小話2 誰よりも早く目覚めた朝、そういう日に行う自分だけの儀式がある。
薄暗い部屋はあと二時間もすれば起床時刻になって、眩いくらいの光に包まれるだろう。
そうでなくとも足元に取り付けられた照明によって、部屋全体の様子はうっすらと分かる。
そもそも大して複雑な構造をしていないから、誰がどこのベッドで寝ているかなど一目瞭然だった。
ちょうど俺の寝ているベッドの足元側。
蜂楽のように布団がはね飛ばされておらず、蟻生のようにきっちりと真っ直ぐな寝相でもなければ、時光のようなガタイの割に縮こまっている形もしていないそのベッドの主は未だ夢の中なのだろう。
するりと布団から抜け出した身体を包む空気の冷たさは、夢から現実へ続く架け橋めいて好きではない。
だからこそ、わざとそれを振り払うように寝ぼけたふりをしたままそのベッドへと近寄ってみる。
さも、ついさっきまでトイレに行っていて、戻るベッドを間違えた演技を誰に見せるでもなくするのは、もしも俺の前で凛が起きてしまった最悪の事態をいつも考えているからだった。
白い布団にくるまって、すぅすぅと柔らかな寝息を立てている凛を見下ろす。
いつもは鋭い視線を発する瞳も、長い睫毛の生え揃った瞼に隠されて今は見えない。
精巧な人形めいた造形をしたまま眠っている凛は、生きているのかたまに不安になる。
でも、目覚めればいつも通りその精巧さに違わない完璧なプレーをするのだ。
見下ろしていた所から、ベッドの端へと片膝をつく。
絶対に音は立てず、ついた手は出来るだけ体重をかけないように。
さらに近くで覗き込んだ凛の寝顔を見ながら、俺はあの日見た放物線を何度だって思い出す。
この空間では全員が全員、敵だ。協力する場合もあるし、連動する事でさらなる高みを目指せる時もあるが、その大前提は揺るがない。
分かっているのに、それでも俺は心のどこかで糸師凛という人間のサッカーや存在に魅せられていた。
コイツより強くなりたくて、追いかけたくて、隣に居ても遜色がないくらいになりたい。
だから、凛に認められた事が嬉しくてたまらなかった。
その感情がただの憧れにしてしまうには少しだけ違うのに気がついてしまったのだけは、誤算だったけれど。
いまだ瞼を伏せたままの凛が身じろぎをして、その顔を上向かせる。
ドキドキと瞬時に心拍数を跳ねさせた心臓をどうにか押さえ込んで、思わず逃げそうになった身体をさらにベッドへと乗り上げた。
ここで凛が起きたら、絶対に言い逃れ出来ない。
だが、もう何回か成功しているからと、心の奥にあった筈のストッパーが緩んでいるのを感じた。
どうせ、この恋は叶わない。そんな事など分かっている。
凛からしてみれば、自分に敗北した負け犬から向けられる恋情など気味が悪いだけなのも想像がついた。
それでも。そうだとしても。
(……ごめんな、寝てる間にこんなことして)
何度か触れあって知っている凛の柔らかな唇の感触は、きっとこのまま墓場まで持っていく俺だけの秘密。
もしも万が一にでも奇跡が起こって恋人になれたなら、俺は起きている凛に『キスしていい?』って迷いなく聞けて、そんな俺に『仕方ねぇな』って答えてくれる──あり得ない未来を想像して胸が痛む。
でも、もう止めようと思っても得てしまった成功体験に味を占めてしまった俺の欲は自分でも抑えられなかった。
「……なぁ、キスしていい?」
どうせ返ってこないと分かっているのに、囁いた言葉は瞬く間に消えていく。
けれどそれがまだ俺の中で流星のように尾を引いているあいだに、目の前の凛の瞼が急に開いてハッキリとした光を灯したターコイズブルーと視線が絡む。
うそ、と喉が声を発する前に思い切り引き寄せられて重なった唇は、いつもよりも熱くて互いの吐息を感じた。