プリムラ・オブコニカ 「……よし……行くぞ……」
目の前に広がるのは、白く光沢を帯びた滑らかな一枚の巨大な氷の板。
まだ慣れないスケート靴はさっきまで履いていたスニーカーとは違い、裏面に刃がついているのもあって、ただの床ですらも歩くのが難しい。
リンクの入場ゲートまではペンギンをイメージさせるへっぴり腰でどうにか進む事ができ、やっとの事で氷の上に両足を着地させた。
グラグラと揺れる足元を体幹のみでコントロールしてはいるが、どうしても真っ直ぐ前に進むことが出来ず、リンクの周りをぐるりと囲っている壁に片手をついてノロノロと少しずつ移動してみる。
これほど不安定な靴を履いて氷の上を滑るだけでは無く、ジャンプまで出来るなんて、世界で活躍するスケーター達は一体どんなフィジカルをしているのだろう。
「……なんで、んなとこにいんだよ」
そんな事を考えている俺の前に、かなり広い面積を有しているこの室内スケート場でもひと際デカい男が立ち塞がる。
視線をあげた先に居るグレーのタートルネックニットに黒スキニーという出で立ちの凛は、誰がどう見ても呆れた表情をしていた。
こちらが生まれたての小鹿のようになっているのとは対照的に、凛は特に地上と変わらないバランス感覚で氷の上に立っている。
青い監獄でずっと一位通過だった凛がスポーツ万能なのは予想出来ていたが、ここまでソツが無いとそれはそれでムカつく。
俺の思考を読んだのか、呆れ顔のまま凛が鼻で嗤った。
「ハ、お前から誘ってきたのに滑れねぇのか。雑魚」
「うっせ! ちょっと真っすぐ立てるからって生意気な口聞くなよな! 滑れるかどうかは別問題だろ」
かたやリンクの端でよたよたとしている俺と、【プロスケーター】と言われても納得出来るくらい堂々としている凛では、誰がどう見ても俺が負けセリフを吐いているようにしか見えないだろう。
薄緑色のシャツの上に羽織ったネイビーカラーのカーディガンとデニムに収まっている肉体は、普段使わない筋肉を使っているからか少し汗を掻いている。
どうせならカーディガンを脱いでくるべきだったと今更になって思うが、また壁を伝って戻るのも面倒だ。
「……ふぅん」
こちらの言葉に片眉を上げた凛は、俺を上から下まで眺めまわしたかと思うと、嫌味なくらい長い脚を動かした。
すでに出来ている人の流れに逆らわないように、リンクの外周を颯爽と滑り始めた凛の背中が遠ざかっていく。
ただ滑っているだけなのにシャンと伸びた背筋と、無駄がない足捌きに周囲の人たちも自然と目でアイツを追っているのが分かった。
さらりと揺れ動く黒髪にスケート靴でかさ増しされたせいでいつも以上に高い身長。オマケにとんでもなく綺麗な顔立ちをしている男が一人で滑っていれば、視線を奪われない人間の方が少ないだろう。
どこに居ても何をしていても、糸師凛という男はとにかく目立つのだ。
「なんだよ……置いてかなくたっていいじゃん」
ポツリと、自分でも分かるくらいに情けない響きをした心の声がもれる。
自然と壁の縁を握る手に力が入るが、それよりも他に知り合いもいない所に一人で置いて行かれた事の方が寂しかった。
別に、凛が慌てふためく姿が見たくてスケートに誘ったワケでは無い。
むしろ青い監獄で活動している間に"お付き合い"をする関係になったから、初デートのつもりで誘ったのだ。
今までサッカーばかりにかまけてきて、モテた事など一度も無かったから"恋人"なんてはるか遠い夢幻のような人生だった。
そんな俺の人生に彗星のごとく現れた凛とサッカーでぶつかって、喰らい合って、その内にどうせなら一生傍に居たいと願うようになって。
告白めいた言葉を吐いたのは俺から。触れ合いの先にある──まだ出来ていない事だって俺はしたいと思っている。
でも、こういうのは順序が大切らしい。
そう母さんが言っていたから、俺はあえて青い監獄の機材調整期間として急にオフになった数日間にドキドキしながら凛をデートに誘ったのだ。
たまにカメラの死角で仕掛けてくる凛に流されて、キスだけは何度かした。舌を絡めるような激しいものも、ちょっとだけ。
だとしても、この先に進むなら、もっともっと凛の事を知りたかった。
例えばどんな物が好きで、どういう事を楽しいと感じるのかとか。
データでなら知っているけれど、それだけじゃなくて、生身の凛と色々な経験をしたかったのに。
「おい」
「……え?」
自然と俯いていた俺に影がかかって、顔を持ち上げる。
すると明らかに不機嫌そうな顔をした凛が俺の前に立っていた。
でも俺の顔を見た凛の両眉が一瞬だけ上がって、長い前髪から覗いたのは困惑の感情。だから、俺もどう反応すべきか迷う。
お互いに黙ったまま見つめ合う事、数秒。
「……見てなかったのか?」
先に話し出したのは珍しく凛の方だった。
「見てなかったって、お前の事を?」と目だけで訴えれば、面倒くさそうに前髪をかきあげた凛から、青い監獄ではしなかった爽やかな香りがほのかに鼻に届く。
きっと普通の人は気が付かないだろう。俺は人よりも五感が優れているらしいから、気が付いてしまった。
「お前は見てれば、基本的な動き方なんざすぐ覚えるだろ」
「そういう事だったん……? 俺が滑れないから呆れてどっか行っちゃったのかと思った」
凛の眉根に深い皺が刻まれる。これは結構本気でイラついている時の顔だ。
青い監獄で凛と話をしている間に、少しずつ凛の無表情の内側にある感情を読み取るのが上手くなった自信はある。
でも、今の言動のどこにキレる要素があったのだろう。
疑問を口に出す前に、ずっと壁にしがみついていた手を半ば無理矢理剥がされる。
ふらつきそうになるのを慌てて凛の両手を掴んで耐えれば、俺よりも一回りほど大きな掌が強く支えるように握り返してきた。
今日は手袋をするほどの寒さでは無かったから、直接皮膚が当たって、その体温に息を呑んだ。
「テメェと来てんのに、なんで一人で滑らなきゃなんねーんだ。ばか潔」
「あ、はは……そう、だよな。……せっかく一緒に出掛けてんだもんな、俺達」
重なった凛の手は男らしい形をしているが、とても滑らかでキメの細かい肌をしている。
こんな風に直接凛に触れる権利があるのは、世界でたった一人。俺だけなのだと思えば、先ほどまで感じていた淋しさが嘘のように消えていく。
いつもよりさらに高い位置にある凛のターコイズブルーの瞳を真っすぐに見つめれば、当然のように返ってくる視線に自然と笑みがこぼれた。
「……あのさ、頑張って覚えるから、滑り方教えてくれよ。凛」
甘えるように囁いたついでに触れあっている手を動かして、色つやの良い爪を撫でてみる。
ピクリと反応を返した凛の髪の隙間から見える耳がほんの少し赤く見えるのは、俺の自惚れでは無いはずだ。
「ふん……。ならせめて人並みには滑れるようにならないと許さねぇから」
そうして、許さないという強い言葉の割には、柔らかい語気が耳に響く。
俺がデートや恋人というものに慣れていないように、凛だってこんなにカッコいいのにこれまで付き合った彼女の一人だって多分、いないのだろう。
サッカーの事ならなんだって知っている顔をしているが、二人して恋愛に関してはズブの素人なのだ。
ならば、これから二人でゆっくり学んでいけばいい。
掴んでいた壁から引き剥がした時とは違い、俺が転ばない為なのか優しく引かれる手に導かれるまま、凛の方へと足を動かしていた。