ベルベットの向こう側にて 奴の様子がいつもと違うのに気が付いたのは、今朝の事だった。
けれど、どこが違うのか明確に言えと言われたならば、伝えられない程度の違和感。
さりげなく観察してみてはいたものの、ミラージュという男はその名の通りに常に他人に真意を汲み取らせない事に長けている。
勿論、全てがわからないワケではない。
ただ、喋りすぎる唇の上に糊付けしたような笑みと、特に内容の無い言葉の羅列を並べ立てる詐術師然とした話術。
それらを利用して、"ミラージュ"という人間の、さらにその奥を見ようとする他者を立ち入らせないのが得意であるようだった。
それに関して、こちらがどうこう思う事自体が可笑しいのは重々承知している。
何故なら俺達はただの【ゲーム】における同僚であり、ミラージュの言葉を借りるならば"友人"に近しい存在であった。
あのアクシデントのせいでミラージュに自分の正体がバレた時は面倒な事になったとは思いながらも、アイツになら知られていても問題は無いと判断出来た。それくらいに奴との付き合いは長くなりつつある。
だとしても、俺達は他人同士だった。
他人同士である以上、俺はミラージュの奥底を覗こうとはしない……フリをしている。
そうでも思わなければ、純粋に自分の気持ちが止まらないような気がしたからだった。
最初はからかい混じりに作り始めた【ミラージュ失敗集】を編集しながら何度も見返すうちに、あの男の真剣な眼差しや、横顔の形の良さに気が付いた。
なんだかんだと言いながらもドローンを操作する俺を庇うように動いているのも、何も知らない顔をして俺の秘密を知っていたクセにずっと黙っていた事も。
気が付いてしまえば後には引けないくらいにアイツから与えられていた物の多さを知る。
だからなんだと言われてしまえばそれまでではあったが、俺はミスティックやミラ以外にこうして知らぬ間に見守られている感覚を得たのは初めての経験であった。
『あそこに降下するぜ!』
『了解』
『……あぁ』
滑らかにドロップシップの床底が開く。
風によって靡く前髪を押さえながら下を見れば、鮮やかに輝く青い海と巨大な植物が幾つも重なり影の層を作っていた。
ストームポイント。何度訪れても未だに複雑な気持ちを呼び起こさせるこの地が今回の【ゲーム】の開催地だ。
自分の幼少期に居たスオタモよりもさらに自然豊かなこの場所は、他の星よりもいっそう原始的で、様々な可能性に満ちている。
それを知らしめるかのように鼻に入り込む潮の匂いと、湿り気を帯びた土の匂いは幾度も嗅いだ事のあるものだった。
そんな見慣れた景色と匂いに包まれながら、タラップの中央に立つニューキャッスルの朗らかな声を通信機越しに聞く。
ニューキャッスルというレジェンドと話をした回数は片手で足りる程度だ。
けれど、いかつい肉体とそれを覆う鎧とは異なり、この男は随分と明るくて正義感に溢れた人物のように見えた。
初対面で獰猛そうに見える人間の方がこの野蛮な【ゲーム】では紳士的なのかもしれないと、もう一人のシールドを使って戦うレジェンドの姿を思い出す。
無論、そう見えるだけであって信用しているワケではない。
俺は端から必要以上に新たなレジェンド達と関わるつもりも馴れ合う予定も無かったからだ。
それよりも気になるのは、同じ部隊になったミラージュの方だった。
一番最後にやる気の無さそうな返答をしたあと、特に何を言うでもなく、そうして俺にもニューキャッスルにも面倒な絡み方をするのでもない。
ハッキリ言って、いつものミラージュらしくなかった。
『よっしゃ! 行くぞー!』
しかし、頭に浮かんだ疑問を問う暇もないまま、そう声を上げてニューキャッスルが飛んだタイミングに合わせ、すぐに黙って降下を開始したミラージュを追いかけるように自分も空へと身を投げ出す。
ニューキャッスルがピンを指したのは、ストームポイントでも端の方に位置している避雷針のエリアだった。
常にストームポイントの上空には積乱雲が滞在しており、そこから発生する雷を受ける為に作られているエリアなのだという。
ともかくまずはこの【ゲーム】に集中しなければと、周囲に目を凝らして他の部隊が居ないかを確認しながら途中でニューキャッスルから切り離れて避雷針エリアの中腹部分へと降り立った。
どうやら他の部隊は降りてこず、ニューキャッスルは下階、そうしてミラージュは上階へとそれぞれ無事に降り立ち俺と同じく物資を漁り始めたらしい。
建物のドアを開け、薄暗い中へと素早く入り込む。
オルタネーターにヘムロックというとりあえず可もなく不可もなくといった武器をホルスターに携えると、バックパックを埋める弾を捨て、代わりにシールドセルを放り込んだ辺りでふと、ミニマップ上にて、ミラージュを指し示すピンの動きが止まっている事に気がついた。
目を凝らして腕に着けたデバイスでもう一度確認すれば、避雷針エリアの上の方にあるトンネルのように吹き抜けになっている場所でミラージュを示すピンはやはりピタリと一定方向を向いたまま静止している。
もしも、物資を漁るにしてもあの場所はアイテムが豊富ではないので、そこまでの時間が掛かるとは思えなかった。
何よりもミラージュという男は、大体どんな時でも動き回り足を止める事は少ない。
今朝方の様子を思い出して、もしかしたら体調が悪いのかと通信機に向かって声をかけようか考えたが、直接向かった方が速いと建物のドアを開けて壁面をよじ登りミラージュの元へと向かう。
その最中でも、避雷針に落ちる巨大な雷は耳をつんざくような音を立てて周囲の空気を震わせていた。
建物の僅かな段差を掴んで登った先へと進んでいくと、やはり地面を見て固まったままのミラージュが立っている。
そこにアイテムは無く、おそらく粗方アイテムは拾い終えたのだろうミラージュの背中にはボセックとEVA8が掲げられていた。
「おい、何してる」
俺の声にようやく顔をあげたミラージュは、いつも通りの笑みを浮かべる。
それに安心している自分が居るのを理解しつつ、向こうが話をし出す前に言葉を投げ掛けているという違和感には気がつかなかった。
「どうした? お前らしくないな。いつものお前なら俺の物資まで漁るくらいにちょこまか動き回ってるクセに……雷が怖いのか? 小僧」
何言ってんだよ、うるせぇおっさんだな! と返ってくるだろうと予想して発した声は、その予想に反してただコンクリート製の床と壁面に反響して消えていく。
そうして、俺の前に立っている筈の"ミラージュ"の顔から表情が瞬時に無くなったかと思うと、どういう顔を作るべきなのかがわからないのかオドオドと目を左右に動かして唇を引きつらせた男へと変貌を遂げる。
何が起きているのかを認識する前に、またもや雷が避雷針へと落ちて、男はビクリとその肩を震わせた。
言わなくて良いことを言ったかもしれないと、俺はその時に初めて気がついたが、どのタイミングでコイツが"ミラージュ"である事を放棄してしまったのかが分からなかった。
自分に出来ることや、自分にとっての当たり前が他人にとって出来ることではないということや、当たり前ではないのだと知ったのはそこまで昔の出来事ではない。
俺自身、自分の事を天才だとは思っていないが、かといって不出来な人間では無いと考えている。
実際問題、俺は少なくともハッキングの分野に関してなら自分の実力に自信を持っているからだった。
けれど俺はナタリーやソマーズ博士のように天才ではない。
だからこそ、自分に出来る最大限の予測と準備を行う事で己に降りかかるだろう問題を迅速に処理してきた。
なので、準備を怠って自分から不利になったり、自分自身のコントロールを失うような人間の真意が理解出来ない。
理解出来ないが故に、端から理解しようともしない。
それ以外にも己の考え方と大幅に離れた思考を持つ人間と関わり合うのすらも面倒だった。
そういう点を今は遠く離れた場所で俺を待っているであろうミラに指摘されたのは、まだガイアで平々凡々に暮らしていた頃だった。
でも今は、一介のエンジニアであるパク・テジュンとしてこのガイアの地に立っているのでは無い。
【レジェンド】なんていう大仰な肩書きを持ち、"クリプト"なんていう名前で生きている。
そして、俺の目の前で苦しげな顔をしたままの"ミラージュ"という男は俺を何度も救ってくれた人間だった。
与えられた物を返したいと願うのと同時に、この男に巣食う闇の一端を見たいと思う自分が居る。……最後まで支えてやれる約束も出来ないのに。
でも少なくとも現状でコイツを引き戻せるのは俺しか居ないと勝手に確信していた。
乾いた唇を舐め、ゆっくりとした足取りでミラージュへと近付く。
ゴロゴロとまた雷が落ちる予兆が聞こえる。
予測を立てて動くのは得意ではあったが、他人の感情の機微を察して相手を慰めるなんていう芸当は不得意であった。
いくら言葉を取り繕っても、何もかもが白々しい気がするのだ。
"クリプト"という存在自体が嘘にまみれているのを俺は知っているから。
「……ミラージュ……、……ウィット……」
ウィット、の呼び掛けに俺を見たミラージュを見つめ返す。
そろりと差し出した手で、落ち着かないのか無闇に指先を動かしている手に触れた。
冷たくはないその手が動きを止め、長い睫毛の向こうでヘーゼルカラーのガラス玉が光る。
選択肢を間違えるなと自分に言い聞かせつつ、触れたそこを握り込んだ。
嫌がられない。間違いではなかったらしい。
「……体調でも悪いのか? 辛いなら棄権信号を出すが」
俺の言葉にゆるりと首を振ったミラージュは、まるで幼い子供のように思えた。
その姿を見て、養護施設に居た時に自分よりも後から来た仲間の姿を思い出す。
何も知らずに一人連れてこられ、状況も理解できずに怯えて部屋に引きこもる小さい子供。
そういう新たなメンバーを無理矢理部屋から引き摺り出すのはダメだった。
恐れているものの正体を確かめなければならない。
そうして出来る限り優しく声をかけて、お前の居場所はここにあって、ここは安全なのだと伝えるのが一番効率が良いのをミスティックがしているのを見て学習している。
「何があった? なにか嫌な事でも思い出したのか?」
いつもよりも遥かに優しい声で囁く。
気になる相手にならば、この程度の慈しみを気安く振り撒けるのだと我ながら驚きそうになるくらいだ。
俺の声にその目を揺らがせたミラージュが何かを言おうとして何度かその厚い唇を開閉した。
また雷が近付いているのかゴロゴロと音がし始めている。
早く言ってしまえと急かしたくなるのを抑え、目を合わせたまま動かさない。
「……今日は、……兄貴たちの……」
ミラージュの声に被るように、雷鳴が轟き、語尾がよく聞こえなかった。
でもそれだけで何を言いたいのかを察する。
エリオット・ウィットという人間のデータはとっくに全て頭に入っていた。
この男の三人の兄は、ある日突然起きた輸送船クリムゾン号の衝突事故で全員死んだのだという。
その後の調べでも原因は分からず、そこに乗っていた筈の兵士達は死体を探される事もなくただ報告書の末尾に名を記載される程度だったらしい。
慰霊塔もあるにはあったが、かといってそれで何もかも納得出来るような人間は少ないだろう。
死体を見ない限り、もしかしたら生きている可能性があるんじゃないかと誰しも願ってしまうのは当たり前の話だ。
諦めるのと忘れるのは違う。少なくとも、ミラージュは兄達を諦めてはいても、忘れてしまう事は出来ないのだろう。
ミラージュの唯一の肉親である母親が忘れてしまう分まで、覚えていようとする。この男はそういうタイプの男だった。
「……そうか……」
ここまで考えを及ばせ、俺は逡巡する。
今は【ゲーム】中で、例えどんな状況でも仕事は仕事だろうとも思う。
そうして【ゲーム】の時に必要なのは"ミラージュ"という存在だった。
それは俺が"クリプト"としてこの場に立っているのと同じように。
観衆はムードメーカーとして、パフォーマーとして、そうして軽やかな笑みを浮かべて敵を倒したり、負けて悔しそうに地面に叩き付けられながらもそれでもその綺麗な顔を崩しきらないコイツを求めている。
でも、それらは全てどうでもいい些末な事のように思えた。
効率や準備を徹底し、無駄を嫌う筈の自分の中で、そんなくだらないモノは投げ捨ててしまえと声がした。
――――本当に、恋という感情は理解し難い計算を弾き出すらしい。
誰にも見せたくないと思ってしまった。
厳しい現実と過去の狭間で呑み込まれかけているこの男の苦悩を、俺以外の他の誰の目にも晒させたくない。
その上で、二人きりになったら目一杯に甘やかしてやりたくなった。
俺はそんな事をやりに"クリプト"になった筈ではないのに。
でも、パク・テジュンとしての俺はそれが何よりも正解なのではないかと必死に頭を回している。
だからどうにか言葉をゆっくりと吐き出す事に専念した。
「ウィット、今日は棄権しよう。いいな? ……それから、……なんだ、……飲みでも行くか? こんな昼間から飲むのだって、気晴らしの一つにでもなるだろ。……いや、こんな日に飲む気分にはならないか……とにかく、……あぁ……」
ギュウと掴んだ手を握る。
口から出る言葉は上滑りするように宙へと漂う。
これだから他人に優しい言葉をかけるのは苦手なのだ。自分の語彙力の無さに嘆きそうになる。
飲みに行く以外に何かもう少しあるだろうに、コイツと【ゲーム】以外で会う時は大体パラダイスラウンジで飲む時だから、自分の気分が上がる時の事を考えるとそういう選択肢しか出てこない。
段々と小さくなる言葉尻に、合わせていた視線を外して地面を見つめる。
上手く言えなかっただろうか。そもそも、こういう風な慰め自体がうざったかったかもしれない。
ミラージュが求めているのはこういう内容では無かったのかもしれない。
強く言い過ぎたり、相手を追い詰めているんだと気が付くのはいつも何もかもが手遅れになってからなのだ、俺は。
「クリプちゃん」
握っていた手を握り返され、ミラージュしか呼ばない名前で呼び掛けられる。
その声に顔を上げれば、先程よりは随分と顔色の良くなったミラージュがいる。
迷子だった子供がやっと帰るべき場所を見つけたようなその表情と、光の戻りつつある目の美しさに見惚れた。
「……お前の奢りな?」
泣き出しそうな、それでいて口端に笑みを浮かべてそう言ったミラージュの言葉を追いかけるように、また雷鳴がする。
やっといつもの小僧たらしくなってきたじゃないか、と言いかけて止めた。
代わりに握っていた手を離して、運営とニューキャッスルに連絡をするために手元のパネルを指先で操作しながらうっすらと笑ってやる。
「全く、しょうがない奴だな……余り飲みすぎるんじゃないぞ」
俺の言葉に甘えるような笑顔を見せたミラージュは、もう雷など気にもならないようだった。
正解はこれでいいんだと、認められたような思いになる。
少しはこの男の望む言葉をかけてやる事が出来たのだろうか。
俺はずっと隠されていたベールの向こうにやっと招かれたような不思議な心地のまま、緩やかに肌を撫でる風を受け止めていた。