ヤンデレ彼氏の躾けかた 【もう絶対に許さねえから】
着信回数、十八件。ついでに緑色のチャットアプリのアイコンに示された数字は三十をゆうに超えていた。そうして最後に残されたメッセージの時間は約十五分前。
まだギリギリ真夜中を越してはいなかったが、秋風吹きすさぶ今日はそれなりに寒い。
しかし、マンション前でタクシーから飛び降り、エレベーターを待つ間ですらもどかしく感じて結局階段をかけ登ってきた潔の身体は、うっすらと汗ばんでいた。
潔は自身のセットされている前髪を何となく整えてから、着ているスーツの襟の端を上から下まで指先で撫でると、やっとの事で辿り着いた玄関ドアにカギをゆっくりと差し込む。
カチャ、と立ったのは微かな音だけ。そうしてそのままノブを捻って開けた時に抵抗は無かった。
チェーンはかかっていない。その事実にホッとしたのも一瞬で、電気の灯っていないリビングから玄関にドタドタと一直線に向かってくる足音が聞こえて身を縮めた。
スリッパを履いているだろうに、わざと音を立てているのが丸わかりなそれは、凛の怒りが限界まで高まっているサインだ。
とにかく室内に入らないとまた厄介な事になる。凛と潔が同棲して数年経っているのは、もはや公然の秘密と化していたが、それこそ隣人に通報でもされて面白おかしくネットニュースに掲載されるのは潔としても、もうこりごりだった。
随分と熱烈な恋人ですこと! なんてチームメイト数名にバカにされるのも事実とは言え腹立たしい。
素早く状況を判断した潔はまだ半分開かれていたドアを閉め、ついでに鍵を施錠した。
まさしく自分で自分を牢屋に閉じ込める罪人の気分とはこの事だ──笑えないジョークが過ぎった潔の背後でひと際大きな足音がする。
そのまま恐る恐る振り返った潔の目の前に現れた凶悪顔の看守を発見すると、思わず一歩後ろへ踵が下がる。しかしそれを許さないとばかりに詰め寄ってきた凛の手が迷いなく潔の首元へと伸びた。
避ける間もないくらい機敏な動作に、無意識に息を呑む。そうしてワイシャツの襟を彩っていたモスグリーンのネクタイが腰縄のように引っ張られ、咄嗟に踏ん張った潔の首が締まった。
「潔」
名前を呼び掛ける声はいつもよりも平坦。だが、潔の前に立った凛のターコイズブルーの瞳は、まるでコキュートスのように恐ろしく冷え切っていた。
ネクタイを引いていた手では無い方の指先を伸ばした凛は、潔の首筋にその手を添えるとスリッパのまま上がり框を降りて潔ごと玄関ドアへとぶつかる。
ガツ、と硬質な音が耳横で鳴るのを聞きながら、それ以上に明確な殺意を持って容赦なく締められる首と、血走った白目の方が潔の中では印象深く感じた。
「……っぐぅ……う……」
「なんで連絡寄越さなかった」
頸動脈が圧迫される事で起きる酸欠と意識の混濁。
最初は赤らんでいた顔が下がった血圧によって青白く変色して、生存本能からくる四肢の痺れが潔を襲う。
真っ向からそんな潔を見据えている凛の瞳孔はすっかり開いていて、喉の奥から唸り声のような呼吸音だけが漏れ出ていた。
首を絞められたまま答えを返せるワケも無いのに、そんな常識すら投げ捨ててしまったらしいギラギラとした獣じみた凛の眼光が潔の薄くなっていく視界の中で輝いていた。
このままじゃ流石に本気で落ちる。死がすぐ隣で寄り添って手招きをしている。潔は限界を訴える為に痺れた唇の端から零れる唾液もそのままに、たった一度だけ首を振った。
「げほッ!! っぁ……はぁっ……ぐ……げほっ……」
容赦なく外された指先に、足の力が抜けて崩れ落ちる。
二人分の靴がいくつか置かれてもなお、広い玄関土間に膝をついた潔は、眼前にある長い脚を見ながら凛がオーダーしてくれたスーツの膝が汚れていく感覚を布越しに察知していた。
引き絞られた気道に雪崩れ込む酸素は濃すぎるくらいで、肉体が驚いている。不足していた分がようやく脳へ到達する頃には、勝手に滲む涙で潔の顔はぐちゃぐちゃになっていた。
ゆっくりと黒いスウェットを着た脛から視線をあげた潔は、黙ったままそんな潔を見つめている凛と視線を交わす。
憤怒からなのか高揚からなのか判別不能なものの、静かな狂乱がそこには存在している。
ギリギリと歯を食いしばっている凛を見上げながら、こうなる事は分かってたけどさぁ、と思う潔は恐らく凛よりも余程冷静さを保っていた。
ここまでの殺意と執着を示されても、これは潔と凛の間における"普通"の事だ。
常人ならば、両の手どころか体ひとつでも到底受け止めきれない凛の愛を潔は知っている。
けしていつもいつも暴力性を秘めているワケでは無いが、“自分以外に目を向けるならば殺す”というのが凛の基本的な愛の形だった。
だから、例え仕事として仕方なく出席しなければならないパーティーでパパラッチと裏で繋がっている人間に嵌められそうになり連絡を取れなかったとしても、それを伝えるより先に凛がこういう行動に出るのは十分に潔は予期していたのだ。
では、何故甘んじて凛の元に戻ったのか。先に凛へ電話をして今回の顛末を説明したってよかった。それをしなかったのは、ひとえに電気もつけずに不安な時間を過ごしたであろう凛に対しての潔が出来るせめてもの贖罪だと思ったからだった。
「…………浮気でもしてきたのか」
けれど、微かな震えを帯びた凛の言葉は最も言ってはならない禁句。潔の脳内でばらけたピースがかちりと収まってはちぎれていく。
そのまま獰猛さを残した動きで凛へと飛び掛かった潔は、バランスを崩しかけた凛にしっかりと抱きとめられる。
どうせ受け止められると最初から踏んでいたのもあり、容赦なく体重をかける潔の前では怒りが少しずつ抜け落ちた表情へと変わっていく凛が腕の中の潔を見つめていた。
「は? ……俺を疑ってんの、凛」
「……だったら連絡くらいしろよ」
「邪魔されて出来なかったんだけど。しようと思ったよ、何度も」
「邪魔……?」
説明はあとでいい。そんな事をするよりも先に、自身のうちに宿った殺意を発散する方が先だった。
「それだけは言うの止めろって俺、何回も言ったよな」
「……それは……」
「お前こそ、なんでその約束破ってんの?」
先ほどまでとはまるで真逆の恰好で、今度は凛の襟首を潔が鷲掴んで引き寄せる。
唇が触れるか触れないかの距離まで近づく。同じシャンプーを使っているのもあって近頃は似たような髪質になりつつある黒髪がまざって擦れた。
「ありえねぇ事聞くなよ。殺すぞ」
苦しそうな表情を浮かべながら強制的に屈まされる形になった凛をただじっくりと睨みつけた潔は、その目に確かな歓喜が滲んでいるのを発見する。
加虐と被虐は表裏一体だと言う。そうして潔は凛から与えられる“愛”を一方的に受け入れるだけの大人しく可愛らしい人間ではない。
と同時に、凛も潔からの“愛”を求めていた。それを理解しているからこそ、この男の相手たり得るのだと潔はよくよく承知している。
互いを塗り潰して、自分のモノにしようと喰らいあう。プライベートでもサッカーでも常に相手の喉笛を噛みちぎるのは自分なのだと信じている。
とっくに渡せる所は全て明け渡しているのに、それでもよく不安がる凛の貪欲さが潔にはひどく可愛らしく思えた。
こんな事を思ってしまうから、凛と潔の関係を昔から知っている“青い監獄”のメンバーには『割れ鍋に綴じ蓋』なんて揶揄されるのだと、潔はいまだに痛む首筋を無視してさらに凛の首元を握る力を強める。
完全に絞まるまではいかないが、それなりに苦しいだろうに絶対に目を反らさない凛の瞳を囲む長い睫毛が潔に触れそうなくらいの距離で瞬きを繰り返す。
段々と荒れ果てた感情が収まってきたのか、ようやく一度首を振った凛の襟元を潔が離すと、両腕を伸ばした凛が潔を強く抱き締めた。
同じく凛の背中に手を回した潔は、その広い背いっぱいに腕を絡ませて緩く擦る。
「……いっぱい不安にさせてごめん。あとでちゃんと説明させて」
「……ん」
潔の肩に頭を乗せた凛が飼い主に甘える犬めいた動きで顔を擦り寄せる。
「……俺も、悪かった」
「うん」
謝罪の囁きを受け止めた潔は、そのまま凛の頭に片手を伸ばすと汗で冷えきった頭皮ごと撫でてやった。
これで痛み分け。どちらかといえば潔の方が肉体的には危うかったが。
ふぅ、とため息を吐いて凛の頭を上げさせると、珍しくしおらしい凛が何を言うべきか悩んでいるようだった。
毎度の事ではあるが、昔よりは凛も丸くなったものだ。付き合いたての頃はもっと激しい喧嘩を繰り広げるなどしょっちゅうで、絶対に自分は悪くないと折れなかった。
でも嫌なものは嫌と伝え、その代わりに凛が求める束縛を許容してきたからこそ、地道に培われた信頼関係はこの程度では揺らがない。
「一緒に風呂入ろ。頭洗ってよ、お前の手おっきくて気持ちいいから」
「わかった」
「乾かすのもやって」
「わかった」
潔の【甘やかせ】という命令に、全て素直に頷いた凛が両腕の力を抜く。
そうして潔は足先だけで履いていた革靴を乱雑に脱ぎ捨てると、早速凛の手首を掴んでバスルームへと直行したのだった。