porte bonheur 特別な用事があるわけでは無いが、なんとなくいい一日を過ごせそうな予感がする朝がある。
それを証明するように、リビングの一番大きな窓にかかったライトグリーンのカーテンを内側のレースカーテンだけ残して開けば、白い幕の向こう側では巨大なスクリーンに見違えそうなほどの透き通った青空が広がっていた。
まだパリに引っ越してきて間もないとはいえ、これほどまでに見事な晴天は初めてだ。
思わず目線を下げて、少し離れた大通りを歩く人々のまばらな影を眺めてみる。
朝なのもあって足早に路地を進む人たちは空を見上げるなんて行為はしていなかったが、誰も彼もの輪郭がなんとなく明るく感じられた。
こんな日はちょっとだけいつもと違う事をしてみるのはどうだろう。
せっかくのオフ初日なのだし、と背後で聞こえる足音と冷蔵庫の開閉音を聞きながら考えてみる。
昨日聞いた限りでは、俺と同じく凛も予定が無かった筈だ。そもそも、我ながら広い交友関係を持っていると自負している俺と違い、万年一人行動の多い凛が何かしようとする際は大体俺を引き連れていこうとする。
『友達とか一人くらいいねぇの?』なんて聞いた俺を、まるで産業廃棄物でも見るような目で睨んだ凛の顔を数年経つというのに、未だによく覚えていた。
「なー、凛」
振り返るついでに、キッチンに立ったままであろう同居人となったばかりの凛に向かって声をかけてみる。
予想通り、ふたり暮らしにしては大きめな冷蔵庫の前。寝巻き用のスウェットのまま気だるげな表情を隠す事も無く持っているミネラルウォーターのボトルを傾けながら、目線だけを寄越した凛の後ろ髪は珍しくぴょっこりと跳ね上がっていて、ちょっとマヌケだ。
そんな凛に近づいてじっと見つめれば俺の意図を察したのか、飲み終わったボトルをこちらに差し出してきた凛からそれを受け取る。
もう半分ほどに嵩の減ったペットボトルから伝わる温度はヒンヤリとしていて心地良い。
こぼさないようにそれを傾けながら凛の高い位置にある後頭部へと手を伸ばし、跳ねている髪を撫で付けてやった。
無言でされるがままの凛はまだ寝ぼけているのか、それとも甘えているのか。普段は防弾ガラスめいた瞳は俺を映したまま動かない。
だがけして冷たい印象ではなく、それこそ湖面のように凪いでいて、黒く長い睫毛が瞬きを繰り返す。
透き通った凛の眼差しは俺の一等好きな色だ。
綺麗なターコイズブルーが"愛"だとか"殺意"だとか、そういった様々な感情の濁流を含んで俺を見つめる時、コイツの目には俺しか映っていないのだという優越感を覚えるから。
そんな事を考えながら次々と喉の奥に落ちた水が内臓を冷やして潤していく。
数度撫でているうちに落ち着いてきた凛の髪は柔らかくて、それでいてハリ艶もあるからなんとなく手櫛で整えるだけでも形になるのは羨ましかった。
「今日さぁ、朝飯、外で食わねぇ?」
「どっか行きたい店でもあんのか」
「お店じゃなくて、普通に外」
「……あ?」
こちらの言葉の意図が伝わらなかったのか、疑問符を浮かべている凛の髪から手を離す。
受け渡されたボトルキャップを閉めたペットボトルの中でもう三分の一程度しか残っていない水がちゃぷりと小さな音を立てた。
些細だけど、なんとなく特別感のある事。簡単に出来る割に意外とやらない事。
「近くに公園あったじゃん。なんか作ってピクニックしよ」
「……ピクニックってガキかよ」
「天気いいし、よくね? あの辺り散歩コースにしたいから場所とか把握したいし」
沈黙は肯定。そうして認めたくはないが、自他ともに認める方向音痴な俺を凛が昼間とはいえ、まだ慣れない地にひとり放り出すわけがないという確信があった。
「わざわざ作んなくてもなんか買えばいいだろ」
「んー。それでもいいけど」
冷蔵庫の取手を掴んで引く。軽い抵抗の後にパカリと開いたそこから漏れ出る冷気を全身で感じ取りながら、中を物色する。
ハムとチーズ、卵。それからオニオンとレタスなどのちょっとした野菜類。ある程度の一軍食材は揃っているのを眺めてから一度ミネラルウォーターをしまいつつ、扉を閉じた。
「バゲットまだ残ってたよな」
「今日の分くらいはある」
「じゃあサンドイッチ作って、帰りにまたバゲット買って帰ろ。マーケットも行っときたいし」
これまた沈黙。でもさっきと違うのは、今度は凛がしまいこまれたバゲットの入った袋を探しているという点だ。
なんだかんだで俺の提案を凛が断った事は、付き合い初めから籍を同じにした今になってもほとんど無い。
最初は無理をさせているのかと思ったが、意外にも何かを一緒にするというのを凛も楽しんでいると分かってからは、さほど遠慮もなく誘うようにしている。
というよりも、違う奴に声をかけたのがバレるとそのデカイ図体とは違って結構嫉妬するのだと理解したからだ。
そのくせ構ってやろうかな、なんて思う時に向こうが乗り気では無いと面倒くさそうにする。まさしくエゴイズムの塊のような男だったが、それは自分も同じだと分かっているのでその辺の塩梅がちょうど良いのだろう。
「潔、これ切んのか」
袋から出したバゲットを握ったまま、それだけを聞いてきた凛の姿がなんとなく面白くてついつい笑ってしまう。朝から寝癖をつけて、俺の突然のおねだりを叶えてくれようとする凛は可愛い。
しかし俺の含み笑いを察知したのか、途端に眉をしかめた凛がバゲットナイフを包丁立てから取り出したので若干肝が冷えた。
刺されるなんて微塵も考えていないが、ギザギザとした刃をムスッとした顔で握る凛はなんとなく迫力があって困る。
「ボサッとしてないでさっさとしろ。お前が言ったんだろうが」
「ごめんって。なんか今日の凛は一段と素直で可愛いなって思っただけだよ」
「……は、キメェ」
「キモく無いですー。だって珍しく寝癖ついてたし、すぐ準備してくれるしさぁ」
いつまでも凛に任せっきりも良くないと閉じていた冷蔵庫に向き直り、扉を再び開ける。
指先に伝わる冷気の中、めぼしい物を拾い上げていくと背後の凛が呆れたような声で呟くのが聞こえた。
「……寝癖じゃねぇ。テメェがぐしゃぐしゃにしたんだろ」
「……ん……?」
「ついでに言っておくが、今日は首まで隠れる服にしろよ」
しれっと言われた凛の言葉を脳内で考える事、数秒。掴んだトマトを取り落としそうになり、慌ててそれを握り込んだ。
勿論、忘れていたわけではない。これまで何回もあった事象ではあるし、いまさらウブなふりをするつもりもない。
でも、失念していた事を家族になった凛の口から告げられるのはなんとなく恥ずかしくて仕方がなかった。
なにせ、凛と結婚してまだ二週間なのだ。新婚生活で浮かれている部分があるのは否定出来ない。
「……あ、そう……」
掠れた声でそれだけを返す。この顔を見られていないのは救いだ。
トマトの隣にあるチーズのパッケージにかかれた可愛らしい天使のイラストを見ながら、俺は火照る頬をクールダウンさせるために食材を探すふりをしてちょっと奥の方に頭を突っ込んでいた。
□ □ □
パリ六区に位置する二十二万ヘクタールもの広大な面積を有するリュクサンブール公園は、先ほどよりもさらに輝きを増した太陽の光で生い茂った緑の色を濃くしている。
暑くもなく、寒くもない。頬を掠める風は新鮮さを保っていてまさしく絶好のピクニック日和と言えた。
公園のあちこちに点在している様々な彫刻は時代の経過を示すように所々苔むし、それがまた歴史を感じさせる趣がある。誰がどんな人物なのかまでは到底判別がつかないが、そんなものなのだろう。
日本でも大きな公園の片隅に置かれた謎のオブジェが何を意図して造られたのかは分からないが、その存在だけで、場の雰囲気を高める効果がある。
広く取られた石造りの歩道を進みつつ、隣で俺と同じようにラフなシャツとデニム姿で真っ直ぐに前を見据えている凛の横顔を確認する。
日射し避けと変装を兼ねた黒いキャップの下で無表情を決め込んだままの凛の機嫌はそこまで悪くはない。そして恐らくだが、凛は顔に出ないだけで色々ごちゃごちゃ考えがちなのだ。
だから今だって涼しい顔をしながら、そろそろ腹が減ったな、とでも思っている頃合いだろう。
「あのベンチでごはん食べよっか」
だから先回りしてそんな提案をしてやる。
名も知らぬ巨大な木や綺麗な花の咲き誇る花壇に囲まれたそのベンチにはうまい具合に影がさしており、周囲に人はいない。
レジャーシートでも持ってこうかなんて話もあがったが『どうせベンチがあるだろ』と言った凛の言葉通り、この公園は至るところに座る場所がたくさんあって、人々はみな伸び伸びと自由を謳歌していた。
ゆったりとした足取りで近づいたベンチに二人並んで腰かけつつ、背負っていたリュックから保温性の高い水筒と、底にしまっていたビニール袋も取り出す。
水筒には凛が淹れておいてくれたコーヒー。そうしてビニール袋にはバゲットに野菜やハムなどを挟み、マヨネーズや粒マスタードで簡単な味付けをしたサンドイッチが入っている。
ビニールの中でさらにアルミホイルに巻かれたサンドイッチは、残っていた具材を盛りに盛ったのでピクニックというには豪快さの方が目立つ大きさだ。
まぁ所詮は男二人世帯──可愛らしいピクニックバスケットなど持っている筈もなく、この為に買おうとも思わないので、また次回があっても同じスタイルになるだろう。
「ほい」
「ん」
アルミホイルの綴じ目に目印をつけておいた凛用のサンドイッチを手渡すと、素直にそれを掴んだ凛がホイルを剥いで中身を取り出していく。
酸っぱいものが相変わらず苦手な凛にはソースの隠し味であるビネガーを入れてない上に、トマトも気持ち薄切りにしてある。
トマトがそこまで酸っぱいのか苦手ではない俺には分からないが、独特の後味があるのは確かだ。
絶対に食べられないワケではないと言うものの、今回のトマトはなんとなく酸味が強い気がして凛には内緒で薄くしておいた。
今では滅多に人前で自分の弱点ともなりうる苦手な物事どころか、プライベートに関する情報を極力公言しない凛だったが、食に関しては誤魔化しも効かないし、"青い監獄"時代に受けたインタビューで知れ渡った内容については隠してもいまさらだと開き直っている節もある。
それに酸っぱいものが食べられないだけでこれだけ大きくなれるのだから、これ以上の栄養素は必要無いのだろう。
綺麗な顔に似合わず大きく口を開いてサンドイッチの端にかぶりつき離れた後には、歯形のついたバゲットと、もごもごと頬を動かす凛の姿があった。どこか遠くを見ている凛の目線の先に何があるかは知らない。
でも随分とうまそうに食うものだから、やっぱり凛好みの味付けにしてやって良かったなんて思ったりする。
俺も俺で自分用のサンドイッチの包みを開くと、香ばしい小麦の香りがするそれに思い切りかぶりついた。
パリッとした表面のバゲットと、間に挟まれた野菜に混ざって塩味の効いたハム、厚めにカットしたチーズの風味が鼻先を抜けていく。
それぞれの具が大きいから噛むのには少し苦労するけれど、お上品過ぎないくらいの方が手作り感に満ちていて良い。
ベンチからすぐの場所にある花壇を照らす太陽光が反射して、足先辺りがポカポカと暖かくて気持ちがよかった。
よく見れば花壇の端には白い鈴蘭が列を成して生えていて、健気にも鈴によく似た花弁を揺らしている。
その様子を見ていると、本当に自分はフランスにいるのだという事実が現実味を帯びてきて、不思議な想いが胸をついた。
海外プロという厳しい世界に足を踏み入れて数年。
ルーキーと呼ばれる時期はとうに過ぎ、どちらかといえば少しずつ自分の身体能力が低下していくのを実感するタイミングの方が増えた。
この先もずっと身体が動く限りはサッカーと向き合い続けていきたいし、例え一線を退いても俺はサッカーと完全に縁を切る事は出来ないのだろう。
そして、"超越視界"を使う事によって起きる神経系の摩耗もずっと前から感じてはいた。ただ目を反らしていただけだ。
だってサッカーで世界一になる方がよっぽど大切だったから。
でも年齢を重ねていくにつれて、今後の将来を考える時間が増えていった。
長い人生の中でフィールドから離れた自分を想像し、俺はいつか必ず訪れるだろう回避出来ないその未来がやってくるのが恐ろしかった。
常に朝から晩までサッカーの事だけを考えて生きてきて、そこから少しずつ手を離していく時、俺の中に最後まで残るモノはなんなのだろうかと。
弱音を吐いたつもりは全く無かったが、ある時から俺の隣にさも当然のように立っている凛は、ただ純粋に呆れたような顔をして俺に言った。
『お前が燃えカスになろうが、いまさら手放す気はさらさらない』
端的かつあまりにも唐突な言葉に驚く俺を放置して、いつから準備していたのかも知らない指輪を持ってきた凛に、やっぱりコイツはいつもこちらの予想をはるかに越えてくるのだと実感し、それがとんでもなく嬉しかった。
そこからさらに二年が経ち、ついに俺はパリへの移住を決めた。
世界各国の強豪チームを渡り歩いてきたが、最後は凛ともう一度一緒にサッカーがしたかったから。
おそらく今シーズンか来シーズンあたりで俺は引退を発表するだろう。でもあの時のような焦燥や恐怖はそこまで無くて、凛との生活と、また違った角度からサッカーに関われる未来を楽しみにしている。
勿論、まだ現役でいるという凛に羨望を感じないといえば嘘になるけれど、多分凛と居る時間が思った以上に心地良かったからだ。
「……潔」
不意に名を呼び掛けてくる声に応える為に凛の方を向く。
だが、何かあったのかを問う前に伸びてきた指が口端を拭っていって、凛の爪先から小さなパン屑が地面へハラリと落ちていった。
「本当にガキみてぇだな、お前は」
ふ、と笑む凛の背後で風を受けてしなる枝葉とその隙間から見える鮮やかなスカイブルー。
そうして俺だけを見て満足げな顔をしている凛の瞳は、俺を“可愛くて仕方ない生き物”だと思っているのが丸分かりな色をしていた。
「……もうおっさんに片足突っ込んでんだけどな……」
一気に心臓がバクバクと音を立てて、苦し紛れにそんな事を言ってみる。
でも頬の赤みは多分隠せていないのだろう。新しいオモチャでも見つけた時のように、どう考えても面白がっている凛がすでにほとんど食べきっていたサンドイッチの最後の一口を放り込むと、もごもごと口を動かして咀嚼しきった。
「ジジイになっても離してやんねぇから、安心しろ」
「……おま、……本当に……ばかっ……!」
「ってぇな。叩くな、フィジカル雑魚」
「くそー……そんなに言うなら、帰りお前が全部荷物持ちしろよな!」
しれっとした表情のままそんな事を言う凛に堪えきれず、太い腕を小突く。
俺の知らない間に吹っ切れたらしい凛は、昔よりもずっと真っ直ぐな言葉をくれるようになった。
早く慣れないといけないと思いつつ、まだ憎たらしい凛のイメージが強いのもあってなかなか不意打ちの攻撃には勝てない。
俺も今日中に絶対一回はドキッとさせてやる──なんて、それこそガキみたいな対抗心を燃やしつつ、コーヒーの入った水筒に手を伸ばした凛の横で残りのサンドイッチにかぶりついたのだった。