リインカーネーション-Ⅰ それはさながら、地獄へと続く門のようだった。
〔リインカーネーション-Ⅰ〕
昼間は空から降り注ぐ光によって溢れんばかりのサファイアブルーを湛えた海は、今はその表面に僅かばかりの白い波を立たせ、沖へ岸へと寄せては返す。
漆黒というのが相応しい色の中に、太陽と入れ替わるようにして空へと昇った月と、それに付き従う星々がその闇へと仄かに輝きを落としている。
そんな世界の中で、鼻に押し入る潮の匂いと、耳へと伝う波の音を聞きながら、白い砂浜の上にクリプトはただ一人腰を下ろしていた。
いつもゲーム時に纏っている着慣れたコートや黒いパンツに細かな粒子である砂粒がこびりつく。
それを気にもせず、ただ真っすぐに前を見ていたクリプトの目には、やはりどこまでも底の見えない深く黒い海だけが映っていた。
惑星ガイアにあるストームポイントを囲うように存在する巨大な海は、同じくガイアのスオタモ地区で生まれ育ったクリプトには馴染みある光景だった。
時に、その穏やかな波の間に揺られ、時に、激しい嵐を巻き起こしては海岸付近にある船や人を容赦なく押し流す様は当時幼かったクリプトの記憶にもおぼろげながら残っている。
そうして、朝になれば地平線の向こうから現れる太陽に照らされた海は、どんな人工の芸術品よりも遥かに美しく見えたものだ。
けれど今はただ、クリプトにとって目の前の海は何にも届かぬ自分自身の心を投影しているようにしか思えなかった。
予定通りならば、もうとっくに出発していなければならないのはよくよく理解していた。
だとしてもクリプトはただ真下にある砂に指を通して、さらさらと落ちるそれを弄ぶ。
たった一縷の望みが叶う確率など無いのは分かっているのに、と思うクリプトの耳に聞こえる筈がないと思っていた声が届いた。
「クリプト!」
必死さの宿るその声と共に、最も会いたくもあり、そうして最も来て欲しくなかった人物が足を縺れさせそうになりながらも、足元の砂を踏みしめてクリプトの方へと近づいてくる。
仕方なしに海へと向けていた視線を横に向けたクリプトは、座っていた場所から立ち上がると、両手で体についた砂を払った。
パラパラと表面から落ちる砂が空に浮かぶ月に照らされ、儚く煌めく。
淡い月光の元、湿った大気を掻き分けるようにクリプトの前に立ったミラージュは、白シャツにデニムという私服姿のまま、緩やかに曲げた膝に両手をついて荒くなった息を整える。
クリプトはその一部始終を黙って眺めてから、一度ゆっくりとまばたきをした。
「おま、……お前……本当に? 本当に……APEXやめるのか」
「……目的がもうすぐ達成されそうだからな」
「目的って……妹さんの事だろ? それは良かったけど!……でも、だからってやめる必要ないだろ! それにこんな急に……ワッツから聞かなかったら、俺……」
顔を上げ、そう言ったミラージュの額に浮かぶ珠のような汗が頬へと流れる。
クリプトの妹であるミラの所在が分かったのは、つい先日の事だった。
それはクリプトがAPEXの主催者であり、自らの怨敵であるシンジケートとの苛烈な駆け引きと取引によってようやく見つけ出した真実のひとつだった。
クリプトは、はじめからずっと妹と母との恒久的な平穏を願っている。
そうして、シンジケート幹部はクリプトがパク・テジュンである事を既に掴んでいた。
「もうここには居られない」
「……それは、お前が危ないからか」
ジッとヘーゼルの瞳が日中とはまた違った輝きの下でクリプトを見つめた。
その目を見る時、クリプトは常に自分の弱さを突き付けられる気持ちになって、自然と目を反らす。
自分が危険なだけならば、もうそれはクリプトにとっての日常に過ぎない。
そうではないのだと気が付いた頃には、目の前の男はクリプトにとって何よりも掛け替えのない人物へと変化していた。
ミラージュに秘密を知られた事、それはクリプトにしてみたら不慮の事故に近い。
伝えるつもりも巻き込むつもりもなかった。
"ゲーム"なんていう軽い響きの名をつけられてはいるが危険極まりない競技の中で、それ以外でも常にシンジケートに狙われているという危機感の中で、クリプトにとって唯一、気兼ねなく酒を飲み対等に話が出来る相手だったミラージュは不変の存在で居て欲しかったからだった。
全てが変わりすぎた日常の中で、昔のように冗談を言い合い、背中を確かに任せられる。そんな存在が何よりもクリプトの芯を支える。
けれどそれはクリプトの中だけで完結させるつもりだった。
そうしなければならない理由なんて、それこそ海に吐いて捨てる程に存在している。
「あぁ。……これまで世話になったな、……ウィット」
【ミラージュ】と言いかけて止めたのはクリプトのささやかな抵抗と期待だった。
それらが届くはずのない願いである事も、けして届いてはならない感情であるのも全てひっくるめて、努めて無表情を装い何色も乗せない声を聞いたミラージュは一瞬だけその顔を歪ませる。
元々、ミラージュがゲームに参加した理由をクリプトは全て知っていた。
だからこそ、もうここで彼とは離れなければならない。
「……どうにもならないのか。ゲームの時間が危ないなら俺達が守れば良い。それ以外が危険なら……」
「お前が子守りしてくれるって? 馬鹿言え。四六時中お前みたいにうるさい奴といられるか」
その返答にミラージュの長い睫毛が揺れる。
相変わらず波の音だけは一定のリズムのままに二人の背後でさざめき、互いの衣服の裾を捲るように海風が吹いた。
分かっているんだろう、と問うのは出来なかった。
ミラージュという優しい男はどうしても結論を口にするのは嫌らしい。
クリプトは意を決して足元の砂を踏み、ミラージュの方へと歩を進めた。
ザクザクと強力なゴム製滑り止めのついた靴底と白い砂が擦れる音がする。
どこまでも、静かな夜だった。
「今までありがとう。……お前にこんな風に感謝するなんて、思ってもみなかったよ」
いつもならポケットに入れたままの両手の内、クリプトは右手をミラージュの前へと差し出す。
金属デバイスの取り付けられたその手を見たミラージュは、ただ黙ったまま視線を上げてクリプトを見つめ返してきた。
暗くて良かったとクリプトは思う。
明るければ明るい程に、きっと知られたくない、見られたくない物に気が付かれてしまっただろうから。
差し出した掌に、躊躇いながらもミラージュの手が触れて、慣れない手付きで握手をする。
走ってきたからなのか、それとも元々の体温の違いからなのか、男らしく太い血管の浮かび上がった浅黒い手の甲、その裏にある湿ったミラージュの掌がクリプトには酷く熱く纏わりつく熱の塊のように思えた。
この手は、たくさんの人達から愛されて生きている、そういう人間の手だった。
もしも、この手を引いて隣に未だ佇む何もかもを受け入れてくれる巨大な海の底へと進めるのなら。
それとも、この先に待ち受けるだろう一か八かの逃避行にコイツを連れていけるのなら。
思考を巡らせるのは自由だ。けれど、そんな風に考える事すらも、罪深い行いのように思えてならない。
「……クリプト……」
ミラージュの声がして、クリプトは思考の波間から呼び戻る。
握った手の先には、今にも泣き出しそうなのを必死で抑え込んだ顔をしたミラージュが震える手でクリプトの手を掴んでいた。
あぁ、やっぱりこの心優しい男は、もっと輝く場所に居なければ。
空に高く昇る太陽、それを反射して光を帯びる全てを包んでくれるようなすみ渡る青い眩さの中で、笑っていて欲しい。
こんなに冷たくて暗い夜の底へと沈むのは自分だけでいい。
クリプトはそれでも名残惜しさを隠せずに一本ずつ緩慢な動きで指を外し、ミラージュの手からも次第に力が抜けていく。
そうして自然とポケットにしまわれたクリプトの両手とは対照的に、ミラージュの両腕はだらりと身体の真横で帰るべき場所を失ったように力無く垂れていた。
本来ならば、こういった別れの儀式をするつもりも無く、黙って消えようとクリプトは思っていた。
でもそれだけはしてはならないような気がして、ワットソンにだけは全てを伝え、そうしてその場に居なかったミラージュへの伝言を頼んだ。
直接、シップの中でミラージュへ別れを告げるのを躊躇ったのは、クリプトの弱さの現れだった。
最後は海辺でなんて、ロマンチックな考えがあったワケではない。
自身の過去に所縁のある場所を選ばなければ、ミラージュの持つ引力に屈してしまうとクリプトは良く分かっていたからだった。
けれどもう大丈夫、とクリプトは俯きかけた顔をあげた。
「じゃあな、ウィット。……お前の事を俺は見ているぞ。下手なプレイをしたらお前宛のファンレターに混ぜてお前の失敗集を送りつけてやるよ」
クリプトの精一杯の冗談に、ミラージュは顔をあげたものの笑いはしなかった。
どうせなら笑った顔を見せて欲しいと願うクリプトの想いとは裏腹に、沈んだ目をしたミラージュの顔は月の明かりに照らされて仄青く見える。
恐らくもう二度と会えないのだと、互いに言わずとも分かっているからだった。
決心が鈍る前に速く行かなければ、と全身へ指令を出す脳に従って、クリプトは砂の上で身体をミラージュとは反対側へと向ける。
何か声をかけて欲しいと考える弱い心と、何も言わないままでいて欲しいと考える屈強な理性との狭間で、クリプトは砂を擦るようにブーツを履いた足を素早く動かし始めた。
段々と遠くなる距離に、ミラージュからの声はかからない。
それでいいんだと見上げた空に一つ、小さな星が降り落ちる。
「アイツの事を一番に愛してくれて、幸せに出来る人が現れますように」
命の燃え尽きる間際、夜光虫のような輝きを発するその姿を歩みながら目で追ったクリプトは、祈るように囁きをこぼす。
ポケットにしまわれた手は残り香のような熱を握り込んでいたが、次第に緩く開かれ、ひやりとした冷たさだけがその指先を包んだ。
本当はそんな事など願わずに済めば良かったのに。
そう考え、滲みかけた視界を何度か瞬きで整えたクリプトは、迷いを振り切った強い視線で前を見据える。
その先には、黒く繁った森があり、クリプトが用意している脱出用のボートが隠された入り江へと続いていた。
「……なんてな」
やはり波の音よりも微かなその声は誰に聞き咎められる事も無いままに、堕ちた星を辿るように白い砂浜へと吸い込まれていった。