双七の宵 見えにくい場所に設置されたエアコンから流れ出る冷風が足元を走っている。
肌寒かった春先はとうに過ぎ、暦の上では丁度小暑の季節。だが、例えどれだけ外が暑かろうと、最新テクノロジーの詰まった"青い監獄"には一切関係が無い。
凛はそんな“青い監獄”の食堂にて、自動で排出されてくる夕食が乗った盆を両手で掴むと、人のいないテーブルに目星をつけて一直線にその中央に置かれた席を陣取った。
比較的混まない時間帯を狙って食堂に来たからか、そこまで居る人間の数は多くは無い。けれども密集地帯が発生しているせいで普段よりも騒がしさを感じる。
柔らかな湯気を立てている味噌汁の入った椀を口元に運んだ凛は、舌に広がる素朴な味わいとは正反対のひどく醒めた視線を人だかりに向けた。
灰色のコンクリート、それから目が痛くなるほどのディープブルーで構成された“青い監獄”
そんな無機質さにもどこか親しみすら覚えつつある凛にとって、密集地帯の中央に存在するサワサワと音を立てる笹は、ひと際に異彩を放ってみえた。
木の背丈自体はそこまで巨大とは言い難かったが、色とりどりの紙が葉と共に揺らいでいて存在感は凄まじい。
マネージャーの計らいなのか、どこかから調達してきたらしいその笹はまぎれもない本物だった。
以前、誰かの要望によって桜の木をプロジェクションマッピングで再現するという企画もあったが、フィールドを覆うピンク色の花弁が鬱陶しかった記憶しかない。
兄に勝つまで風流な物を嗜むつもりは毛頭ない凛にとって、桜も笹もただそこにある植物の一種としか思えなかった。
しかしながら、外界と隔絶された“青い監獄”の中でも、そうは思わないメンバーの方が圧倒的に多いようで、凛が黙々と夕飯を食べている合間にも楽しげな笑い声と共に笹に吊り下げられる短冊の数は増えていく。
それらを横目に見ていた凛は、自身のうちに封じていた過去の記憶が勝手に顔を覗かせてくるのを自覚していた。
地面から巻き起こる熱風と、人々の接触によってますます高まる湿度。道の両端に立ち並ぶ屋台の色鮮やかな看板としゃがれた客引きの声。
兄とお揃いなのが嬉しくって、少しばかり無理をしてでも絶対に着たいとねだった浴衣の裾が捲れ上がってしまうのを必死で押さえていた。
そうしてもう片方の手で離さないように掴んでいた、自分より一回りくらい大きかった掌。
かつて兄と共に行った七夕祭りの光景を思い出し、凛は誰に聞かせるでもない舌打ちを零した。
──くだらねぇ。そんなもんにいくら願いなんかかけたって叶うワケねぇだろ。
同じデザインのスウェットを着た名前すら分からない背中達を見つめながら内心で呟いた凛の思考など誰にも分かりはしないだろう。
そのまま視線を外して苛立ちを誤魔化す為に甘辛く味付けされた豚肉を凛が頬張った瞬間、ふと料理の上に影が差した。
「よ」
続けざまにかけられた声。凛には誰の物なのか視線を向けずとも分かってしまう。
顰めた眉根はそのままに顔を上向けるが、咀嚼しているのもあって凛が答えを返す前に、声の主である潔が両手に持っている品を翳しながら会話を続ける方が先だった。
「凛は書かねぇの」
片手には黒の油性ペン、もう片手には薄緑色の短冊。
まだ何も書かれていない真っ新な紙を持った潔の瞳は、他の連中が向ける眼差しとは違い、純粋に凛だけを見つめていた。
書くワケねーだろ。内心でそう呟くものの、もはや返事をするのも面倒になって、黙って添えられたたくあんに箸を伸ばした凛は潔の存在を無視してポリポリとそれを噛み締めた。
「まぁ、お前はそーいう奴だよな」
呆れたように溜息を吐いた潔は、そのまま凛の隣の席を引くと当然のようにそこに座る。
あまりにも手慣れた潔の行動はもう凛にとっては日常にすらなってきていたが、それはそれこれはこれだと唇を開いた。
「勝手に座んな」
「別に凛の席って決まってるワケじゃねぇじゃん」
「食事の邪魔なんだよ。目障りだ」
「じゃあ前向いてればよくない?」
ああ言えばこう言う。凛が潔世一という人間と付き合っていく中で最近理解出来てきた事柄のひとつだ。
優しげな笑みを浮かべ、他人に世話を焼きたがる。それでいて自分の欲求は無自覚に押し通そうとする。
これまでも凛に付きまとってくる人間は多かったが、大概の連中は凛の反応を見てすぐに遠巻きにするようになった。
でも潔だけは違う。しかも質の悪い事に、自分以外を潔が見ているとそれはそれで腹が立つ。
だからこめかみに浮かぶ血管を知覚しつつ、この強情っぱりをどうにかするよりも自分がさっさと食事を終えた方が良いと判断した凛は、無言のまま白米を頬張った。
「……俺の地元で有名な七夕祭りがあってさぁ」
何の脈絡もないひとり言のような呟きが耳をうつ。
チラリと目だけを潔へと向ければ、顔を向けられるのを分かっていたかのように青い虹彩が凛を見つめていた。
「七夕飾りが凄いんだよ。こっちに倒れかかってくるんじゃないかって思うくらいに至るところに飾られてて、虹みたいに色もカラフルで綺麗でさぁ……」
「……そんな事を俺に話してどうすんだ」
脳内で行ったことも無い祭りの光景が浮かび上がって、それを掻き消すように声をあげる。
勝手に人の頭の中を支配するなと文句をつけてやりたくなったが、凛の想像力の高さ故なのもあって、潔の意図を探るだけに留めた。
しかし問われた側の潔の方が不思議そうな顔をして首を傾げたものだから、ムズムズと足裏をくすぐられでもしている感覚に陥る。
見つめ合う二人の合間に流れる沈黙は、いつもとは異なる不可思議な雰囲気を放っていた。
「……それは……確かにそうだよな。なんでもない、やっぱ忘れて」
「おい、潔」
先に目線を反らし、不意に立ち上がった潔はまだ何も書かれていない短冊を握りしめたまま笹の方へと向かっていってしまう。
結局、潔が何を伝えたかったのかも分からず一人取り残された凛は、他のメンバー達に混ざっていく潔の後ろ姿を見送る事しか出来なかった。
□ □ □
息を吸い込むだけで、肺の奥まで焼けそうな程に暑い。
夕方からの約束ではあるが、それでも一日中降り注ぐ太陽光を受け止めていたアスファルトは触れるだけで火傷しそうだ。
頭皮にじんわりと滲む汗には慣れているものの、それでもサッカーで掻く汗とは違う。普段暮らしているフランスも夏はそれなりに暑いが、日本の夏の不快さに比べればどうという事は無かった。
しかも、待ち合わせ相手である潔たっての願いでわざわざ新調した浴衣は、久しぶりに袖を通したのもあって動きにくい。
こんなに暑いなら安請け合いをしなければよかった──凛の脳裏に後悔の念がよぎったものの、凛も恋人の浴衣姿を見たい気持ちは人並みにあった。
ごちゃついた人の渦の中、やっと見つけた潔の元へと近づく。
「凛っ!」
若草色に薄い白のストライプ模様の入った浴衣を着た潔は凛を見つけると、瞬く間に凛の元へと駆け寄ってくる。
いつもは下りている前髪は掻き上げるようにセットされ、つるりとした額は程よく日焼けしていた。
互いにフランスとドイツをオフシーズンの間は行き来しているのもあり、会うのが久々というワケでも無いのに、その額に浮かぶ汗ですら熱を煽る要因になりかねない。
けれど視線を反らすのは何となくもったいない気がして、凛は瞼を細めるだけに留めた。
「凛ってやっぱ青とかグレーが似合うよな」
「……そうか?」
「うん。めっちゃカッコいい」
甘ったるさの混じった声でそう囁かれ、自然と寄ってくる潔の腰をさり気なく抱き寄せる。
特に凛はこだわりも無く選んだ品ではあったが、シンプルな無地の薄縹色の浴衣は凛の怜悧な雰囲気をより際立たせていた。
「行こ」
ふわりと笑みを浮かべた潔は腰に回された手を気にする事も無く、緩やかに進んでいく。元々体格のいい二人なのもあって、人混みの中でもはぐれる心配は無い。
けれど潔の方向音痴さと五感の過敏さを重々知っている凛にしてみれば、周囲からどう見られようとも潔を捕まえておく方が最重要課題であった。
そんな凛の思考など知りもしないで、あちらこちらに目線を動かす潔の頬は上気している。
屋台から漂ってくる焼けたソースの香り、水風船が入っている小さな水桶の音。周辺に並ぶ七夕飾りが風にそよいで撓っている。
不意に指先に感じた熱源に目を向ければ、照れ臭そうに笑っている潔が凛の手を握っていた。
「どうせならこっちにしようぜ」
「バレても知らねぇぞ」
「いいよ別に。……お前も嫌じゃないだろ」
密やかに告げられたその言葉に、ならば良いかと腰を抱くのを止めて堂々と手を握る。掴んだ手は凛よりも少し小さかった。
昔、隣に立っていた兄はもう凛の隣には居てくれない。それについては双方とも納得していた。
でも、幼かった頃の自分の記憶がまたひとつ報われ肯定された気持ちになる。そうして潔はその事実を知らないまま、凛と同じ墓に入るのだろう。
過去の自分を救うのはいつだって自分自身だけだが、この先の未来を描くのは潔とだと凛はもう決めていた。
勿論、心と体を重ねるような間柄になっても、凛にとって一番の宿敵は潔以外には考えられない。
でも、こうしてオフの間くらいは、潔の頼み事を極力聞いてやりたいと思うほどに凛は潔の事を愛していた。
「天の川だ! 凛、見える?」
「なんとなく」
「今日晴れててよかったよな。暑すぎるけど」
「日本が異常なんだろ」
「んー。でも最近は全世界的に暑いしなぁ」
繋がれていない方の手で頭上を指さした潔に導かれるように顔をあげた。
道の中央で立ち止まらないようにしながら見上げた空には、天の川というには微弱なものの、確かに星々が舞っている。
他愛のない会話を続けながらも、行く宛も無く人の波にさらわれていく感覚は近頃味わっていなかった経験だった。
やはり天の川も鎌倉で見るのと埼玉で見るのとでは違うのだろうか。ボンヤリとそんな事を考える凛の手を潔が軽く引く。
何か気になる物でもあったのか、今度こそ立ち止まった潔の視線の遥か先には巨大な笹に括られたたくさんの短冊があった。
「……書きてぇのか」
無言のままの潔に問う。それこそ“青い監獄”で嬉々として短冊に願いを書いただろう潔を見ていたからだ。
凛を見上げてきた潔は何となく困惑していて、凛はなにか変な事を言ったかと自分の発言を脳内で反芻するものの、別段可笑しな事は言っていない筈だとその目を見つめた。
「あの時さ」
「あの時……?」
あの時とはどの時だ? と今度は凛が困惑する。しかしそれを問う前に、丸く青い瞳で凛を見つめ続けたままの潔は、さらに唇を開いた。
「短冊に願い事書くって時、あったじゃん」
「あ? ……あぁ……」
「あの時の願い事、叶っちゃったんだよな。【凛ともっと仲良くなりたい】って願い」
「……は?」
「まぁ、その時はまさか恋人になるとまでは思ってなかったけど」
クスクスと微笑んだ潔は浴衣も相まって艶めかしい。
年を重ねる毎に自分の魅力を引き出す方法を熟知してきているらしい潔に、凛は振り回されてなるものかと毎年覚悟しているが、これは流石に予想外の発言だった。
「……今年もその願い、叶いそう?」
妖艶さと期待に満ちた表情。明確な誘いよりもグッと来る遠回しながらもこの後を予想させるセリフを吐く唇を今すぐに塞いでやりたいのを我慢した凛は、余裕なフリをして掴んでいた手に力を籠める。
「分かりきった事を聞くな」
「はは! じゃあ今度は一緒に書こ」
空気を一転させるようなカラリとした笑みを浮かべた潔にため息をひとつ。
だが、様々な願いを託された笹の葉を見る凛の表情はあの時とは違い、穏やかさに満ちていた。