寝ても覚めても 横向きにしたスマホの液晶画面の中、懐中電灯の明かりによって照らし出された日本家屋の廊下が映っている。
埃を被った木張りの床はどこまでも長く続いており、懐中電灯の光だけでは暗すぎて先まではよく見えない。
誰も住んでいない筈の廃墟と化したその場所を歩くのは、謎の影に取り込まれ迷い込んでしまった一人の男。
どうしてこの場所に居るのかも分からないまま、小さな明かりのみを頼りに脱出を目指す。だがそんな単純な話ではない。
何故なら、この屋敷には男以外にも様々なモノが居るからだった。
内部スピーカーから流れる男の吐息とは異なる、うっすらと聞こえる甲高い女の悲鳴や息遣いに期待感が増した。
見えずともそこに居る。視線を感じる。時々走るザラザラとしたノイズがそれらを伝えてくる。
男は幼い頃から死者の声を聞く事が出来た。だからこそ危険を察知可能なのだ。
そうして、この家に居る霊はけして触れてはならない類いの怨霊だった。
オープニングから冒頭まで流れるようにゾクゾクとさせてくる展開が続くが、まだ幽霊そのものがハッキリと映らないのもいい。
ここまでなら八十点くらいはつけてやってもいいだろう。
硬いコンクリート壁に背を凭れて新作ホラーゲームのプレイ動画を見ながら、そんな事を考える。
和ホラーも洋ホラーもどちらも嗜むが、どちらかと言えば映画もゲームもおどろおどろしいミステリーホラーや心霊物のが好きだ。
デカい音でとにかく驚かせてくるゾンビ物とは違い、心霊系や殺人鬼物は自分の後ろにもソイツが居るのでは無いかという没入感を与えてくれる。
スマホの画面では勢いが足りないが、それでも久しぶりに味わうホラーの片鱗は悪く無い。
"青い監獄"に来てからはこれまで以上にサッカー漬けの毎日だが、今は風呂に入って就寝までの自由時間に趣味を楽しむ余裕もある。というよりも半強制的に時間を潰さなければ、ストレスで死んでしまいそうだった。
潔世一に運の差で勝ち、アイツを手元に引き入れて世界選抜の連中と戦うまでは良かった。自分に足りないモノは何なのかを考え、振り返る事が出来たから。
だからこそさっさと先に進みたいと思っているのに、他の連中があがってくるまでは部屋で大人しくしていろという命令が下されたのは未だに納得がいっていない。
心底馬鹿げていると思い問答無用で向かったフィールドへ続くドアはしっかりと施錠され、かわりに筋トレメニューを言い渡された上に語学学習の期間などと言ってボールに触れる事もままならない状況が続いている。
英会話など世界でサッカーをするにあたって必須であり、俺はとうにその学習を終えている。それこそ時間の無駄だ。
だが、ここの支配者であるクソ眼鏡は変な所で足並みをそろえさせようとする。まぁ、他の奴らが居ないと選考に支障があるとかいう理由なのだろうが、毛ほども興味が無い。
なによりも部屋は余っているだろうに、この狭い五人部屋に押し込まれたのにもイライラする。
せめてサッカーをする時間があれば多少のストレス解消になるが、自主トレくらいしか許されないのも腹立たしい。
でもそれをいくら主張しても変化しないので、ストレス解消のためにこの期間中は久しぶりにホラーを摂取する事にしたのだった。
しかも今日はごちゃごちゃとうるさい連中が部屋に居ないのもあって、落ち着いた時間を過ごせている。
集団生活にはもう慣れたが、ここしばらくあの部屋で一人過ごしていたのを考えると常に誰かが同じ空間にいるというのは無意識下で緊張を感じるものらしい。
このままヨガの時間までここに居てもいいかと考えていると、俺の完璧な予定を打ち砕くように自動ドアがなめらかに開く。
そのドアを潜って現れた潔は俺を見つけると、わずかに驚いた顔をしたがすぐに青い瞳を自身のスペースであるベッドへと向けた。
潔と共に過ごして数日が経ち、いくつか気が付いた事がある。あの厄介なオカッパの相手を苦も無くやって見せる世話焼きの面だとか、フィールドの上で見せるエゴ全開の顔を忘れさせるくらいに腑抜けた表情筋だとか。
それでいて自分が興味を持った事には意思を曲げずにぶつかってくる。
かと思えば、サラリと引くところもあるから完全に空気が読めないワケでも無い。
ハッキリ言って、掴み所が無い男だった。
俺の強さの秘密を知りたいと言っていっちょ前に付きまとってくる癖に、目を離せば他の連中と一緒になって朗らかな笑みを浮かべていたりもする。
しかし、周囲に配慮しているのかさして面白いと思っていなさそうな目をしている時も多くあって、丸っこい顔に似合わない達観した潔のそういった部分を見つける度に、少しずつ"潔世一"という人間の情報を知らぬ間に収集させられている気分になってしまう。
でも、時々見せる本当の笑みは驚くほど軽やかで、俺には永遠に手に入らない愛想の良さがあった。
何か取りに来たのだろうと潔にバレない程度に向けていた視線を再度スマホへと戻す。
するとペタペタとスリッパの音を鳴らしながら、潔が真っすぐにこちらに近づいてくる気配がした。
顔をあげるか迷う。画面の中では男が真っすぐに廊下を進み、壁に設置された鏡越しに映る女の影に呼吸を乱していた。
「凛、なに見てんの?」
降り注いだ画面の恐ろしさを掻き消すくらいに能天気な声が不愉快で、画面を停止しつつゆっくりと気だるげに目をあげれば何も考えていなさそうなツラ。
見下ろしてんじゃねぇという前に、ベッドに乗り上げてきた潔に対しての驚きの方が先に来て言葉も出ない。
ふわりと香るシャンプーの匂いにコイツは風呂あがりなのだと理解し、それならまだ良いかと思ったのもあって若干のタイムラグが生まれた。
「……勝手に人のベッド乗ってんじゃねぇよ、カス」
「いいじゃん。シャワー浴びたばっかだから汚くねぇし」
そういう事じゃない。でも、あまりにも自然な流れで俺のパーソナルスペースにコイツは入り込んでくる。
そのまま俺の隣に座った潔は犬のように興味津々で勝手に画面を覗き込んでくると、ひゃ、と軽い鳴き声をあげた。
おずおずと覗き込んでいた画面から目を反らした潔が何度か瞬きをする様を眺め、フツリと湧き上がる感情の名を探す。
「……凛ってこういうの好きって言ってたもんな」
「あ? ……そんな話した覚えねぇ」
「インタビュー受けてたろ」
インタビュー、その単語にそういえばそんな事もあったかと片隅に追いやった記憶の断片が一瞬浮かんで消える。
趣味だとか好きな動物だとか、サッカーとはまるで関係の無い話を聞かれたがなんで俺の情報を潔が知っているのかが不可解だった。
「これってお前が好きな……ゲーム? なのか?」
「……まだやった事ねぇ」
「新作ってこと?」
映像のリアルさからか、映画なのかゲームなのかの判断がつかなかったらしい潔の疑問はさらりと無視してスマホの画面をタップする。
途端に動き出した女の幽霊が長い髪の隙間から男を睨みつけて、消えていった。まだ序盤も序盤、この程度はジャパニーズホラーにおけるジャブ程度だ。
しかしすぐ隣に居る潔の身体はこわばっている。ホラーに慣れていない人間の動きそのものだった。
もっと潔のこういう反応を見てみたくなる。いつも笑っている男が見せた動揺が面白いのかもしれない。
俺は自分でも珍しく高揚しているのを感じながら、隣の潔の様子を窺ってみる。もしも逃げようとしたら、とっ掴まえる算段すら立てて。
「ビビってんのか。こんなんガキでも見れるやつだぞ」
「……ビビってなんかねぇし! これくらい、俺もたまに見るから」
嘘だと直感で分かる。そうして俺も嘘をついた。
このホラーゲームは発売前から鳴り物入りの話題作で、コイツは絶対にホラー系は見ない。
そこから導き出される答えを俺は素早く予測して、静かにほくそ笑んだ。
結果的に、潔は俺の想像していた以上の怖がりだった。
というよりもいきなり背後に立っていたり、騒がれたりするのがとても苦手らしい。
大きな音を立てて幽霊が迫ってくる場面では音の度に肩をビクつかせる。
正直に言って画面よりも隣に居る潔の行動が気になってしまって、俺はあまりしっかりとスマホを見ていられなかった。
でも潔にも雑魚なりにプライドが存在するらしく、息を詰めて俺に段々と近寄ってくる癖にけして情けない声をあげはしない。
多分、ひとりなら何度も叫んでいるのだろうが唇を噛み締め我慢している様子の潔を見ていると、何故ここまでしてコイツはこんな苦行に堪えているのだろうという疑問の方が大きくなってくる。
本気でホラーが苦手な人間に対して無理矢理見せつける趣味は今のところ俺には無い。
確かに煽ったのは俺の方だが、コイツならヘラヘラと笑って「やっぱ俺はもう止めとく」だとか言うだろうなと思っていた。
そうして、そうなってくれと願っている。何故なら隣に居る潔はもうなりふり構っていられないのか、ぴったりと俺の横に張り付いてこちらの服を握り込んできていたからだ。
どっちが先に音をあげるかの勝負じみてきた惨状に終止符を打ったのは、製作者側の気合が入ったポイントの一つなのだろう箇所に差し掛かったタイミングだった。
バンと前面に押し出される無数の瞳。そこから伸ばされる触手のような手と甲高い叫び声に混ざった狂気じみた笑い声。
流石に俺も身体が一瞬強張るが、それ以上にこちらに縋りつくように抱き着いてきた潔を受け止めるのに意識を割いてしまう。
「!? も、無理、むりッ……やだ……!」
「……おい、潔」
「凛、とめて……とめて……」
ぐすりと軽い鼻をすする音と涙声に、思わず動画を止める。
泣いている? あの潔が? その事実が受け止めきれず、抱き止めた潔の顔を覗き込む。
完全に泣いているわけではないが、確かに潤んだ瞳が俺を見上げていた。
それと同時に、コイツも人間なのだと当たり前の事を思う。
「……んな怖いなら、止めときゃ良かったろ」
「そ、だけどさぁ……」
流石にベソをかいたのが恥ずかしくなってきたらしい潔がそろそろと身体を離しつつ、目を泳がせる。
何をいいよどんでいるのかも分からないが、少し赤くなった目元と頬を見て俺の方が感情をめちゃくちゃにされる感覚があった。
こんな作り物のゲーム動画ごときで泣きやがって、コイツをぐちゃぐちゃにしてやるのは自分の筈だったのに。
でも潔のよわっちい所を見たのは初めてだから、それは悪くない。
荒れ狂う嵐の夜のように心中が様々な色に塗り潰されていく間にも、もじもじとしていた潔がようやく口を開いた。
「……だって、凛と一緒なら大丈夫かなって思ったんだもん……」
──なにあざとい事言ってやがるんだ、コイツ。今すぐブッ殺されてぇのか?
荒れていた心へ急に突きつけられた照れた表情とセリフに暴言が木霊する。
そんな事を言えるくらいなら余裕なのかと思いきや、シャワーを浴びてきた筈の潔の身体はひんやりと冷えていて怖がっていたのは本当だったらしい。
俺はたっぷり時間をかけて、間違えないように言葉を選ぶ。
「……馬鹿が。我慢してまで見るもんじゃねぇんだよ」
「……うん、そうだな。それは思った……でもこれ全然怖くない方なんだろ? 俺、ホラーダメなんだって初めて気がついた」
すん、と鼻を鳴らす潔に蟻の爪先程度の罪悪感が湧く。
可哀想だとは思わないが、次に俺が動画を見ている時にコイツが寄り付かない未来を想像して面白くない気分になったからだ。
全画面表示にしていたのをさりげなく変え、手早く関連動画の中でも柔らかそうなサムネイルを選択する。
広告も早々に流れ出したのは気のぬけたような音楽と、クリクリとした目をしたコノハズクの兄弟が止まり木の上でカメラを不思議そうに眺めている映像。
あえて出てきてしまったフリをしてそれを掲げると、案の定、潔が食い付いてきた。
「あ、可愛い。ふくろうってこんなちっちゃいんだ」
また顔を寄せてきた潔は、こわばっていた身体の力を抜いてすっかり穏やかな顔になりながら俺のスマホを眺めている。
「凛ってふくろう好きなんだよな? なんか意外」
「意外ってなんだよ」
「なんかライオンとか、ヒョウとかそういうのが好きなんかなって思ってたわ」
何が面白いのか、くふくふと笑う潔の顔は相変わらず画面の中のふくろうに向けられていた。
横顔でも分かる丸くて大きな瞳はもう潤んではいない。
それはそれで面白くないが、隣でガキみたいに泣かれるよりはマシだと、鼻を鳴らしてから答えてやる。
「伊勢海老が好きだとか言う狂人に言われたくねぇんだよ」
「……え」
だが俺の言葉に顔をあげた潔は、間抜けな面をますます間抜けに見せるくらい目を丸くして俺を見てくる。
あめ玉のような瞳は間近で見れば見るほど色々な青が混ざっているのに気がつく。
こんなに近くで他人の瞳を観察するのなんて、初めての経験だ。
ついついその瞳から目を反らせずにいると、唖然とした様子の潔が何度かの瞬きの後に囁いた。
「……凛、なんで俺の好きな生き物しってんの?」
言わなくても良いことを言った時のリカバリー方法を俺は知らない。
だから代わりに目線を外してから舌打ちをこぼし、思考する時間を稼ぐ。
別にわざわざ調べたのではない。先ほど潔が言っていたインタビューの情報に目を通す機会が偶然にもあっただけだ。
でもそれを一から十まで説明するのも癪で、その間に流れていたふくろうの動画も止まり、BGMも何もない静寂が辺りを包む。
チラリと再び潔の方へと目を向ければ、妙に期待に満ちた雰囲気を漂わせている。
さっきまでホラー映像で怯えていたくせに、もうケロリとしている潔が信じられなかった。
そして俺からの答えを待つよりも先に、ポツリと呟いた潔の声が狭い空間で響く。
「……そういえば、凛の実家って鎌倉なんだよな……」
「だったらなんだよ」
何故知っているのかとはもう聞かない。
答えを知っているのに聞くのは馬鹿げているからだ。
だが、質問の意図が読めなくてそう問えば、声をつっかえさせながらもどこか必死さを感じる勢いでこちらの服を掴んできた潔がじっとこちらを見上げてくるので自然と見つめ返していた。
「……今度さ、江ノ島とか行ってみたいって話が出てて……だから……凛に案内してほしい……とか言ってみたりして……」
「は? ……俺に案内役させるとかいい度胸してんな。その話してたモブどもといけばいいだろ」
そんな事かとため息混じりに吐き捨てる。
出身地だからとかいうくだらない理由かつ、どうでも良い連中の為になんで俺が貴重なオフを使わなければならないのか。しかしすぐさま次の言葉が飛んでくる。
「じゃあ、俺と二人きりなら……どう?」
冗談めかしている割に、頬の赤みは強い。
どうってなんなんだよ。そう文句の一つでも言いたくなるが、その前に自動ドアが開いて他の連中がドタバタと部屋に入ってくる方が先だった。
慌てたように俺から離れ、ベッドから立ち上がった潔はオカッパ達にすぐさま囲まれている。
浮かべている苦笑はいつも通りだったが、唯一違うのはまだ赤みの引かない耳と首筋。
ちらりとスマホを見ればもうそろそろヨガをする時間で、俺はスマホをスリープモードへと移行させるとそれをベッドに置いてからゆっくりと立ち上がった。
「潔」
あっという間に輪の中心に居る潔の名を呼ぶ。
「……考えてやってもいい」
顔を向けた潔にそれだけを言い残し、他の連中を押し退けて部屋を後にする。
柄にもない事をしたと後悔が押し寄せるが、俺の言葉に驚いてからすぐに嬉しそうに目を細めて笑った潔の顔があまりにもぬるすぎて、自分もアイツのせいでぬるくなってしまったのだと誰もいない廊下を歩きながらまたひとつ舌打ちを落とした。