KISS ME LIGHT 聞きたくもない言葉や知りたくも無かった情報を耳にした時、人間というのはあまりの衝撃で"無"になるのだと初めて知った。
じわじわとその虚無感から立ち直っていく間もどうにか握り込んだままでいられたドリンクボトルは掴む力が強すぎて、ミシミシとプラスチックの軋む音がする。
中身がほとんど残っていなかったのだけが幸いだった。もしも満タンの状態だったなら、勢いよく壁に投げつけて辺り一面がスポーツドリンクまみれになっていた筈だ。
簡単に思い描けるその行動を実行しなかったのは、プライドと理性、それからほんのひとさじの好奇心が顔を覗かせたから。
本当なら今すぐにでもこの場を立ち去るべきだと分かっている。けれど、ついつい聞こえた会話の続きを求めて足は勝手に歩みを止めていた。
「ねぇねぇ、潔、それでそれで? 俺にだけ教えてよ! 内緒にするからさぁ」
「……いやぁ……流石に蜂楽にも言えないって……」
「えー。どんな人なのか知りたいな~、潔の好きな人!」
大浴場と隣接している洗面所の扉がうっすらと開かれたままで、聞こえてくる声は反響している。
その場にいるのはおかっぱと潔だけらしく、他のモブはいなさそうだった。
だからこそまたもや聞こえてきた耳障りの悪い言葉を脳が拾う。──潔の"好きな人"?
たったそれだけの単語が自分の中で強烈な拒否反応を起こしているのが分かった。
先ほどまで自主トレをしていて温まっていた筈の手先は痺れてくるし、心臓は嫌なくらいバクバクと高鳴っていて、酸素を取り込む度に針を刺されたような痛みを訴えてくる。
こんな事は初めてで、いったい何がどうなっているのか自分でも理解が出来ず、結局はさらに漏れ聞こえてくる会話に耳を澄ませるしか出来ない。
「じゃあさ、ヒントちょうだいよ潔!」
「ヒントって……そんなの聞いてどうすんだよ」
「いいからいいから! とりあえず"青い監獄"で出会った人かどうかだけ教えて?」
「蜂楽……楽しんでるだろ……」
「いひひ、バレちったか♪ でも、気になるのはホントだよ」
苦笑交じりに呟く潔はどうやら照れているらしく、それが心底気持ち悪くてしょうがない。
どこぞの誰かも知れない相手にうつつを抜かしている潔に対しての怒りだとか、『俺だけを見てろ』と何度も何度も伝えたのにも関わらず、実際はどうでもいいモブに意識を奪われている可能性があることだとか。
くわえて、今すぐに物音を立てて気色悪い話題を断ち切らせればいいと分かっているのに、それでも潔の唇から零れるだろう続きを待っている自分自身への嫌悪やらが全部ひっくるめて体に圧し掛かってくる。
かかっている重力が数倍になっている錯覚の中で、かすかな声を聞き漏らさないことにだけ意識が集中していた。
「まぁ……"青い監獄"で知り合った奴だけど、この感情が好きって言葉でくくれるのかわからないんだよ」
「といいますと?」
「……ただ好きってだけじゃないし、すごく尊敬もしてる。……自分には足りないものを沢山持ってるし、……どうにかして追いつきたいなって思う」
「……潔ってばその人の事、本当に大好きなんだね」
「へ? なんで急にそんな事……」
「だって今の潔は相手を思い出してるんでしょ? ……すっごい切なそうな顔してるもん」
「な!? もぉ! からかうなって!」
あまりのむず痒い恋愛談義に舌を噛みちぎりそうになる。と同時に、他人の感情や思考を意外にもよく見抜くおかっぱの言葉が嘘ではないというのも分かってしまった。
潔が一番尊敬している人物が誰なのかを俺は知っている。
何故なら、新英雄大戦の前まで俺が日課としていた毎日のクールダウンヨガにくっついてきていた潔がノエル・ノアの名を出していたからだ。
もしくは俺の知らない間にドイツ棟で知り合った奴の中にいるのかもしれない。例えば、クソ青薔薇野郎やそれ以外の海外選手だって可能性はある。
くだらないインタビューで【笑顔が素敵な人が好き】だとほざいていた潔が、俺の知らないところでそいつらの誰かと仲を深めているのを俺は否定できない。
"青い監獄"の中で誰よりも潔の事だけを考えてきた自負はあった。潔を壊すのは自分だという確信だってある。
だが、潔の"好きな人"というくくりに自分が入るかどうかは正直自信が無かった。潔にとって、俺と出会った事は人生において最も幸運な出来事だと言い切れるし、他の誰でも無い俺を選ぶべきだと思う。
けれど、潔がだれかを想って切なげな顔をしていて、それが絶対に自分だと言い切れるほどに自信過剰にはなれなかった。
アイツは誰にでも平等に愛想を振りまいては、知らない間に色々な人間から不必要な感情を抱えられている。そうして本人にはそんな自覚など微塵もない。俺がどれだけ執着しているのかなど潔本人は欠片も知りはしないのだ。
考えるだけで気が狂いそうになる事実から目を背け、もうこれ以上は聞いていられないとその場から黙って離れる事にした。おかっぱと潔の与太話をこれ以上聞いても不快になるだけだ。
未だに続いているらしい会話からわざと意識を外すと、等間隔に電灯が灯る無機質な廊下を歩む。
足音以外なんの音もしない静まり返った空間にいるせいなのか、さっき漏れ聞こえた言葉が再び脳内で浮かび上がってくる。
"好きな人"──気味の悪い単語すぎて頭が痛い。
この場に立っている以上、サッカーに全てを捧げなければ生き残れないのは潔だって理解している筈だ。
なのにアイツは誰かを想っているのだという。あの青色の瞳でその好きな相手とやらを真っすぐに見つめて微笑みかけるのを想像するだけで、全部ぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。
そもそも、アイツはいきなり目の前に現れたかと思えば、急速に俺の世界に入り込んできた。
当然のように隣に立っていて、この先もずっとそうだと信じていたのに。
「ッ……クソが……」
潔の事ばかり最近は考えていたから、声のトーンだけで何となく潔の表情など思い浮かぶのに、さっきの声からは俺の知らない潔の気配がしていた。
本当は、洗面所に突入してくだらない話を中断させたかった。お前は俺だけを見るべきなのに、一体誰を考えてそんな事を言っているのかと問い詰めたかった。
ギリギリと無意識に噛み締めた奥歯が軋む。自分がここまで苛立っている理由も分からず、握ったままのボトルを持つ手を入れ替える。
指の形に凹むものの、どうにか破壊せずに済んだプラスチックの塊は何の温度も感じない。そのせいなのか余計に苛立ちは増すばかりで、自然と舌を打っていた。
□ □ □
背後で勝手に開かれる自動ドアの音はいつもと同じなのに、なんとなく不愉快に聞こえる。
この時間にフィジカルスタジオを訪れる奴など数限られていて、声を聞かなくても気配で誰なのかを察知出来てしまう自分自身も不快でしょうがない。
数時間前に聞いてしまったあの会話のせいで何もかもがおかしくなっている。自分のコントロールがうまく効かない感覚は久しぶりで、嫌に喉が渇いた。
自分を律する為にヨガをしているのに、もう既に雑念ばかりが脳を埋め尽くしているのですらも許せない。
「おつかれ! 今日も一緒にやっていい?」
それなのに、案の定、受け入れられると信じ切っている呼びかけが耳を撫でる。
鍵盤を軽やかに叩くような弾んだ音。見なくたって潔が楽しそうにしている顔が浮かんで、胸の奥で勝手に軋む自分のポンコツな心臓を今すぐに停止させたくなった。
誰彼構わずこうやって人の領域に土足で踏み込んでは知らないうちに荒らす潔を憎たらしいと思うのに、今夜も俺の隣に現れた潔を喜んでいる矛盾になどとっくに気が付いている。
──好きな人とやらがいるのに、思わせぶりな態度取ってんじゃねぇよ。クソ潔。
そう言いかけて引き結んだ唇はかわりに深呼吸を続ける事だけに集中する。
「……凛?」
瞼を閉じたままなのもあって、潔が隣に座ってきたのは伝わってくるがどんな顔をしているのかは分からない。
自分の表情を見られたくないのと、潔のキラキラとした瞳を直視したくないというのの半々だった。
だったらさっさと追い出せばいいのにそれすら出来ないくらいに俺はこの男を許容してしまっている。
だから最後の悪あがきに黙ったままでいれば、向こうが俺の機嫌を察知して出ていくと予想していた。
だが、想定していたのとは違ってすぐ近くに寄ってきたらしい潔の指先が、いつも通りスウェットを脱いだむき出しの肩に触れてくる感覚がある。
「なんで無視すんの」
その感触と鼻先を掠めるシャンプーの匂いにうっすらと瞼を開く。すると想像していた以上に近い距離にいた潔が苦しげな顔をして俺を見つめていた。
こんな顔をさせるのはフィールドで殺し合う時だけでいい。──咄嗟にそう思った己が信じられず呆然としていると、無視されたままだと勘違いしたらしい潔がさらに言葉を紡いだ。
「凛に無視されんのすっげぇ嫌なんだけど……俺、なんかした?」
きゅうと寄せられた眉根とその下にある夜空のような瞳がぱちぱちと瞬く。
何かしたかと問われれば、言いたい文句は山ほど思いつくのに結局出たのはただ一言だけだった。
「……お前、好きな奴いんだろ」
「ん、……え!? なに、もしかして蜂楽から聞いたの?」
途端に血色の良くなった頬は年上のくせに丸っこくて、歯形が残るくらいつよく噛み付きたくなる。隣に座ってわざとらしく顔を手の甲で隠した潔は床に視線を落としたまま、逆に黙り込んでしまった。
"好きな奴"のせいでここまでしおらしくなる潔はこれまで見た事が無くて、絶望を感じるまでぶっ潰したくてしょうがない。
一体どんな相手なのかと問いただしたいし、なんなら今すぐにソイツともども潔を殺してやりたかった。
ぎり、とまたもや噛み締めた奥歯が音を立てる。
未だに腕に触れてきている指先を乱暴にはらうと、驚いた様子の潔が凝視してくるのが少しだけ気分を上昇させた。
「だったら俺に構ってないでソイツの所いけよ。……うぜーから」
口に出してから自分の言葉に後悔する。本当は潔がここからいなくなるのを許したくないし、出来る事なら引き止めたい。
離れていた数週間以上、俺はずっと潔の事ばかり考えていた。それはこの男に勝たなければ自分の真のエゴを見つけられないと思ったからだ。
強い奴と戦って、死にたい。幼かった頃に目覚めたまま忘れていた欲求を潔だけが受け止め満たしてくれた。この先だって多分、俺の人生にこの男の強く眩い光が降り注いだまま消える未来など想像すら出来ない。
テレビの中で眺めていたヒーローアニメのように、自分の中で永遠に輝く道標なのだと勝手に思っていた。
俺の言葉にぽっかりと口を開けてマヌケ面を晒していた潔は緩やかに唇を閉じたかと思うと、少しだけ考え込む素振りをする。
離れるつもりがないのなら、こちらが消えればいい。そう思って立ち上がろうとしたのをいきなり潔が半ば圧し掛かる勢いで抑え込んできたので思わず受け止めていた。
「あっぶねぇな……! テメェなに考えて……」
「話、聞いてたんだよな?」
けして華奢とは言い難い重みを両腕で感じている間に、目の前で潔の前髪が揺れて奥にある瞳が迷いなく俺を見抜く。
試すような、もしくは探るような眼差しとは違い、かけられた声に乗った感情は俺を責めている。そんな些細な感情の変化すら気が付いてしまうくらい、俺は潔をよく知っていた。
「……だからだろ」
聞いていたからこそ、慣れないながらも気を遣ってやっているというのに。
しかし俺の返答が気に食わなかったのか、目尻を吊り上げた潔が拗ねた風にしながらさらに顔を寄せてくる。
コイツのムカつくところはいくつもあるが、一番ムカつくのは距離間がおかしいところだ。それから、普段は年上ぶった態度を取るくせに二人きりになると時々ガキみたいな絡み方をしてくるところも。
こういう事をするから、自分が特別扱いをされている気分になってしまうのだとこの男は分かっているのだろうか。
「じゃあ、……なんでわかんないんだよ」
「……あ?」
「……それとも本当はわかってるのに、直接言わせたいだけ?」
「おい」
頭上に設置されている照明の光が互いの顔に影を落とす。目の前にいる潔は初めて見る顔をしていた。いまにも泣き出しそうにも思えるし、怒っているようにも感じる。
理解してもらえない悔しさに似た何かを滲ませたままの潔が触れてくる指先は熱くて、そこからじわじわと侵食されていく。
洗面所で会話を聞いてしまった時とはまた違う心拍数の昂ぶりに促されるように、片手をあげて潔の顎先を撫でてみる。
なにか言えよと願う俺を見透かすロイヤルブルーの瞳がそっと細まって、上から重ねられた潔の手のひらに誘導されるように頬に手を当ててみれば、期待に満ちた視線に焼かれた。
「俺さぁ、また凛と同じチームで戦えるのすごい楽しみにしてた」
「……い、さぎ……」
「……これだけ言ってもまだ、伝わらない?」
さらにはとっておきの秘密を打ち明けるように、ほんのりと頬を染めながら呟いた潔の唇は柔らかそうで、思わず親指で触れてしまう。
それでも拒否されない事実に脳内で白い閃光が走る。まさしく稲妻に撃たれたかのような衝撃が全身を包んで、チカチカと目が眩んだ。
「……わかんねぇ」
「はぁ!? おま……、っぅ……」
わざと意地悪くそう言ってみれば恥ずかしさからか目を潤ませた潔が物欲しげな顔をしていたので、ついでに唇を触れ合わせてみた。
キスなんて映画の知識しか無いのもあって、どのくらいの勢いでくっつけてどのタイミングで離れればいいのかも分からなかったが、丸くなった潔の虹彩がゆっくりと潤んだのを見て、正解だったのだと内心安堵する。
そのまま湯気でも出そうなほど温かい潔の額に額をくっつければ、ゆらゆらと穏やかな水面が目の前に広がっていた。
「わかんないのに、キスするのはいいんだ」
「別に……嫌ならもうしねぇ」
「それはズルくない?」
「フン」
鼻を鳴らしたのとほぼ同時に、呆れたように笑った潔の吐息が唇にかかる。
かすかにミントの匂いがするのは"青い監獄"で支給された歯磨き粉のせいなのだろうが、なんとなくその爽やかさがクセになってしまって再び顔を近づけた。
けれどこちらがキスをするよりも先に動き出した潔の唇がこちらの唇を塞ぐ。
小鳥が啄むような生温い接触は、こそばゆくも未知の感覚を与えてくる。もしも潔以外からされたらと考えると鳥肌モノなのに、もっと欲しいと願っている自分がいた。
「……りん……」
息継ぎの合間に呼ばれる名前の響きは心地よくて、甘ったるい。味わえば最後、我慢した果てにつまみ食いした菓子ですらも追いつけないほどの多幸感は人生で一度だって経験した事のないものだ。
「好きだよ、凛」
それに加えて、これまで見た事のない潔の一面を知ってしまったせいで、手放す気持ちもいっさい失せてしまった。
恋や愛なんて生ぬるいものに振り回されるなどあり得ないと思っていたというのに、『好き』だと伝えてくる潔の瞳はどこまでも真っすぐでこちらを狂わせる。
しかも、その眼差しにはただ甘いだけではない厳しさと、ぎらついた心が覗いていて、そんな歪さに潔世一という男の底知れなさが垣間見えた。
忘れていたワケでは無いが、素直に言葉を重ねるのを何も恐れない潔は他人の欲しい言葉を簡単に見つけ出す。
だからこそ未来永劫、この男は自分以外には渡さないし、闇雲に触れさせたりしない。そう決めた。
もしも潔の持つ感情と自分の感情の重さの比重が異なっているとしても、この想いを知覚させたのは誰でもない潔本人だ。
自分でも知らないうちにしっかりと芽吹いていた感情をあえて口には出さないまま、体を凭れさせてくる潔の髪に指を絡ませ、もう一度自分からキスする為に強く引き寄せていた。