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    凛潔/セフレ的な二人が山登りしてプロポーズする話

    薄闇に明星 「……山登り、行きてぇなぁ」

     ────出た。またコイツの狂った言動が出たぞ、と耳が拾った言葉に反応しないまま重怠おもだるい体を動かす。
     汗ばんだ肉体に張り付いている、もはや着ている意味の無い白いバスローブの前をさらにくつろげ、ベッド脇にあるサイドテーブルに置かれたペットボトルに手を伸ばした。
     透明なボトルの中で三分の二程度になっている水がテーブルランプの光を反射して、ほのかなオレンジ色に変化している。
     キャップを外して唇に当てたペットボトルから流れ込んでくる水は、当然の事ながら味に違いは無い。しいて言うなら、この数時間の間にぬるくなってしまったくらいだろうか。
     それでも未だに熱っぽさを残したままの肉体には喉を通るそのぬるい水ですら甘く思えた。
     日本でも有数の高級ホテルの一室を取ったのは俺も隣に居る潔もそうだったが、けしてコイツと俺は同室ではない。
     けれど、同じベッドにコイツが寝ている事に何の疑問も持たなくなったのはもう随分ずいぶんと昔からだった。
     「水ちょうだい」
     今度こそ意味が理解出来る言葉を発した潔に、持っていたペットボトルをそのまま受け渡す。
     蓋の開いたままのボトルを乱れたシーツの波間から腕を伸ばして受け取った潔は、躊躇ためらいなく飲み口に唇をつけて一気に残っていた水を飲み込んだ。
     普段よりも掠れた声になっている潔の肌も俺と同じくらい湿り気を帯びており、玉のような汗が二の腕を伝っていく。
     試合中やトレーニング以外でここまで汗を掻くなんて、コイツとのセックスくらいなのもあって吐精後の倦怠けんたい感はいつも激しい。
     さっさとシャワーを浴びてもうひと眠りしたい所だったが、それをさえぎるように飲み口から顔を離した潔が話し始めた。
     「凛は富士山登った事ある?」
     「……正気か、テメェ」
     ほんのり上気した頬に似合わず、もう芯を取り戻し始めている潔の青い瞳がこちらを見つめる。
     ピロートークにしては笑えるくらい雑な話題選びだと思うものの、俺と潔の関係性はどうにも複雑だった。

     俺達は交際しているワケでは無い。
     でも、オフの度にフランスで生活している俺の元に、ドイツに居る筈の潔が来るのが常だった。
     潔世一という人間が俺に抱かれる為だけに、二時間近くかけて国外に飛ぶ程の暇人でないのは知っている。正直、気が狂っているとは思っているが。
     けれど、いきなりこちらに押しかけてきてはフランス観光がてら俺を連れ回す潔に従ってやる俺も、等しく狂っているのだろう。
     朝から晩まで潔の気まぐれに付き合い、フランス歴の長くなってきた俺ですら知らないような場所に連れて行かれる日もあれば、アパルトマンでデリバリーを取って一日中映画鑑賞やゲームをするだけの日もある。
     ハッキリ言ってそれだけならば、問題ではない。潔世一という狂人に付き合わされる俺に非は無い筈だ。

     でも、適度なリラックス状態だったり酒が入るともうダメだった。というよりも酒を入れる事で自分への免罪符にしていた。
     飲食店のテーブルの反対側で美味そうにワインを飲む姿だったりだとか、勝手に俺のアパルトマンに私物を置いて着々と侵略してくるコイツの無防備な顔だったりとか。
     それらがアルコールと混ざり合うと、自分でも解説出来ない方程式となって頭を駆け巡り、気が付けば衝動のままに潔を組み敷いてしまう。
     何よりも最大の問題は、俺の行動を潔が一切咎めない事だ。
     無論、体格差もあるが、コイツは最初から本気で俺を拒否した事は一度たりとも無い。
     他人からは"腐れ縁"だとか"セフレ"だとかいう口にするのもおぞましい言葉で分類されがちなこの関係になったのは、青い監獄ブルーロックを抜け出してすぐ後くらいだった。
     だからもう数年はこんな薄気味悪い状態が続いている。

     「やっと取材も落ち着いてきたし、まだ凛も帰らないだろ」
      持っていたペットボトルを渡してきた潔からそれを受け取りがてら、キャップを締め直す。
      青い監獄ブルーロックが創設された当初の目的であった日本チームのワールドカップ優勝。しくも今回のワールドカップは青い監獄ブルーロックが起こした経済効果や功績が認められ、日本で開催される事となった。
     そうして様々な激闘を制し、二週間前に俺達は目標であるワールドカップ優勝を果たしたのだ。
     金色の優勝トロフィーを潔と共に掲げた時の興奮を、俺は恐らく生涯忘れる事は無いだろう。
     勿論、優勝すると思って全ての試合に挑んだし、負けるなんて気持ちは微塵も無かった。
     だとしても、自分のエゴを貫き通して勝つのはこれまで感じた事の無いくらいに最高の気分にさせてくれたのだ。
     だからその後の余韻に浸る暇もなく襲い掛かってきたインタビューや記者会見にも、俺にしてはかなり優しく接せられた。
     流石に二週間も経てば熱に浮かされたようなサポーターやメディアも落ち着き始め、やっとオフらしい時間を取れるタイミングも出てきている。
     でも、昨日今日はゆっくり出来ると理解して直ぐにこうして潔と夕方から深夜も回ったこんな時間までベッドでもつれ合っていたのだから、やはりどうかしていた。
     「いつ向こう戻るつもりなんだっけ。もぉ実家に顔出した?」
     「来週か再来週辺りには戻る。……実家にはまだだ」
     「そっか。俺も月末くらいには戻るつもりだから、まだ一緒に居られるな!」
     満面の笑みでそう言った潔の顔には一点の曇りもない。
     残りの日数を俺と過ごす事がコイツの中で確定しているという事実に、異論を挟む気力も無かった。

     最もフットボールの熱狂渦巻くワールドカップ決勝戦。あのフィールドの上で不敵に笑って敵も味方も翻弄したエゴイストの姿と、こうして俺の隣で穏やかな空気をまとっているコイツは表面的には別人に見える。
     でも、自分の意思が通ってしかりだと考えているのが"潔世一"という人間の本質だ。
     「いきなり富士山だとハードル高いんかなー。人が多いのもダメだし……もうちょっと地味な山がよさげか」
     「そもそも登山用品なんか持ってねぇだろ」
     「買えばいいじゃん」
     「その為だけに買うつもりか? 無駄に荷物になるのにか?」
     「実家に戻るなら置いておいて貰えばいいんじゃね」
     その証拠に、子供めいた瞳を無邪気に向けてきた潔は俺の文句など全く持って気にしていない。
     ああ言えばこう言うコイツのしつこさは身に染みて知っているのもあって、細い息を吐き出すだけに留めた。
     子供の頃に山に行った記憶もあるが、どちらかと言えば海の方が馴染み深い。
     大体そういった用具を揃えるのだって面倒なのに、わざわざ貴重なオフの期間を使ってまで何故そんな事をしなければならないのか。
     脳内を巡る断りのセリフと理由は大量にあっても、それらが外に出る事は無い。
     「お前が言い出したんだから、全部手配しろよ」
     「オッケー。あとで玲王とかに相談してみる」
     仕方なく吐き出した許容のセリフに、そう返ってくるのすら予想していたらしい潔は満足げな顔をして他の男の名前を出した。こういう所はコイツの悪癖だと思う。

     一気に機嫌が悪くなるのを自分でも自覚しながら、持っているボトルを手の中で遊ばせる。ちゃぷちゃぷという水音が室内に響く中、沈黙を破ったのは潔の方だった。
     「凛」
     「……んだよ」
     「なんでもねーよ。呼んだだけ」
     ヘッドボードに身を預ける俺の横で再びベッドの中に体を潜り込ませた潔が、こちらにすり寄ってくる。
     濡れた前髪が額に張り付いて、元々年齢よりもガキっぽく見える潔の顔が余計に幼く見えた。
     サイドテーブルにペットボトルを戻しがてら、鬱陶しい前髪を指先ではらってやる。そのまま流れで耳まで手を滑らせ、顔回りの髪を耳に掛けた。
     最初にシャワーを浴びた直後に着ていたバスローブは邪魔だと全部いてやったから、何も身に着けていない潔の肌が少し冷たくなり始めている。
     「シャワー浴びてこい。体冷えるぞ」
     「んー……」
     「聞いてんのか」
     むずがるように掌に顔を寄せてきた潔が眉をしかめた。
     普段は年上風を吹かせたがるこの男は、セックスの後だけは甘えたがりになりがちだ。
     脳内物質がどうだとか、人肌恋しくなるだとか、最もらしい言い訳を並べて引っ付いてくる潔を拒否するのは簡単ではある。
     しかし以前こうやって潔が甘えてくるのを拒絶した際に、餌を取り上げられた子犬じみた顔をされてからは無下に出来なくなった。
     それに加えて、いつもなら来るはずのオフシーズンにコイツが来なかった上に、当てつけのように日々更新されるSNSには他の連中との楽しそうな写真。
     ふざけるんじゃねぇと本気でブチ切れてドイツまで最速の飛行機で向かったのは、後にも先にもあの一回だけだ。
     「やっばい……眠くなってきた」
     「おい、ふやけてんな。起きろ」
     「……だってシたの久々だからさぁ……お前もめっちゃがっついてたし……」
     「ッチ」
     先ほどまで俺の下でぐちゃぐちゃに喘いでいた潔の掠れ気味の甘ったるい声が腹底に落ちて、苛立ちの余り舌打ちを零す。
     このまま放置してコイツの具合が悪くなったとしても、自分には関係が無いといえばそうだ。
     だが、体調管理はプロである以上は当然の責務であり、俺との行為でコイツのパフォーマンスが落ちるなど許せない。

     無意識に頬に触れていた手に潔の手が重なる。ベッドから見上げてくる瞳が迷いなく俺を映しているのが無性にムカついた。
     コイツはこちらの思考などお見通しだと言いたげな顔をして、俺を見てくる時がある。
     二週間前もそうだ。ふわふわと足元が揺れるくらいの興奮の中、真っすぐに俺をフィールドで見つめてきていた潔と目が合った瞬間の景色は未だにいつでも鮮明に脳裏に描けた。
     「無駄に煽ってくんな、ボケ」
     「それはそう捉える凛が悪いんじゃん?」
     「うぜぇ……」
     「はいはい。俺が悪うございました。じゃあ、先にシャワー使うからな」
     眠たげな雰囲気をかもしていたのが嘘のように、重なっていた手を離した潔があっさりとベッドから出ようとする。
     その腕を掴んで引き留めたのは自分でも意識外の行動だった。
     食い込みはしないまでも簡単には振りほどけない程度の力加減で握った潔の手首から伝わる脈拍は、一定の間隔で動いている。
     掴まれている箇所に視線を向けた潔は、今度こそフィールドの上で見せる時と同じ顔をして笑った。
     これだけ憎たらしくて鬱陶しい男なのだから、さっさと離れるべきだったのだ。
     その判断をするのは、もうとっくに間に合わない時期なのだろうが。
     「一緒にシャワー浴びよっか。どうせ二人で入っても広いんだろ、ここのバスルームってさ」
     笑ったままの潔が「良い案だろ?」と、余裕綽々しゃくしゃくで呟く姿に睨みだけを返す。

     サッカーは殺し合いで、フィールドは戦場だ。そういう世界で生き続けてきた俺にとって、勝ち負けイコール死ぬか生きるかに匹敵する。
     恋愛とかいうぬるい感情や思想に左右されるほどヤワな人間では無いが、少なくとも潔との駆け引きは常に勝つか負けるかで判断していた。
     意味の分からない遊びに付き合う約束を取り付けられた時点で、既に俺はコイツに充分譲歩してやっている。
     だからコイツの体を心配してやる必要も無ければ、煽ってきたツケを払わせたって問題ない筈だ。
     「うわっ」
     「シャワーは後でいい」
     「え、……マジ? お前さっきもうしないって……」
     「気が変わった」
     掴んでいた手首を引っ張って、もう一度ベッドの中に潔を引きり込む。
     そのまま肩先に噛み付き、何個もついている痕にかぶせて赤い証を刻んでいく。
     冷えていた体温がそれだけですぐに上がり始めて、潔の鼻に抜ける情けない声が鼓膜を震わせた。
     こうして触れば条件反射のように勝手にコイツの体が反応するように仕込んだのは他の誰でも無い、俺だ。
     べろりと塩味えんみのある首筋を舐め上げ唇を舌先で湿らせる。
     性欲など抑えようとすればある程度は我慢が利くが、抑えなくていいのならそれに越した事はない。
     しかも最終的にコイツが気絶した所で、風呂に入れる労力はかかるが俺の負けにはならないのだ。
     こちらの意図を正しく理解したらしい潔の顔色が変わったのを見て、内心でざまぁみろと囁いた。

     □ □ □

     深夜帯でも不快な生ぬるさを残しているのは真夏特有の現象なのだろうか。
     時刻は午前一時を少し過ぎた辺り。駐車場に停車させた車の運転席から出た途端にそんな事を思った。
     「うー……流石に雰囲気あるなぁ」
     助手席に座っていた潔がこちらの心を代弁するかのようにそう呟きつつ、ドアを開けて出てくる。
     バタン、という普段ならばそこまで響かない筈の開閉音が暗闇の中に木霊した。その音を追いかけるように周囲に視線を走らせる。
     駐車場に他の車はほとんど停まっておらず、ほのかな明かりを点している外灯には羽虫が群がっており、森林地帯特有の泥臭さが鼻に入り込んでくる。
     そこから意識を外し、今回の目的地への道順を確認する為に、ネイビーのウィンドブレーカーのポケットに忍ばせていたスマホを取り出した。
     マップアプリに示された道順によると、このまま県道に沿って左に向かえば大倉尾根の登山口に着く。そこから真正面に悠然と佇むのが、今夜登る予定である塔ノ岳とうのだけだ。
     塔ノ岳は標高千五百メートル近くあるものの、登山道はしっかりと整備されており、初心者でも比較的登りやすい山らしい。
     そして、神奈川に数多くある山の中でも峰からの展望が特に美しいのだとネットの至る所で紹介されていた。

     俺としては、あの場限りの冗談で終わるかと思っていたのだが、潔は本気で山登りをするつもりで発言していたようで、あれよあれよという間に段取りから色違いの揃いの装備一式まで全て手配されていた。
     しかし、潔の望んでいた富士山登頂は流石に時間的猶予も無く、山小屋もこれから予約を取るのは難しいという判断で見送られたのだ。
     それに夏の間の富士山はベストシーズンなのもあって、朝から晩まで人がひっきりなしに行きかうというのも俺の中では無しだった。
     そのかわりに潔が見つけてきたのが、この塔ノ岳である。
     ここを選んだ理由は多々あるものの、一番は朝日を見たいという潔の意思を尊重する為だ。
     しかも俺の実家から車で一時間半も掛からず行けるし、初心者向けだというのもあり、かなりゆっくり登っても四時間以内で山頂にたどり着ける。
     日中に登る人間は多いようだが、平日真っ只中の真夜中から登る酔狂な人間は多分居ない。極力他人に絡まれたくない俺からすれば魅力的に思えた。
     それでいて山頂からは今回諦めた富士山が正面に見えるとくれば、満場一致でこの山に登る事が決まったのだった。

     「忘れ物ないよな? さっき最終確認したのに不安になってきたわ」
     「あんだけ人ん家でくつろいでやがったのによく言うな」
     「だって、凛のお母さんもお父さんも久々だったのにめっちゃ優しかったからさぁ」
     後部座席のドアを開けて二人分の荷物を取り出している潔から手渡されたリュックを受け取りがてら、滲みだす呆れと共に言葉を投げかける。
     出発が深夜になるのもあって、夕方から俺の家に来ていた潔は俺の両親から文字通り"猫可愛がり"されていた。
     もう何度か俺の実家に顔を出した事がある潔を、妙に俺の両親は気に入っている。
     母親曰く、凛や冴とは違って世一くんは素直で可愛げがある──その感想はそれこそ借りてきた猫のような潔しか見ていないから浮かぶ感想に過ぎない。
     けれど、いつもよりは緊張気味な潔が親から勧められた夕食を美味そうに食し、セックス目的以外で風呂からあがってくる様を端から見ているのはそこまで悪い気はしないものだ。
     「さっさと行くぞ。ここまで来て朝日が見られなかったら時間の無駄だ」
     「なんだかんだで凛のが張り切ってるよな」
     「?」
     「ナンデモアリマセン」
     そんな感想を浮かばせつつも、本来の目的を果たす為に片手で車のキーを閉めつつ、さっさと駐車場から出る。
     張り切っているワケではない。しかし深夜に山登りをするというのは、ホラー映画ではありがちなシチュエーションではある。
     例えば、恐ろしい噂のある山奥の廃墟に無謀にも胆試しとして入ってしまった男女グループが廃墟を根城にしていた怨霊に閉じ込められるだとか、そういった類いの話は良くある展開だった。
     無論、塔ノ岳にそのような噂はなく、男二人のむさ苦しい道程どうていである。
     だから別に深夜に山に行くという異質感を楽しんでいるのではなく、これもトレーニングの一貫だと思っているだけ。
     ふと視線を感じて俺の隣を歩く潔の方を見れば、ニヤニヤとだらしない笑みを浮かべている。
     その顔にムカついて、ヘッドライトを早くも装着している潔の眉間めがけてデコピンを一発お見舞いしてやった。


     登山口まではあっという間にたどり着き、立て看板の奥に両脇を小高い木に囲まれた登山道が上へと伸びている。ここからはひたすら頂上まで登っていけば良いだけだ。
     さっきまで笑っていた潔は俺を先に進ませようとしているのか、さりげなく背後に移動している。
     ホラー映画を一緒に見ていてもそこまで怖がる素振りを見せた事は無かったが、自分が体験するのと、ただの娯楽として消費するのでは違うのだろう。
     ヒュウヒュウと木々の隙間を風が通り抜ける。確かに不気味ではあったが、意外にも迷いは無かった。
     リュックから取り出したヘッドライトを取り付けスイッチを入れれば、すぐさままばゆ い光が足元を照らし出す。
     木で組まれた幅の狭い階段と青々とした葉が足元に広がっているのがよく見えた。
     この場所に、こんな時間に、自分ひとりならば来る日は絶対に訪れなかっただろう。
     ────あぁそうだ、認めたくはないが、柄にも無くこの状況を俺は楽しんでいるのを認めざるを得なかった。

     あえて後ろに居る潔を見ないまま、山道へと歩を進める。
     登山用のブーツが固い地面を踏んで奏でる二対の足音と、名も知らない虫の声が重なった。
     この程度の傾斜ならば、嫌というくらいにトレーニングをしてきた肉体には何ら苦にはならない。
     だが、ヘッドライトの光より先は墨を溶かしたような暗闇であり、いつ獣が出てきても可笑しくは無いのだ。
     異世界に続いているのではと思える道を足早に進んでいくと、不意に背後から潔の声が聞こえてきた。
     「凛」
     「なんだ」
     「なんか楽しい話しよ」
     息も切れておらず、震えてもいない潔の声には面白がっている気配があった。
     俺という盾を手に入れたからか、いきなり強気になった上に"楽しい話"などという非常に曖昧あいまいで抽象的な話題を出した潔に、苛立ちがてら脳内を探る。
     けれど自分の脳にあるメモリーをいくら探っても、生憎、その題に沿った話など瞬時に出てくる筈も無い。
     面白さを追求した会話という、サッカーには不必要なそれをペラペラと喋れる程のスキルも器用さも持ち合わせていないのだ。
     いっその事、夏の山を舞台にした怪談でも披露してやろうかと唇を開く前に、潔が勝手に話し始めた。
     「お前と最初に会った時の事、覚えてる?」
     「最初……?」
     「青い監獄ブルーロックで最初に試合した時」
     その言葉に導かれるように記憶を紐解いていく。
     三対三の奪敵決戦ライバルリー・バトル。まだただのモブ認識でしかなかった潔と出会った時の話だろうか。
     根本的な目の使い方も理解出来ておらず、無作為に突っ込んでくるだけのぬるいサッカーをするエセストライカーもどきだと思っていた。
     でも、今思い返せばその頃から"潔世一"の才能の片鱗は何となく見えていたのだ。
     無言は肯定だと受け取られたのか、黙っている俺の背後でさらに潔が話し出す。
     「あの時のお前のシュート、本当に凄かったよなー」
     「……別に普通だったろ」
     「そりゃあ……今のお前見てたらそう思っちゃうけど」
     そんなに難しいシュートをしたつもりは無い。だからこそそれだけを返せば、苦笑が戻ってくる。

     気が付けば足元にあった木の階段地帯は抜け、二手に分かれる道へと出る。事前に決めたルート通り、尾根を回る側の道を進んでいく。
     ライトに照らされた複雑に絡んだ木の根は湿った艶感を帯びており、その黒々しさがやけに視界に残った。
     足元は傾斜がきつくはあるものの、軽く息切れをする程度で済んでいる。
     「お前にもっかいリベンジしてやるーって二回目挑んだ時も、スゲェ楽しかったし。選ばれた時はめっちゃビビったんだけどさ、あとから考えたら悔しいけど……嬉しかった」
     二回目。その言葉に奥底に沈めていた記憶が一気に蘇った。
     青い監獄ブルーロックという踏み台してやるつもりで訪れた場所で、冴以外に壊したいと他人に感じたのは初めてだったからこそ、俺は潔に興味を持ったのだから。
     脇役人形サブキャラくらいにはなったかと思っていたのに、俺の予想をさらに超えた試合中での圧倒的成長。
     結果として試合には勝ったが、コイツとの読み合いで負けたあの瞬間に俺は潔に対しての認識を改めた。──この男が自分にとって、最大の脅威になると直感で理解した。
     チームに引き入れたのは、唯一負けをきっした潔を手元に置いておきたかったからだ。他の奴らでは潔を使いこなせず、表面上の強さでしか量れない。
     潰したいと願う男が俺の知らない場所で沈んでいくなど、絶対に許されない。そう考えたからこそ、あの中で選ぶ対象は潔一択だった。
     「無駄によく覚えてんだな」
     「え? なんで? そりゃ覚えてるだろ! 逆に忘れる方が無理じゃん」
     「……そう言いながら相当な薄情だろ、テメェは」
     「俺、お前にそういう風に思われてんの?!」
     動揺しているらしい潔のヘッドライトが照らしている場所が色々な場所に飛ぶのだけが見えた。
     人間味にあふれているようでいて、自分が喰いちぎった相手には驚くほどに薄情。つまらないと判断されたらその瞳に映る事すらも困難になる。それがこの男の大きな特徴のひとつだ。

     メディアや潔を知らない連中からは、アジア人の中でも殊更ことさらに幼げに見える容姿と屈託ない笑顔のせいで心穏やかな好青年などと評されているが、そんなワケが無かった。
     誰にも止められないくらい熾烈しれつなゲームメイクと、それを可能にしている世界を俯瞰ふかんする瞳はどこまでも冷徹に行使される。それは潔の本質エゴだ。
     誰に対しても物怖じせず、自分の強さの糧になるならあらゆる垣根を乗り越えてフレンドリーに接する姿が好青年に見える時もあるだろう。
     その落差にいつも周囲は困惑するし、俺も最初の頃は混乱しかけた。
     でも、コイツはコイツの定義の中で生きている。俺も俺の解釈でしか生きられない。人間なんて全員そうだ。
     "世界一のストライカーになる"という見据えた目標が同じであるなら、潔を理解出来ようが出来まいがどうでもいい。
     理解出来ない化け物であるとしても、たった一人しか選べないのなら、隣に置いて互いに喰い合う相手に俺は潔を選ぶ。ただそれだけだった。

     「…………俺はちゃんと覚えてるよ。全部」

     しかし意外にもそれだけを呟いて急に黙り込んでしまった潔に、こちらも言葉が見つからずに黙り込む。
     沈黙が続く間にも足は止めず、周囲の虫の声や葉が揺れる音を鼓膜が拾う。
     俺と潔以外に人の気配など無い筈なのに、うなじにチリチリとした緊張感が走った。
     振り返って本当についてきているか確かめようとも思ったが、足音はキチンと二人分している。
     同行者が知らぬ間に入れ変わっているなんていうのも、ホラー映画では定石のストーリーだろう。
     こんなシチュエーションで黙るなと言いたかったが、自分から話題を出すのも難しい。
     大体、楽しかった話題で過去話ばかり出してくる辺りも気に食わない。
     ────まるで別れ話を切り出す直前のようで。

     「……チ」
     風にまぎれて聞こえない程度の舌打ちがれる。別れるも何も、俺達は交際すらしていない。
     そういう名称をつける必要が無いと思っているからだ。
     だから言葉で確認し合った事は一度も無く、潔が来るのを受け入れているだけ。でも本当は、俺達の形を明確にしたくないだけだ。
     潔を好きか嫌いかで判断するなら、俺は自分でもよく分からない。
     簡単な振り分けや計算など出来ない。それは長さを測るのに重さの単位を使うくらい無理難題だろう。
     最初は確かに自分から兄貴の関心を奪っていった潔を呪い殺したいくらいには恨んでいたが、それ以上にこの男の持つ類まれなサッカーIQの高さとイカれている距離感の無さに脳がバグを起こした。
     そのバグがあらわになって始まってしまった関係が、ここまで続いているだけ。
     潔との関係を定めないようにしているのは、その距離感が最良だと信じていたからだ。けれど、"互いにとっての最良"だという言い訳をしているのだけは、自覚していた。
     この関係に明確な終止符も名称もつけないのは、名付けた時点でいつか終わりがくると考えているからだ。
     陳腐な愛の言葉を囁くのも、お前とは二度と会わないと拒絶するのも、やろうと思えば出来た瞬間はきっと今までに何度もあった。
     しかし、隣に置いておきたいのは真実だったのもあって、拒絶のセリフは出せない。
     かと言って自分から約束や契約めいた言葉を紡ぐのはごめんだった。
     現在はそこまでの確執は無くなってきているものの、家族ですら簡単に離れてしまう気持ちを繋ぎ止められる気がしない。ましてや相手が潔ならば余計にそう思う。
     ずっと側にいると約束して、一人で置いて行かれるのはもう嫌だった。

     「あ」
     いきなり背後で声をあげた潔に、思わず肩が動く。
     途中から木で出来た階段を上っていたが、その奥には緑色の壁で囲まれた小屋があり、看板には【駒止茶屋】と太字で書かれている看板が光を反射していた。
     それを見つけたのだろう潔が何事も無かったかのように言葉を紡いだ。
     「ちょっと休憩してこうぜ、凛」
     顔は見えないが、声のトーンはいつもと特に変わらない。
     気にしすぎなのかもしれないと引っかかりを追及しないまま、俺はその言葉に頷いていた。

     □ □ □

     今度は先に行くと宣言した潔の反射材のついたリュックを背負った背中を眺める。
     駒止茶屋の横を抜け、比較的なだらかな道を進んでいくと【堀山の家】と掲げられた看板がある小屋までたどり着いたが、やはりそこも暗くてほとんど見えなかった。
     大して疲労していなかったのもあり、堀山の家では水分補給程度の休憩のみでひたすら上へ上へと目指していく。
     この辺りから岩が多くなり始め、さらなる急勾配が増えてくるらしい。
     前面を照らす光が潔の着ている蛍光黄緑のジャケットの色を一層明るく見せており、ふもとよりも何度か温度の下がっているのが信じられない程度に温かく錯覚する。
     先ほどまでの前に誰も居ない状況よりかは気を抜いていられるのもあり、ボンヤリとした意識のまま、顔を背けていた感情に目を向けた。
     というよりも、向けるしかない状況なのだ。
     何故なら真夜中の山道は、どこまで行ってもコイツと二人きりだから。


     新英雄大戦ネオ・エゴイストリーグの後、俺達はさらなる成長を求めて自分が選んだチームの本拠地へと向かった。
     あの期間の俺は自分の成長を考える事で精一杯で、自分の実力不足を埋めるのに必死だった。
     他国の奴らの戦績などどうでも良かったが、その中で唯一追っていたのは潔の動向だけだ。
     青薔薇野郎と潔の読めない連携に散々苦しめられたのは事実だったし、日本を離れる直前にわざわざ俺に向かって直接宣戦布告をしてきた潔を絶対に潰すつもりだった。
     敵であっても味方であっても、潔とするサッカーがぬるいサッカーだとはもう微塵も感じなかった。
     だからこそ、恐ろしいくらいの試合支配力ゲームメイクセンスを持っている潔を潰したいと考えている奴らは多い。
     青い監獄ブルーロックで完結していた時とは違って、直接顔を合わせる機会が少なくなった分、いつ潔が誰かに狩られないかが気になって仕方が無かった。
     そんな不安は杞憂に過ぎないと一週間もすれば理解出来たが。

     戦場を駆ける潔の姿を画面越しで見る度に、背中を虫が這うようなぞわりとした不快感に加え、可笑しな高揚感を覚えるようになったのは、そのあたりからだろう。
     俺が描いたフィールドの未来に潔は必ず立っていたし、時には自分が予測しきれなかった敵の行動を完璧にカットするように動く様を見る度に、潔の伸びしろの大きさを察した。
     自分の知らない場所で変わっていく潔に、俺も大幅に成長しなければ、追い抜かされるどころか置いていかれる予感すらした。
     ストライカーとしての意地とプライドが、絶対にそれを許してなるものかとさらに己を駆り立てる。
     それに加えて、俺が居なくとも次々に新しいライバルを作るのかという不愉快さもあった。
     そんな感情を抱く時点で屈折した執着を潔に対して持っているのは察していたが、無視を決め込む事にしたのだ。
     潔と出会った事で得たモノは多く、失ったモノも多い。
     それらは天秤にかけられるようなものでは無くとも、感情的になりがちな自分をストイックという枷で押し殺すのは比較的昔から容易かった。


     「凛、上見てみ」
     また急に飛んできた声に、今度は肩が動く事は無い。
     かわりに見上げた頭上には枝葉を広げた木々を透かすように満天の星空が浮かび上がっていた。
     額に滲む汗と、都心ではお目にかかれないだろう砂金をブチまけたような夜空がミスマッチにも程がある。
     山を登った所で何が貰えるワケでも無いのに、必死こいて日々登る人間が世界にはそれこそ星の数ほど居るらしいが、その理由の一端をわずかに理解出来たような気がした。
     「すっげぇ綺麗。てっぺんに行ったらもっと凄いんだろうなぁ」
     「だろうな」
     「お前が素直に認めるのめずらしー」
     「うるせぇ。俺だって人並みの感想を持つ時くらいある」
     「そうなんだ」
     ふふ、と含み笑いをした潔の尻に蹴りでも入れてやろうかと迷ったが、ここで一緒に滑落して死ぬのはごめんだった。
     親には知らせてあるものの、それでも二人で深夜に山登りなんて危険な真似をしない方が良いと忠告を受けているのだ。
     流石にその言葉を聞いた上でバカな真似をして死ぬような親不孝な人間にはなりたくなかった。
     「……なぁ、さっきの話の続きなんだけどさ」
     「さっきってどこの続きだよ」
     「お前こそちゃんと覚えてんの?」
     「……はぁ? 覚えてるって……どこの何を指してるのか主語を言え」
     「それはお前が考えなきゃ、意味ないじゃん」
     それだけ言って、一度こちらを振り向いた潔は笑ってから前を向いてしまう。
     答えの無い謎掛けをされている気分になるが、その答えを探さなければいけないのが腹立たしい。
     けれどまだ時間はある。あとは視界に映った山肌を割くように山頂まで続く階段をひたすら登るだけだ。
     だから踏み外さなければさしたる問題も無いだろうと判断して、俺は潔の言葉を反芻はんすうする。


     各チームで行われた約半年間の研修後、俺の前に再び現れた潔は画面で見ていたよりも数段はフィジカルもテクニックも上がっているように感じた。
     直接会った際に何を言ってくるかと身構えた俺を見た潔の顔に浮かんだのは、こちらが驚くくらいの柔らかな笑顔。
     その笑みに何を返せばいいのか分からず黙った俺に向かって、『久しぶりだな、凛』とだけ言った潔はすぐに他の奴らに囲まれてどこかに行ってしまった。
     遠ざかっていく潔の背中に声をかけようとして、かける言葉を持たないのに気が付く。
     俺と潔の間に横たわるのは"友情"などというぬるいモノでは無く、ヘドロのように濁っている。そんな間柄で俺から離れる潔を止める術など俺には無い。
     そのかわり、集まった奴らを振り分けて青い監獄ブルーロックで行われた試合で互いの力を俺達は存分にぶつけ合った。
     柔らかな笑みを浮かべていたのが同一人物とは到底思えないくらいの激しい目で俺を睨み、ボールを奪い合う間、俺達は会話などせずとも相手が何を考え動いているのか手に取るように理解出来た。

     競り勝ったボールをゴールに蹴りつける瞬間、自分の力だけで盤面をひっくり返す万能感。それだけが俺を高い場所へと押し上げてくれる。
     兄貴を潰す為だけに俺はサッカーをしていた筈だった。それ以外に理由は無かった。
     その筈だったのに、いつしか兄貴に対しての思いよりも潔に向ける思いの方が強くなっていく。
     己が勝手に作り替えられる感覚は非常に不愉快であり、それでいて抑圧している破壊衝動の一つひとつを肯定されていくのが確かに心地よかった。
     俺が動きたい場所に潔が居て、潔が行こうとする先を俺が阻む。
     折り重なった勝利への方程式はどんどんと進化して、今までにないくらいのパフォーマンスを発揮していた。
     そうしてマリオネットから繋がる糸が混線しきってちぎれるように、俺は自分自身のサッカーをする事に戸惑いを抱かないでいられた。

     試合が終わり、息も絶え絶えに地面に転がっている潔を見下ろせば、悔しそうな顔で俺を見上げている青い瞳と視線がかち合う。
     たった少しの運の差。今回、運の女神に微笑まれたのは俺の方だった。
     それを悔しいと思うのは潔だけではない。俺もまた、運の差でしか勝てなかった事に苛立ちを覚えていた。
     顔に張り付く前髪を掻き上げる。横たわっていた人工芝から上体を起こした潔はそんな俺を見て目を細めた。
     『やっぱ、お前は凄いわ』
     『……当たり前だろ』
     『はー、……ムカつくなぁ』
     フン、と鼻を鳴らしてその程度の賞賛しか言えないのかとバカにしてやる。
     夜空のように深い色合いの目は負けたというのに輝きを灯していた。
     『なぁ、凛。約束しようぜ』
     『約束……?』
     『絶対に次のワールドカップで日本を世界一にしよう。そんで、その時に俺はお前に勝つ。お前を超えて世界一のストライカーになるから』
     『ハッ……言ってろ、雑魚潔。テメェは俺の一番近くで俺が世界一になるのを見届ける役目しかねぇよ』
     『次は分かんねぇだろ!』
     次なんてぬりぃ事を言ってんじゃねぇ、という言葉は絵心のアナウンスでかき消され、爛々らんらんと光る潔の瞳だけが深く脳裏に刻まれていた。


     ようやく潔との約束を思い出し、もう山頂が見えつつある視野の中心で左右に揺れる潔の背中を見つめる。
     約束を俺から交わしたのではない。一方的な宣言に過ぎないその言葉を覚えているか? と問うたのならコイツはやはり相当な性悪だ。
     ほぼ休みなく登り続けているお陰で流石に足がだるくなりつつあるが、ゴールが目の前に見えているのならそこまで苦しくは無い。
     そうして先に山頂へと到達した潔の隣に立った俺は、ついに声をかけた。
     「……あれは、お前が勝手に約束だなんだって言っただけだろうが」
     「あ、忘れて無かったんだ」
     ケロリとした顔で俺に向かって笑った潔の額に着けられたヘッドライトがまぶしい。
     それを手で覆うようにすれば、ごめんごめんと笑った潔がライトのスイッチを落とした。
     周囲にはやはり他に誰もおらず、木で出来た小さな看板には掠れた文字で【塔ノ岳山頂】と記載されている。
     その看板の一番近くにあるベンチへと向かった潔は、迷わずそこに腰を降ろした。

     少しずつ明るくなり始めている空に砂金のように見えていた星々は薄まりつつあり、遠くにあった月も消えかけている。
     細くたなびく雲の向こうではもやがかった富士山の巨大な稜線りょうせんが見えており、その大きさをうかかがい知る事が出来た。
     夏の夜明けは早いのもあって、もう数十分もすれば朝日を拝めるだろう。
     もう明かりは無くても構わないと俺はつけていたライトを額から外すと、スイッチを落とした。
     そうして潔の隣に座り、リュックからドリンクボトルを取り出し蓋を開けて水分を補給する。
     渇いた喉に染み渡る水は冷たく、食道を通って胃まで滑り落ちていった。
     「でも約束は約束じゃん? そもそもお前が最初に俺に宣言してきたワケだし」
     「……俺は約束のつもりで言ったんじゃない」
     「ふぅん。そうなん? あんなかっちょいいヨガのポーズまで見せてくれたクセに?」
     「死にたいのか? お望みならこの場で突き落としてやるよ」
     「うーわ、それは立派な脅迫ですよ。糸師凛選手」
     くふくふと笑った潔は、事あるごとにあの日の出来事を持ち出す。
     あれは若気の至りもあるが、未だにポーズの成功率が低いコイツに言われたくはない。
     リュックからボトルを取り出した潔はその蓋を開けると、ニヤけ面のままそれを口元へと運ぶ。そうして水を嚥下した後に、俺から視線を反らして遠い記憶を見つめるように淡い黄色が滲みだしつつある空を見つめていた。
     「俺はずっと、お前の一番近くでお前を超えて世界一になろうって。……お前に初めて負けた日から、決心してた」
     その視線を追いかけるように、空へと目線を移す。
     ワールドカップの決勝点を決めたのは潔だった。俺があと一歩届かなかったのをコイツが決めて終わったのだ。
     悔しいと思う前にスタジアムに鳴り響く大歓声の中、本当に勝ったのだという気持ちが胸にこみ上げていたあの瞬間にもコイツは虎視眈々とその約束を果たす事だけを考えていたのだろう。
     しかし今更ながら、何故その話題を持ち出すのかが疑問でならなかった。
     "もうお前に喰う所は無い"という宣言のつもりだろうかと考える俺の横で、潔の深い呼吸が聞こえる。
     「お前がこういうの好きじゃないのは分かってんだけどさ」
     「……?」
     「世界一を獲るって約束は果たしたけど、それでも俺は、お前の一番近くにまだ居たいんだよな」
     上ずっている声に思わず潔の方へと顔を動かした。
     滲みだしていた光の量が増えて、同じくこちらに顔を向けていた潔の顔を横から照らし出す。
     薄闇の向こうから射し込む光に照らされた潔の瞳はかすかに濡れていて、空の彼方で一等明るく輝く明星のようだった。

     何度か唇を開いては閉じを繰り返す間にも、気道を通る風は寒々しい。
     理解出来ないと思っていた化け物がいきなり人間らしい言葉を話し出したと思うのと同時に、俺はこの状況を俯瞰しつつも謎の感動を覚えていた。
     それぞれの物差しは違うものの、コイツはずっと俺との約束を取り違える事無くそれに向かって前進し続けて達成したのだと言う。
     それは俺にとって、他の何にも代えがたい信頼に値する証拠だった。
     人を無条件に心から信じるのは、自分の心の全てを明け渡すのと同義だ。
     渡した心を無下にされてしまえば、地獄のような孤独に苦しむ羽目になるのは嫌という程に知っている。
     だからこそ、もうとっくに分かっているのに気が付かないフリをしていた筈だった。
     「……念の為に言っておくが、俺は捕まえたら二度と逃がさないからな」
     「いまさらそれ言うんだ」
     「念の為って言ったろ」
     「……うん」
     「それから、俺はまだお前が世界一のストライカーだとは認めてねぇ。ボール保有率とシュートチャンスの創造力クリエイティブは俺の方が上だ」
     「はぁ? それについての異論は認めねぇけど。シュート決めた方が上なんで」
     「黙れ」
     いつもの言い争いに発展したからか、緊張していたらしい潔の肩から力が抜けていくのを間近で見ながら、自分も力んでいた体から力を抜く。

     そのまま前を向いた潔がデカい声で叫ぶものだから、ボトルを握っている指だけに力が籠った。
     「って、あぁ?! 一番見たい瞬間見逃しちゃった」
     「だったら言い出すタイミングを考えろよ」
     「だってさぁ……」
     朝日の昇る瞬間は見逃してしまったもの、青からオレンジへと帯状に広がるグラデーションが周囲を覆っている。
     薄紫色の影が未だに落ちている山もあるが、その表面にある巨大な凹凸すらも雄大な自然の極一部に過ぎないのだと実感させる景色は圧巻だった。
     朝日の昇る空の反対側にあった富士山もハッキリとその全容を表している。
     よくイメージされる富士山とは異なり、山頂部に雪は無い。恐らくあと二か月もすれば如何いかにも富士山らしい様相に変わるのだろう。
     「来年こそは富士山登ろうな」
     さも当然のように飛んできた声に潔へと目を向ければ、真っすぐに前を見据えている横顔の輪郭と睫毛がゆるりと瞬きを繰り返す様が見えた。
     やはりコイツは自分の意見が通るのが言うまでもない権利だとでも思っているのだろう。
     けれど、なんてことの無い顔をして来年も俺と居る未来を約束をする潔は、共に世界一になるという約束を果たした。
     その約束は簡単に叶えられるような生半可な約束ではない。
     ならば信じてやってもいいのかもしれない。潔世一というエゴイストでありながらも、存外甘えたがりなこの年上の男の事を。

     「……来年だけじゃなくて、もっと先も予定空けとけ」
     
     勢いよくこちらに振り返った潔の目が丸く見開かれる。
     もう随分ずいぶんと青の割合が増えた空を駆ける夏の風によって、黒い髪がふんわりと動いていた。
     「俺は、ずっとそのつもりだったよ」
     砂糖を溶かしたような声と瞳に腰回りがむず痒くなる。
     こんな潔の嬉しそうな顔を見た事が無いと思ったものの、時折覗かせる瞬間はあったのを思い出して、今すぐにその身を抱きたい衝動に駆られた。
     節操のない野生動物ならまだしも、少なくとも標高千五百メートル付近でそのような蛮行をする程の変態ではない。
     「当然だろ。お前は俺だけ見てりゃいいんだよ、潔」
     衝動を抑える為に吐き捨てたセリフに、ますます笑みを深めた潔を見ていられなくなって、視線を反らす。

     この先も俺達は喰うか喰われるかの争いを続けるのだろう。その点に関して変わる事は無いと言い切れる。
     これまでと何かが大幅に変化するのでもない筈だ。でも、やはり隣に置くのなら潔が良いと思えた。
     「そのセリフ、そっくりそのまま返すわ。よそ見したら殺すからな、凛」
     耳に届いた狂人の言葉は、残念ながら全部理解出来てしまう。
     下山したら、その足で首輪かわりにこの男の薬指に見合う指輪でも買いに行かなければならない。
     ついでに改めて両家の親にも挨拶をして回り、必要とあらば害虫避けの為の会見もしなければならないだろう。
     元々あまり時間が無いというのに、やらなければならないタスクが一気に増えてしまった。
     しかし、それに対して労力を割くのが嫌ではない自分が居る。

     見据えた先にある薄暗かった空を照らす朝日の荘厳さと、遠くに見える本物の明星。
     そのまま目線を落とせば眼下に広がる壮大な景色はただそこにあって、世界は新たな一日を迎えていた。
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