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    凛潔/青春を謳歌する二人

    くずおれて 青春 せみが鳴いている。ジワジワ、ミンミンとけたたましくつんざくような音は悲鳴のようで、あまり耳触りの良い物ではない。
     どこにいるかも分からないが、至る所から響くそれらから逃れる為に寂れた神社の境内へと入り込んだ凛と潔の頭上を、目に染みるくらい晴れ渡った青々しい空と巨大な入道雲が占拠していた。
     普段は地域の自治会などが管理しているらしく、訪れた神社には神主なども居ないのが一目見て分かる。
     しかしながら、丁寧に清掃の施されている石畳で出来た参道の表面には土煙の膜も無く、艶やかな光沢を放っていた。

     その石畳の上を黒いローファーで足早に移動し、一目散にやしろの近くに建っている小屋の軒下という最も涼しげな場所を陣取った潔へと凛は睨みを利かせる。
     けれど特に悪びれた様子も無く、早く来いとばかりに凛の分もスペースをあけた潔は、手に持っている水色をしたアイスの包装の上部を裂いて開いた。
     結局文句もつける暇も無いと、凛も続いて日陰になっているそこへと身を滑り込ませる。
     「あっつー……直射日光えぐい……」
     独り言なのか会話の一部なのか判断しがたい潔の呟きを聞き流しながら、凛は履いているローファーの爪先で軽く地面を擦った。

     青い監獄ブルーロックで日夜トレーニングに励む各選手に対し、所属している高校から面談の要請が入ったのは先週の事だった。
     いくら本人たちの希望で青い監獄ブルーロックに入所したとは言え、一介の高校生に過ぎない選手たちも、新学期が開始されるタイミングで三者面談を行わなければならない。
     大した話をするでも無く、あっさりと面談を終えた凛は、自宅で制服からジャージに着替える事もせずまっすぐに青い監獄ブルーロックに戻るつもりだった。
     肌を焼かれるような強い日差しの下、青い監獄ブルーロックがある最寄り駅のホームに降り立った凛の前に、悪戯っ子のような笑みを浮かべた潔が現れるまでは、だが。
     それに加えて迎えのバスが来るのにまだ一時間近くあり、久々の外界に凛も無意識にそわついていたのも理由のひとつではあった。

     「アイス食うのマジで久しぶりだぁ」
     凛が選んだものと同じ物を選んだ潔がアイスを頬張るのを横目に、パッケージを開いた凛も棒状のアイスを中から引き出す。
     乱雑にスラックスのポケットにビニール袋をねじ込んだのは、どうせもうこの制服に袖を通す機会などほぼ無いと確信していたからだ。
     そうして駅に程近いコンビニからこの神社まで徒歩五分もかからないが、既に溶け出し始めているそれを口元へと運び入れた。
     水色の氷菓が舌の上で甘くほどける。こんなにもちゃんとした甘味を摂取したのは、ひどく遠い過去のように凛には思えた。
     「……あと一時間もすれば青い監獄ブルーロックに再収監かー……こんだけ日に当たるのもしばらく無いんだよな。アイスも食えないしさ」
     青い監獄ブルーロックでは決められたメニューが定時内に機械から提供されるだけ。
     そうしてその名に恥じぬ徹底したサッカー漬けの施設であり、自由に太陽の下を歩く事すらも叶わないくらいに厳しい。
     それでもこぞってストライカー達があの場所に戻るのは、青い監獄ブルーロックこそが最もサッカーに対して真っ当に向き合える場所だと思っているからだった。

     無言のまま、アイスの端にかじりつく凛とは対照的に潔は沈黙を嫌うように喋り続ける。
     「たまにはこういう日があってもいいよな! まぁ、絵心にそんな優しさは無いだろうけど」
     だからこそ、半袖のカッターシャツを着た背中に汗が滲むのを感じながら、凛は夏特有の気だるさに身を浸しそうになる己を律した。
     こんな風に過ごすのは今だけであり、これは異常事態なのだと新たに気持ちを引き締めなければ、引っ張られそうになる。
     駅のホームで考え込んでいた様子の潔が振り向いて、凛の存在を認識した途端に駆け寄ってきた上に、『アイス、食いたくない?』と提案してきたのは凛にしてみればイレギュラーだった。
     『ぬるい事を言うな』と突っぱねれば良かったのに、複雑そうな顔をしていた潔の横顔と、夏に食べるアイスの美味さに釣られて拒絶する間もなくついてきてしまっただけ。
     そうでなければ、何故コイツと並んでアイスを食べる展開になるのかと凛の中で納得のいく結論が出なかったからだ。

     「そういえば、面談してくれた担任がさ『辛かったらいつでも戻ってきて良いし、普通の青春を送れるのは人生で一回しかないんだから、後悔しない道を選んで欲しい』……って言ってきたんだよなぁ」
     神社にたどり着いてからも一切言葉を発しない凛に、特に気にした様子も無く潔は呟く。
     けれどその言葉にだけは、ピクリと片眉を上げて反応を示した凛は、潔を見遣ってから気だるげに空いた片手で前髪を掻き上げた。
     「……くだらねぇご忠告だな」
     「凛はなんて言われたん?」
     「何も」
     返事の通り、凛が面談をした時間はたったの数分に過ぎない。
     顔見せと意思確認の為だけに行われた儀式めいたそれは、凛の心をささくれだたせるには十分だった。
     こんな事に移動時間をかけるくらいならば、その時間を練習に少しでも当てたい。
     ただ無駄にエネルギーを消費するだけだ。そう思ったのは凛だけでは無かったのだろう。
     「あはは! お前らしくて安心した」
     「……テメェはそんな事言われて、黙って帰って来たのか」
     その割にはカラリと笑っている潔に怒りを滲ませた凛は、自分が何に対して苛立っているのかも分からなかった。

     顔を合わせた事も無いが分かった風な口を利く教師の幻影になのか、それとも、"青春"などという浮かれた言葉に対してなのか。
     凛の怒りすら受け流すように肩を竦めた潔は、もう半分程に減ったアイスを唇へと近づけた。
     赤い舌が舐め取る仕草は極々自然に行われたにも関わらず、凛の目にはやけに色鮮やかに映る。
     その目線を咎められたワケでも無いのに凛が顔を背けた先には、真っ向から光を迎え入れるように花弁を広げた向日葵ひまわりが、神社に隣接した民家の庭一面に咲き誇っていた。
     「別にいちいち噛み付く必要も無いかなーって」
     「勝手に憐れまれてんのに、随分ずいぶんと呑気だな」
     「あー……まぁ。言いたい事も、分からなくは無いから」
     けして大きな声では無いのに、周囲の音が聞こえないくらい潔の声だけが凛の耳に入る。

     さっきまで煩わしく響いていた蝉の声も、風に乗って届くアスファルトの焦げた匂いも、その囁きの不快さとは比べ物にならない。
     そんなつもりで発したのでは無いとしても、青い監獄ブルーロックや、そこでの出会いを潔自身に否定されたような気がしたからだった。
     「でも、これが俺にとっての青春なんだと思って。もう終わったって思ってたサッカーもやれてるし、……凛にも、会えたからさ」
     しかし、続けざまに明るい調子で言った潔に、凛は向日葵ひまわりに向けていた視線を再び動かす。
     網膜もうまくに残った鮮やかな黄色をまとい、はにかんだ笑みを浮かべている潔の頬はほのかに火照っているように見えた。

     もったりとした正体不明の熱が腰から背筋を這い上がり、先ほど垣間見えた舌も、リンゴのように色づく頬も、くわえていたアイスなどより甘く美味そうに感じられる。
     だから、凛が"喰いたい"と願ったのは一瞬であり、行動に移すのは迅速じんそくだった。
     指に伝う冷たさも何もかもを無視して、空いた手で襟元に結ばれた青と黒のボーダー柄のネクタイを引き寄せる。
     それに対して抵抗も無くぐらりと傾いた潔の体は、体幹がしっかりしているのもあって、全体重を凛に預けるまではいかない。
     驚いた顔をしながらも目を反らさない潔と凛の目が至近距離でかち合い、そのままぶつかった粘膜の熱さに互いに吐息が洩れる。
     ゆっくりと離れた二人の間には、人工的に作られたソーダの香料と静寂だけが漂っていた。
     「……あ」
     けれど潔の持っていたアイスの辛うじて棒に縋りついていた分が乾いた地面に塊となって落ちたのをきっかけに、一気に周囲の音が蘇ってくる。
     凛の目には、あっという間に液体となって広がったアイスの欠片だった物を見つめている潔の額だけが映っていた。
     つぅ、と流れる汗が滑らかな額を濡らしていて、匂い立つ汗と唇に残った爽やかさが混ざって思考を乱す。
     乱れた脳内をどうにか正常に戻そうと凛の口をついて出た言葉は、横柄さを残しながらも混乱しているのを隠し切れてはいなかった。
     「……拒否しねぇのか」
     「……いや……そんなタイミング無かったじゃん」
     顔を上げた潔と再び視線が絡み、思考を読もうとしてくるのを察知してゆるやかに瞬きを繰り返す。

     試合中、ストライカーとしてフィールドに立つ潔と通常時に見せる潔の表情は若干異なる。
     だからもっと慌てふためいて文句を言われるものだと考えていた凛にとって、想像していたよりも遥かに落ち着いている潔の様子は逆に困惑した。
     見据えてくる瞳には恐れも怒りも無く、澄んだ湖面のような青色だけが浮かんでいる。
     喚かれた方がまだマシだったと思う凛を尻目に、目線を下げた潔は穏やかな表情のままだった。
     「そっちも溶けてる。……下、汚れちゃったなぁ。全部蒸発すればいいけど」
     黒い影の中、凛の手に握られたアイスもほぼ原型を留めておらず、長い指を伝ってぽたぽたと雫が落ちていく。
     どこからともなく現れた蟻が二か所に出来た水溜まりを求めて蠢く様を見ながら、暑さのせいだ、と言い訳めいた言葉が浮かんだ。
     全ては猛暑だと言われるこの暑さのせいであり、先ほどの行動を咎めなかった潔もまた、自分と同様に熱に浮かされているのだと凛は信じたかった。
     ────そうでなければ、自分のファーストキスを潔になどくれてやる筈がない。

     ジリついた熱気が足元から立ち上ってくる。
     地表に映る小屋の屋根によって直線で区切られた影の向こう側には陽炎が揺れていて、さらにその奥には光の反射で七色に輝くプリズムが所々で発生していた。
     「……凛って俺の事好きなの?」
     「んなワケ無いだろ。キモイ事抜かすな。殺すぞ」
     「えぇ……」
     不意に顔を覗き込んできた潔が投げ掛けた問いを早口で一刀両断した凛に、呆れた顔をした潔が怪訝そうな声を上げた。
     乾き始めた糖分が指先をべたつかせ、冷たかった筈の喉が呼吸する度に熱を取り戻しつつある。
     不満げな表情を隠さないままの潔を見下ろす凛の眉は、尖った骨を飲み込んだ時のようにしかめられていた。
     「じゃあ誰かとキスすんのは? はじめて?」
     またもや飛んできた不躾な問いに凛は答えず、かわりにさらに眉根が寄る。

     凛の反応と反比例するように潔の顔が見る見るうちに機嫌よさげな表情に変化していき、ニンマリとした笑みを描いた唇に、ついに凛が舌を打った。
     「そっか、それなら良いわ」
     「……なら良いってなんだよ」
     「だって、俺だけがずっと初めてを奪われるのムカつくじゃん。お前も初めてならこれでおあいこだろ? 全部が全部こっちばっかりじゃないなら……まだ……」
     再びの静寂。潔の勢いが萎んでいくのを見ながら、またもや凛は舌打ちを零す。
     そうして持っていた棒を落とし、俯きがちな潔の顎先を掬い上げれば、大人しくなった青い瞳が泳いでいた。
     べたついたもう片手で丸っこい後頭部を抑え込み、がっちりと固定させれば泳いでいた瞳が覚悟を決めたように凛の瞳を射抜く。
     どうせあと数十分もすれば青い監獄ブルーロックに戻るのなら、もうどうでもいいと思えた。

     知らぬ間に潔の手の中からも棒が落とされ、回された掌の熱さがシャツ越しに届く。
     それを合図に黒髪を掴んで凛はもう一度、潔の唇へと顔を寄せる。
     「……っ、……んぅ……」
     息継ぎの度に苦しげな声が聞こえては、凛の腕の中に収まった潔の体がわずかに跳ねた。
     屈んでやるほどの優しさはない凛を補うように、首を反らした潔の喉仏が、その体の動きに合わせて上下している。
     どちらも正しい合わせ方すら分からないまま、ぶつかり合う柔い唇の形を確かめるように何度か重なって、最後に凛が舌でべろりと舐め上げた。

     はぁはぁと息を切らした二人の視線が絡み合い、シャツを掴んでいた潔の手が滑って凛の上腕を撫でる。
     「なんか、めちゃめちゃ罰当たりな事してる気がする……」
     とろけた瞳でそう言った潔に向かい、鼻を鳴らした凛の長い下睫毛をたたえたまなじりもほんのりと赤みを帯びている。
     言葉とは裏腹に湿った潔の爪先は凛の肌に浮き上がった血管の上をなぞってから、かすかな膨らみを緩く押し込んだ。
     これだから、このエゴイストは侮れないのだと、鼻腔の奥深くにまでこびりつきそうな甘い匂いを胸いっぱいに吸ってから凛が吐き捨てる。
     「んなモン、どうでもいいだろ。──お前は俺だけを見てろ。潔」

     蝉の鳴く声がする。悲鳴のようなそれは、たったひと夏しか生きられない儚い生き物が発する精一杯の求愛行動なのだと凛は知っていた。
     だとしても、そんな昆虫の習性や居るかどうかも怪しい神よりも、今は潔が自分だけを見ている事の方が余程重要に思えてならない。
     未だ煽るように血管をなぞる不埒な手を掴み取って、今度は丸ごと噛み付くようなキスを仕掛けた凛の首筋を辿った汗の跡がキラキラと薄影の中で淡く光っていた。
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