オレンジストラテジー「前々から思ってたけど、お前って結構律儀だよな」
「……馬鹿にしてんのか」
「違うってば。なんですぐそうやって怒んの」
「テメェが意味分かんねーこと言うからだろ」
さほど広くは無い店内。やはりそこまで大きくは無いテーブルで膝をつき合わせて向かい合っている凛が眉根を寄せる。
しかし本気でキレていないのが分かっているので、特に気にもせず置かれたおしぼりの封を切った。
随分と長い距離を歩いたのもあって、腰を落ち着けた途端に心地よい疲労感が体を回っていく。
本格的な夏まではいかずとも、少しずつじめついた暑さを宿し始めている空気が町中に満ちていて、ずっと露出していたうなじはおそらく日焼けしているのだろう。
帽子を被ってくればよかったなんて後悔もあったが、いまさらな話だった。
「だって、ここまで付き合ってくれるなんて思ってなかったから」
「……別に。気が向いただけだ」
お前の"気が向く"なんて、超絶激レアタイミングが存在してるのにビックリしてるよ。
それを目だけで訴えれば、今度こそ癇に触ったらしい凛の足先がスニーカーを履いている俺の足先を踏みつけていった。
「いってーなぁ」
わざとらしくそこまで痛くもないのに痛いと言ってみれば、さっさと離れていった足の主はしれっとした顔でおしぼりと共に運ばれてきていたお冷やに口をつけている。
これからプロの世界で研磨され、ますます強くなる予定のストライカーを足蹴にするなんて失礼な奴だ。
まぁ、フィールドでこてんぱんに叩きのめしてやる予定ではあるので、別に今は構わないけれど。
平日とはいえ、海外の観光客やら日本人やらがひしめきあっていた江の島周辺よりは少しばかり落ち着いたこの場所は、それでも地元埼玉よりずっと人が多い。
やはり人気な観光地はどんな時期でも人が多いのを改めて理解して、この土地で幼い頃から暮らしていた凛の過去を想像するとなんだか不思議な気分だった。
「ボーッとしてんじゃねぇぞ、潔」
その言葉にハッとして、冷たいおしぼりで拭った指先で目の前に置かれたメニューを開く。
凛といると気を遣わなさすぎて自分の思考についつい脳を浸しがちだ。
しばしばそれを咎められる事もあり、止めようとも思いはするが勝手にそうなってしまうのだから仕方がない。
「あのサイトに載ってたやつまだあるかな?」
視線を向けた先にある渋い字体で書かれた【ぜんざい】やら【きんつば】やらの文字に心が躍る。
どれも美味しそうで悩ましいが、今日は頼むものを決めているのだ。
なので迷わずページの一番最初にある期間限定かつ数量限定の【フルーツ特盛白玉クリームあんみつ】の文字を見つけると、凛の方へとメニューを差し出す。今日の締めはこれを食べることをずっと楽しみにしていた。
だから江の島や小町通りでの食べ歩きを控えめにしたのだが、歩いた距離もかなりあって腹の空き具合はちょうどいい。
「あんなのマジで食うつもりか?」
「そ。凛も同じのにする?」
こちらの問いには答えず、大人しくメニューを受け取った凛が長い指先でページを捲る様を見ながら、こんな可笑しな状況になった経緯を思い返していた。
とは言え、経緯だなんてそこまで大層な話でも無い。
かつて同じ部屋で寝食を共にしていた頃、俺は凛の日課であるヨガについて回っていた。
"青い監獄"で一番の強者であり、誰よりも努力をしている凛の強さの本質に近づきたかった。──ついでに、ほんの少しの下心もあった。
その時はいっさい自覚していなかったが、凛と過ごす時間は閉鎖的なあの環境で意外にも楽だったのだ。
勿論、蜂楽たちと一緒に居る時の方が会話は弾むし空気は穏やかだった。
しかし、それとはまた違う空気感が確かに存在していた。多分、凛も俺も互いに全然気を遣っていなかったからなのだろう。
出来るだけ会話を続けなければならないだとか、楽しい話題を提供しなければいけないなどという気遣いが一切不要だった。
無言で隣り合っていても凛は気まずそうな空気を醸し出さなかったし、逆に俺が何かを話してもサッカーの話題以外はどうでも良さそうで、聞いているのか聞いていないのかよく分からない反応が多かった。
機嫌があまり良くない時は、もはや塩を通り越して氷のような対応も多かったものの、それでも求めている質問の答えは返ってくる。
しかも強い言葉遣いの割には、あとから考えると核心を突いた内容だったのに気が付いて、ベッドの中でひとり感心してしまう事もしばしばあった。
そんな凛に苛立ちを感じる時もあるにはあったが、奴の通常運転だと理解してからはさして気にもならなくなった。
笑えるくらい無愛想な人間なのは最初っから知っていたのもある。
だから俺達の間に交わされるサッカー以外の話題などさして多くは無い。
でもたった一度だけ、凛が俺の予想外の反応を返してきた時があった。それは凛の地元である鎌倉の話を俺がした時だ。
本当に軽いノリで、まだ行った事の無い江の島や、鎌倉の有名な観光地に人生で一度くらいは行ってみたい……という事を言ったような気がする。
当時の自分が何故、そんな事を凛に話したのか自分でも驚きだが『いつか二人で遊びに行こうぜ』と言った俺を凛は否定も肯定もしないままだった。
シンと静まったフィジカルスタジオの空気は今でもなんとなく思い出せる。
あの時の沈黙はいつもの静寂とは少しばかり質が違ったからだ。
緊迫感や怒りとはまた違う不思議な雰囲気を纏った凛は、そのまま何も言わずに俺をただジッと見つめてくるだけだった。
こちらの意図を探るような純粋な瞳になんだか俺は無性に恥ずかしくなってしまって、先に目を反らしたのだけはハッキリと覚えている。
凛は何も言わなかったけれど、もしかしてこれは未来の約束を交わした事になるのだろうか。
勝手に高鳴る心臓を誤魔化すように普段通りサッカーの話をし始めたのもあって、その件は自分の中でも有耶無耶になりすっかり忘れ去られていた。
しかしそんなやり取りを記憶から呼び覚ましたのは、他でもない凛だった。
"青い監獄"に基本オフは存在しない。
でも、機材整備やらスタジオでの撮影やらで外に出る機会は時々設けられている。
こんな事をしているくらいなら練習する時間に充てたいと思わなくはないが、流石にグラウンドやボールが使用不可能ならサッカーは出来ないのだ。
だから機材整備で約二日間の突発オフが発生し、そのまま残ってもいいし、帰宅しても構わないと言われた時、俺は折角なら家に帰って母さんと父さんに会いに行くのもいいかもしれない。そんな事をぼんやりと思った。
もしもこの機会を逃したら外に出られるタイミングはあまり無いだろうから。
同室の氷織や黒名たちは帰宅しないという事だったので、持ってきていたボストンバッグに簡単に荷物をまとめ、玄関口で最寄駅まで送迎してくれるバスを待つ一団に一人で紛れ込む。
まばらに集まるメンバーの中で軽く声をかけられるようなメンツも居なかったので、仮返却されたスマホに溜まっていた無数の雑多なメッセージに辟易しつつ、返信内容を考えていた俺の背後に音もなく現れた凛がいきなり声をかけてきた時、それこそ飛び上がるほど驚いた。
『どうすんだ』
言葉が簡潔すぎる上に、問いかけてきた凛の眉はしかめられていて一体"何"を"どうする"のか全く分からなかった。
全身から疑問符を浮かべていただろう俺に舌を打った凛は、それこそ苦虫を噛み潰したように口端を歪めて言葉を続ける。
『鎌倉』
『え? あの約束……ってまだ有効なん?』
ギリギリと奥歯を噛み締め、自分の発言を後悔していそうな凛の手を思わず両手で掴む。
そうでもしなければ凛はそのままどこかに行ってしまいそうだったから。
掴んだ手は振り払われず、皮膚が触れ合う。手を握った事など無かったけれど、筋肉がさらについたらしい凛の手の甲は以前よりもさらに武骨になっていて温かい。
しばらく会っていないうちにもっと凛が成長しているのが分かって、興奮気味に顔を上げると明らかに戸惑っている凛と目が合う。
『行きたい! ……凛が案内してくれんだろ』
『案内してやるとは言ってねぇ』
『じゃあ俺が色々調べるから。それならいい?』
ぎゅっと握り込んだままの凛の手がピクリと動く。
見下ろしてきたターコイズブルーは呆れが混ざってはいたものの、嫌では無さそうだった。
『変な場所にはついてかねぇからな』
長い前髪の隙間から見えている眉根の皺が無くなって、つり上がっていた目元がほんの僅か緩む。
たまにしか見られない凛のそんな顔は久々に見たのもあって、破壊力がすさまじい。
じわじわと上がっていく体温を知られたくなくて握っていた手をそっと放す。そんな俺の動きに目線を送った凛はそのままぶっきらぼうに呟いた。
『明日の朝、九時半に改札』
『明日?! 俺は良いけど凛は家でなんかやらないのか? 別に明後日でもいいけど……』
『明日で良い』
『分かった』
伝えたい事は全部伝えたとばかりにさっさと離れていってしまった凛は、やってきたバスに向かって歩いて行ってしまう。
どうせなら連絡先だとかそういうのを聞くべきだったと思ったものの、まぁなんとかなるだろうと遠ざかっていく凛の背中を見送った。
それから帰りのバス車内で同級生たちのメッセージなどそっちのけで【鎌倉 観光地】やら【江の島 ランチ】やら調べまくったのは言うまでもない。
地元住民の凛の方が絶対に詳しい筈だが、先に誘ったのは実質自分なのだと思えば気合も入るものだ。
しかも気難しい凛の事だ。本当に気に食わない場所に行こうとすれば、それこそ途中で帰ってしまう可能性も十分に考えられる。
せっかく二人で出かけるのなら、楽しい時間を過ごしたかった。
そうして必死こいて作り上げた計画表を駅で会ってすぐに凛に見せたところ「こんなに一回で行けねぇよ」と大幅な修正をかけられた。
だが、自分が行きたいと思っていた場所はほぼ全て行けているし、結局ほとんど凛が案内してくれている。
この店だって、少し離れた場所にあるから行くのは無理かと思っていたのに、上手く時間配分をしてくれたお陰でこうして立ち寄れているのだから有難い限りだった。
結局、テーブルに二つ並んだ【フルーツ特盛白玉クリームあんみつ】の存在感はとんでもなかった。
しかしこれならば食べられるだろう。普段は“青い監獄”で質素すぎる食生活を送っているのだからたまにはこういう物を食べたって罰は当たるまい。
なんとなく甘いものを好まないのかと思っていた凛が俺と同じものを頼んだのは内心驚きではあったが、初めて一緒に出掛けて最後に食べるものが同じなのは思い出に残りそうで結構嬉しかったりする。
「……あのさ」
フォークの先端に突き刺したピンク色の求肥をまじまじと見つめてから口に入れた凛を目の前にしつつ、皿の上で混ざり始めたアイスクリームとあんこの色味をさらにスプーンでかき混ぜた。
凛がどう思っているのかは分からないが、少なくともこうして訪れた二人きりの鎌倉観光はとても楽しい。
それこそ会話が多いわけではないけれど、"青い監獄"で見る凛とはまた違う一面をたくさん知ることが出来たのもある。
ただ、前と違うのは俺も凛もこれまで以上に互いをフィールドで潰す事が最優先事項で、こんな事を言ったら呆れられてしまうだろう。だから言葉にするのが不安だった。
「……凛は、その……埼玉って興味ある?」
結局出たのはそんなわけの分からない誘い文句で、口に出してから後悔する。
別に埼玉じゃなくたっていいのだ。本当は今日行けなかった所に行くのだっていいし、他の場所だって。
でも、地元を案内するという名目でも無ければ、凛は自分と会ってくれないような気がして。
チラリと目をあげると無表情でこちらを眺めている凛がパカリと口を大きく開けて白玉をひと息で放り込んだ。
白玉は結構大きいのもあって、噛み締めている凛の丸い頬が動いている間もつい見守ってしまう。
ようやく白玉を食べきったらしい凛がフン、と鼻を鳴らしたかと思うと大きくカットされたオレンジやキウイにフォークを突き刺し、そのまま当然のように俺の皿に移し変えた。
「埼玉なんてド田舎に興味ねぇよ。……どうせ行くなら違う所にしろ」
足されたお陰でさらにフルーツの量が増えたあんみつを無視して、凛へと視線を注ぐ。
そんな俺の視線に対してなのか煩わしそうに舌を打った凛はやはり顔色に変化は無かったが、どうみても上機嫌に思えた。
「凛も今日は楽しかった?」流石にそう問いかけるのはまだ出来なくて、かわりに凛が皿に放り込んできた新鮮なオレンジと一緒に白玉もフォークの先端で突き刺し、先程の凛に負けじと、もちもちとしたそれに歯を立てていた。