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    しうち野

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    しうち野

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    私にとっての、基本のジョーチェリ的なお話です。
    アニメ後の付き合っていない二人が、愛抱夢にビーフを再度挑むかどうかで揉めた挙句に、大切なものを賭けてビーフをするぞ、となる話。
    虎次郎がぐだぐだしてます。

    パスはイベント会場のお品書きにあります。

    南城虎次郎の完全なる敗北 指導者はいなかった。でも、薫がいた。
     虎次郎はスケートボードが好きだ。見飽きた街並にスケートのトリックを組み合わせれば、それだけで祭のように鮮やかに見えて高揚する。技術はあってもルールらしいルールはなく、他の競技より自由に、気分に合わせてやりたいようにできるのもいい。大抵のスポーツは人並み以上にできたなか、スケートボードだけが続いたのは、指導者があまり存在せず、皆が自分の創意工夫だけで上達していくしかない、ある意味ではフラットな環境があっていたというのもある。そして立っているだけでも華のある薫が、どんどん勝手に上達して、ただの風景を変えていくので、負けるものかと、もう夢中になるしかなかった。
    「薫ちゃんみたいな優秀な子があんたの友達でいてくれるなんて貴重なことなんだから、大事にしなさいよ」
     虎次郎の母親はよくそう言っていた。運動はとにかく学力には明確に差があるのは分かっていたが、頭ごなしに言われれば反発する気持ちも湧いてくる。薫の成績がいいことと、友達であることには何の関係もない、と。
     しかし、実際のところ意図せずとも影響は受る。
     虎次郎と薫が通った高校は、自由な校風が有名なところで、中二の初めに初めて進路希望調査があった時に薫が第三希望としてあげていたところだ。希望高校を書いたプリントを提出しろと担任の先生に言われるまで虎次郎は進学先についてはきちんと考えたことはなく、学力に差があるにしても第三希望ぐらいならなんとかなるのでは、とその高校の名前を希望調査のプリントに書いて提出した。学期末の三者面談で、担任の先生はプリントを見ながら本当に希望するのかと問い、どこか迷ったような顔をしつつも「これから受験までちゃんと勉強するなら可能性はある。お前にやる気があるなら」と言った。そしてそのまま進路の話は終了し、生活全般の話に移行した。
     何とはなく、ここで受からないと薫に負けたことになると、妙な焦燥感に駆られたが、どうしたらいいのかさっぱり分からない。ある日、母親が薫に言う。「三者面談の結果、虎次郎の志望高校を一応決めたのよ。あんまりにも無理なようならスケート禁止にするから。趣味のスケートはいいと思うけど、サッカーや野球みたいに将来職業にできるわけじゃないからね」
     その時、薫は驚かなかった訳でもないようだが、それ以上に悪巧みが成功したような笑みを一瞬浮かべてた。それから、家だと親父がうるさいなどと言いながら、スケートに行く前に虎次郎の家で一緒に宿題をするようになり、宿題以上を平然とこなす薫に合わせて勉強しなければ、虎次郎はその高校に合格はしていない。
    「そんな風に影響を受けるのって、比べてしまって辛かったりしない? 劣等感を抱いてしまうと気持ちが爆発する」
     と言ったのはイタリアに料理修行に行っていた頃つきあっていた女の一人だ。語学学校で知り合った、バロック絵画を勉強しにきたという歳上の中国人で、長い髪と気が強くて、理屈っぽいくせに大雑把なところが気に入っていた。
     辛かったりしない? という同情に満ちた言葉は、虎次郎を大いに驚かせ、少しだけ傷つけた。この経験が人によっては辛いことに分類される場合があると気付かされたこともあるが、何より自分がこの話をほとんど自慢のように思っていたことにびっくりし、びっくりさせられたことに加え、自覚してしまえば宝物を否定されたような気分になって萎れるように彼女への気持ちが冷めた。
     辛いと思ったことはない。ただ、一人でどんどん先に行ってしまう薫に置いていかれると思うことは、虎次郎にとって恐ろしいことで、焦りは内臓の内側にべったりと張り付いて、脂肪のように常にそこにあった。でも、そういう不安は、薫が長い足を丁寧にコントロールしてレーザーフリップをキメているのを見れば、高揚感で吹き飛んでしまう。強い体幹に支えられ、背筋の伸びた姿は完成されたダンスのようで呼吸も忘れてしまう。高難易度のトリックを成功させるスケーターは沖縄にも沢山いるが、自分も一緒にそこへと思わせるのは薫と、あとはほんの一時期の愛抱夢だけだった。
     虎次郎は、薫を失ってしまっては、平坦で平凡な日常しか自分には訪れない、そういう気さえしていた。

     その薫が言う。
    「明日、愛抱夢にビーフを挑む、正確にはビーフの約束を取り付ける予定だ。愛抱夢が断った時のためにランガと暦を軽く懐柔してある。ラーメンも特盛で奢ったが、俺は愛抱夢と昔のように楽しく滑りたいだけなんだ、と言ったらいたく同情してくれてな。愛抱夢が断ったら後押しをしてくれるそうだ」
     閉店後だというに、カウンターの向こうで優雅に飲んでいるワインを取り上げたい気分だった。
    「機械にばっかり覚えさせるから忘れちまったのかぁ? 入院する羽目になったのを。しかも、暦とランガまで巻き込んで」
     虎次郎の呆れた声に、薫は「機械じゃないカーラだ」と言いながらも悪戯がうまくはまった時の子供のような笑いを浮かべる。ああ、このチーズ美味いななどと、割のいい新規受注でもあったかような上機嫌さで言うので、咎めるのも、純真な子供たちを騙してと怒るのも場違いなような気さえしてくる。
    「フルスイングキッスへの対策はある。こう言ってはなんだが、暦ですらできたことだ。きちんと対策を練れば躱すのはそう難しい話でもない。そもそもスケートに怪我はつきものだ」
     それは骨折程度の話だろう。入院するようなことには普通ならないと虎次郎が訴えても薫は意に介さない。
     愛抱夢は以前よりかは頻繁に、だがそう多くはない頻度でSに現れては、ランガを誘って滑り、稀にスネークにも付き合わせて遊んではいる。決死の覚悟で現れる無謀な挑戦者には「君が僕に勝てるかもしれないと思う根拠を示してからくるんだね」と冷たく突き放して心を折るばかりで、ビーフはしていない。レンガやスネークと滑っている間にちょっかいを出してくるスケーターは、あっという間に引き離して終わりだ。愛抱夢のスケートは相変わらず高難易度で独創性があり、それはすなわち失敗すれば怪我の可能性は拭えないものだった。愛抱夢がビーフで、以前のような危険な滑りをする可能性は否定できない。虎次郎は、薫が思いとどまる言葉を探す。
    「もう一度入院するはめになったら、流石に仕事に影響が出るんじゃないのか。この短期間で二度は信頼が損なわれるだろ」
    「そんなことにはならない」
    「どうして言い切れる」
    「俺が、ならないって言ったらならない」
    「屁理屈にもなってねぇなッ!」
     思わず語気が強くなった虎次郎に、薫は何故か笑う。
    「まず、入院するようなことにはならんし、仮に入院することになってもしれで大事な取引先と壊れるような関係は構築してない」薫の笑顔が悪巧みのそれになる。「それに、お前は俺に、愛抱夢と一生滑るなって言うつもりか」
    「そんなつもりは」
     そんなつもりはなかった。虎次郎はただ怪我なんかして欲しくないだけだ。それは、間違いなく本心だ。が、「怪我して欲しくないだけ」などという言葉を虎次郎も薫もこれまでずっと意に介さずにきた。親に、先生に、彼女に。数えきれない回数、一つ残らず、怪我なんかしない、ちょっとした怪我はつきものと聞き流してきた。
     今、その言葉を虎次郎自身が言っている。虎次郎が大人になったという訳ではない、と言うのは自分が一番よくわかってはいた。苦しい立場にあることを虎次郎は自覚するしかなかったが、それでも止めてほしかった。
    「薫、お前、ビーフがしたい訳じゃなくて、愛抱夢と滑りたいだけだろ。何か色々考えているようなことを言うけど」
     ぽろりと口から言葉がこぼれた。言った瞬間、薫は怒るかなと思った。図星を当てられて。
     しかし薫は何を言っているのか分からないとでも言いたげな顔ではぁと呆れた声を出した。
    「お前はゴリラになりすぎて人間様の機微を忘れたのか。そんなのそうに決まっているだろう。俺は愛抱夢と滑りたい」
     かつて、高校生の頃、薫が愛抱夢に向けていた憧れの目を思い出して胸が痛む。
    「お前、危険なことばかりする愛抱夢を止めたかったんじゃないのか?」
    「止めたかったに決まってるだろ。愛抱夢が、何が原因であんなことをしなければならなかったのかは今でも俺には分からない。愛抱夢は優しくて思いやりもある男だった。昔の方が愛抱夢自身も楽しかっただろうしな。でもそれはそれとして、愛抱夢とのビーフが攻撃的であるにしても、刺激的なのは確かだろう。実際、トーナメント時は結果はどうあれ、俺は必死で、だからこそ楽しかった。愛抱夢は違ったようだがな。……お前はそうは思わないのか」
     そうと言うのが、愛抱夢と滑りたいなのか、愛抱夢と滑るのが楽しいなのか、虎次郎には分からなかった。ただ、無邪気に愛抱夢とのビーフを楽しいと言う薫を見るのが辛かった。
    「薫」
    「なんだ」
    「俺とのビーフは楽しくないか?」
     入院しても、まだ愛抱夢との刺激的なビーフを求めるほどに?
    「はぁ、なんでそんな話になるんだ」
    「薫、俺とビーフをしよう。勝者が愛抱夢へ挑む。俺たち二人から挑戦されるより、勝ち上がった方だけに挑戦される方が愛抱夢もいいだろう?」
     ただの思いつきを口にしただけだが、それはいい考えのように思えた。薫はじっと何かを調査でもしているような、自身がカーラになり代わり分析するかのような目で虎次郎の瞳を覗き込んだ。
    「分かった。いいだろう。でも、勝者は愛抱夢への挑戦権ではない。いや、挑戦権を含んでも構わないが、愛抱夢にしてみれば受けるかどうかも分からないビーフの挑戦権を賭けて争われても迷惑だろう? それに俺は、どっちが先かは争う気はあるが、お前が愛抱夢にビーフを挑むのを止めるつもりは全くないからな。だから、もっと別のものを賭けてビーフする。賭けるのは失っては困る大事なものだ。例えば、シアラルーチェとかそういうレベルのものだ」
    「はぁ? なんでそんなもん賭けなきゃなんねーんだよ」
    「お前、俺が愛抱夢へ挑戦するのを阻害しようとしてるんだろう? どちらが先に愛抱夢に挑むかとは話が違う。いいか。お前の言うことは俺の自由を奪う行為だ。だったらそれぐらいの覚悟を持ってやれ。それともお前、お前は俺から自由を奪う権利があるとでも思ってるのか?」
    「そんなつもりじゃ」
     薫の自由を奪うなど、虎次郎は想像したこともなかった。ただ、怪我をして欲しくないだけだ。
    「まあいい、明日、愛抱夢へビーフを持ちかけるのは待ってやる。俺が待つ期限は一ヶ月だ。それ以内に、お前が賭けるものを決めろ。それを俺がお前の大事なものだと認めたら、お前とのビーフに応じてやる。俺もお前が賭けるものと同等のものを賭けてやる。シアラルーチェなら書庵とかな。一ヶ月すぎたら約束は反故で、即座に愛抱夢へビーフを挑む。よく考えろ」
     そう言い切った薫は、その後も遠慮もなくカルボナーラを要求し、綺麗に食べてから帰って行った。翌日、Sに行くと、暦とランガから急な仕事でしばらくSに顔を出せなくなったので、愛抱夢に挑むのは来月以降になると薫から連絡があったと教えられた。
     その日、虎次郎のスケートは精彩を欠いた。

     何故こんなことにと虎次郎は頭を抱える。薫の行動を邪魔しようとしたことに腹を立てたのはわかるが、書庵を賭けてまでビーフすることかとは思う。気に障ったのならいつものように素直に怒ればいいのだ。そんな権利はお前には無い、と言われれば、己の間違いを認めるしかない。負ければ人生が変わってしまうような賭けをする必要はない。
     でも、とは思う。愛抱夢のフルスイングキッスはやはりスケートでの怪我とは違うものだ。交通事故の方がまだ近い。
     愛抱夢が今も攻撃的なビーフをする可能性が半分。さらに半分ぐらいの確率で愛抱夢がフルスイングキッスを仕掛けてくる可能性。もう半分ほどの確立で薫がそれを避けきれないとして八分の一の確立で大怪我する。打ちどころが悪ければ死ぬことすら有り得る。そんなものを好きにしろと言うことは出来なかった。愛抱夢のことだ、フルスイングキッス以上のことを仕掛けてきても驚きはしない。
     前回、薫を病院に運び込んだあと、一旦診察が終わるまでの間、薫が目を覚さなかったら、障害が残ってしまったら、あの力強い負けん気が失われてしまったらと心配のあまり胸が潰れそうで仕方なかった。あんな思いはもうしたくない。
     そうか。と虎次郎は思う。
     これは、あんな思いをもうしたくないという虎次郎自身の希望でしかないのか、と。薫の自由を奪う権利もなければ、自分の気持ちを押し付ける権利も虎次郎にはないし、それを黙って受け入れる必要も薫にはない。かつての虎次郎の彼女たちが危ないことはやめてと言っていたのと何も変わはしない。虎次郎は聞き流してきたが、薫はビーフを挑んできた。やはりスケーターはバカなと苦笑するしかない。
     ふん、と鼻で笑ってみれば、ほんの少しだけ気持ちが上向いた。
    「そういうの辛かったりしない?」とかつて言われたことを思い出す。確かに今の状況は少し辛い。でも辛い先にスケートが待っているのなら、なんとかなる。虎次郎はそう思った。

     薫とのビーフをやると決めたからには賭けるものを決めなければならない。もちろんシアラルーチェを対象にするわけにはいかない。大切なもの、と薫は言った。最近気に入っているものとしては先日購入したビンテージジーンズがある。一九五〇〜六〇年代のリーバイスで、奇跡的にサイズも虎次郎に合うものだった。何度か履き洗い、色落ちも理想に近くなった自慢のもので、金額としても結構なものなのだが、シアラルーチェと同等かと言われれば、当然そんなことはなく、これを賭けると言っても薫は納得しないだろうとは思う。薫を納得させるには、薫が興味を持っていて薫が持っていないものを差し出す必要がある。全力のフルコースならどうだと考えるが、お前の料理はいつも食べていると言われて終わりな気もする。希少価値をつける必要が、と思ったところで、閃いた。断られる可能性は高いが、これなら一考の余地があるはずだ。断られてもいい前提で提案して、ビーフを受ける意思があることを示しつつ時間稼ぎができると一安心して、虎次郎は電話をかけ始めた。

     虎次郎が賭けの内容を決めたと連絡するまで、薫はシアラルーチェに来ないのではと思っていたが、五日後にいつもの調子で閉店後にやってきた。何があると言うので、クチナジのフリットゥーラを薦めると、じゃあそれで、と注文に続けて、賭けるものは決まったかと当然の顔で言ってきた。
    「飯と話に優先順位をつけろ。両方はいっぺんには無理だ」
     そう言って、薫に飯が先に決まってるだろうと言わせてから、厨房に入った。作り置きの前菜を手早く盛り合わせにして、これからの話の手順を決めて、ワインを選ぶ。これも勝負のうちだと思えば少し楽しい。
     これでも食って待ってろと前菜と先ほどの白ワインをグラスで出して、また厨房に戻り、ガラス越しに薫の様子を窺う。白ワインに特別の反応はない。それだけ確認すれば、クチナジと余っていたエビを手早く揚げ、これも作り置きのサルサ・ヴェルデをかけて、前菜を食べ終わるのを見計らって目の前に出してやれば、薫はごくりと唾を飲み込んだ。
    「ワインはどうだ」
     フォークでクチナジの身を切っていた薫に向かって賭けの内容を唐突に言ってみるが、誤解もせずきちんと理解して、露骨に眉間に皺を寄せる。
    「ゴリラは、大事なものって前提を理解できないのか」
    「まあ全部聞いてからそれは言えよ。価格にして百万は下らない希少な品で、飲食店のオーナーたる俺が、ツテをフル活用して無理して仕入れる品だ」
     ごくりと音を立てて薫が唾を飲み、ここで折れては負けとでも言うように小さく首を振った。
    「俺にだってツテはある。ホテルの経営者にだって取引先にはいる。そのランクの酒なら言えば手には入らない訳ではない」
    「まあ、そうだろうよ。でも、お前、そのツテはここぞって仕事の時にまで取っておきたいものじゃないのか? ただの道楽の酒に使いたいものか? 俺だって、気軽に使ってしまいたいモンでもねぇ。そう何度も聞いてもらえる無理でもないし、頼めばしばらく向こうの無理も聞かなきゃならない。その希少なツテをお前の要望に従って賭けに使おうって言うんだ。お前のいう大切なもののうちじゃないのか、これは」
     薫が迷うような顔をした。それだけで虎次郎は溜飲が下がる思いだ。やられっぱなしではたまらない。
    「……ちなみに、そのワインとはなんだ」
     薫が座るカウターとの敷居に手を置いて、ゆっくりと勿体ぶるように身を乗り出してみせた。
    「ピュリニー・モンラッシュ。ルイ・シャドの白」
     ワインの名産地ブルゴーニュを代表するメゾンの一つと言っても差し支えないルイ・シャドは白ワインの名手でもある。
    「ビンテージは?」
     見開きすぎて吸い込まれそうな瞳でこちらをみる薫の声に被せるようにして言った。
    「二〇〇二年」
     モンラッシュの当たり年のひとつだ。虎次郎としては無理して飲むものでもないが飲む機会があるなら後学のためにもぜひとも飲んでみたいと思う。薫も一緒なのではと思っている。目論見通り薫はもう一度唾をごくりと音を立てて飲み込むと同時にグラスを持ち上げて白ワインを飲んだ。モンラッシュはシャルドネを使ったワインだが、グラスワインとして出しているそれもシャルドネで、柑橘系の香りに、トロピカルな香り、酸味とコクの混ざり合う複雑な味わいが特徴で、コストパフォーマンスの良いいい酒ではあるのだが、モンラッシュのシャルドネを想像して口にしてしまうとやはり格落ち感は否めない。そこは計算して出した虎次郎の術中にはまったしまった薫は、ワイングラスに視線を落として顔を顰めた。
    「悪くない話だろ。俺は貴重なツテを使ってしまって、金銭的なダメージもある。お前はビーフに勝てば気分良く滅多に飲めないいいワインが待ってる。希望があれば、料理もつけるぜ。もちろん、ワインに合わせてそれなりの食材を揃える。ワインに負けるわけにはいかねぇからな」
     とどめとばかりにウィンクして見せれば、薫は盛大に顔を顰めた。頭の中で、旨いワインに俺の料理が渦巻いているに違いない。含んだワインを再度味わうように口が艶かしく動き、迷いを振り切るかのように長いため息を吐いた。
    「駄目だ。悪くはないが、金でなんとかなるものは却下だ。お前、俺の自由を金如きでどうにかできると思ってる訳じゃないだろう」
    「守銭奴眼鏡がどの口で言ってんだか」
    「俺が仕事で金にうるさいのは、それが正当な評価だからだ。俺は自分を安売りする気はない。とにかく、もう一度考えろ」
     その後、もちろん、締めのデザートまでしっかり食べて薫は帰って行った。

     薫は本気なんだなと虎次郎は思う。本気でなんだかわらかない大切なものを賭けて虎次郎とビールをするつもりなのだ。しかも、おそらくはそれなりに楽しみにしている。
     本当にシアラルーチェが欲しいのかと再度考えてはみたが、そんなことはやはりないと結論づけるしかない。
     シアラルーチェという店は縁と薫の後押しによって成立したと言っても過言ではない。
     虎次郎が高校生の頃にアルバイトしていた店のオーナーは、イタリアに修行に行ったこともあり、かの国の素晴らしさや料理の懐深さを教えてくれた人だ。虎次郎が高校を卒業後、イタリアで留学生として一年過ごし、二年ほど修行して帰国した後に挨拶に行った際にも、まずはちゃんとしたところで働いくのがいいと、知り合いがメインシェフを努める沖縄では高級な部類のレストランを紹介してくれて料理人としての道を示してくれた。そこで二年ほど働いて、沖縄での食材や器材の業者や、清掃や衛生に関する常識も身につけて、あとは試験を受けて調理師免許を取るだけになった頃、その人は引退して店を畳むことになった。年金をもらえる歳でもあり、長い間サーブを担当していた奥さんが体力的にキツくなったので、残りの人生は夫婦でのんびり過ごしたいということだった。
    「虎次郎君。君さえよかったら、あの店を使ってみないか」
     いずれ買い取って欲しいが、今はリースのもの以外の必要な機材もそのまま譲るから家賃だけ払ってくれればいいと。提案された当面の家賃も相場からすれば格安で、虎次郎の懐事情を最大限に考慮してくれた本当にありがたい申し出だった。しかし、虎次郎にも店を持つなら理想があった。長く使われた店は、その人が理想の構築と妥協を繰り返して作り上げたもので、その良さを存分に引き出せるのは本人しかいない。良い素材と丁寧な縫製できた、大切に使われた美しく味のあるスーツもサイズが合わなければ意味がない。改装などの費用を計算してみて、現状では、理想からは程遠いものしかできないと判断した虎次郎断ろうと思っていた。
    「そういえば、お前にはまだ言ってなかったが、昔、じいちゃんの家だったところ、俺が買い取った」
     東京で大学院へ通っている薫から突然電話がかかってきたと思ったら、開口一番いいだしたことがそれだった。
    「まあ、買い取ったと言っても、親父からだからぎりぎりみなし贈与を疑われない範囲だ。つまり相場より安い」
    「安いっつっても、お前、家だぞ?」
     あまりの突然さと、驚きでなんとか返せたのはそれだけだった。
     電話の向こうで、ふふと自慢げに笑う。
    「俺は意外と稼いでいるんだ。まあ、ネタバラシをすれば分割で払う約束になってる。その辺りは親相手だからな、大分甘い。で、修士が終わるまでは東京にいる予定だが、それが終わったら沖縄に戻って、そこを改装して桜屋敷書庵にする」
    「しょあん?」
    「俺が作品を作る工房兼、事務所兼、書道教室を開く場かつ住居とする予定だ」
    「あーそれは、就職はしないってことか」
    「そうなる。今の勉強の合間にやっているAI書道を本業としてやっていく予定だ」
    「沖縄で?」
     そういうのは東京の方が有利なのではとは言葉にできなかった。
    「そう言っているだろう。ゴリラにも耳はあるだろう、ちゃんと聞け。改装は今すぐできないから、沖縄に戻ってから手をつける予定だ。まあ、要するにささやかながらも俺は一国一城の主となる」
     それだけだ。と言うと薫は通話を終了した。
     虎次郎はその場で、恩人に電話をして、店の話を譲り受けることにした。その後、融資を申し込み、親に頼み込んで金を借りと大変な労力を払い、希望通りに行かない部分もあったが、薫が沖縄に戻ってくる前に新しい店をオープンさせた。
     
     今、振り返ってみれば、薫は親経由で店を譲ってもらう話を聞いて、背中を押すつもりで電話をしてきたのではないかと思う。そんな経緯のある店を欲しがるか、と思えば否だし、それ以上にやはり、虎次郎にとってシアラルーチェは何がどうあっても失うわけには行かないものだ。薫が欲しいものはきっと他にあるのだろうと思う。虎次郎自らの意志で差し出させたい何か。
     ワインを断ってから一週間後、また薫が閉店後にやってきた。今週は外食続きだったので軽くで良いというので、鶏ささみを混ぜた温野菜サラダとじゃがいも入りのジェノベーゼのパスタを出してやる。比較的消化にいいメニューだ。
    「それで賭けるものは決まったか」
     薫は、ご機嫌と言っても過言ではない様子で、明らかに虎次郎の答えを楽しみにしている。言われた当初は戸惑いもしたが、きっとこれは悪い話でもないんだろうなと思う。虎次郎は用意していたタブレットを渡す。
    「なんだこれは」
    「そこの写真フォルダの中見てみろよ。随分懐かしいぜ」
     タブレットには、高校生の頃に携帯で撮った写真を移してあった。動画も、今ほど頻繁には撮らないかったがいくつかはある。スケートの写真もあれば、高校の学園祭の女装写真もある。
    「女装写真は若かりし思い出ですんでも、その口までピアス付けてる姿や、思いっきり喧嘩の跡が残る写真とか、桜屋敷先生としては念のため確保しときたいもんじゃないか? それはコピーだが賭けるなら俺の手元にはデータは残さねぇ」
     薫は写真をスワイプして確認しながらぽかんとした顔をしていた。
    「虎次郎、お前これデータの抜粋か?」
    「写真見て選んでビックアップするほど暇じゃねぇ。コピーしたのをそのまま移しただけだ。タブレットはやらねえぞ」
     ピンクの目立つ写真達を薫の白い指がスワイプしていく。カウンター越しにそれを眺める。夜の写真が多かったが、それでも季節は判別でき、新緑、雲一つない青い空、紅葉、半袖、ブレザーと変わってゆく。懐かしかった。
     薫は息をつめて写真をスワイプしていく。
    「大切な思い出ってやつだ。悪くないだろ」
    「……お前はこれを大切な思い出と呼ぶのか」
     いつもより一段と低い声で薫が言う。
    「大切な思い出、だろ」
     他にどう呼べと言うのか。虎次郎は薫の反応が思ったよりシリアスで驚く。想定していたのは、もっとつまらない冗談を言った時のような反応で、いつもの小競り合いをして、賭けの内容としては不可と突き放された後、二人で改めて見て昔を懐かしれればいいと思っていたのだ。
     が、薫はどこか怒っているのを必死で抑えつけている感じがする。
    「……お前は大切な思い出を賭けることになるが」
    「大切なもん賭けろって言ったのはお前じゃねーか」
     他に言いようもなく、そう返せば、薫はどこか驚いたような顔をした。
    「……そうだったな。きちんと覚えていたなんて、ゴリラにしては上出来だ」薫は深いため息をついた。「が、賭けの対象としては却下だ」
    「何でだよ」
    「俺が、望むものじゃないからだ」
     薫はタブレットをスリープにすると、カウンターにディスプレイ面を下にしてカウンターに置いた。
    「おい、今日は何がある。パスタが食べたい」
     その後は、もう、賭けの話にはならなかった。

     さらに一週間後に薫はまたやってきた。
    「賭けるものは決まったか」
     カウンター席に座り、開口一番そう言う薫に、虎次郎は何も思いつかないと正直に告げるしかなかった。
    「じゃあ勝負はなしだな」
    「それは駄目だ」
     愛抱夢とのビーフは阻止したい。さらに言えば、薫とのビーフそのものを単純に楽しみにしていたし、何も思いつかないとはいえ、賭けの内容を考えるのも楽しかった。どれも諦めたくなかった。
    「駄目だ」
     肩を落として、ただくり返す虎次郎に、薫は深くため息をついた。
    「俺はお前の覚悟を問うためにこんな賭けなんか持ち出したんだ」
     薫にしては弱々しい、絞り出すような声だった。
     虎次郎の覚悟。薫の自由に対する覚悟の表明。それはもう、ほとんど――浮かびかけた言葉を虎次郎は意識の底へ沈めた。これは賭けで、お互いが差し出す必要がある。それを差し出すことは虎次郎は構わないが、薫に差し出せということはできない、そう思うのだ。
     他の何か。虎次郎の薫に対して覚悟を示すことのできる大切なもの。
     薫が縋るような目でじっと虎次郎の様子を窺っている。
     何か。虎次郎の薫に対して覚悟を示すことのできる大切なもの。
    「じゃあ、シアラルーチェを賭……」
    「ふざけるな!」
     薫がカウンターを叩くようにして手をついて立ち上がる。
     ふざけてなんかと言い切ることは出来なかった。
    「ビーフの賭けに使っていいものなのか、この店は」白い手を握りしめてカウンターへ叩きつけた。「お前はそんなもののためにイタリアまで行ったのか。お前のこれからの全てを担う店じゃないのか、この店は。それを何もわからないまま賭けるって言うのか。遊びのおもちゃにしてもいいものものために俺を置いて行ったのかお前は」
     魂を絞って出したような怒声だった。言ってからはっとしたような顔をして「帰る」と短く言って、何の注文もしないまま薫は帰って行った。
     じゃあどうすれば良かったんだとか、シアラルーチェを例に出したのはお前じゃないかとか、置いて行ったってなんだとグルグルと考えはしたが、それはほとんど思考放棄と同じことなのを、虎次郎は気がついていた。

     イタリアへいくことを考えだしたのは愛抱夢と出会ってからだ。正確に言えば、薫が愛抱夢に夢中になってから。愛抱夢のトリックは難易度が低いトリックでさえ、見るものを魅了した。オーリー一つとっても、他の人より高く飛び、ボードは素早く回転し、ブレの一つもなく美しく着地して、ブースターでも付いているかのように滑らかに前進していく。薫とのスケートは祭りで、鮮やかなスケーティングで薫が祭りの会場したところに虎次郎も乗り込んで参加する。愛抱夢のスケートは祭りというより映画に近く、華やかで美しい映画を虎次郎は観客として見る印象だった。でも、薫にとってはそうではなかったようで、映画のように座って見るものではなく、祭りのように参加するものだったようだ。高揚した顔で頬を染め、祭りに参加するために愛抱夢のそばに駆け寄っていく。
     取られる。そう思ってしまった。
     薫が女性を好きになって付き合うのは別に問題はなかった。世の中とはそういうものだと思っていたからだ。そのまま大きくなって誰か素敵な女性と結婚するというのならば、虎次郎は仲の良い友達を取られてしまった寂しだだけを少し出して、無意識のうちに他の全てを胸の奥に仕舞い込んで薫を祝福できただろう。そうするものだと思っていたからだ。
     でも、相手が男であるというのなら話は別だ。薫の隣に立つ男性というのは、友人であろが、恋人であろうが虎次郎であるべきだ。そう明確に思っていたことはないが、そうでない状況を想定したことはなかった。
     愛抱夢は、虎次郎にはさっぱり理解できない薫の宇宙の話にも難なくついていき、名護のゆるキャラの話から、そのゆるキャラのモデルの程順則についての話になり、薫が書の面から語るのに対し、愛抱夢は文化的貢献の面から話をして、薫の知的好奇心を刺激してゆき、虎次郎に見せたことない顔をどんどん引き出していった。
     そのうえ、薫は「タバコ吸ったりして悪ぶったりしていても、あいつどこか危なっかしいからな」とまるで保護者のようなこと言って笑うのだ。虎次郎の気持ちはただただ焦った。
     その頃、薫は東京の大学へ行くと虎次郎に言ってきた。愛抱夢のプライベートの話はご法度のようになっていたので、直接聞いたことはないが、おそらく愛抱夢も同学年で、進学は沖縄ではなく東京なのではないかと思われた。二人で東京へ行って、虎次郎は取り残されるのかと思うと居ても立ってもいなられなくなり「東京の学校へ行きたい」と両親に告げてみた。母親は馬鹿なことをと取り合わなかったが、父親はどうしても東京でないとできないやりたい勉強があるあれば考えてやってもいいと言った。
     東京でなければ勉強できない、自分のやりたいこと。
     虎次郎はそもそも勉強にあまり興味がなかった。興味があることといえばスケートだが、スケートを趣味以上のレベルで教えてくれるところなど無く、他の競技のように学生スポーツとして成立していたり、将来プロという選択肢があるわけでもないので「東京でなければ勉強できない」にはあらゆる意味で値しなかった。
     そこで、薫に聞いてみた。大学行って何勉強するんだ、と。
    「まだ決めきれてない。宇宙へ行くには宇宙飛行士になるか大金を払うかなんだが、宇宙飛行士になるには理系の大学を出ていることが必須条件だからとりあえず理系の大学へ行くのは確定だ。宇宙飛行士になれるかどうかは流石に分からんが、門前払いはごめんだからな。それに、プログラミングにも興味があって、それを勉強するのもいいかと思ってる」
     薫の小さい頃からの夢は、宇宙へ行くことだ。まだ、諦めてないのかと少しびっくりする。
    「こないだなんか賞をとってた書道を勉強したりねぇのかよ」
    「書道の勉強も悪くないが、書家は金にならんからな。いや、ならないとは限らないが金を稼ぐには工夫がいる。で、俺は書家として大金を稼ぐ術を思いつかないから、今の段階では、自分でコツコツ勉強して作品は作っていくぐらいの予定だ。理想を言えば、書道学科のある大学の理工学部あたりに入れば、図書館に資料が充実している可能性が高いから助かるんだが。が、そんな都合のいい大学はない」
     薫はお前はどうするんだ、とは聞かなかった。聞かれても薫ように夢を語ることはできないし、ただ薫と一緒に東京に行ければ楽しいだろうな程度のビジョンしかない自分を小さいなと思った。
     気持ちを切り替えて、薫のように、薫に置いていかれないように将来を見据えて学校を選ぶとしたら何の職業を目指すべきかと考えたときに、思い浮かんだのは料理人だった。アルバイトに行っているイタリアンの店は、皆楽しそうに働いているし、客も美味しい料理で腹を満腹にして幸せそうだった。誕生日などの記念日に使われもして、レストランというのはちょっとした祭りの場なのだなと虎次郎は思っていた。スケートとは形が違うが祭りの場があるというのはいい。きっと薫も喜ぶ。それに、薫は単純に美味いものが好きだ。
     先日、アルバイト先で賄いで出してもらったナポリタンが美味しかったので、コツを教えてもらって、薫に作って出してみた。シェフの言うコツは、家庭で作るなら、野菜を炒める際に砂糖を加える。ケチャプを入れる時は、フライパンを半分開けてそこに入れ、きちんと煮詰める。それだけだった。
     しかし、薫の反応はかつてない程で、「この前作ったのより格段に美味い」ときちんと言葉にして褒めるし、食べている姿が何より楽しそうで、こういうのはいいなと思ったものだった。家にあるもので、ちょっと気を遣って作るだけでこれだけ喜んでもらえるなら、きちんと学んで料理を出せばどうなるだろう。虎次郎は進学先を料理の専門学校と決めた。
     が、料理の専門学校では、東京に行く理由が見つけられない。そう悩むというほどもなく考えている頃に、愛抱夢が虎次郎や薫から離れて行った。そして、危険なビーフを行い、最終的にはアメリカに留学して行った。
     その時、虎次郎は気がついたのだ。勉強する先が日本である必要はない、と。そこからの決断はすぐだった。料理留学するならイタリアがいいと思い、アルバイト先のシェフに相談をし、留学を斡旋する業者から資料を取り寄せ、親の説得に取り掛かった。最初は難航したが、イタリア語の参考書を自分で買って勉強を始めやる気を見せ、かかるお金についても、沖縄で二年制の専門学校へ通うのと費用よりもいくらいか少ない金額で、一年分の留学費用が賄えると自分で計算して説明し、何とか成功した。
     留学することを薫に伝えたのは、薫が愛抱夢が去ってしまったことにまだ落ち込んだままのタイミングになってしまったが、それは仕方がないことだったとは虎次郎は思っている。

     三日後、薫から電話がかかってきた。九日後の定休日に貸切の予約を入れたいとのことだった。賭けの内容を決めるまでの猶予期間の最終日だった。
     薫の出した条件は、客は薫を入れて八人。立食形式。通常八人で貸切は採算が取れないだろうが、一人、口の肥えた人がいるので、客単価を上げることで釣り合いを取って対応して欲しいというものだった。
     そんないい素材を使って立食式では少しもったいない気がすると虎次郎が言えば、立食形式なのは、客が自由に交流しやすいようにというのもあるが、お前が厨房に篭りっきりでは困る、お前が姿を見せて歓談ができることが今回重要だ、などと言い出す。
     他には、客には食べ盛りの中高生が三人含まれるので、それなりに量も確保して欲しいこと、牡蠣料理を一つは用意して欲しいこと、守秘義務があるから虎次郎の以外のスタッフは客が入る前に帰って欲しいとのことだった。
     妙な話だとは思ったが、他ならぬ薫の依頼ではあるので、悪いことにならないだろうと判断して受けることにした。
     それを伝えると、薫は助かると安心したように言い、最後に、「賭けの内容はその場で聞く。それまでにきちんと用意しておけ。俺に恥をかかせるなよ」と一方的に告げた。

     流石に電話の話だけでは進行できないので、何度が薫を呼び出して打ち合わせをした。結局、立食形式と言っても、慣れていない子供いることから、皿のおけるテーブルを二卓並べ、その周りに人数分より多めに椅子を出し、席は固定ではないので自由に動いて欲しいと説明することとなった。料理もビュッフェ形式は前菜のみで、冷温取り混ぜて数も多めに揃え、ここにピザやスープも含めてしまい、中高生に腹を満たしてもらう。途中で虎次郎は一度厨房に下がり、パスタとメインの用意。パスタはそれぞれにサーブして虎次郎のものは用意せず、客が食べている間にメインの調理を続け、メインも個々にサーブし、こちらは虎次郎も一緒に食べることとなった。その後、チーズは盛り合わせをテーブルに一皿づつ出し、ドルチェは個人にサーブ。酒は食前酒はグラスで提供し、中高生向けのソフトドリンクは料理の前菜と一緒に並べてしまい、大人向けのワインは虎次郎に加えて薫が様子を見ながら提供することにした。食後酒も同様だ。
     実際のところ、虎次郎が長時間厨房から離れるのは難しそうだが、最初の三十分ぐらいは何とかなるだろうと思っていた。
    「随分とざっくばらんな感じだが、それなりに金をかけるんだから、懇意にしたい客なんじゃないのか。本当にこれでいいのか」
     と問うてみれば、
    「大事なのは、楽しいという場の空気だからこれでいい」
     との返事はとにかく、
    「あと、この間のタブレットの写真も持ってきておけ。多分、ウケる」
     というのは、虎次郎にはよく理解できなかった。ウケるというのも意味がわからないが、あの写真に薫は気分を害したのではなかったのか、と。

     二人で持ち上げたテーブルは明かに薫の方へ傾いている。テーブルと椅子のセッティングを薫にも手伝わせたのだが、あまりやる気を感じられない。
    「ちゃんと持て。それに、もうちょっと早く来れなかったのかよ」
     開始時間まであまり余裕のない時間にやってきた薫に文句が溢れた。
    「この会の時間を捻出するもの大変だったんだ。テーブルぐらいお前一人でも動かるだろう。俺にやらせるな。その筋肉は飾りかゴリラめ」
    「そもそもお前が、テーブル配置をこっちに丸投げするから配置の確認がてら手伝いにこいつったんだよ、俺は」   
     実際、大体の配置は前の日に済ませていたのだが、やってきた薫に説明すれば、カウンターは俺が使うから料理は置くなと言われてしまい、今になって急遽変更しているのだ。
    「何だか知らんがいつも接待よりやり方が雑だよな」
    「脳筋ゴリラにはまだ理解できていないようだが、俺一人の話じゃないからな」
     なんだそりゃ、と言う前に店の扉が開いた。接待の開始時間より少し早い。テーブルは今ので並べ終わったが、まだクロスはかけていなし、椅子も並べていない。少し焦って入り口をみれば、ミヤと暦とランガ、さらに後からシャドウが入ってくる。
     あ、悪い、今日はこれから貸切なんだと言い切る前に、薫が「いらっしゃい。早かったな」などと言う。
    「何だかわかんないけど、お招きありがとう」
     中学校の制服を着たミヤが、チェリーと薫に呼びかけながら虎次郎を見てにっこりと笑った。
    「何だかわからないけど、祝い事だって言うから、この花は四人からのお祝いな」
     そう言う暦とランガも制服姿で、スーツ姿のシャドウが花束を差し出した。シャドウが社員割を利かせて作ったにしても、中高生達が小遣いから出したなら、奮発をしたのではと思える、大きな花束だ。
    「何だかしらねぇが、おめでとう、でいいんだよな」
     ああ、ありがとうと肯定した薫が、目を柔らかく細めてはにかむかのような顔をする。
     薫の普段表情は豊かと言うわけではないがはっきりはしている。怒り、高揚、楽しい、嬉しい、旨い、すぐわかる顔をするし、案外単純だと虎次郎は思っている。
    「薫?」
     その薫が、喜びと気恥ずかしさと一抹の不安を滲ませたような顔をしている。どうかしたのか? 祝い事って何だ? そもそも接待の相手はこいつらなのか? 何を言っていいのかわからない虎次郎を見て、薫ははっきりと渋面を作った。
    「おい、さっさとありがたく受け取って飾れ。折角のお祝いだ」
     気が効かん、と言いながら、着物の下の足を鋭く動かして、脛を目がけて蹴りが飛ばしてくる。片足を持ち上げて蹴りを避けると、花束を受け取った。
    「花が終わったら、さっさと料理を並べろ。最後の客の前に準備を終わらせるからな」
    「なんで偉そうなんだよ」
     虎次郎はそう文句を言うので精一杯だった。

     大人への食前酒は、フランチャコルタにした。フランスのシャンパーニュに並ぶと賞賛される北イタリアのスパーリングワインだ。フランチャコルタ地域で、厳しい規定を守って作られた品質の良いワインから発せられる小さな気泡を虎次郎はどこか追い詰められた気持ちで見ていた。
     どうにも何かを企んでいるような薫は、カウンターを背に立ち、招待客達に向けて挨拶を始めている。
    「皆様、今日はお忙しい中お集まりいただき誠にありがとうございます。一応お祝いの予定で開かれた会ではありますが、皆様ご存じのとおり、内容を発表できる状態ではありません。本日の会の間にはお伝えできると思いますが、万が一お開きの時間までそのことにこちらから触れないようでしたら、上手くいかなかったのだとお察しくださいますようお願いいたします」
     薫がカウンターに置いていたグラスを持ち上げる。
    「この会の成功と、皆様のスケートの充実に乾杯」
    「乾杯!」
     と愛抱夢の、場慣れしたよく通る声が響いた。その声に導かれるようにスネークを除く四人の声が続く。
     愛抱夢は、いつもの赤中心のS衣装に仮面をつけており、スネークはスーツ姿だった。店に入ってきた愛抱夢に、薫は「お前はその格好なんだな」と苦笑を浮かべていたが、「愛抱夢として招かれれば、僕はどこでもこの姿さ」と返されていた。
    「なあ、何が起こっているんだ、これ」
     色々な前菜を少しづつ綺麗に並べた皿を持って隣に戻ってきたシャドウに虎次郎は困り顔を向けた。シャドウのバックに、ランガを筆頭に食べ盛りの中高生達が、普段ではなかなか食べられない豪華な料理に興奮している姿が見える。
    「こっちが聞きたいぐらいだよ。チェリーからは、さっきの挨拶以上のことは聞いてねぇ。神妙な顔したチェリーに大切な祝い事を祝って欲しいって言われてのご招待だ。ただ、お前が決断しきれないなら祝い事は無くなるとは聞いている。最初は冗談かと思ったが、チェリーは本気だった。だから、俺も暦たちも来ることにしたんだ。で、何だか知らないが何を躊躇ってんだ?」
     どこかからかうようなシャドウに虎次郎はワインを勧め、自分のグラスにも注いだ。
    「俺は、薫から貸切で接待したい……いや、確かに接待とは言ってなかった。貸切でこの店を使いたい、としか聞いてないんだよ。人数は八人とは聞いて言いたが、お前らが来るなんて知らなかったし、俺も立ち会えとは言われていたが、それは料理人として、料理の蘊蓄なんかを語って、客をもてなせって意味だと思ってた」
    「それで。決断とやらに何か心当たりはねぇのか」
     決断。虎次郎が今、決めなければいけないのは賭けの内容のはずだ。シアラルーチェ以外の、薫の納得する大切なもの。
    「薫とのビーフに賭けるものを今日までに伝えることになってはいた。俺の大切なものってのが条件だ」
    「大切なもの? これまで、あんた達はビーフでそんなもん賭けてやってたのか?」
    「まさか。たいてい冗談みたいなモンばっかりだったよ。ちなみに、これまでに大切なものには、高いワインと、昔の写真と……シアラルーチェを挙げた。全部断られたが」
    「最後、随分エグいもんが混じってんな。賭けていいもんじゃねだろ、それ。あと、昔の写真ってどんなだよ」
    「そのままの昔の写真だよ。ちょっと世間様に公表するにはアレな某先生の若かりし姿が写ってるだけだ」
    「何、チェリーの昔の写真があるの?」
     ミヤが暦や愛抱夢達の集団からこちらへ移ってくる。手には水の入ったグラスだけだ。
    「もう食わないのか」
    「もう、色々食べたよ。どれも美味しかったけど、まだ出るんでしょ。食べ過ぎは良くないからね。それより写真ってどんなの?」
     少し迷ったが、用意しておけと言っていたからには見せてもいいのではないかと思い、カウンター席に一人腰掛け、もう一つのテーブルの方の話に混ざるわけでもなく酒を飲んでいた薫に声をかけた。少しばかり意地の悪い笑いを浮かべ、好きにしろと言うので、タブレットをミヤに渡す。
    「なかなか派手だろ?」
     シャドウも覗き込んでいるが、二人とも微妙な笑いを浮かべている。
    「あーうん。確かにそれにもびっくりしたけど」
    「も?」
    「これ、全部ジョーが撮ったの?」
    「そうだ」
    「すっごい枚数だね」
    「しかも、ほとんどチェリーの写真だ。他の連中も結構写ってるから二人の時の写真ばっかりってわけでもないんだよな」
    「写真番号がほぼ連番だから、チェリーのデータだけ抜き出したわけじゃないんでしょ」
     言われて初めて気がついた。
    「賭けの内容、大切なものって言ってなかったか」
     シャドウは苦笑していが、ミヤはあからさまに引いている。
    「何それ」
    「今日、ジョーがチェリーとのビーフで賭けるものの内容を、伝えることになってて、何か知らねぇが大切なものを賭けると言う約束らしい」
     ミヤが音を立てて長いため息をついた。
    「ねぇ、僕たちは一体何に付き合わされてるの? 馬鹿らしくなってきたんだけど」
    「まあ、なるよな。元取るためにしっかり食おうぜ。いい酒もあるみたいだしな」
     ジョーさっさと勇気出して。と言い捨てて、二人は食事を取りに行ってしまった。

    「やあジョー。随分悩んでいるようじゃないか。僕としては、お祝いの内容はもうチェリーと打ち合わせ済みだから、さっさと決めてしまって欲しいんだけどね」
     愛抱夢がワイングラスを片手にやってくる。グラスの中で揺れる赤ワインの色を見るに、メインと合わせるつもりで用意していた一番いい赤ワインを向こうのテーブルで開けたらしい。薫め、と思って見れば、やはり話の輪に入らいままいつものカウンター席に座り、意外にもスネークを含めてスケートの話で盛り上がっているらしい少し離れたテーブルを囲む暦達の様子を眺めて、愛抱夢と同じ赤ワインを飲んでいる。
    「お祝いの内容ってのは、つまり薫へのプレゼントと言う意味か」
     先ほどの暦たちから花束を贈られたように。
    「そうだよ。チェリーからの提案がなかなか悪くなかったから引き受けて、ついでに、こうやって協力することにしたんだ。せっかく僕が忙しい中時間を捻出しるんだし、さっさと決めてしまってくれないかな。面白そうとはいえ、僕が付き合うのは今回限りだ」
     何だそれ、と聞き返そうとしたところで「いらないことは言うなよ。愛抱夢」と薫の低い声が響く。怖い怖いと愛抱夢が白々しく肩をすくめる。
    「これだけ言っておくと、僕はこのお祝いとやらが、本来何を祝うつもりだかも知ってる。ランガくん等は聞いてないようだったが」
     もちろんチェリーに口止めされているけどねと唇の前に人差し指を立ててみせた。
    「ねぇ、ジョー。この店は君にとって何だい」
     愛抱夢の表情は仮面の下なのでよく見えないが、どことなく高校生時分の愛抱夢のような雰囲気を纏っていて、からかうように目を細めて虎次郎を見て続ける。
    「質問を変えよう。僕にとってのSとは何だと思う。例えば、スケートを自由にできる場。息抜きの場。イブを探す場。すぐ出るのはそれぐらいかな? でも、当然、もっとある。きっと、それは、ジョーにとってのこの店と同じなんじゃないかな。ああ、思いついても、口にしなくていいよ。僕の気に入らない答えを口にして、機嫌を損ねないで欲しいからね。頭の中だけで反芻してくれ。ねぇ、ジョー。ここは、チェリーを置いて行ってまで手に入れたかった大切な店なんだろ。それを勝ち取るって言うのはどういうことなんだい」
     置いて行ったってなんだよ、とは思ったが、愛抱夢はそれだけ言うと、チェリーが怖い顔で睨んでるから、そろそろね。と去っていった。
    「おい、ゴリラ。そろそろパスタだ」
     その代わりというには愛想のない薫の声が、再度響いた。

     使い終わった食器を一部回収して、虎次郎は厨房に戻った。戻ったというのもおかしな話だが、虎次郎の心理としてはそれに近かった。部外者には入れない聖域。
     皿のグラスも不足はしていないので洗い物は後回しでいい。まずは湯を沸かして、ニンニクを刻みと手順を改めて確認していくと少しは気持ちが落ち着いてくる。
     愛抱夢にとってのSとは何か。わざわざそんなことを言ってくるからには、虎次郎にとってのシアラルーチェと同等、もしくはそれ以上ののものと言いたいだろうことは分かる。いつも滞りなく運営されているので忘れがちになるが、あれだけの広い場所を管理し、多くのスタッフに滞りなく仕事をさせて、スケートを愛していてもマナーがいいわけでないスケーターやギャラリーに最低限とはいえルールを守らせるなんて並大抵のことではない。
     愛抱夢に勝てる見込みがあるかは度外視したとして、そのSを賭けてビーフをすると想像してみる。Sを潰すつもりではなく運営するつもりで賭けるなら、その者の人生でも捧げるつもりでなければ無理だ。つまり、
    「おい、パスタはまだか」
    「お前は腹を空かした子供かッ。前菜つまみながら大人しく座って待ってろ」
     戸口から声をかける薫に思わず反射で言い返す。
     今、何か大切なことを思ったような気がするが、あっという間に霧散した。
    「賭けの内容は決まったか」
    「まだだよ。料理の最中にゴチャゴチャ声かけるんじゃねぇ。気が散るだろう」
     珍しく薫は反論せずに、不安な子供のように手をぎゅっと握り締めて、悪かったと俯いた。

     愛抱夢がアメリカに旅立ってから薫は、空をぼんやり眺めてみたり、今まで難なくこなしていたトリックでミスして転んでしまったりと、明かに気落ちしていた。
     虎次郎はイタリアに留学することに決めたことをどう伝えたらいいのか迷っていた。薫が落ち着いたら伝えようと思っているうちに、月日はどんどん過ぎて行くが、薫は落ち込んだままだった。
     そんなある日、薫が深刻な顔をして虎次郎に話があると言ってくる。虎次郎の部屋で、宿題をしている時だったので、すぐに手を止めて緊張しながら、話を促した。
     話とは進学の話で、薫は東京の大学を三つほど受験する予定なこと、これまでの模試の結果から三つとも落ちることはほぼないと思われること。合格してからの話になるが、大学に通いつつ、かつて書道を嗜んでいた祖父が推薦する書家に習うことを条件に祖父が東京滞在中の家賃を出してくれることになったことを伝えた。
    「そっか。受験頑張れよ」
    「お前は、調理師の専門学校だよな」
     そこまではすでに薫に伝えていた。イタリア留学の話をするなら未だ、と虎次郎は思った。
    「なぁ、虎次郎。一緒に東京に行かないか。専門学校の費用は親が出してくれるんだろう? それはありがたく出してもらって、東京の専門学校へ行けばいい。東京でも沖縄でも学校に払う金額はそう変らないだろ? 住むところは俺と一緒に住めばいい。じいちゃんが出してくれるんだからお前は家賃は気にしなくていい。で、生活費はアルバイトをすればどうにかなるだろ。俺と一緒に住むんだから電気代とかは折半できるし。親にかける負担は沖縄の専門学校へ行くのと変わらないから、一緒に東京へ行こう」
     そう薫が誘ってくれたことは純粋に嬉しかった。愛抱夢がいなくなった寂しさを埋めたいにしても、それでも嬉しいと思った。でも、虎次郎はそれでもイタリアに行くべきだと思った。薫に置いていかれないために、きちんと、薫に祭りを提供できる者になる必要があると思った。
    「ごめん。薫」そう言ったとき、薫がどんな顔をしていたか虎次郎は覚えていない。自分の話をするのに必死だったからだ。
    「俺、イタリアに料理留学することに決めたんだ。向こうで一年専門学校へ行って、その後、何年かイタリアで修行するつもりだ。俺、自分がサラリーマンになれるともは思えねぇし、きちんと手に職をつけて、いつか自分の店を持ちたいと思ってる。そのためにはイタリアに行く必要があると思ってる。だから」
     だからの続きはずっと虎次郎の中にあるものだ。しかし、それは虎次郎の中に確かにあったが、言葉にできていなかった。
     だからで止まってしまった言葉の続きを薫は待たなかった。
    「わかった。お前がそう思うなら、頑張ってこい」
     拳をぎゅっと握りしめて俯く薫の姿を、虎次郎はきちんと認識できてはいなかった。

     あ、あの時の薫だ、と虎次郎は思う。
     でも、頑張ってこいと薫は言ったのだ。だから、虎次郎は薫はわかったくれたと思っていた。イタリアに旅立つことを寂しがってくれているとすら思っていた。
     でも薫は置いて行ったという言う。愛抱夢まで言ったからには、薫が愛抱夢にそう言ったのだろう。愛抱夢と違い、事前に、行かなければいけない理由も伝えたのに、八年も根に持っていたというのか。
    「薫」
     皆のいるテーブルに戻りかけた薫のところまで走っていって腕を掴んだ。
    「何だ、ゴリラ。痛いだろう」
    「お前、あの時、東京へ行こうって言ったの、本気だったのか」
     一瞬薫が怪訝そうな顔をしたがすぐ、真顔になった。
    「今さらなんだ。お前は冗談で言ったとでも思っていたのか」
    「冗談だって思ってたわけじゃないけど、何というか、愛抱夢がいなくなって寂しいかってたから。だって、お前、頑張ってこいって言ってくれたし」
    「他に、俺に何を言えって言うんだ。あの時は、お前が言うことは正し買った。お前の人生を考えるならその方が良いだろうが。だったらそう言うしかない」
     離せと薫が振り払った腕を、虎次郎はもう一度掴み直す。
    「愛抱夢は関係ないのか」
    「何を言っているんだ、お前は」
    「関係なく、俺と東京で暮らしたかったのか、薫」
     離せと暴れる薫の顔がさぁと赤くなっていく。ああ、薫――。薫の両肩をつかみ、力任せに押さえつけるにして、顔を覗き込む。
    「薫、薫、薫。俺は言っていいのか、俺の人生をお前に賭けるから。お前も人生を賭けろって。人生を賭けてビーフをしようって」
     薫は瞳を大きく見開いて、真っ直ぐ虎次郎を見返してくる。虎次郎の緊張が伝播したように、しんとした静寂が広がる。
    「ねぇ、ジョー。それ、プロポーズ?」
     静寂の中、ミヤのまだ高い声はよく響いた。
     周りの人間の存在を忘れていた虎次郎は、驚きのあまり、身動きどころか呼吸すら忘れて、立ちすくんだ。
    「あー、結局、今日はそういう集まりだったんだな。俺たちはプロポーズの立会人?」
     言う暦の声は呆れ声だ。
    「ジョー、チェリー。おめでとう」
     ランガはいつも通り。
    「はいはい。良かった、良かった」
     失恋の傷がまだ癒えていないシャドウはどこか拗ねたように。
     虎次郎は、え、あ、いや、俺は、ビーフを、ただ、賭を、と意味のない音に近いものを零すばかりだ。
     ん、んーと白々しい音を立てて咳払いをしながら、愛抱夢が立ち上がり、ゆっくりとした拍子で拍手をした。
    「ブラボー! おめでとう、ジョー、チェリー。僕からの二人の結婚のお祝いは、この集まりに招待された時にチェリーと約束していたビーフだよ」
     お祝いにビーフとの言葉に、虎次郎はようやく我に返った。
    「誤解しないでくれよ、ジョー。僕とチェリーのビーフじゃないよ。僕とスネーク、ジョーとチェリーのタッグマッチだ。楽しそうだろう?」
     何だそれ、と虎次郎が呆然とするのをよそに、勢いよく虎次郎の手を払い除けた薫の、心底愉快そうな笑いが店内に響いた。
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    しうち野

    DOODLEDK薫が、学校の宿題で虎次郎を主人公とした話を書きながら、すったもんだありつつ自分の気持ちを見つめる話。
    を書こうとしたのですが、仕事がアホほど忙しかったため、
    予定エピソードをいくつか削ったらジョーチェリ感が大分薄くなってしまいました……。

    この投稿の一つ下は、サマコレで展示したジョーチェリ小説です。
    良かったらこちらも読んでやってください。
     教室の窓から見える、運動場の堅い土すら抉るような雨が降っていて、止みそうにない。スケートに行くのは無理そうだった。今朝テレビで見かけた天気予報は今週ずっと雨で、この調子で降り続くなら今日はではなく、しばらくかもしれない。最近は、スケートが楽しいから気持ちが萎れる。
    「宿題は小説を書くこと」
     小説、と先生は口にした言葉を黒板に書いた。腹の出たおっさんでユーモアに欠けるこの先生は生徒に人気はないが、文字は丁寧で品があるし、授業の合間に披露される雑談は教養と古典愛に溢れるものなので俺は嫌いではなかった。
    「提出は一ヶ月後。原稿用紙五枚以上、文字数で言うと2000字以上で上限はありません。一つだけテーマを決めて書いてください。テーマは内容に関するものでも、文章に関するものでも構いません。例えば、主人公の心理描写やストーリーの意外性に力を入れたとか、文章のリズムに気を配ったとか」ここで先生はさりげなく教室全体を見回す。おそらくは興味を持っている生徒を見定めているのだが、雨で湿気った空気がそのまま蔓延していてクラスの空気はねっとりと重い。「文章の長短が読者に与える印象を考えて書く等、思いつきをただ連ねるのではなく、小説を自身でコントロールして欲しいのです」
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