「………なあ、なんで8年ぶりに会えたのにそんな離れんだよ」
そういって、口を尖らせながら身を寄せてくる彼の姿には、数年前に会ったこどもの面影が確かにあった。
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山、森、畑。そこには聳え立つ高いビルも無ければ、排気ガスをまき散らしながら忙しなく交差する車の群生も無い。
深い緑に囲まれた、いわゆる典型的な田舎の情景が広がる____そんな辺鄙な村に、オットーは数年ぶりに足を運んでいた。
1年も経たずに入れ替わる様な都会の背景と相反するように、8年経っても変わらない村の風景。
かつて、オットーがたまたま道を尋ねるために話しかけた子ども_____その子が案内してくれた場所を巡りながら、オットーは当時のことを思い出す。
8年前の夏。
自分の知る世界を広めたい、都会の喧騒から離れて緑に触れたい、虫や動物と触れ合いたい。
そんな好奇心と逃避心を綯い交ぜにしたような気持ちを抱えながら、オットーは大学のレポートを纏める為という理由を掲げ、とある村へと赴いていた。
バスや電車をいくつも乗り継いで到着し、いざ村を散策__しようと思った矢先のことである。
オットーは道端の石に足をひっかけ転倒し、携帯の入った鞄ごと川に水没した。
案の定水浸しになった携帯は壊れてしまい、ずぶ濡れのまま右も左もわからなくなってしまったオットーは、都会暮らしの人間が興味本位に田舎に足を運ぶような、身の程の弁えなさを罰せられたのかもしれない…と柄にもなく神の存在に怯え、大人しく帰ろうかと駅へ足を返そうとした。
その時だった。
燦々とした太陽に照らされ、小麦色に焼けた肌をした、10歳にも満たないこどもを目にしたのは。
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「というかナツキさんってやっぱり男性だったんですね」
「は?そりゃそうだろ…ってオットーと初めて会った時って9歳とかだったか。あんときはまだどっちか分からない様に態とふるまってた気がするな」
「なんでそんな誤解されるようなことを…」
「その方が面白いから」
「……」
時刻は夜20時。久々に赴いた村で8年振りに邂逅した少年___菜月 昴とオットーは、小さな居酒屋で晩御飯を共にしていた。居酒屋といってもこの少年はまだ未成年なので、酒を飲んで居るのはオットーのみなのだが。
オレンジジュースを呷りつつ、八重歯を見せて笑うその表情も、やはり8年前と変わっていない。
「てか性別ぐらい普通に聞けばよかったのに」
「そういう繊細な質問を気軽にするのは、失礼かなと…」
「…そゆとこ」
「はい?」
なんだか目が座っているというか、視線が痛い。というか肘を脇腹に差してきたので物理的に痛い。場酔いでもしているのだろうか。
「そう言えばもう20時を過ぎますが、ナツキさんは帰られなくて大丈夫なんですか?」
「だいじょーぶだいじょーぶ、じーちゃんとばーちゃんにはちゃんとオットーと遊んでくるって電話入れたし」
「…信頼して頂いてるのは有難いですが……」
未成年の子どもを預かるというのは、成人済みの人間にとっては結構責任重大だったりする。
今夜はあまり飲み過ぎないようにしようと、オットーは密かに酒を飲む手にブレーキを掛けるよう、改めて心を引き締めた。
因みにスバルの祖父母とは8年前に会ったことがある。上から下までずぶ濡れになったオットーを不憫に思ったスバルが、家まで案内してくれたのだ。
服を乾かして貰っている最中に、村のこと、山への行き方、近くのお店、夏の間だけ父方の祖父母の家にお邪魔していることなど、様々な話をスバルから聞いた。
「__そうそう、そんでオットーが山道降りるのとか川渡るのビビっててさあ、俺が手ぇ引いて___大人のくせに怖えんだって思って面白かったなあ」
いつのまにか初めて会った頃の話になり、箸が進むにつれ、会話の内容も記憶も深くなっていく。
「あんな入り組んだところを平気で走り回れるのは小柄なこどもくらいですよ…あんたの視界の倍近く高いんですからね、僕からしたら」
「んだよ身長マウントか?確かに俺、ちいせえ頃は小柄な方だったけど…ほら!今はなかなか身長伸びたろ?」
「まあ、確かに…」
見ろと言わんばかりに両手を広げるスバルの姿を、改めてじっくり観察してみる。
あの頃と比べると背丈は確かにかなり伸びた。
といってもモデル体型のような長身というわけでもでも無いし、平均といったところだろう。まだオットーより幾ばくか低い。
あのときと変わらないところ、変わったところ。
8年もあれば変わったところも多いだろう__と思うも、顔はどうにもまだ幼さが抜けきってない気がする。あどけない表情や仕草もやはり8年前のままだ。そのまま視線を大きく広げられた腕に向け___
「おいオットー、なんか目がエロいぞ」
「自分から見ろって言っておいてどういう言い草ですかあんた」
軽口に言い返すと頬を抓られた。理不尽だ。
それにしても再会してからというもの、なんだか妙に距離が近い気がする。いつの間にか敬称も取れているし。
初めて会ったときは適切な距離感を褒められた記憶があるのに、どういう変わり様だろうか。あの頃も確かに図々しくはあった気がするが、どちらかといえば人懐っこさが目立っていた。今はどうにも人恋しいような触り方な気がする。
そこまで考えて、なんだか思考が散漫としていることに気が付いた。酒が回ってきているのだろうか。気を付けようと思ったばかりなのに__自分で思ったよりもスバルとの再会に浮かれているのかもしれない。
未だに抓ってくる手を放すよう掴んだ時、ふと気が付いた。
肌の色。あの時のスバルの肌は太陽の光を蓄えたような、よく焼けた小麦色だった。だが今は日に焼けた跡はない。というよりあまり外出しないような、少し不安になるような白めの肌だ。
「ナツキさん、今年の夏はあまり外に出なかったんですか?」
「…………」
「…ナツキさん?」
問いかけた瞬間、少し空気が重くなった気がした。スバルの笑顔が爛々とした笑みではなく、少し皮肉げな、自嘲気味な笑みへと変わる。
「んー…ていうか俺いま、学校行ってないんだよな」
「…え」
「不登校児ってやつ?今どき珍しくもないだろ」
そう言う彼はオットーの返答を奪うかのように、畳み掛けるように、言葉を重ねていく。
「今年は迷ったんだ、ここに来るの。けどまあ、気晴らしになるかなって。人が少ない所に行けば、ちょっとは変われるかなって思ったけど…
でもやっぱ駄目だな。ここも知ってる人が多すぎる」
そういえばあの頃のこどもも、自分のことを知る他人を___自分の父親のことを知る他人のことを、彼は少し、疎んでいたような気がした。
「そんでどうしようかなーって思ってたんだけど、一歩も出ないのも勿体ないからさ。ちょっくら散歩でも…と思ってふらっと出てみたらオットーに会うんだもん。そういう時に限っているよな、お前って」
「……はあ」
「去年もその前も、お前は来なかったのに」
その言葉と自嘲気味の笑みさえ消えた表情に、オットーは胸を刺された気がした。
8年前に出会い、そして別れたこどもとは、次に会う約束をした覚えはない。またいつか、そういう風に言って別れた気がする。
けれどスバルは8年間、毎年ここに来る度にオットーのことを待っていたのだろうか。
「なーんてな!会えるかなーって期待してたのは俺の勝手だから!オットーが気に病む必要はねえからさ!悪かったって、そんな顔すんなよ!」
先程とは打って変わって元気な声を張り上げ、無邪気な笑顔を浮かべながら、スバルはオットーの背中を叩く。
流そうとしている。ほんの少し漏れた本心を、漏れ出たことを無かったことにしようとしている。スバルのその意志を尊重すべきだろうか。
そんな考えも頭に過ぎったが、貼り付けることに慣れたような笑顔見てしまったオットーには、流すことは出来なかった。
「すみません、ナツキさん」
「お、おお…そんなマジにとんなよ、ちょっとからかっただけじゃん」
「…ナツキさんが本当に毎年僕のことを待っててくれたのなら、期待を裏切ったのは確かですから。あまりにも煮え切らないですし、僕の自己満のためにも謝らせてください」
「お前ちょっと言ってること無茶苦茶じゃねえ?もしかして結構酔ってる?…もう良いからさ、やめろよ。10歳も歳上の大人に頭下げさせてる高校生って絵面も字面もなんかやべえよ!」
本格的に困り顔を浮かべるスバルに、オットーは渋々頭を上げる。
「…良いんだよ。………一番会えたら良いなって思ってたときに会えたから。だからいいんだ」
そういってはにかむスバルは、あの頃のこどもと同じような自然な笑顔で、オットーは少し胸がすくわれた気がした。
「でもそうだな、そんなに悪く思ってるなら、なんかして貰うのも悪くないな」
「……僕から言っておいてなんですが、僕のできる範囲でお願いしますね」
「分かってる分かってるって」
そう言ってスバルは少し考え込みはじめた。何かものを強請られたらどうしよう。財布の中身は幾らぐらい残っていただろうか。こんな田舎だとクレジットカードさえ利用出来なかったりするので、高価なものを頼まれると少し困るかもしれない。
酒を一口喉に流しながらそんなことを考えていると、スバルは小さく息を吐いてから、少し伺うように声を出した。
「オットーっていまどこに住んでるんだっけ」
「僕ですか?」
一体どんな素っ頓狂な要望が飛ぶかと思ったが、返ってきたのは質問だった。
別に隠すこともないので、オットーは今の大まかな住居を告げる。都心からは少し離れた、生活に不自由さを感じないぐらいに発展している、なんてことの無い場所だ。
「ふん、ふん」
そう言って相槌を打つスバルだが、場所についてはあまり重要に思ってなさそうな顔だ。本命はオットーの住居の場所では無いように見える。
オットーはそまま口を挟まず、スバルが次に紡ぐ言葉を待った。
そんなオットーの様子を察したのだろう。スバルは少し逡巡したあと、意を決したように口を開いた。
「オットーの家に住みたい、って言ったら…どうする?」
____言葉の意味を飲み込むのに、少しかかった。
スバルが、住む。オットーの家に。
確かにスバルとは気が合う。話も弾むし、一緒に居て楽しい。
ただスバルと会ったのは、2回。8年前と、8年後の今。そのたった2回だけなのだ。それだけでしかないオットーの家に、スバルが、住む。三十路手前の社会人の男の家に、未成年で高校生のスバルが。
世間の目はスバルのことを偏見の目で見ないか、そもそもスバルの両親は了承するのか。たった2回しかあったことの無い大人の家に住みたいと言うスバルの考えは危うくないか、正すべきか。
様々な考えを巡らせながら、改めてスバルの顔を見た。
期待と、不安が綯い交ぜになったような、そんな目が、オットーのことを見つめていた。
救いを求めている。救けを求めている。そしてその心はきっと、瞬きのうちにまた心の奥に潜められる。そんな気がした。
間違えられない。そう思ったオットーは、スバルが再び口を開く前に、すぐに被ろうとする彼の虚勢を先手で捩じ伏せるように、応えを返した。