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    凛潔/彼氏力高めの凜とダメな日の潔

    月とカンテラ すぐかたわらで横たわっていた凛が起きた事で上からかる負荷が変わり、ベッドのスプリングが軋む。
     その微かな音を寝起き直後の気だるさの中で聞き取った潔は、普段とは異なり、えてぬくい布団の中にさらに顔をうずめた。
     パリ近郊の高級住宅が立ち並ぶ通りに面するアパルトマン。潔と凜が共に暮らす為、このアパルトマンの最上階に位置する一室を借り始めたのは二年前の冬からだった。
     借りた部屋は家賃がそれなりに高価なのもあって、男二人で暮らすのに申し分ない広さを有している。
     特に広く取られた寝室に置かれたベッドは、体格のいい凛と潔がどれだけ寝返りをしても互いに文句が出ないキングサイズ。
     しかし、その割には潔と凜の寝る距離が近いせいでシーツが乱れているのはいつも中央部分ばかりだった。
     ぬくまったベッドの中にうずめていた顔を少しだけ出した潔は、薄がりの中、肌当たりの良いパジャマから黒いジャージへと手早く着替えていく凛の後ろ姿を見遣る。
     凜と潔が着ているパジャマは青い監獄ブルーロックで出会った仲間である蜂楽と千切からの贈り物だった。
     凛には濃い青、潔には淡い緑。"新婚祝い"だとリボンをかけた箱で渡されたそれを忌々しそうに受け取った凜は、なんだかんだ良い品であるのを理解してからは頻繁ひんぱんに着ている。そして当然ながら、潔もこのパジャマは着やすくて愛用していた。

     カーテンの隙間から射し込む陽光で凛の姿がぼんやりと浮かび上がっている。
     日本人にしてはスラリとした長身と、鍛え抜かれたアスリート特有の筋肉の付き方をした凛の背中を見つめながら、潔は今日が"非常にダメな日"である事を察した。
     体調不良というワケでは無く、ただただ何もしたくない無気力な日。
     "世界一のストライカー"を目指し続ける潔にとって、日課となっている凛とのランニングをさぼりたくなる時点でかなりの重症だ。
     起きようと指先を動かすものの、やっぱり掛け布団をまくるのも面倒で困ってしまう。
     設置されているセントラルヒーティングも正常に稼働しているものの、それでもパリの冬は例年通り寒かった。
     さっさとジャージに着替え終わった凜がベッドの方へと振り向き、目元までを布団から出していた潔と目が合う。
     特に驚いた様子も見せなかった凜の反応に、やはり起きている事には気が付いていたのだと、潔は合った目を反らす事はしなかった。
     「……起きねぇのか」
     「んー……」
     起きて早々に二人で着替えて軽く身支度を整え、近場を三十分ほどランニングするのがいつもの流れだ。
     いつまでもベッドから起き上がらない潔に、怪訝けげんそうな顔をした凜がベッドに片膝を乗せて近づいてくる。
     少し跳ねた毛先とわずかに眠たげな瞳を縁取る長い睫毛の影は、潔を含めた極少人数しか知らない凜の気の抜けた姿だった。
     プロのフットボーラーとして出来る限り規則正しい生活を送る事を心掛けている潔と凛の寝起きは悪くは無いが、昨夜は久々の長期オフにかこつけて回数を多く体を重ねたのもあるのだろう。
     それを言い訳にするほどのぬるい覚悟でストライカーをしてはいないが、どれだけ規格外の英雄エゴイストだと言われようとも、一介の人間に過ぎない。
     潔の反応の鈍さに片眉を上げた凜が手を伸ばし、黒髪をくように撫でる。
     こんな風に糸師凜が潔世一に触れるのを知っているのも、これまた世界でごく限られた人物だけだった。
     「熱は」
     「……ない」
     「腰か」
     「違う。……ただ、……あー……そういう気分じゃないだけ」
     「……そうかよ」
     ぶっきらぼうながらも、髪を撫でる手付きは労わる色を秘めている。
     いつでもどこでもサッカーの事を考えている自分たちの中で、日々のルーティンをこなす気になれないというのは一年に一度あるかないか。
     『そういう気分ではない』という潔の言葉に凜も覚えがあるのかそれ以上の追及は無いまま、もう一度だけ潔の頭を撫でて凜は素早く寝室から出ていった。

     己の自堕落さに凜を付き合わせる気は端から無かったが、変わらない日常を送ろうとする凜に焦りを感じなくも無い。
     "世界一"になる為には朝起きてから夜眠りにつくまで一切の妥協を許さず、時間を有効に使うべし。潔が目標としているノアから直接伝えられた一番大切な金言だった。
     それでも、今日くらいは良いだろう。気が乗らないものは仕方が無い。
     クワリ、と小さな欠伸をひとつだけ零した潔は布団を頭からかぶり直す。
     まだほんのりと凜の眠っていた場所には温もりが残っている。それを逃さないように、足先を丸めなおし身を縮こませた。
     いつもなら広さを感じないベッドが無性に寒々しく感じるのはあまり良い傾向ではないが、眠ってしまえばきっと元に戻るだろう。
     薄手の遮光カーテンを開いていかなかった凜の優しさに感謝しながら、潔はゆるやかに瞼を伏せた。



     日本サッカー界で最もイカれた実験と称された青い監獄ブルーロックプロジェクトが無事終了し、潔を含めた初代青い監獄ブルーロックメンバーはそれぞれに磨き上げた武器を携えて今度は世界へと羽ばたく事となったのは随分ずいぶんと前。
     手始めに自身の最も敬愛してやまないノエル・ノアの所属チームであるバスタード・ミュンヘンに入団した潔は、そこで多くの功績を残した。
     青い監獄ブルーロックの"申し子" あるいは、神の目を持つ支配者ゲームマスター──そんな仰々しいくらいの名で呼ばれ、それに値する活躍をせ続けてきた。
     だからこそ世界は潔を求め、その才能をたたえては、毎試合これ以上無い程に彼のプレイに熱狂する。
     民衆を沸かせる潔に引き摺られるように潔の同期と言われるメンバー達も、それぞれに名をとどろかす実力者として次世代のサッカー界を牽引けんいんしていた。
     そんな中、バスタード・ミュンヘンにて名を知らしめた潔がイングランド、イタリアのクラブを数年かけて経由し、フランスのP・X・Gへと電撃移籍を決めたのはまだ世間の記憶でも新しい。
     同時に、P・X・Gのエースストライカーとして昨年の最終戦でMOMにも選ばれ、次期ナンバーワンとすら噂される糸師凛との関係性についても世界中で取り沙汰された。
     あの青い監獄ブルーロックで喰い合い高め合いながらも抜群のコンビネーションを発揮していた二人が、ついに同じチームメイトとして肩を並べるのだ。噂にならない筈が無かった。
     けれど、潔にしても凜にしても世間から向けられる好奇の眼差しや勝手に語られる不仲説など、心底どうでも良いという感想しかない。

     国境を超える程の距離で離れている間、それとなく互いの近況をネット上の配信やニュースで知る。
     積極的に連絡を取りもしないが、かと言って忘れてしまうくらいには開かないメッセージのやり取り。
     潔から急に送られる日々の他愛ない写真に、試合をリアルタイムで観戦していた凛からの叱責しっせきと考察。それらは青い監獄ブルーロックに居た時よりも遥かに穏やかさを増した文面の作り方だった。
     画面の向こうで潔の調子が悪そうに見えれば、いち早く凜からの暴言めいた心配のメッセージが届いたし、凛が好きそうなゲームや映画を見つけたと潔が送ったおどろおどろしいパッケージの写真は数えきれない程。
     メッセージアプリには青い監獄ブルーロック時代では考えられないくらいに極自然な交流が着々と降り積もっていたが、どちらも直接会おうとは言いださなかった。

     絶対に負けたくない宿敵ライバル。そして、永遠に交わる事の無い平行線。
     互いにそのつもりで居たのに、些細ささいなキッカケでその均衡きんこうが崩れた。
     皆で集まる場で羽目を外し、酔った勢いだとしても、何も思っていなければ触れ合うような事態にはならない。
     『お前が近くに居ないのは、張り合いがない』なんて"ぬるい"言葉を発するような状況にはならない。
     たった一度の過ちにしようにも、過ちなどという狭小な枠には到底しまい込めず、潔も凜もそこでようやくわざと目を背け続けてきた自分たちの関係に世間で通りやすい名をつける事にしたのだった。
     しかしなから"恋人"になったとは言え、そばに居たら安寧を得るのかと問えば凜も潔も首をかしげる。
     だが、傍に居る事に最も疑問を持たない相手は誰かと問われれば、二人は迷いなく相手の名を上げるだろう。
     とても長い月日と迷いを重ねて導いたその関係性は、恋人になった後も途切れる事なく続き、そうして潔のフランス移籍によって収まるべきところに収まった。
     サッカーに関する事だけではなく、どこか思考の似通った潔と凛の二人共が、いつかはこうなるだろうと完璧に予測し実行に移したからだった。

     □ □ □

     「おい」

     本日二度目の凜からの声掛けに、夢と現実の狭間を行き来していた潔の意識が緩やかに浮上する。
     もぞもぞとシーツの波間から顔を覗かせれば、流石に開かれたカーテンの向こう側から温かな光が室内へと射し込んでいた。
     ベッドの横に設置されたサイドテーブルの上にある電波時計の時刻は正午を回った辺り。
     想像していた以上に眠ってしまったらしいと、眠り過ぎていっそダルくなった四肢を広い空間の上で伸ばした潔は、足元側で呆れたような顔をしつつ大きめな盆を持っている凛の姿を見つけた。
     潔が見た時にはジャージ姿だった凛は、とっくに部屋着のデニムと薄手の黒いタートルネックニットに身を包み、跳ねていた毛先はキッチリと元の位置に収まっている。
     タートルネックがつくづく似合う男だなぁ、なんて感想を思い浮かべた潔に向かって、凜が目だけで起き上がれと合図した。
     「んぅー……、寝すぎた……」
     「マジで何時間寝てんだよ」
     「……わかんね……まだ寝れそー……」
     その合図に気が付きつつも、潔は未だに全身が"面倒くさい"という感覚に満たされているのもあって、何とか上体だけを起こしてベッドの上で胡坐あぐらを掻いた。
     かつての仲間である凪が口癖のように言っていた『めんどくさい』のセリフが口から飛び出そうになるが、発言したら真実になってしまいそうな気がして、ヘラリと笑みだけを浮かべる。
     見慣れたその笑みに眉をしかめた凜が、胡坐あぐらを掻いている潔の前に持っていた盆を置く。
     マットレスは固めにしてあるのもあって、乗せられた盆は沈む事も無く、その上に乗っている品は安心して眺められた。

     白いワンプレート皿の上に乗ったクロワッサン。温め直されたばかりらしいサクサクの生地からは香ばしい小麦の匂いが漂ってくる。
     そのクロワッサンの近くにはカットされたサラミと、綺麗に焼かれたオムレツが乗っており、軽く粉チーズとフレンチドレッシングの振られた葉物類が全体の色どりを明るくしていた。
     ワンプレートの横には潔が愛用しているグリーンのマグカップに入ったカフェオレと、艶やかなジャムを落としたヨーグルトの小鉢とカトラリーが添えられている。
     これだけ見ればお洒落なカフェで出てくるモーニングそのものだ。
     それを無言で差し出したこの家のシェフは、本物のカフェ店員とは違って愛想はあまり無かったが。
     「わざわざ作ってくれたのか? ありがとな、凛」
     「自分が食うついでに作っただけだ」
     もう昼も過ぎているのもあって、それが凜の嘘であるのは簡単に見抜ける。
     午前の自主トレをした後の凜はこの程度の軽い食事量では到底満足できないからだ。──だからこれは、全部自分の為の物。
     そんな凛の優しさが詰まったブランチに潔は無言で両手を合わせてから、早速皿の上で美味しそうな気配に満ちているクロワッサンに手を伸ばした。
     フランスに来てから凛と一緒に近所のブーランジェリーは何軒か食べ比べをしたのだが、このクロワッサンはどの店舗の物だろうか。
     そう考えながら潔が噛み付いた途端、口の中いっぱいに広がるバターの風味といくつもの層が丹念に重ねられた生地が満足感を高めてくれる。
     アパルトマンから少し離れた場所ではあるが、人気店であり、潔が一番好みだと言った店の味がした。
     「これあのパン屋さんのクロワッサンじゃん! 行ってきたのかよ」
     「よくわかるな、お前」
     「俺ここの店のクロワッサンとバゲット一番好き。店混んでた?」
     「普通」
     そう言ってベッドに腰かけた凜の視線を受けながら、手に持ったフォークでオムレツをつつく。
     ぷるぷるとした黄色い表面を割れば、とろりと美味そうな半熟具合。潔が凜と一緒に生活を始めて改めて知ったもののひとつは、凜が料理上手だという事だった。

     シーズン中は試合に集中する為に、クラブチームに依頼をして週三回ハウスキーパーを頼んでいる。
     丁度、潔の母と同年代のヴィクトリアという名のハウスキーパーは、いつも朗らかで優しい人だった。
     クラブチームから直接依頼されているのもあって当然ながら口も堅く、凛と潔が同じ家に住んでいるのを知っているのは関係者以外では彼女だけだ。
     彼女は小柄な体型に似合わず、非常にパワフルで仕事熱心な女性だった。
     部屋の掃除や洗濯だけではなく、栄養バランスの取れた食事の作り置きに加えて、必要とあれば低カロリーなデザートも用意しておいてくれる完璧すぎるくらいの人。
     だから普段はヴィクトリアに食事の諸々はお願いしている状況であったが、自分たちがオフシーズンに入った際はお休みを取って貰う事にしていた。
     食べ盛りはとうに過ぎたとは言え、スポーツ選手二人分の食事を一手に引き受けるのは重労働だと、凛も潔も一人暮らしを数年していたのもあって自覚していたからだ。
     だから、オフシーズンに家にいる時はヴィクトリアが用意してくれた作り置きプラス自分たちで食事を作らなければならない。
     交代制でやろうと最初に決めたものの、凛の作る料理はどれも丁寧かつ美味しい。その内、オフシーズン中の食事は凜が全て引き受ける事となっていた。

     眠っていただけなのに一度食物を口に入れれば腹が減っていたらしく、凜が作ってくれた相変わらず美味い料理をる手は止まらない。
     潔はあっという間に白いプレートに乗った物を余さず食べきると、今度は小鉢に手を伸ばして小さなスプーンでヨーグルトにかかっている赤紫色のジャムを混ぜ溶かした。
     「このジャムはヴィクトリアさんお手製のやつだろ。苺と……」
     「クランベリーとブルーベリー。……お前しか食わないのに作って貰ってんだから覚えとけよ」
     「だっていっぱい入ってるから」
     「三つだけじゃねぇか、記憶力雑魚」
     「うっせー」
     ほのかな甘さの中にとげとげしくは無い酸味があるジャムは、ヨーグルトだけではなくパンにもよく合う。
     それも食べ終えた潔はようやくマグカップに手を伸ばすと、少しぬるくなったカフェオレで喉をうるおした。
     苦い物は嫌いではないが、試合の無いオフに飲むのなら砂糖とミルクを多めに入れたカフェオレを潔は好む。それを熟知した味にホッと息をついた。
     普段ならベッドの上で食事をするなんて怠惰たいだな事など絶対にしないが、それを許されている時点で相当甘やかされている。
     レースカーテンの向こうから透ける光で、ジッと潔を観察している凛のターコイズブルーがより深みを増す。
     多くは語らずとも心配されているのが分かるその目線が、なんだかこそばゆかった。
     「潔。お前、まだダラけんなら今度はソファー行け」
     「……なんで?」
     「なんでじゃねぇよ。お前が寝てるとシーツ変えられねぇだろ」
     複数回に分けてマグカップを傾けていく内に、底が見え始める。そのタイミングで黙っていた凜が不意に声をあげた。
     料理が凛の担当になったのと同じく、オフシーズン中やちょっとした小物類の洗濯は潔の担当になっている。
     昨夜は風呂に入った後に致したものの、シーツが汚れていないとは言い難かった。薄々それに気が付きつつも、眠い方が先にきてしまっていたのだが、凜はそんな潔の思考も全てお見通しらしい。
     「やってくれんの」
     「このままにしておく方が嫌だからな」
     フン、と鼻を鳴らした凜がベッドの上から盆を持ち上げると、またもや目だけでマグカップを乗せろと合図する。
     安定感のある盆の上、空になったマグカップの青がきらりと光を反射して滑らかな表面がやけに鮮やかに映った。
     そのまま潔には目もくれずに盆を持った凜が寝室のドアを通り抜けて、リビングへと戻っていく足音だけがする。
     開かれたままのドアの向こう側に見えている、天井の照明が灯る廊下に張られたアイボリーカラーの壁紙。
     どうやら食べた後は潔が片付けるルールすらも今日は無しにしてくれるらしい。
     ────やっぱり、ジャムなんて比較にならないくらい甘やかされている。
     普段以上の優しさに当てられて、重くなっていた頭と体が若干ではあるが楽になっていく。
     どれもこれも凜が潔の事を考えているのが分かるからこそ、胸が温かくて、心地いい。
     潔は胡坐あぐらを掻いていた足を崩し、固くなった肩をほぐす為に両腕をゆるゆると天へと突きあげた。

     □ □ □

     寝室が広く取られているこのアパルトマンは、リビングも同様にかなりの広さを有している。
     この物件を選んだのはフランスに住んで長い凛だったが、潔もいくつか条件を出した。
     近くに走りやすい場所があり、車が無くても買い物がしやすい店がある事。そうして、リビングには大きなテレビを置きたい。
     潔が提示した条件は凜も納得の条件ではあったらしく、それらの点に関してはおおむね潔の希望通りになった。
     日課だけではなく、潔が何かを思案する時は出来るだけ外に出て新鮮な空気を吸いたくなる。
     また、仮に凛と喧嘩をしても、自分が外に走りに行って、凜が宅内に作ったトレーニングルームに籠れば大体落ち着くのが分かっていたのもあったからだ。
     一緒に住むにあたって周囲の友人たちからは、祝福と心配が半分ずつ。後はちょっとした好奇心がひとさじ。
     潔はともかく、凜が他人と一つ屋根の下で暮らしていくイメージが湧きにくいのが一番の原因なのだろう。けれど潔にしてみれば、青い監獄ブルーロックで特に問題も起こさず生活していた時点でそんなに心配はしていなかった。
     そして、凜本人に言うと嫌がられるが、子供の頃から同性の兄弟が居て一緒に暮らしていたというのは大きい。
     現に、凜は潔よりも余程この"結婚生活"に適応していた。
     
     「うお! ……それよく避けれるな! すっげぇ」
     「当たり前だろ。舐めんな」
     簡単に顔を洗って歯を磨き、凜の命令通りにパジャマのままソファーへと移動した潔は特に見たいものも無く、ソファーの前に置かれた大きなテレビをぼうっと眺めていた。
     そんな潔を気にもせず食器を洗ってからシーツを洗濯機にねじ込み、張り替えも終えた凜が当然のように潔の隣に座り、テレビを奪い取ってホラーゲームを始めたのは二時間ほど前。
     最近出たばかりの本作は、アクション要素がかなり強く、初見殺しも多いらしい。
     凜がホラーゲームをプレイする姿を一緒になって眺めるのが増えた潔にも、このゲームの難易度がなかなかの物なのは伝わってくる。
     しかしそんな初見殺しもなんのそので、端から見ていても華麗なコントローラーさばきで敵の攻撃をかわしつつ、バッタバッタと倒していく凜のプレイは潔にとって午後の情報番組よりも断然面白かった。

     凜が操作しているゲームの主人公は、勝気な表情が魅力的な赤髪の女性エージェント。
     とある殺人及び麻薬密売事件捜査の為に、作品の舞台であるアメリカ北部の小さな村へ密かに派遣されてきた設定だった。
     しかし村にはマトモな人間はひとりもおらず、謎の薬物に狂った住民や、この村の権力者達の命令をけて動いている殺人鬼がうろついている。
     あくまでも捜査という名目上、好き勝手に住民を殺してしまうワケにもいかず、かと言って敵は主人公を倒す為に村中に罠を張り巡らせ襲い掛かってくるのだ。
     最終的な目的としては、この村を支配している権力者の正体を暴き、大量快楽殺人犯を捕まえる事。
     凜がはじめる際に難易度をあげたのもあって、小さなミスが命取りになる。
     その一か八かのヒリつく感覚が二人の間にも巡っており、恐怖よりも興奮の方が勝っていた。
     「……ッチ」
     「ここにきてまーた謎解きかよぉ」
     舌打ちをした凛と潔が呟いたのはほぼ同時だった。
     村外れの教会地下にある隠し通路の奥、薄汚れた室内の天井に設置された蛍光灯がチカチカと瞬いている。
     秘密基地めいたその場には木製のテーブルと旧式のノートパソコンがあり、壁面には幾つかのマークが記された村の地図が貼り付けられていた。
     この隠し通路に行くまでに敵の襲撃を何度も受けて、主人公はボロボロだ。
     ノートパソコンにはロックがかかっており、三回失敗すれば警報が鳴り、敵が集まってくるとテーブルの上にはご丁寧にメモが残されている。
     恐らくロックを解除するには壁面の地図がヒントになっているのだろう。
     凜が黙ったままコントローラーを動かして、主人公を移動させ地図の前に立たせた。
     こういった謎解き要素を凛が苦手としているのを知っているのもあって、潔は大きな画面に映された地図を眺める。
     そして所々欠けた地図に記された図形や文字を見つめ、すぐさまそこに隠された関連性を導き出した。
     「分かったかも! ほら、こうなってるから、……これが正解じゃないか?」
     隣に座る凜の肩に頭を寄せ、届きはしないものの指先で画面を示す。
     それぞれの文字を繋げていくと、ラテン語で『夜光虫』を意味する単語になるようだった。
     そんな潔の行動に特に何も言わないまま目を一瞬だけ動かした凜は、潔の示した文字を頭の中に記憶しつつ、コントローラーを握り直す。
     「お前に先越されんの、地味にムカつくな」
     「ひっでぇ。こういうパズルとか穴埋め問題は俺のが得意なんだから仕方ねぇじゃん」
     ふふ、と軽く笑みを浮かべながら詰めた距離は離さないまま潔が囁き、その間に凜が文字を手早くゲーム画面に入力すれば、無事にロックが解除された。
     そのままノートパソコンの中から次の章に向かう為の重要なキーを手に入れ、室内の探索も一通り終えたのもあり凜が部屋から出ようとしたタイミングで、部屋の隅にあるスイッチに潔が気が付き声をあげる。
     「あ! あそこにスイッチあるぞ、凛! 押さなくていいのか?」
     「……あれか」
     「そう」
     素直に頷いた潔とは対照的に、凛は黙り込んだままだった。
     そんな凜の反応に不思議そうな顔をした潔が微かに首をかしげる。あどけなさを隠しもしない潔を見ていた凜は、おもむろにそのスイッチを押した。
     「うわ、わ! ちょ、っま!」
     途端に鳴り響く警報と共に入ってきた隠し通路が閉じられ、部屋中に毒ガスらしきものが充満する。
     ゲーム内で慌てふためく反応を見せた主人公とリンクしているかのようにソファーで一度跳ねた潔は、そのまま凜の腕へと縋りついた。
     潔が慌てふためく間にも冷静に画面を見ていた凜は、スイッチとは反対方向に現れたレバーを引いてロックされてしまったドアを解除する。
     咄嗟とっさの判断力が無ければ即死してしまうトラップだったのだろう。
     「驚き過ぎだ。マヌケ」
     「だって、めっちゃびっくりしたんだよ」
     縋っていた手の力を抜き、小さく息を吐いた潔の膝を凜が片手で軽くはたく。
     しかしその力加減同様に『マヌケ』と言った凜は柔らかな気配を宿していた。
     「もしかして、凛は分かっててやったのか?」
     「まぁな」
     「なんだよそれ! だったら言ってくれたらよかったのに」
     「言ったらつまんねぇだろ」
     至極当然の事を告げるような表情の凛に文句を言う潔の顔も、語気の強さとは違い本気で怒っているワケではない。
     膝に置いたままの手で叩いた場所を一度だけ撫でた凜はコントローラーを両手で持ち直し、粛々しゅくしゅくとゲームを進めていく。
     扉を抜けた先には警報を聞きつけたのか複数の敵が居たものの、その背後を突いて場を切り抜け、安全な場所へと逃げ込んだ。すると、丁度そこで章の終わりだったのか、セーブ画面へと移行した。
     「一回止める。そろそろトレーニングがしたい」
     「続きは後でやる? 明日?」
     「……気分次第だな」
     「オッケー」
     しっかりとセーブを完了させてからゲーム終了し、凜がソファーから立ち上がる。
     もたれていた凜が立ち上がった事で今度は背もたれに体を預けた潔に、無言で凜は振り向いた。
     潔にとっては、アイコンタクトだけで凜が何を言いたいかを察するなどゲームの謎解きよりも遥かに簡単すぎる問題だ。
     「……正直、まだ本調子じゃねぇかも。でも、朝よりはマシかな……」
     いつもの潔なら、凜がトレーニングをすると言えば自分も真っ先にすると言う。
     けれど、朝からの気だるさを引き摺っているのもあって、トレーニングに付き合うとは言わなかった。
     潔の言葉に微かな頷きだけを返した凜は、あっさりと足を痛めない為に床に敷かれた厚手のラグを踏みしめリビングのドアへ向かっていく。
     その足取りは今朝と同じで一ミリの迷いもなく見えたが、ドアの前でたった今思い立ったかのように急に凜が振り返った。
     「今日の夜は鍋だ」
     「鍋?」
     「……俺が食いたくなった。文句は言わせねぇ」
     「文句なんか言わねぇよ。そもそもお前の作るもんは全部美味いし」
     いきなりの宣言に虚を突かれたものの、すぐに笑ってそう返した潔はさらにソファーの背もたれに身を預ける。
     凜の作る物が全て美味いという言葉に一切の嘘偽りは無い。
     その言葉にどこか満足げな顔をした凜はすぐにリビングから出ていき、その後ろ姿を見ていた潔は完全に脱力して体重をソファーにかけた。
     この家に引っ越すと決めた時に二人で選んだ幅広な革張りのソファーは、安定感を失わずに潔の体を包み込んでくる。

     何故、凜がいきなり鍋をしたいと言い出したのかを潔は察していた。
     潔と凛がフランスで同居すると決めてから、改めて潔の実家に凛を連れて行った日。潔の両親は珍しく緊張気味だった凜を持ち前の明るさ全開で歓迎した。
     その日は奇しくも雪が降るかもしれないと言われるくらいの寒い日で、皆で出汁の利いた海鮮鍋を食したのを今でもよく覚えている。
     遠い異国の地で一人暮らしていた息子が久々に顔を出したかと思えば、青い監獄ブルーロックで出会った元チームメイトと生涯を共にする覚悟を伝えにきた事に二人は驚いていたものの、笑って受け入れてくれた。
     『言ったでしょ、私たちはいつだって世っちゃんの味方なんだから』と微笑んでくれた二人の姿を見て腹底から湧き上がった感動と、隣に座っていた凛に握られた指先の温もりをきっと忘れる事は無いだろう。
     だから、芯から冷えるような寒い日や、どちらかの調子が悪い時に二人が自然と選ぶメニューは決まっていた。
     本当に今日は至れり尽くせりで罰が当たりそうなくらいだと、少しずつ日が暮れ始めている窓の外を見ながら潔は一人苦笑した。

     □ □ □

     画面の中で主人公が華麗に窓枠を乗り越え、持っていたハンドガンに弾を補充する。滑らかなリロードで込められた弾薬の残りはそこまで多くは無い。
     それを気にするでもなく通路を進んでいくゲーム内のキャラクターを見ながら、潔はマグカップに口をつける。
     朝飲んだカフェオレよりかは砂糖控えめなそれを喉元で感じつつ、潔は一体次はどんな仕掛けが来るのかと、もはや期待すら覚えていた。
     トレーニングを終え、宣言通りに凜がこしらえてくれた魚介類をふんだんに使用した鍋を夕食時に囲んだ二人は、食後のコーヒータイムのお供にホラーゲームの続きをプレイする事になった。というよりも、続きが気になった潔が凜にねだったというのが正しい。
     しかしそんな潔のおねだりを受け入れたのは、凜もまた、ストーリーの続きが見たかったからだ。

     村の中央部にある権力者の建てた豪邸へと近づけば近づくほどに、罠と敵の数は増えていく。
     刹那せつなの判断が命取りになる筈なのだが、凜は特に難しそうな雰囲気も出さずに再び現れた敵の足を撃ち抜き、近くにある小屋へと隠れた。
     小屋のドア裏には【夜光虫】の暗号が刻まれており、ここが安全である事が分かる。
     ストーリーを進めていく内に、【夜光虫】というのは、おぞましい状況になってしまった村をどうにか内部から変えようとしていた革命派の組織名だったと判明したのだ。
     ゲーム中の主人公が体力をアイテムで回復しているのを見ながら、潔はぼんやりと思った事を口に出していた。
     「凛ってさ、本物の夜光虫は見た事あんの?」
     「あ?」
     「お前ん家、海の近くじゃん」
     隣に座る凜の横顔を見遣れば、遠い過去を思い出すように左上を見つめている。
     画面からはクラシック調のBGMが流れており、物憂げな雰囲気を漂わせている凛と妙にマッチしていた。
     「……ガキの頃」
     「うん」
     「兄貴と真夜中に親父が持ってたキャンプ用のカンテラを持ち出して見に行った事がある」
     「へぇ……ちゃんと見れたん?」
     回復をし終えたのか、画面に視線を戻した凜は小屋を出て、村の深部へと侵入していく。
     それでも話しかけるのを止めなかったのは、凜なら問題なくゲームと会話の両立が出来るのを分かっていたからだった。
     薄暗い画面の中で、近くにあった塀に沿って移動していくキャラクターを見ているらしい凜の唇が一瞬だけ迷ってから、静かに開かれる。
     「見るには見れた……が、あん時はあの青さが綺麗と言うよりは不気味に思えた。だから兄貴が持ってたカンテラと、空に浮かんでた月の方が記憶に残ってる」
     「そんなに青いんだ」
     「青いとかよりも、あの光のひとつひとつが虫みたいなモンだって思うとキモイだろ」
     「それ想像したら確かにヤバいな」
     ハハ、と笑って、凜の語った過去を潔は脳内でイメージしてみる。
     真っ暗な海に立つ波の満ち引きに合わせて青い光が寄せては返していく。
     その海の上空には淡い光をたたえた月が昇っていて、砂浜には当時からしっかり者だっただろう冴の隣で怯えて泣き出しそうな顔をしている子供時代の凛。
     冴の持っている小さなカンテラがゆらゆらと風によって揺らいで、その度に凜が冴と繋いだ手の力を強める。それを見て、仕方のない奴だとひっそり微笑む冴の姿。

     凜がサッカーをする理由となっていた冴との確執はこじれに拗れたものの、現在は完璧とまではいかないがほぼ解決していた。
     それでも凜が冴との思い出を語るのはまだまだ少ない。一度全部捨てようと決心して、それこそ血を吐くような思いで上り詰めてきた凛にとって、子供の頃の楽しかった記憶は思い出すだけで小さな棘となって心に微かな傷をつけるのだろう。
     だからこそ潔は無理に凛から過去の話を積極的に聞き出そうとはしなかったが、こうして凛自身から語られる冴とのエピソードを聞くのは凜をさらに知れたような気がして好きだった。
     「フランスでも見れんのかな」
     「さぁな……ドーヴィルにでも行けば見られるんじゃねぇのか」
     パリから一番近い港町であり高級リゾート地の名を出した凜は、もうこの話題にさしたる興味も無さそうにそう答える。
     フランス歴が長いとはいえ、凜は一人でリゾート地に行くタイプの人間では無かったし、そもそもフランス中に顔が割れているのもあって自宅でゆったりと過ごすのを好んでいた。
     オフシーズンにどこか旅行に行くとしても実家に戻ったり、過去に潔が居たドイツやイングランド行きのチケットがご丁寧にも潔自身から送られてくるものだから、もっぱらオフで出かけるのはフランス以外の土地の方が多かった。
     それを踏まえた上で、潔は持っていたマグカップを目の前のローテーブルに置くと、ソファーの上に両足を乗せて体育座りの形にする。
     流石にこれを問うのは自他ともに認めるエゴイスト潔でも、緊張するからだった。
     「じゃあさ、今度、冴も誘って三人で遊び行く?」
     そう聞いてみたのはちょっとした出来心だ。潔が凜を両親に紹介したのと同様に、凜の両親と冴には自分達の関係を知らせていた。
     青い監獄ブルーロックの頃から変わらずにレ・アールにて活躍している冴をフランスに呼び立てるのは普通ならば難しいだろうが、凜と潔の誘いなら予定を合わせてくれるだろうという自信がある。
     凜はどうしても過去の出来事や冴を大切にしているからこそ、冴に対してだけは目が曇りがちだが、冴もまた、潔からしてみれば十分にブラコンの範疇はんちゅうに入ると思っていた。
     自分が積極的に凛と冴の間に入る事で、二人が屈託なく笑い合える日々が戻って来ればいいのにと、時折そんな風に潔は思う。
     しかしながら、凜も潔もサッカー漬けの日々であり、同じチームになってようやっとオフを合わせてゆっくりと一緒の時間を過ごす事が出来るようになったのだ。
     ましてや冴など忙しすぎて話をする暇も無ければ、凜から連絡を取るとも思えない。
     「三人で綺麗な海を眺めて……夜光虫が居るのかは分かんねぇけど。あとは美味い酒でも飲んだりとかさぁ……楽しそうじゃね?」
     「……お前は下戸だろうが」
     「いいんだよ、あくまでもそういうリゾート的なイメージなんだから野暮な事言うな」
     スンとした空気を纏った凜がバッサリと切り捨てるが、あくまでもイメージはイメージだ。
     そもそもが、心地よい海風に吹かれながら煌々と輝く月の下で昔のように並んで砂浜を歩く糸師兄弟の姿を見てみたい、という願望を叶えたくなった潔のエゴなのだから。
     下手したら地雷原に裸足で突っ込む真似だと分かっていたが、突如現れた敵の腕を正確に狙い打った凜は画面から反射する光を浴びながら平坦な調子で囁いた。
     「俺からは連絡しねぇからな。お前が聞いて『良い』って言われたら、勝手にしろよ」
     「! よっしゃ、あとで連絡してみる」
     言質は取ったとばかりにニコニコと満面の笑みを浮かべた潔は、そのまま凜の肩に体をもたれさせる。
     その重みを受け止めつつ、ローテーブルに置かれたブルーのマグカップに手を伸ばした凜がコーヒーを口に含んで飲み込んでから呆れたように呟いた。
     「なんでお前がそんなに嬉しそうなんだよ」
     「えー? 別にいいじゃん。……今日はたくさん甘やかして貰ったし? "凛孝行"しないとなって」
     「んなモンいらねぇ」
     凭れた状態から体を動かして凛の腰に手を回し、肩口に頭を擦り付ける潔を一瞥いちべつしてからマグカップをローテーブルに置いた凜は、もう一度コントローラーを両手で握り込むと操作をしだす。
     どちらかと言えば潔からスキンシップを仕掛けにいく事は多いが、ここまで反応が無いのも味気ない。
     ゲームの続きが見たいと言ったのは自分だったが、普段ならもう少し凜からも反応が返ってくる筈なのに、と潔は疑問に思いながらも凜の横顔を見つめた。
     「じゃあ他のがいい? 一緒に風呂入る?」
     「うぜぇ」
     「なんだよ、人が恥を忍んで誘ってんのに」
     「ハァ……そんなに"俺孝行"してぇなら、明日のランニングには付き合え。それでチャラにしてやる」
     わざとらしく『恥を忍んで』と冗談めかして発したセリフに、溜息をついた凜が続けて返してきた言葉を理解するのに数秒時間を要した。
     潔がフランスに越してきてからすぐに朝のランニングを凛と一緒に行うようになったのは、青い監獄ブルーロック時代と変わらずに凛の一番傍で凜が何を考えているのかを理解したかったからだ。
     それに対して凜は特に何を言うでもなく、ついて来るなら勝手にしろというスタンスを崩さなかった。
     でも、今の言葉はどうやって聞いても朝の日課を凜も少なからず悪い時間では無いと思っているというまぎれもない証明だろう。

     昔から仏頂面であまり自分の気持ちを口にしない凜が、思っている事を口に出して教えてくれる瞬間は何度経験しても潔を最高の気分にさせてくれる。
     誰よりもサッカーに対してストイックで、他人にも自分にも厳しい"糸師凜"という孤高の存在が、本当は"良い奴"であり、自分に対してだけは甘いのを改めて知るからかもしれない。
     それに加えて、己の発言の不用意さに気が付いたらしい凜はわざとらしく黙り込んでゲームに集中し始めている。
     こういった反応がいつまで経っても素直になれない年下らしさがあってたまらないのだと、潔はどうにか零れ落ちそうな笑みを噛み殺した。
     「そっか。……うん、……明日は大丈夫そう。ありがとな、凛」
     肩口に当てていた顔を動かし、画面を注視している凛の頬にキスを一つ。
     ちゅ、と軽い音を立てて離れたタイミングで、画面から流れ出すゲームオーバー時のナレーションと音楽が潔の耳に入った。
     冴の話をしていた時ですらも凜はゲームオーバーにならなかったのに、と思う潔の前で乱雑にコントローラーをローテーブルに置いた凜が素早く潔の顎先を手でさらう。
     「ん?!……っぅ……ん、ぁ……、……凛……?」
     呼吸すら奪い去るような苛烈なキスに冷静な思考が搔き消され、腰に回していた指先で凜の服を掴んでえる。
     重ねられた唇からねじ込まれた舌先は、ぐるりと口腔内をまさぐってからコーヒーの苦みを残して引き抜かれていった。
     宵闇の中で輝く夜光虫の光に似た青緑色が目の前で鋭くまたたいて、ついついその美しさに見惚れる。
     怒らせるような真似をしたつもりは無かったが、どうやらご機嫌が一気に斜めになってしまったらしい。
     間近で見る眉根を寄せた凛の迫力に思わず名を呼んだ潔に向かって、凜はさっきまで重ねていた唇から舌打ちを洩らした。
     「テメェは本当に、現実リアルでも無遠慮にスイッチを押してきやがるな」
     「スイッチ……ってなんの話だよ」
     「……本気で分かんねぇのかよ。マジでムカつく」
     顎先を掴んでいた手を離し、未だにゲームオーバーの音楽が流れ続けている画面へと視線を戻した凜がコントローラーを片手で操作してゲームを中断する。
     混乱が続いている潔の髪をもう片手でぐちゃぐちゃにかき乱してからソファーから立ち上がった凛は、普段以上の低音で囁いた。
     「今夜は我慢してやる。……でも明日の夜は容赦しねぇから。覚悟しとけよ、潔」
     ────どうやら自分は本当に危険なスイッチを知らず知らずのうちに押してしまったらしい。
     キスの影響もあって微かに熱を持った体が汗ばんでいるのを理解し、そっと撫でられた髪を両手で整える。
     そんな潔の様子を見ていた凜は小馬鹿にしたように軽く鼻を鳴らすと、それ以上は何も言わずにソファーから離れてリビングから出ていく。
     恐らくシャワーでも浴びに行く事にしたのだろう凛の後ろ姿を見る事が出来ず、そのまま顔を両手で覆った潔はズルズルとソファーの上で横倒しになった。
     キスをしてくる直前に凛が垣間見せた、焦れたような表情が目に焼き付いて離れない。
     一日中感じていた気だるさは、けして凛のせいでは無かったのだが、凜なりにこちらを労わってくれていた上に今夜は我慢までしてくれるのだと言う。唯我独尊を地で行くと恐れられているあの凜が、だ。
     「……別に、我慢しなくたって良かったんだけどなぁ……」
     凛と暮らす日数が増えていく度に、もっともっと凛の事が愛おしくて堪らなくなる。
     青い監獄ブルーロックに閉じ込められた人間は、たった一人を除いて全員の人生がめちゃくちゃになると絵心は言ったが、青い監獄ブルーロックで凛と出会ったあの日から潔の人生はとっくに凛によって狂わされていた。そしてそれは恐らく凛も。
     そんな感情を噛み締めつつ密かに零れ落ちた潔のひとり言は当然ながら凜には届かず、ローテーブルに並んだ色違いのマグカップのぬるまった中身だけが微かな波紋を広げているばかりだった。
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