ジオメトリックシンパシー 腿辺りの高さに設置されている白い柵の向こう側、凛にとっては見慣れた鎌倉の大海原が今日も何ら変わらずに広がっている。
濃い青から薄い黄色へと続くグラデーション。雲一つない澄んだ空には白いカモメが数匹、悠々と翼を広げて飛んでいる姿が見えた。
自宅近くの漁港から見える海。そこから風によって流れてくる潮の匂いが鼻につき、水平線から仄かに光が射し込みはじめる。
青々とした水面に立つさざ波によって発生する細かな気泡が光を反射して、まるで人智を超えた生き物が海底に潜んでいるようだった。
例年以上に暑かったらしい日本の夏も終わりを迎えつつあり、朝日が昇るのも少しずつ遅くなり始めている。きっとすぐに残暑も過ぎて、秋に向かうのだろう。
秋という季節は嫌いではない。サッカーをするのにも向いているし、真夏や真冬よりはずっといい。
しかし、この時期の早朝から野外でこれを食うのはどうなのだろうか? という疑問は凛の唇から出る事は無かったが、代わりに眉が僅かに顰められた。
どうにもガキ扱いを受けている気がしてならない。
けれど凜は文句も言わずに手渡されたばかりの袋を破り、ボトムスのポケットへとゴミを捩じ込むと、中に入っていた青い塊を取り出した。
やはりこれくらいの気温ならば、アイスじゃなくて温かい飲み物の方が良い。
それでも隣の男が同じものを二つも買ってきた上に、凛の手の中に半ば押し付けるようにしてきたものだから、いつもなら『いらねぇ』と切り捨てる言葉を人工的なソーダの味で封じる。
同時に、日課となっているランニングによって少し汗ばんだ肉体がジャージの下でじわじわと熱を冷ましていくのを、身に染みて感じ取っていた。
青い監獄という、今考えてもイカれたプロジェクトに参加したのはもう随分と昔の事だ。
あの五角形の檻の中で、"ストライカー"とは何たるかを骨の髄まで叩き込まれた。
そうして、あの箱庭から広い世界へ飛び出したのだって、既に長い年数が経っている。
様々な強敵と戦い、悔しさや負ける辛さを学び。同時に、敵を破壊しつくし、自らのゴールひとつで世界を動かす楽しさを知った。
これからも"ストライカー"として生きていきたい。心からそれを望んでいる。
それは隣に立つ男──潔もそうなのだろう。
だからこそ凜は自ら口を開かず、ただひたすらに隣に居る潔の言葉を待つ。
どちらにせよ、凛と潔の"腐れ縁"とも言い表しにくい奇っ怪で歪で生ぬるさを伴った関係は長かったが、どんな時も口火を切るのは潔の方だった。
「……そろそろダメかもしれないわ、俺。というよりも、次のシーズンがラストかな」
ウォーミングアップ時に飛んでくるラフなパスにも似たその口調が、腹立たしい。
でも、その苛立ちの何十倍も腹の底で怒りを覚えているのは、潔自身なのを凜はもう知っていた。
口の中に含ませていたアイスを引き抜き、敢えて潔の方へと視線は向けないまま凜は重い唇を開く。
「……発表は、もうすんのか」
「いや? 混乱させるからギリギリまで伏せるってのがチームの方針。だから、ラスト試合の結果がどうであれ当日に発表って形になるかも」
「そうかよ」
「……まぁ、本当なら二年前にドクターストップかかってたしなぁ。よく持った方だと思うよ。ついにノアからも本気で叱られちまったし」
あはは、と軽い笑い声がして、その後すぐにシャリシャリと音を立ててアイスを齧っているらしい潔は黙り込んでしまった。
こういう時、どのように声をかけるのが正解なのかを凜は常に悩む。
自分はサッカーだけが出来ればいいと思って生きてきて、それ以外の物事に関心などあまり無かった。
しかし、仮にも"恋人"だなんて可笑しな所に収まってしまった自分達だ。少なくとも潔を最も大切に思っているのは嘘ではない。
そうで無ければ、他人とこうして帰郷するタイミングを合わせるだなんて真似は絶対にしないだろう。
ましてや凛がフランスのP・X・Gに所属しているのとは違い、潔はドイツのバスタード・ミュンヘン所属だ。
わざわざ長いオフの度に潔をドイツまで迎えに行ってから、互いの実家に半々の日程で帰る為に日本に向かうのは、もはや毎年の恒例行事と化していた。
面倒くさがる凛の連絡先をしつこく聞いて連絡してきたのも、先に仕掛けてきたのも、交際を申し込んできたのも全て潔からだ。
凜が自覚しているくらいに無愛想な所も全てひっくるめて、仕方が無いと笑っているのは潔だからだ。
だからこそ、時間をかけてゆっくりと凛は行動で示す事にした。
触れるのを躊躇うように揺れていた手を掴んだのも、『お前の事が分からない』と逃げかけた潔の唇を塞いだのも、超越視界を繰り返していく内に徐々に摩耗していくと知った肉体を抱きしめたのも。
近くに居るとどうしようも無く苛立って堪らないのに、その青い瞳が他の人間を見るのが許せなかった。
離れてしまえば楽になれるのを分かっていたのに、離れたらもっと深くぬかるんだ闇に沈む未来を予測出来てしまった。
「凛」
学生時代から呼ばれ続けた名前。それに顔を上げると、凛の手元を指さして微笑んでいる潔が居た。
「アイス、とけちまうぞ」
仕方ねぇ奴、とでも言いそうな顔をしている潔の顔が昇ってきた朝日によって眩しく映る。こんなに近くに居るのにも関わらず、輪郭が滲んでいた。
グッと腹に力を込めて、手に持っていた残りのアイスの欠片を一気に口中へと押し込む。
残った木製のバーには『あたり』の文字が無機質に印字されていた。
こんな所でくだらない運を使った。幼い頃に兄貴に言われた言葉を思い出し、それを衝動的に海に投げ込みそうになる。
だが、凜がそれを行動に移す前に、ゴソゴソと右手でジャージのポケットをまさぐっていた潔がスマホを取り出す。
そのまま、迷い無く凜の傍に更に近寄ってきた潔がスマホのカメラを起動して、器用にそれを横向きへと持ち替えた。
インカメラへと変わっている画面には凛の肩先に頭を預けた潔と、近しい人間ならば察せるくらいの困惑の表情を乗せた凛の顔が映っている。
逆光になるかならないか。ギリギリのラインでスマホを構えた潔の意図が未だ読めない凜が、写真など撮られたくないと言う前に、画面の中の潔の唇が動いた。
「りん」
普段は年上ぶりたがる潔のねだるような囁きに、凜はピタリと動きを止める。
それを見計らって、カメラのシャッターは切られ、一枚のツーショット写真が潔のスマホに残された。
写真が消されるのを恐れたのか、すぐにポケットの中へとスマホをしまい込んだ潔の様子を凛は窺う。
凜が余り写真を撮られる事を好まないのを、潔は知っている。
群衆から向けられる好奇の眼差しを通したカメラや、パパラッチからの隠し撮りだけではなく、基本的に写真というモノを凜は好まなかった。
戻れない過去をいつまでも写し取って変わらないままにそこにあるから嫌なのだ、と昔撮った冴との写真を潔が見つけた際に伝えた筈だが。
「……"糸師凛"と一緒に写真を撮れる機会なんて、もう中々無いだろ」
勝手に凛の思考を読んだらしい潔がそう呟く。その声は確かに寒さではない震えを帯びている。
瞬間、自分でも予知出来ないくらいの速さで凜は隣で勝手に何もかもを諦めたような顔をした"恋人"を強く抱きしめていた。
もごもごと胸元で文句を言っている潔の言葉が耳に届く前に、言わなければならない事がある。
いつもコイツはそうだった。何もかも見透かした顔をして、高みの見物を気取りたがる。
悲劇のヒーローなんて役柄を与えてなどやるものか。そんなものはクソくらえだ。
「テメェ、舐めてんのか。潔」
「っちょっと、凛、……なに……」
「殺されてぇのかって言ってんだよ。お前が"エゴイスト"なのはとっくの昔にバレてんだぞ」
絶対に離してなどやるものかと抱きしめる力をさらに強めた。
息が苦しいのか胸元を叩く腕に力が籠っているが、その程度の力で止められると思うのが間違っている。
「仮に"ストライカー"じゃなくなっても、お前のエゴは止まらないだろうが。何をふざけた事抜かしてんだ」
「……だって……俺、……わかんねぇよ……サッカーが無くなったら、そういう繋がりが無かったら……お前……」
俺と一緒にいてくれるの? と潔が言い切る前に、噛み付くようなキスを落とす。
実際に噛み付く勢いだったからか、まるで初めてキスをしたあの日と同じく、微かに歯がぶつかりあった。
サッカーと冴以外どうでも良かったのに、初めてのキスもセックスも、恋や愛なんてぬるい感情も、全部全部奪った上で植え付けたクセに、今更そんな事を問うなんてコイツは心底どうかしている。
たっぷり一分は口づけて、緩やかに顔を離す。甘ったるい味とほんのわずかな鉄の匂い。じっと潤んで見つめてくる瞳は、冬の海の色に似ていた。
「……引退しようが何しようが、お前が俺の一番傍に居るのはもう決まってんだよ……」
一度、言葉を途切れさせる。これまで行動で示してきたつもりだったが、こんな場所で、まさかこんな話をする羽目になるとは思ってもいなかった。
それでも伝えなければならない事が世界にはあって、気合を入れるように深く息を吸い込む。
「潔」
ピッチの上では神にでもなった顔をして、全てを見透かしている男がフィールドから一歩外に出ててみれば、鈍感で誰からも愛される気安い人間に様変わりする。
年齢を重ねれば変わるかと思っていたが、潔世一という男は"世界一のストライカー"と呼称されるようになってからも人間性は然程変わらなかった。
十六歳で潔に出会ってから、凛の人生は文字通りぐちゃぐちゃになった。
それなのに、今になってあっさりと離れるのを容認した顔をするなど、許される筈も無い。
「お前が俺の人生をめちゃくちゃにしたんだから、責任取って、残りの人生も全部寄越せ」
「えぇ……スゲェ事言うじゃん……」
「当たり前だろうが。……それくらい重いモンをテメェは引っ張り出したんだから、さっさと覚悟決めろ」
肌寒かった筈の体が微かに熱くなりつつあって、唖然とした顔をしている潔の能天気な返事にイラつく。
一体この男の中で、どういう人間だと思われていたのだろうか。それは後程ゆっくりと問い詰めればいい。
段々と日が高くなってきたのもあって、そろそろ街も動き出し始めるだろう。
外を出歩く際、必要以上に人の目を気にしなければならなくなったのは、世界で戦うようになってから唯一の弊害だった。
────だからといって、凜がしたい行動を制限する事はありえない話だが。
抱きしめていた体を離し、空いたままの右手を掴んで歩き出す。
その動きに戸惑っている潔に、ざまぁみろという気持ちのまま、凜は囁いた。
「帰るぞ。……こんな所で体冷やしすぎて風邪でもひかれたら困る」
「……お前……本当に……」
「なんだよ」
「……大人になったなぁって、思ったりした」
「うるせぇ。年上ぶるな、バカ潔」
三十路も過ぎた男に言うセリフではない。だが、いつでも潔は凛を子供扱いしたがる。
それに甘んじていた所が凜にもあるにはあったが、今日くらいは大人しく甘えておけばいいのだ。
そういえば手に持っていた棒を忘れていた。どこかで処分しなければと翳したタイミングで、大人しくついてきた潔が手元を覗き込んでくる。
「当たったの凄いじゃん! ……それってさぁ、期限とかあんのかな」
「……さぁ」
「じゃあ、次来る時まで取っておこうぜ。どうせまた直ぐ来るだろうし」
「あぁ?」
「諸々落ち着いたら、ちゃんとご挨拶しにこなきゃだろ? 『息子さんを俺に下さい』って……あれ? 違った?」
当たり前のように笑ってそう言った潔に、凛の動きが一瞬だけ固まった。
そうして、ゆるりと動き出した凛の指先が潔の指の股を通って、絡む。
普段の凜では絶対にありえない露骨な動きに今度は潔が止まるが、目の前に差し出された棒へと視線だけは動いた。
「じゃあ、お前が持っとけ。失くすんじゃねぇぞ」
「……おう」
潔の手の中で揺れる二本の棒と、コンクリートで舗装された地面に伸びる影が寄り添い合う。
嬉しそうに隣で笑う潔に、もしかして全てこの男の掌の上だったのではないかと凜は何となく感じ取ったが、今更な話だと握った手をジャージのポケットへと引き寄せて一緒くたにしまい込んだ。
引退発表と共に、暫く心身の療養に努めると宣言した潔と、P・X・GのFWとして名を馳せている凛がサンジェルマン通りのカフェにてランチをしている一枚のツーショット写真が、潔の管理しているSNS上にアップされる。
写真に写った二人の左手薬指には揃いの銀の輪が嵌められており、世界中を驚かせ、トレンド一位を飾るのはこの日から約一年後の出来事だった。