薄氷を踏む 彼は意外にも想像していたより数段大人しかった。
五角形のお世辞にも広いとはいえない室内に、少しの余裕をもって置かれた三つのベッドのどれを誰が使うのか決める時も、照明が落とされてシンと静まり返った真夜中でも。
もっと地雷原のような──それこそどこで怒りのスイッチが入るのか分からない、取り扱い要注意人物なのだろうと勝手に考えていた。
けれど、朝になって昼になってまた静かな夜が訪れても爆発が起こる事はなく(自分の前では、だが)俺はそこでようやく糸師凛という人間に対する見方を少しだけ改める事となった。
彼は無駄をひどく嫌う。どのような確執があるのかは知らないが、並々ならぬ敵意で彼の兄である糸師冴を、それこそ本気で叩き潰す為の努力を続けている。
だから目的の弊害になるものは、彼にしてみれば意識する時間すら無駄なのだろう。
同じ部屋に居ても、彼は俺たちとは違う世界に生きているようだった。
というより、こちらを認識する気すら無いのだろう。嫌悪よりもさらに上の無関心。
俺達が何をしていたって、彼の関心を引く事は基本的にない。興味がカケラも無いのだ。
自分のテリトリーを彼はしっかりと決めていて、そこに入り込むものを拒絶する。かわりに、彼のパーソナルスペースを侵さなければどうでもいいのだろう。
全ては自分が強くなる為だけに生きている。いっそ恐ろしいくらいの精神性は、彼の容姿と相まって、よりその姿を孤高に見せていた。
そうして己の信念に従い生きている彼にしてみたら、俺たちは同じ部屋に居ても交わす言葉を持たない生命体なのだとすぐに理解出来た。
年下のくせに生意気だとか、そんな子供じみた文句を言うつもりはないが、何がそこまで彼──糸師凛を突き動かし構成するのかは少しだけ興味がわいてきていた。
自分が学校以外で様々な大人に囲まれてきたのもあって、少なからず他人とのコミュニケーションには自信がある。
無論、馴れ合うつもりは毛頭ないが、今後はこのメンバーでU―20代表と戦うのは決まっていて、俺は己の欲目無しにレギュラーに選ばれると確信していた。
だったら周囲のメンバーの情報を得るのは間違いじゃない。
ましてや相手はこの"青い監獄"におけるナンバーワンを冠した人間なのだ。興味を持たないでいる方が難しいだろう。
これでキレられたらまぁ仕方が無いと、俺はベッドの上で黙々とスパイクを磨いている凛くんへと視線を向けてみる。
同室の凪くんはついさっきフラフラと出て行ってしまったから、多分まだすぐには戻ってこない。
どうやって会話を始めようか少しだけ迷ってから、手持ち無沙汰なのもあれかと、近くにあった英語のテキストを拾い上げてパラパラとページをめくる。
空欄は全て埋められているそれを見ても意味は無い。だが、真っ向から構えられるのをきっと彼は嫌うだろうという察しくらいはついていた。
「……凛くんもそろそろ慣れた? このメンバーに」
「……あ?」
持ち上げたテキスト越しにスパイクに向けていた顔をあげた凛くんと視線がかち合う。
昼白色の元ですら輝きを放つ瞳の鮮やかさは、かつて撮影で使用したパライバトルマリンをいくつも嵌め込んだネックレスを思い出す。
きらきら、ピカピカとその希少さを示すように輝いていたそれを身につけた時は流石に緊張したのを覚えている。
けれど、プロとしての意地があったから、そんな緊張などおくびにも出さずに撮影を最後までやり終えた記憶が一瞬浮かび上がってから消えていった。
「いきなりごめんね。ただ、どうなのかなって」
さらに続けた声かけに、瞬きを増やした凛くんはそのまま初めて俺を見つけたかのように首をかすかに傾げると、どうでも良さげに言葉を返してきた。
「最初から言ってんだろ、どーでもいいって」
「はは、確かにずっとそう言ってるね」
掴みは上々、というよりも彼の機嫌が悪くなかったのだろう。
反応が返ってくるだけマシで、無視されないだけ良いのだと気が付くのも早かった。
止まっていた彼の手元は再び滑らかな動きでスパイクの青い表面にクリームを塗ると、クロスで磨いていく。
どんな時でも彼の中では決まったルーティンが存在していて、この儀式めいたシューズの調整が終わればどこかに消えてしまう。
噂では前に同じチームだった潔くんと一緒にヨガをしているらしい。それが正直意外だったのもあって、余計に俺は凛くんの生態に興味がわいた。
「前は五人部屋だったから、三人だと静かでいいよね」
無言は肯定なのだろう。でも少しだけ眉根が寄っている。
おもちゃの樽に剣を刺す昔ながらのゲームをやっている気分に陥りつつ、その隙間を縫って彼の思考を炙り出していくのは案外面白い。
でも気が付かれたら、きっと彼はこの部屋を出て行ってしまう筈だ。
埋まっているテキストをまためくる。答えは全てあっている。丸をつけるまでもない。
「俺がこんな事言うのも変だけど、五人の時は大変だったでしょ? いろんな奴が居るしさ……男五人だとすぐに部屋が荒れちゃったりして」
ひとり言のような感覚で宙に吐き出した言葉は意外にも凛くんの琴線に触れたのか、ぼそりと答えが返ってくる。
「……お節介野郎が居たから、別に」
おや、と俺が思うよりも先に自分で自分の言葉に苦い顔をした凛くんは、きゅっと唇を結ぶと今度は靴紐のチェックをし始めた。
全員のデータを頭に入れているワケではないけれど、少なくともこの反応から導き出される人物は一人しかない。
想像していたよりも凛くんにとって噂の相手である彼は大きな存在らしかった。
もしかしたら、これは彼の弱みになりえるのかもしれない、とまで考えて止める。
そうだったとしても、サッカーで勝たなければこの空間では何一つとして意味が無いからだ。
だが、いけないと思いながらも刺激を求めるのは、隔絶された空間での娯楽となりうる。
わざとらしく考え込む素振りを挟んでから、またページをめくる。そのままチラリと凛くんへと視線を向けて、先ほどよりも小さな声をあげた。
「へぇ、この場所にまだそんな子がいるんだね。……確かにそういう気遣いが出来る人は一緒に居ると気楽そうだ」
微笑みを浮かべながら発した呟きをしっかりと聞き取ったらしい凛くんから視線を背け、膨れ始めた風船の上を針先でなぞるようにさらに続ける。
「それってさ、凛くんが前に同じチームだった……潔くん、だよね」
途端に殺意の籠った視線を浴びせられる感覚があって、自然と眼鏡の位置を正す。
視線はまだテキストをなぞっているから彼の顔を見てはいない。むしろその方が正解だったんだろうと思う。
息を潜めてこちらを睨む凛くんは、俺の言葉を待っているようだった。だからなんて事のない話をするように、また一枚ページをめくる。
「……あの子って、どんな人なの?」
ぴりついた空気がさらに濃密さを増し、刺される視線の鋭さが増す。
フィールドで相対した時と同じくらい凝固された殺意が明確に伝わってくる感覚が肌を撫でた。
「なんでテメェが潔を気にする必要がある?」
その割には、発せられた声に角が無い。
何も感じない人間には恐らく純粋な疑問のように聞こえるだろうが、棘のように食い込んでくる視線は強烈で、その落差に笑みすら漏れそうだった。
と同時に何も興味が無さそうな顔をしていた彼の感情を一気に向けられて、不思議な気分になる。
ここ数日一緒の部屋に居るが、きっと凛くんにとって俺は単なる"モブ"の一人にすぎなかったのだろう。
それなのに今この瞬間だけは、凛くんの中で俺という存在が認識されている。このきっかけをもう少しだけ深堀りしてみたい。
虎穴の前でうろうろとする真似はあまり性に合わないけれど、こういうスリルを味わうのは嫌いでは無かった。
もう一度ズレた眼鏡を人差し指で押し戻し、落ちてきていた前髪を直しがてら顔を上向けてみる。
「だって、君と彼って仲が良いんだろう? 凛くんみたいな人が親しくするなんて珍しいなと思って」
「……親しい? テメェの目は節穴か?」
ギラリと光る瞳は猛獣のような苛烈さを持っていて、それなのにその色合いがあまりにも美しいからか目を反らすのも勿体ない気がした。
今まで超越者のごとく思えていた彼の剥き出しの怒りを見るのが初めてだったのもあって、圧倒されたというのもある。
現に俺の目の前でベッドに座っている凛くんの手は、掴んでいたスパイクの紐を縛る事も忘れて止まっていた。
まだ彼は高校一年生になったばかりで、俺とは二学年も異なる。当たり前だが忘れかけていた事実を思い出して、出来るだけ敵意を削ぐような笑みを浮かべてみせた。
「ごめんごめん、そんなに怒らないでよ」
「……ッチ……くだらねぇ……」
「……でもさ、君が目をかけてるってのは本当なんでしょ」
そんなにレベルが高いようには思えないけど、というニュアンスまでしっかり読み取ったのか、ついに深い溜息を吐いた凛くんは、スッとその目を細めると再びスパイクに目を向けてその紐を縛った。
すみずみまで磨かれているスパイクは一点の曇りも無く、彼の大きな掌の中に収まっている。
「テメェが思うよりか、アイツは厄介だ」
ハッキリと断定する口調で他人を評価するのを初めて聞く。
誰彼構わず"モブ"だと切り捨てる彼の中で、"潔世一"という人間がそれだけ大きな存在になっているのだろう。
掌の上にあったそれを定位置に置いた凛くんは、ベッドから立ち上がるとまた無機質な瞳を俺に向けてくる。
一枚、幕を隔てたような遠くを見る眼差し。彼にとって俺は興味の対象から外れたのだというのがまざまざと分かった。
「それが分からないうちは、その程度ってことだろ」
「……へぇ。そうなんだ、その忠告ありがたく受け取っておく」
向こうが俺への興味が失せているのなら、こちらは感情を悟られないように笑みを浮かべるだけだ。
けしてここまで這い上がってきた人間を甘くみているわけではないが、少なくとも俺の射程圏内には居ない。
むしろこちらにしてみれば、この選考を勝ち抜いて自分がナンバーワンの座を奪うくらいの気持ちでいる。下を気にする余裕も時間も、最初から俺は持ち合わせていない。
問答は終わりとばかりに立ち上がってドアから出ていこうとする凛くんの背中を見ながら、ほんの少しの好奇心と悪戯心が顔を覗かせた。
ここまで言われっ放しで放置するのも、負けず嫌いな俺の性には合わないからだ。
「あぁ、これは俺からの忠告だけど、ヨガに行くつもりなら気をつけた方が良い。……誰がどこで見てるか、分からないよ」
ピタリと立ち止まった凛くんは顔だけを振り向かせてこちらを睨みつけてくる。
視線だけで殺されかねない勢いだったが、それでも彼が俺に突っかかってくる事は無かった。
かわりに何かを言いかけて止めたらしい彼が強く舌を打った音だけが聞こえる。
正直、ちょっとした悪戯のつもりだったのだが核心をついてしまったようだった。
でも愛や恋などという甘さを感じる事は無く、恐らく凛くん自身にもそのような感情は無いのだろう。
こんな閉鎖的な空間だ。そういう関係になる連中が居たって可笑しくは無い。それに元々大した偏見も無かった。
だが俺が何かを言う前に、一度だけ強く壁を拳の側面で叩いた凛君に意識が持っていかれる。
鈍い音を立てたドア枠はびくともしていなかったが、これまでの何よりも激しい怒りを持って与えられた衝撃に黙って耐えているようにもみえた。
「……話はそれだけか」
「……うん。まぁ、俺からはもう無いかな」
まだ同室でいる時間がいつまで続くか分からない段階で、これ以上の肝試しは得策ではない。
そもそも最初からどうでも良いといえば良いのだ。誰と誰が付き合っているだとか、どんな関係を結んでいるだとか、俺に密接に関わらない人間の事なんて。
「ついでに言っておくけど、安心してよ。俺自身は、割と本気でどうでもいいと思ってるからさ」
だから念のため、本心も告げておく。こちらに向けられた凛くんの瞳は、やはり美しくも自分からは触りたくはない危険な色を宿していた。
やはり何も言わなかった凛くんはそのまま出て行ってしまう。
一人取り残された室内で、知らない内に詰めていた息を吐き出しつつ持っていたテキストをベッド脇の棚に放り投げる。
よくあんな猛獣の隣にいて、あまつさえ一緒にヨガすらしている人間が居るというのが信じられない。それとも、凛くんは彼の前ではまた違った表情を見せるのだろうか。
二人のそんな状況を想像しかけ、流石にそこまで悪趣味ではないと苦笑と共に空想を掻き消す。
このまま気分転換に風呂にでも行こうとベッドから立ち上がり、ゆっくりと硬くなっていた体を伸ばしたのだった。