかよ、まぬけ」
「な、だって、お前、……来るなら言えよ! 俺が居なかったらどうするつもりだったんだ!」
「はぁ? 俺からの電話を出待ちしてるような奴が出かけるわけないだろ」
「そうですけど! そうじゃなくて!」
凛の手に持たれていた荷物のうちの一つを渡された潔は、はしゃいでいるのを隠すこともなく中に入っていた箱の蓋を開ける。
入っていたのは、潔の自宅近くにある有名店のケーキ。しかも小ぶりながらもワンホールかつバースデープレート付きだった。
流石に名前までは書かれていなかったが、一体どんな顔で凛がこのケーキを頼んでいたのかを想像するだけで潔の頬が溶けてしまう。
「え、うそ! ケーキじゃん! 俺がよく行くところのやつ?!」
「とりあえず中に入れろ。寒い」
「ごめんごめん」
喜びをあらわにしている潔の横で靴を脱ぎ、専用のスリッパに足を通した凛は潔にだけ分かるくらいの薄い笑みを浮かべた。
「どうせ自分では買ってねぇんだろ」
「そりゃ、お前と向こうで食うつもりだったから……」
「手洗ってくるから準備しとけ」
勝手知ったるとばかりにそう言って洗面所へと向かった凛の後ろ姿を見ながら、ふと今日の凛のプレーを思い出す。
決めた瞬間は余裕ぶっていたが、それまでは少し焦りの見えるポジション取りをしていた。
頭の中でここまでの凛の思考と言動のピースが組み合わさって、潔の中で一つの答えが導き出される。
自惚れかもしれないが、多分、そうではない。
何故なら糸師凛という男の胆力や行動力、それから潔世一という人間への理解度の高さは群を抜いていた。
ケーキという恋人へのプレゼントをサプライズで用意してくれた凛が、今日の試合結果を意識していない筈が無いだろう。
そうして、潔にとって一番悔しくも、ワクワクして止まない事象──サッカーにおいて追って追われて才能を喰らいあう──他では味わえないヒリつき。
それ以外では満足出来ないサッカーを愛するストライカー同士だからこそ理解可能な挑戦状であり“宿敵”である凛からの最高のプレゼントだ。
勿論、それだけでは無いだろうが、狙って決めてきたハットトリックだったとは思いもしなかった。
ならばその期待に応えるのが、凛の宿敵兼恋人の役目だろう。
「……俺ってば、めっちゃ愛されちゃってんじゃん……」
興奮で熱くなった頬を押さえつつ、潔はひとりごちる。
そうして感激のあまりケーキの箱を持ったままの潔が洗面所から出てきた凛に早くしろと小突かれたのは、その呟きから数秒後の出来事だった。