夜を編む 最悪の目覚めだった。
けれど飛び起きるというよりかは、やっとの事で浮上した意識を無理矢理固定させた後の気だるさの方が割合としては強い。
それでいて身体の方は纏わりつく乾いた泥を一枚ずつ剥ぎ取るように、あまり上手くは動かなかった。
ヒヤリとした汗が全身をくるんで、着ているTシャツの間を薄く伝う。
シャワーを浴びるほどでもない湿り気に薄闇の中で瞬きをしてから、深いため息を吐いた。
しばしそれを繰り返せば暗闇に目が慣れてくる。
すぐ傍らにいる物体を横目で眺めてから、静かに掛け布団から滑り出てベッドに腰かけた。
そのままフローリングの木目を足先で撫でつつ、サイドテーブルに置いたままの生温さを宿したミネラルウォーターのペットボトルを掴む。
細かな溝の掘られた蓋を回して残り半分ほど残っていた中身を飲み干せば、ささくれだっていた心の表面が緩やかになめされていく。
嫌な夢だった。しかし、それを説明しようとすると言葉は出ない。きっと夢というのはそんな物なのだろうと思う。
そもそも、ハッキリと全てを覚えているワケでは無いから、逆に内容を必死に追う方が毒になる気がした。
掌から砂のように零れ落ちていく悪夢の残骸をそのままにして呼吸を整える為に一度深く吐けば、背中を何かが叩く感触があって目を向けた。
薄闇の中でも分かる大きな瞳が開いている。寝ていると思っていたのに、と手を当ててきている潔の頭辺りに指を伸ばし黒髪をかき混ぜれば、思った通り寝ぼけ気味の声がした。
「……りん……なんか、汗かいてる……?」
確認するように背筋から腰までをゆるやかに撫でていく潔の指先がこそばゆくて身をよじれば、体ごとシーツの上を滑って近寄ってきた潔の輪郭がうっすらと見えた。
遠くで響く雷鳴のような悪夢の気配はいつまで経っても幼げなその丸みに全部塗り潰されて、聞こえなくなる。
俺をかき乱す存在などコイツだけでいい。そう思えば、自然と速まっていた鼓動が落ち着いていく。
「……悪い夢でも見た?」
段々と寝ぼけていた状態から覚醒してきたらしい潔の声が心配の色を帯びていて、なんでもないと伝える代わりに毛流れに沿って頭を撫でる。
この男を壊したい欲求は永遠に消える事は無い。でも、その感情と折り合いをつけるだけの年月は経っていて、俺は今でもどうしてこうなったのか理解出来ないままコイツの隣に立っていた。
だが、こうしてふとした無防備さを晒せる相手は潔だけであり、それと同時に深夜にだけ見られる潔のしどけない姿を他人に晒すくらいなら自分の手元に置いて縛っておく方が精神的に安定する。
要は自分のあずかり知らぬ所で俺の知らない顔をして他人を見る潔を許せない。それだけの話だった。
「ほら、おいで。凛」
無言で髪を梳く俺を見かねたように、両手を差し出してきた潔の顔は起きたてとは打って変わって年上らしさを醸し出している。
その生意気な態度に不愉快さを覚えるが、ぬくもりの心地よさを知っているからこそ、数瞬だけ葛藤してからすごすごとベッドに潜り込む。
待ち侘びていたように両腕で俺の頭を抱え込んだ潔の胸元からはトクトクと絶え間ない心拍が刻まれており、静かに体内に響くその音が溶け合ってひとつになっていく。
それが良いか悪いかは別にして、この瞬間は嫌いでは無かった。
「泣いてもいいのに、お前ってこういう時でも絶対泣かないよな」
「泣くワケねぇだろ。ガキじゃあるまいし」
「……そう?」
含み笑いと共に零された囁きが耳の縁をそっと撫でて、自分の恰好を思い出す。
悪夢に魘され、潔の胸に抱かれて慰められているのは確かにガキっぽいのかもしれない。
でも、こんな奴に育てたコイツも悪い。
だから腹が立って思い切り足も腕も絡めて強く潔を締め上げれば、カエルの潰れたような声で呻いた。
「ギブギブ、苦しいっ」
「……うっせ」
「もぉ、なんだその言い草……せっかく甘やかしてやってんのに」
締め上げていた体の力を抜き、そのまま柔らかく体を抱き寄せる。
顔をあげれば呆れたような顔をしながらも、俺だけを見ている潔と目があった。
頭を撫でる力加減は丁度いい塩梅で、次第に消えかけていた眠気が舞い戻ってくる。
「なぁ、今日はもっかい寝て起きたらシャワー浴びて、買い物行ってさ、それからサッカーしにいこ」
「……ん」
「はは、……声可愛くなってる。もう眠くなってきた?」
「……お前もはやくねろ」
「……そうだな。そうする」
「おやすみ、凛」という囁きが鼓膜を通して、脳まで伝う。
当たり前のように、寝て起きても必ず隣にいる約束を簡単にする。潔のそういう部分は残酷なのに、結局はその優しさは俺を満たして止まない。
激情を昂らせるのも、高揚を鎮めるのもすべてコイツの手の上であるのは許しがたい事実だったが、それでも今夜くらいはいいだろうと自分に言い訳をする。
籠っていた力を抜いて、瞼を伏せればすぐ傍らで感じる潔の体温の高さと匂いに包まれるようにして今度こそなだらかに意識の底へと滑り落ちていった。