【冒頭部分のみ】可不可⇄椛 +生行 生行はデスクの上を整理してキャビネに鍵をかけて、明日のスケジュールを確認してから退勤の入力を済ませる。午後八時をとうに過ぎていて、オフィスに残っているのは可不可と生行の二人だけだった。
「社長。何か手伝うことはありますか?」
「んー……大丈夫。僕ももう終わるよ」
「先月、打刻漏れ多かったですよ。ちゃんと入れてくださいね」
「はいはい、今入れますよ……っと。はい入れたよ」
退勤報告を受けた生行は念のために勤怠管理システムを確認する。間違いなく打刻されていることを確認してから、PCの電源を落として立ち上がった。他の社員の机の上に、出しっぱなしの重要書類やPCの電源の切り忘れなどがないか、フロア内を見て回る。HAMAツアーズへの入社きっかけに初めてオフィスワークをする者が多く、最初の頃は離席時や退勤時のルールやマナーの周知徹底に朔次郎と共に苦労したことを生行は今でもよく覚えている。最近は確認の時間もぐっと減り、サッと一周する程度で済むようになった。
「生行ー、消して大丈夫ー?」
「大丈夫です。お願いします」
そう言うと先に準備を済ませていた可不可はフロアの電気を消した。
社屋のエントランスを出て施錠を確認すると、生行は言った。
「なぁ可不可。久々に夕飯食べて帰らないか?」
「お、いいね。行こう行こう」
「知り合いがこの辺でイタリアンバルを始めたんだ。可不可も何回か会ったことあると思うんだけど、ほら、何年か前までよく投資家の集まり来てた……」
生行が名前と特徴を話すと可不可はすぐに「あぁ!」と目を輝かせた。
「料理の修行するって突然イタリア行っちゃった人でしょ? お店持てたんだ! へぇー。今からでも凪にお花お願いしようかな」
二人は駅前の飲み屋街へ繰り出した。
「あ~! 今日の椛ちゃんもかわいかったなぁ~!」
着席時にオーナー兼シェフから勧められた食前酒で既に耳まで真っ赤になっていた可不可はその次のビールの中ジョッキ1/3くらいでもうふわふわと上機嫌になっていた。酔えば酔うほど一辺倒になっていくトピックに、生行は適当に相槌を打ちながら真鯛のカルパッチョと白ワインに舌鼓を打つ。
「明日も仕事なんだから飲み過ぎるなよ」
「大丈夫大丈夫。それより生行見た? 今日の昼休み前に、セロテープが指に一周ぐるっと貼り付いちゃって、なかなか取れなくて困ってた椛ちゃん」
「見るわけないだろ。見たとしてもそれ見て『かわいい』ってどういう趣味してるんだよ」
「ええー。じゃあ、溜まった古いレジュメをシュレッターにかけるために一生懸命外した大量のホチキスの芯をうっかり床に撒いちゃって、しばらく机の下に潜ってコロコロかけてた椛ちゃんは?」
「助けてやれよ」
「得意先と電話してたんだもん」
「電話に集中しろ」
可不可はえへへぇ、と腑抜けた笑いを浮かべながらまだお通しの揚げパスタをポリポリと齧っている。その様子を見て生行は小さくため息を吐いた。
生行にとって、可不可の決断力や実行力には昔から目を見張るものがあった。投資活動から始まって、会社を興し、創業社員や区長の選出も自分で目星をつけ、今では事業がしっかりと軌道に乗っている。半ば強引にも思える言動の数々に、生行は最初こそ幾度と無くハラハラさせられたが、自分や他の社員も業務に慣れてきたこともあり、今では必要以上の心配することもなくなってきた。
そんな可不可が唯一何年も前から実行に移さないことがあった。生行はずっとそれが気がかりだった。
「告白はしないのか?」
生行は、可不可の口から止め処なく出てくる「今日の椛ちゃん」をシャットアウトして尋ねた。
「え」
「『え』じゃないだろ」
どうしてそんなことを聞くのか、とでも言いたげな可不可の表情に、生行こそどうしてそんな顔をされないといけないのか、という気持ちで少々苛立った。
生行は学生の頃から可不可から椛の話を聞かされていた。ハッキリと「恋愛感情がある」とは明言していなかったものの、特に隠すつもりもなさそうな口ぶりや、現在実際に可不可が椛を関わっている所を見れば「それ」は一目瞭然だった。初めて椛の話を聞いた時から何年も経っているにも関わらず全く進展がない。
「んー……『今は』しない、かな」
「どうして?」
「なんとなくわかるんだよ。今じゃないって。ほら、『幼馴染の勘』みたいな?」
現在まで関係の続いているような幼馴染のいない生行にはイメージのしづらい例えだった。答えを有耶無耶にしようとわざとそうしているのが何となく透けて見えた生行は苛立ちが増す。
「随分と余裕だけど、今こうしてる間にも誰かに取られる可能性を考えていないわけないよな?」
「当たり前だろ。あんなに魅力的な人」
酔いでトロンとしていた可不可の目が一瞬キリっと光る。
「実際、中学とか高校とかで、告白されたとか、恋人が出来たとか、そんな話を一回二回聞いたこともあったよ」
「それ聞いてお前はどうしてたんだよ」
「どうすることもできないだろ。僕は病院から出られなかったんだから。ま、どいつもこいつも結局半年もたたないうちに別れてたけどね。大したやつじゃなかったんだよ」
そう言って可不可は残ったビールをごくごくと喉を鳴らしながら飲み干した。空になったジョッキの底を少し強めにテーブルに打ち付け、まるでこの話題を終わらせようとするかのような音を立てると、そそくさとメニューを手に取った。
「あ、ねぇ、このゴルゴンゾーラと蜂蜜のピザ頼んでいい? 椛ちゃんが好きそうだから味見して今度おススメしたい。二杯目は生行が今飲んでるのにしよっかな。生行もそれでいい? 二つ頼むよ」
可不可は早口でまくし立てる様に言うと、生行の同意を得る前に近くを通った店員を「注文いいですか」と呼び止めた。
オーダーを済ませたあとも、可不可は何かを選ぶにしては早いスピードでメニューのページを送っている。
「じゃあ、俺が『主任のことが好きだ』って言ったら?」
生行の言葉が、ページを送る可不可の手を一瞬止めた。しかし可不可はメニューに視線を向けたまま、すぐに鼻で笑った。
「何それ。もしかして発破かけてるつもり? 今糖衣からおススメされて読んでる少女漫画にちょうどそんなのあったよ」
「お前がこんな陳腐な発破で動くなんて思ってないよ」
「糖衣と作者に謝りなよ」
可不可が話の論点をずらそうとするが当然生行はそうさせるつもりはない。
「まぁ『好き』と断言するにはまだ早いかもしれないけど、彼女の健気で一生懸命なところは俺も一緒に働いてて素敵だと思うし、率直にもっと仲良くなりたいって思うよ。そうだ、今度食事にでも誘ってみようかな」
「それ、僕にわざわざいう必要ある?」
「気遣いのつもりだったんだけど、必要ないなら勝手にしていいってことだな」
「お前――」
ついに可不可は顔を上げた。それと同時に先ほど頼んだピザとグラスワインが運ばれてくる。生行は狭い丸テーブルの上の空になった皿をまとめてスペースを空けた。ワインとピザを置いて、生行から開いた皿を受け取った店員は「恐れ入ります」と会釈をして去って行く。
「そろそろ夕班初の五大都市ツアーの準備も本格的に始まるし、これを機に親睦を深めておいて損は無いだろ」
生行は運ばれてきたばかりのグラスを持ち上げると、可不可の前に置かれたグラスに軽く打ち付け、ワインをそっと口にする。
「そんな話するために、今日誘ったの?」
「まさか、成り行きだよ」
その後ピザを食べている間、二人は一切口を利かなかった。
「おはようございまーす!」
朝のオフィスに一際高く明るい声が響く。いつもはいの一番に返事をする可不可も、今日は少しだけ反応が鈍かった。
「おはよう、主任ちゃん。今日も一緒に頑張ろうね」
「ん、可不可、なんか元気なくない?」
可不可はあの後対抗心から、生行が酒を頼む度に自分も一緒になって注文して飲み続けた。酒に弱い可不可が生行に勝てるわけもなく、結局可不可がつぶれてしまい、生行の呼んだタクシーで寮まで帰宅したのだ。
「具合悪いなら休んだ方がいいよ。今日なんか大きい仕事あったっけ? 私が代われるのないか確認するからちょっとまってて」
慌てて一日のスケジュールを確認し始める椛に、先に席に座っていた生行が後ろから肩を叩いた。
「大丈夫ですよ。昨日俺と食事に行って、ちょっと飲み過ぎただけです。そうですよね、社長」
「え? そうなの?」
可不可はなにかしらの含みのようなものを感じられる生行の表情と、椛の肩に置かれたままの手に少しムッとした顔を見せつつ、生行の言葉に頷いた。
「なんだよもー、心配するじゃん。あ、そうだ」
椛はオフィスの冷蔵庫へ向かい何かを持って戻ってくる。
「これ飲んで。この間真っ青で出勤してきたダニエルさんにパシらされた時に多めに買っておいたやつ。二日酔いでも具合悪くなったらちゃんとすぐ言うんだよ。あと次は飲み過ぎないこと」
「うん、ごめんね。ありがとう」
差し出された二日酔い対策用の栄養ドリンクを、可不可は嬉しそうに受け取る。
「生行くんは大丈夫? もう一本あるけど」
「大丈夫です。俺はそんなに飲まなかったので」
「わかった。冷蔵庫に入れとくからもし飲みたくなったら勝手に飲んでいいからね」
椛が冷蔵庫へ戻ったのを見計らって、可不可は生行を睨んで呟いた。
「何なの。昨日から感じ悪い」
「何のことでしょう。それより、今日の昼から入っている提携先とのランチミーティング、大丈夫なんですか? 俺なら代われますけど」
「大丈夫です! そもそも僕だってそんなに飲んでないし」
「それは失礼しました。では、本日もよろしくお願いします」
そう言って微笑むと、生行は自席に戻って行った。
「社長。お車の用意ができました。そろそろお店へ向かいましょう」
間も無く昼休みになるという頃に、朔次郎が可不可を呼びに来た。
「ありがとう。5分……いや3分まって」
可不可の言葉通り、朔次郎は執事然とした美しい立ち姿勢で大人しく待っている。そんな朔次郎が気になった椛は、可不可に声を掛けた。
「可不可大丈夫? 私で出来ることあったら回してね」
「ううん。もうできたから大丈夫。ありがとう。主任ちゃんももうお昼行って来て」
「うん、わかっ――」
「主任、良かったら俺と一緒にどうですか?」
その声に、可不可はPCから顔を上げた。目の前には笑顔で椛に声を掛ける生行と、少し驚いた顔の椛。
「都合が悪いですか? だったら別の日でも……」
「え、あ、ううん! 生行くんから誘われるなんて初めてだったからちょっとびっくりしちゃっただけ」
「いえ、俺も思い付きで誘ってしまってすみません。そろそろ夕班初の5大都市ツアーの準備も始まりますし、大きめのプロジェクトの前に主任ともっと親睦を深めておきたいなと思いまして」
昨晩聞いたのと同じ言葉の羅列に、可不可はなんとなく不快感を覚える。そんな可不可を他所に、生行の思惑(表面上の)を知った椛はパッと笑顔を浮かべる。
「そういう事なら是非!」
「ここ出てちょっと路地に入ったとこに新しいカフェが出来たって聞いたんですけどそこでどうです? 気になってるんですけどなかなか男一人だと行きにくくて」
「あ、あのかわいいカフェ? 建ててる時に何回か前通ってて気になってたんだ!」
可不可は生行の背越しの椛を見つめる。楽しそうな笑顔を向け、生行と談笑する彼女を見ながら、可不可は昨夜の生行の言葉を思い出す。
――例えば、俺が『主任のことが好きだ』って言ったら?
「社長。そろそろお時間です」
朔次郎の言葉に、可不可は慌てて外出準備を始める。並んで談笑する生行と椛を横目に見ながら朔次郎の後を追うようにオフィスを出て行った。