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    凛潔/くじら凛ちゃんと鳥潔

    Swim with me. from XX おおむね百五メートル×六十八メートルの長方形の中でのみ、俺達は物心ついた時から真っ当に息をつけるような気がしていた。

     Swim with me.from XX

     数メートル先に立つ男の体から柔く立ち上る陽炎のような熱気を見ながら、自分が吐き出した二酸化炭素が視界を覆うのを首を振って避ける。
     そのまま動かした視線の先には青と白の二色で構成されたスパイクがあり、つま先で止められたボールの滑らかな表面はナイター用ライトに照らし出され、砂ぼこりをまとい鈍い輝きを放っていた。
     1on1をもう何度繰り返したのか、回数をカウントするのも途中から忘れている。
     そんな事に脳のリソースを割くよりももっと大切な事が多すぎたからだ。
     一回一回の動きをかみ砕き、解釈し、脳で再び再構築する。
     言葉を交わして確認するよりも、コイツとの練習はこっちのやり方のほうが効率的だ。
     稀代の天才と呼ばれる糸師凛という男は、サッカーに関してだけなら自分の行動の意図を言語化するのにも長けているが、俺との間にその段階を踏むことを嫌った。
     それこそ『時間の無駄』だと吐き捨てた凛の意見に俺もある程度は賛同出来る。
     どれだけ机上で話していても、実践で理解出来るものの方が遥かに多い。
     ついでに言うと、俺の適応力はその場の空間すべてを認識し、全体を解析する方が得意なのはとっくの昔から凛にはお見通しだった。
     「……ラスト」
     「わかった」
     汗で湿った前髪を煩わしげにかきあげた凛が囁く。
     名残惜しさもあるが、これ以上はオーバーワークになると互いに分かっていた。ついつい凛との練習ははしゃぎすぎてしまう。
     それを見越しているからこそ、終わりを告げるのはいつも向こうからだった。

     無駄な言葉を必要としない、二人きりの特別な交信方法。
     それはさながら、底の見えない深海を進む探査艇に似た感覚があった。
     未知の領域に住む恐ろしい怪物を探す旅──信じられるのは己の五感のみ。
     この擬似的な潜水に付き合わせるのは悪いと思う時もあるが、自分の限界を越えようとする時、俺の前に立ち塞がるのはいつだって凛だ。非常にムカつく事に。
     けれど、世界一に立つために必要な武器をいつだってその手に握り締めている凛を尊敬もしていた。
     コイツは俺に無いものを持っている。
     恵まれた体躯。周囲を冷静に見通すだけのサッカーIQ。それからいっそ笑えるくらいに激しく燃え盛りながらもどこか湿り気を帯びた執着心。
     それら全てをうまく飼い慣らして極限まで引き出せるのは、ひとえに凛の努力と才能の賜物だろう。
     そもそも、この男と自分のフィジカルに関して誠に腹立たしい事にかなりの差がある。
     "青い監獄ブルーロック"時代でもそうだったが、お互いにプロになってからもこの差が縮まる事は無かった。
     けして覆らないその差を埋めるために何が必要なのかを考えるのもまた、凛相手の”交信”で重要な課題のひとつではあるのだが。

     フィールドで神経が研ぎ澄まされていく感覚は心地よくて、身体を巡っていく血の滾りに脳の細部まで覚醒していく。
     身体は疲弊している筈なのに、そんな事などどうでもよくなる。この瞬間がずっと続けばいいのにと、これまで何度願ったのか思い出せない。
     けして普段の生活がつまらないわけではない。でも、五角形の牢獄で自分の中に潜んでいたエゴを引きずり出された。
     そうしてあの空間があったからこそ、俺は潔世一ストライカーとして生まれ変われたのだ。
     平凡ながらも慎ましい生活と凹凸も無く流れていく時間。ワンフォーオール・オールフォーワンの精神性を叩き込まれ、チームに貢献する事に喜びを覚える事を課せられていた日々は、今思い出しても正直楽しい記憶では無い。
     脳を焼くような駆け引き、焦燥、それらを全部ひっくるめて制御して、他の連中の憎しみを一身に受けて蹴り込むボールが揺らすゴールネットの網目。勝者に向けられる羨望と嫉妬の眼差し。それらのなんて素晴らしいことか!
     だから四方八方から飛んでくる歓声も、次の瞬間には反転したように響く野次も、あくまでも副産物に過ぎないと気がつくのは早かった。
     でもその副産物は思った以上に巨大で、そんな見せかけの言葉たちが自分に降り注ぐのを受け止めきれない時、俺はコイツとの"交信"を好んだ。

     凛のボールを押さえていない方の膝が動く。それを合図に狙っているであろうポジションを塞ぐように足を動かしていた。
     つい先ほどのマッチアップでは左のルートを使用していたのもあり、そこは既にケア済み。
     かと言ってそちらばかりに気を取られれば、あっという間にスピードとテクニックを駆使して真っ向から抜かれてしまうだろう。
     一回一回のマッチアップでこちらを試すように毎度違う動きを見せる凛の全身をくまなく認識する。
     超越視界メタ・ビジョンを使ってもなお、凛はその上をいくし、通常のサッカーとは違い周囲に味方は存在しない。
     ボールを逃したら最期、あるのは絶対的な敗北のみ。
     これまで行ってきた試合の中で経験してきた、自分の力が及ばない絶望の瞬間。そのどれもが自分の中で息づいて、行動パターンに彩りをもたらしてくれる。
     筋肉の動き、目線の向き、ゴールまでの距離。あと五秒後にきっと凛は仕掛けてくる。そうして今度は右側のコースを選ぶ筈だ。
     ターコイズブルーの瞳が鋭く刺すのを同じように見返しながら、無意識にカウントをする。
     緊張の糸がキリキリと引き絞られ、相手の次の行動を待つこの瞬間が一番心地よくて心臓を高鳴らせた。
     「……っ……!?」
     しかし脳内で響くカウントがゼロになりきる前に、重心を僅かに下げた凛の動きに目を見張る。

     頭の中で崩れたピースが舞う。でもこれではもう遅い。たった一秒にも満たないその刹那が勝敗を分けるのだ。
     転がされたボールを追う為に必死で踏み出した足は、軽やかに繰り出された高速ラ・ボバに着いていけず、空振って走り出しが遅れた。
     そんな俺の前を颯爽と通り抜けていった凛の背がライトに照らし出され、無駄な動きが欠片も無い利き足から放たれた放物線が誰も居ないゴールネットへと吸い込まれていく。
     いつ見ても美しいその軌道は、あの日みたものよりもさらに洗練されていて威力も増している。
     悔しいと思うよりも先に見惚れていたのに気が付いて、それを誤魔化すように額に滲む汗を腕で拭えば、背を見せていた凛がゆっくりとこちらを振り返った。
     「俺の勝ちだ。雑魚潔」
     「くっそー……まじでムカつく。でも合計ではほぼ同じだろ」
     「しらねぇ」
     「……うっざ。次は潰すかんな、覚えとけよ」
     「ほざけ。いいから早く取ってこい」
     そのまま当然のようにそう言い放った凛は俺の隣を横切って、タオルやらボトルやらが置かれたベンチへと向かっていく。
     負けた方が最後のボールを拾いに行くというのは俺達の中での暗黙のルールだった。
     だから仕方なしに煌々と輝く芝の上を進んで、ネットの隅に落ちているボールを拾い上げる。
     そのまま振り返れば、観客も監督も居ない、ひたすらに広く静かな空間と薄闇の中に砂金のように星が光る空だけが広がっていた。

     先週の試合で敵チームの強引なプレスに押し返した俺の方がファールを取られ、その結果行われたPKにより俺達のチームは敗北した。
     しかも途中で出された選手交代の指示に、俺はただ黙って従うしか無かったのだ。
     勿論、PKを取られたからだけでは無い。もっと言えば俺はずっと敵チームの主要メンバーにマークされていてうまく動けなかった。
     突破できなかったのは自身の実力不足で、後からついて回る評価だって全部真に受けているワケでは無い。
     それでも最近は少し疲れていた。多分、蓄積したストレスがゆっくりと俺を蝕んでいたのだろう。
     不完全燃焼感を抱えながらやってきた長期オフ期間、日本での仕事が入っていた事もあり俺は一度日本に戻る事を決めた。
     俺が呼びだされたタイミングで他の元"青い監獄ブルーロック"勢にも声が掛かっているのを知って、どうせ凛も呼び出されているのだろうと問えば、あっさりと返って来た肯定にこれ幸いと俺は凛との交流を求めた。

     だって結局コイツとするサッカーは楽しくて、この男の放つ放物線は相変わらず美しくて。
     しかも凛は凛で、俺の予定など知ったこっちゃないとばかりにいきなり連絡を寄越す。それに俺が応えなければ不機嫌になるのだから堪ったもんではない。
     ジャイアニズムの化身のように身勝手な奴だが、向こうから言わせると俺も似たようなものらしかった。
     長年の付き合いで凛の扱いはとっくに慣れているし、遠慮も何も無いのは事実ではあるが、本当に無理なら返事すら寄越さないのだからお互い様だろう。
     頼っていると言われたらきっとそうなのかもしれないが、俺がこうして凛との“交信”を望む時は何も弱っている時だけでは無い。そうしてそれは凛だって同じなのだろう。
     数か月連絡を取らない時もあれば、毎週のように顔を突き合わせる時もある。
     周囲から与えられる便宜上の名称などどうでもよくて、ただ、こういう時に会いたい相手が凛なだけだ。
     何かと都合の良い存在とも、歪な関係とも言い換え可能なこの距離感が、俺と凛との正常だった。
     「なに惚けてんだ」
     「お、サンキュー」
     その言葉と共に顔面に飛んできたボトルをキャッチする。
     蓋を開けて流し込むドリンクの甘みが四肢に広がっていく感覚に身を委ねながら、目の前で肩にかけたタオルで顔を拭っている凛を見つめた。
     「どうせ今日泊まってくだろ」
     「当たり前だ。今から帰るのめんどくせぇ」
     「じゃあさ、シャワー浴びたらラーメンか焼肉いこーよ」
     「……この時間にやってるラーメン屋あんのか」
     日本で借りているマンスリーマンションはここから遠くは無い。
     凛の借りている場所も遠くは無いが、それでも大体は泊っていくのが常だったから、凛用のタオルやアメニティー類は一通り揃えていた。
     しかし片眉を上げてそういった凛に目を丸くする。そのまま慌ててきょろきょろと周りを見回すと、呆れた様子で持っていたスマホの画面を俺に見せてきた凛の手のひらに視線を移した。
     時刻はもう22時を回っている。熱中すると時間が分からなくなるのはよくあるが、それにしたって始めたのは夕方頃だった筈だ。
     数時間も二人でずっと動き回っていたのだと思うと、我ながら楽しくなりすぎて引くくらいではある。
     「マジか! 最近出来た新しい所は開いてるかも。味はわかんないけど」
     「場所」
     「ちょっとマップ出して」
     無言で地図アプリを開いた凛の横に並び、指先でその画面をつつく。
     凛と一緒によく食べに行く店は個人店だから流石にもう閉まっているだろうが、ここならばチェーン店なのもありまだ開いているかもしれない。
     レビューをザッと見る限りはそこまで悪くは無さそうではある。コンビニで買うよりはまだ良いだろうと凛を見つめれば、同じくスマホに目を向けていた凛が先ほどよりは穏やかな瞳で俺を見下ろしていた。
     「まぁ及第点だな」
     「んじゃここ行こ」
     肌を撫でる風が汗ばんだ肉体を少しずつ冷やしていく感覚と、真横に居る凛の体温の高さに自然と体が近づいていく。
     気が付いているだろう凛が何も言わないから、そのまま肩先に頭を乗せた。
     それどころか逆にこちらに身を寄せてきた凛の汗の匂いがする。他人の汗なんて俺にしてみたら刺激にしかならない筈なのに、不快さを感じないのは昔からだった。
     グッと凛の顔が近づいてきて、長い睫毛の細かさに目が奪われる。
     どうしようかな、なんて考える余地も無いまま目を伏せかけた俺を嘲笑うかのように耳元に唇を寄せた凛が囁いた。
     「……途中でコンビニ行くぞ」
     耳奥に忍び込まされた声に背筋を擽られる。
     その言葉が何を示しているかなんて、ハッキリと言われなくても理解出来ているものの、敢えて凛の耳に顔を寄せた。
     端からコイツの思惑に乗ってやるつもりは当然あるものの、素直に受け入れるフリをするのも癪だったから。
     「……別にいいけどさぁ……」
     「んだよ、不満あんのか?」
     「それはないけど……いらないかなって」
     「……は」
     「……もういっぱい用意してあるから」
     不機嫌な表情から一転し、珍しく動揺を見せた凛が思いのほか可愛くて、顔を離して薄く笑ってみせる。

     白いベッドの上で互いの境目も分からなくなるくらいに溺れて、指先まで弛緩した状態で朝焼けが滲む空を怠惰に眺めるのは好きだった。
     そうして夜から朝まで酷使された体は何も考えられなくなる。濃い色で塗り潰されたキャンバスみたいに、燻っていた不満が次に起きた時にはすっかり消え去っているのだ。
     ストレス発散方法としては、マズいのかもしれないが、フィールドで重ねるのとは異なる凛との繋がり合いもまた、俺にとっては重要な行為ではあった。
     「期待してんじゃねぇよ……!」
     「はぁ!? お前に言われたくないし! そんな事言うなら絶対にやらないからな!!」
     理不尽に側頭部に軽い頭突きを食らい、体がよろめく。
     自分から誘ってきたクセに、こちらがやる気を見せると急に恥ずかしがるのだからこの男のツボは未だに良く分からない。
     しかし売り言葉に買い言葉でそういえば、眉根を寄せた凛がもごもごと小さく呟いた。
     「……それは、ちげぇだろ」
     ぐらり、と頭突きのせいではない衝撃に襲われる。
     これだからコイツは面倒なのだ。さっきまで殺意に満ちた目線とは違う年下めいた瞳。凛のこの二面性を知っている人物は数少ないだろう。
     その割に求めてくる行為は激しいのだから、純朴そうな顔をしたって無駄なのに俺はこの表情に弱かった。

     ハァと吐いた溜息はあっさりと霧散して、足元に転がるボールを爪先で転がす。そのまま緩やかに力を込め、軽く蹴り上げたボールが胸元へと収まる。片手で受け止めたボールはさほど重たくは無かった。
     けれど、このボールひとつで、様々な人間の人生を狂わせる──だからこそサッカーは面白い。
     そうしてサッカーというスポーツを介していなければ恐らく出会わなかったであろう糸師凛という人間もまた、俺の人生を狂わせた大きな要因のひとつだった。
     「じゃあ早く飯食って帰ろうぜ」
     「フン……」
     俺の答えに今度は満足げに鼻を鳴らした凛は、こちらに見向きもせずにさっさとベンチの方へと戻っていってしまう。
     あまりにも分かりやすいそんな反応についつい頬肉を噛んで笑みを殺す。
     ゲーム中にはけして見せない素直さも、昔よりは見られるようになった。
     もしもそれを伝えれば『ぬりぃ』と一蹴するだろう凛の強情さもまたよく知っている。
     だが、どれだけ移りゆく事が多くても、俺と凛の関係性はきっと変わらないモノのひとつだろう。

     己の変化を恐れた事は今まで一度たりとも無い。それは自分の武器であるとよく分かっているからだ。
     でも着々と変化していく世界の中で、俺の前に、横に、常にそびえ立つ凛だけは変わらないのだと信じられた。
     それがどれほどの安定感をもたらしているのかを凛は知らないし、俺はそれを伝えるつもりも無い。
     凛を軸にして生きるつもりなんてさらさら無くて、凛だってそれを望まないと思うからだ。
     けれども凛の黒髪にライトが当たって表面を滑っていく様子から目を反らせない。
     刷り込みというのは非常に厄介な代物で、俺はあの日の敗北からずっとコイツに魅せられている。
     これまでの自分の傲慢さを簡単に打ち砕いていった滑らかな放物線。飛び込んできた運すらも全て受け入れ進む姿。
     原点回帰なんて言葉はチープかもしれないけれど、少なくとも俺は"青い監獄ブルーロック"で凛に出会わなければここには立っていなかっただろう。
     さながら鱗のようにも思えるくらいの光の反射が眩しすぎて目を細める。
     俺が初めて"美しい"と心から感嘆した人間。──そうして俺が世界一になる為には絶対に越えなければならない化け物。

     相反する二つの要素を持っているこの男の可能性は、未だ未知数な部分が多い。だからこそ見ていたくなる。もっと奥深くまで知って、全部俺のピースとして取り込んでしまいたくなる。
     この気持ちを執着心かと問われると恐らく違う。これは知識欲に近い。
     かと言って、他の誰かに凛が奪われるのを指を咥えて見ている程、愚かでも無いから、俺は今の状況が最適だと考えていた。
     そんな俺の貪欲さなど知りもしない凛は、ただ真っすぐに進んでいくのだ。
     凛の持つ煌めきは尾を引くように大きな背中をかたどり揺らめいて、広大な世界をどこへでも自由自在に進んでいける海洋生物のようだった。
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