スロウ・メロウ・メモリーズ ゆるやかに浮上する意識に伴って薄く瞼を開け、手の感覚だけで左隣を弄る。
しかし凛が伸ばした指に伝わるのは少し湿り気のあるシーツの細かな皺ばかりで、本来ならそこに居るべき筈の人間は居なかった。
気だるげに視線を動かした先には、掌の感覚の正しさを証明するように、ぽっかりと一人分だけ空いたベッドの隙間。
だが、もう一度指で触れたシーツの表面はまだ冷たくなりきってはいない。
ならばと、かけられた布団を剥がして大きく伸びをした凛は、そのまま床に揃えて置かれたスリッパに足を差し込み寝室を後にする。
さほど長くは無い廊下からリビングへはあっという間に到着し、木製のドアをくぐれば、ふわりと漂う出汁の香りに無意識に顰められていた眉根がほどけていった。
凛の胃を擽る匂いの出所はリビングダイニングの奥にあるシンプルな造りながらも機能性の高いシステムキッチンであり、キッチンの前で灰色のスウェットを着た潔の背中が丸まっているのが見えた。
そうして、トン、トン、とけして軽やかとは言えないものの、何かを切っている音が聞こえてきている。
切られている物の正体を探るべく、凛は冬眠から目覚めた熊のように、のそのそと潔に近づいていった。
かなり身長が高い凛の目線よりもやや下辺りに位置している潔の頭頂部でぴょこりと跳ねている毛先は、起きたばかりなのもあって勢いがある。
そんな元気いっぱいの黒い双葉の生えた頭の向こう側。端まで磨かれたステンレスが爽やかな朝日を反射するキッチンには、様々な調理器具やこれから切り出されるのを待っている食材たちがひとまとめに置かれていた。
全てにおいて品質を重視し購入されたのが一目見て分かる食材類は、潔の凛に対する気持ちを明確に表すようで、凛はさらに機嫌が上向くのを自覚する。
そうして覆い被さるようにした凛が着ている色違いのネイビーカラーのスウェットの布地がぴったりと背中にくっついても、潔は振り返る事はしなかったが、持っていた包丁の動きを一旦止めた。
「おはよ、凛」
「……なに作ってる」
挨拶よりも先に腹に回った腕と当然のように肩に乗せられた顎先に苦笑しながら、切り途中だったきゅうりに潔は再度包丁を押し当てる。
トン、トン、とまた繰り返されるまな板と包丁のぶつかる音を聞きながら、コンロの上に置かれた鍋を見遣った凛に答える為、潔が唇を開いた。
「きゅうりとツナの和え物とー……野菜たっぷり豚汁とー……出汁巻き卵にー……」
まるで歌のような節のつけられた声と共に、みずみずしいきゅうりの輪切りがまな板の上に増えていく。
そして、チラリと顔を横に向けた潔の頬を凛の鼻先が掠めるが、どちらも気に留めないまま潔が悪戯っぽく微笑んだ。
潔の目線を辿るように凛がその先を探れば、米を炊いているのか、炊飯器の上部から漏れ出る長細い蒸気が確認出来る。
「鯛めし」
ラストの品が好物の一つである鯛を使ったものだと知り、ついに凛の腹の虫がくぅ、と情けない声を上げた。
慌てて誤魔化す為に凛が言葉を発するよりも前に、五感の優れている潔は可愛らしいその主張をあっさりと聞き取ってしまう。
そうして、どうにか必死で笑うのを我慢している潔の腹筋の動きなど、凛には全て伝わっていた。
「こーら、もうギブギブ! あんま締めたら包丁持ってるし危ねぇから!」
「……チ」
気恥ずかしさと怒りを込めて腹に巻き付けた腕の力を強めたのに対し、慌てたように潔がストップをかけたのもあって、凛は仕方がないと舌打ち混じりに力を少しだけ緩める。
かわりに腕の中にいる潔が頭だけで背後に振り向き、凛の高い鼻の上に軽く唇を押し当てた。
ちゅ、と調理中に聞こえる物音とは異なった甘く軽やかな響き。
そのまま冬の海のように深みあるブルーと春先の空のようなターコイズブルーが交差して、無言のまま今度は唇を触れ合わせた。
朝の挨拶に触れあうだけのキスをひとつ。
例え、どれだけ喧嘩をしていようが、死ぬほど機嫌が悪かろうが、二人が取り決めた暮らしていく上で絶対遵守のルールその一。
いつもより少し長めに触れあった唇の柔さを惜しむように顔を離した凛は、人よりも長い睫毛をゆるりと瞬かせた。
「手伝うタイミングになったら呼べ」
「りょーかい。頑張って早く作るから、良い子で待ってろな」
「うぜぇ」
忌々しげにそう言ったものの、腰から腕を離しつつ、立ち去るついでに潔の頭をかき乱した凛の指先の動きは優しかった。
□ □ □
酸っぱい物が苦手な凛の為に、マヨネーズで和えられたきゅうりとツナのサラダが入ったガラス製の小鉢。
その小鉢の横には、表面に適度な焦げ目のついた見るからにふんわりとしている出汁巻き卵と、ごろごろと大きくカットされた野菜と薄切り肉が入った豚汁が和食器に盛りつけられており、どちらも温かさを示す湯気が立ちのぼっている。
さらに青と緑の二つある茶碗の中には、出汁と鯛の旨味が染みて薄茶に色づいている粒だった白米と、新鮮さを表すような艶感を帯びた鯛の白身がざっくりと刻んで混ぜ込まれていた。
木製のダイニングテーブルに広がったそれらは、まさしく丁寧な朝食と言うべき品の数々。
それらを順繰りに美しい箸捌きで食す凛の前に座っている潔は、ひたすら満足そうに微笑んでいた。
「うまい?」
「……ん」
「そっか」
両頬を膨らませていた鯛めしを嚥下しつつ、頷いた凛の反応を見ながら潔は切り分けられた出汁巻きを口元へと運び入れた。
そうして舌に広がるほのかな甘みを噛み締めてからそれを飲み込む。
「今日はどうする? なんか映画でも見に行く? ……すげー怖いのはちょっと……嫌だけど」
「別に家で良いだろ。それか、買い出しくらいか」
「んー……俺は、それでもいいけどさぁ」
言いあぐねるような潔を見つつ、汁椀の縁に唇をつけた凛の眉根が顰められる。
「一体なにが不満なんだ?」と問いかけるその視線に肩を竦めて茶碗に手を伸ばした潔は、そっと中にある米を箸先で掬い上げた。
「だってさー……お前、今年はプレゼントとか何にもいらないって言うから」
「……いらないとは言ってないだろ。欲しい物がねぇって言ったんだ」
「だとしてもなんか買ってあげたいじゃん? こっちとしてはさー……」
ぶちぶちと文句にも似た言葉を自ら封じ込めた潔を鼻で嗤った凛は、持っていた椀を置いてから、丸っこい出汁巻きを箸で掴み上げると一気に頬張る。
繊細そうな見た目とは裏腹に、豪快な食べっぷりの凛の食事風景を潔はもう数えきれないくらい見てきているが、毎度見ていて気持ちがいい。
ボンヤリとそんな事を考えている潔に向かって、凛はどうでも良さそうな表情のまま呟いた。
「大体、物なんか欲しくねぇよ。なんでも自分で買える」
「はいはい。高額納税者様はおっしゃるスケールが違いますコト」
「テメェだって同じだろうが」
「それはそう」
ふへ、と相好を崩した潔に向かって呆れた眼差しを投げた凛は、続けて言葉を紡ぐ。
「……だから、"お前の時間を寄越せ"って言ったんだろ。……察しろよ」
笑顔のまま思考をする為に固まった潔は、まるで再起動をかけた電子機器のように緩々と動き出す。
そのまま握っていた箸を再び茶碗に着地させた頃には、ほんのりと頬が赤く染まっていた。
「あー……そういう……」
凛と潔が運命的な宿敵として出会い、様々な紆余曲折を経て恋人という括りになり、さらにそこから共に暮らすようになってからはかなりの年月が経っている。
けれど、安易に触れれば誰でも刺し貫くハリネズミだった凛が、素直に潔に向かって自分の感情を露わにするようになってからはまだ一、二年ほどしか経っていない。──そう、まだたったその程度の年数なのだ。
兄である冴に対して狂気じみた憎悪を拗らせていたものの、凛の本質は完全にブラコンであり、さらには年上に構われたがる弟気質も持ち合わせている。
そして潔の中で凛はたった数か月の差とはいえ年下であり、面倒見の良い潔にとって凛は生意気ではあるが可愛くて放っておけない男だった。
それらを踏まえて、好きな年上相手に対してストレートに甘える凛の破壊力は潔を何度驚愕させたか分からない。
特に行動ではよく示すものの、口下手な凛が言葉で愛情を表すなどそれこそあまりにも少なかった。
自身の胸中で暴れる感情を抑える為に持っていた箸と茶碗をテーブルへと放った潔は、腹の底から絞り出すような声を上げる。
「やばい」
「あ?」
「……お前のデレに堪え切れずに俺が死んだら、残さず骨拾っといて」
「アホか」
その反応に心底面倒くさそうに溜息を吐いた凛は、テーブルの反対側で頭を抱えている潔を眺めながら最後の一口になった鯛めしを口元へと運んだ。
けれど潔だけが知っている。
何事も思っていなさそうな顔をして咀嚼している凛が少しだけ照れているのと、潔の言葉をあながち満更でも無いと思っている事を。
「……とりあえず、おかわりまだいっぱいあるけど、食べる?」
抱えていた頭を離しそう言った潔の前に、すぐさま一粒残らず平らげられ、洗い立てかと見惑うほどに綺麗になっている茶碗が差し出される。
そうして分かる人間には分かる程度に弧を描いている凛の口元を眺めながら、潔はとびきりの笑顔を浮かべて茶碗を受け取ったのだった。