甘えていいよ「はぁ…全くもう」
楽曲制作に集中し出すと、自分の身の回りの事は日に日に疎かになっていく恋人に『大丈夫?欲しいものある?』とラビチャを送ったのが2日前。その後既読がつくことはなく、少し寂しくて泣きたくなったがこんなの毎度の事だと自身に言い聞かせた悠は、どうせろくに食事も取っていないであろう巳波の胃に優しいものレトルトのお粥、スポーツドリンク、あとシュークリームを買うとコンビニのレジ袋をぶら下げてアポ無しでマンションへと来ていた。こういう時に、合鍵を渡されていて良かったと思う。慣れた足取りで部屋に向かい玄関の扉を開ければ、負の空気が途端に漂い出して眉を寄せた。
「巳波ー?」
返事は確実に返ってこないと確信していたものの、取り敢えず人の部屋に上がるのだから声は掛けてみる。案の定何も返ってこない。だが靴は揃えてある、居るのは確かだ。悠は意を決して靴を脱ぐと上がり込んだ。きっと作業部屋に居るはず、と真っ直ぐにその扉の前に足を向けるとノックをする。
「巳波、悠だけど。開けるよ」
ここで声を掛けてもまだ反応は無い。悠は小さく溜息をつきながらもドアをそっと開けた。そこには、薄暗い部屋の中作業机とキーボードに囲まれ、ストレスで掻き混ぜたのか乱れた髪のまま座る巳波の姿と、床に五線譜と作詞をしたのだろう丸めて投げ捨てられた紙ゴミが一面に散らばる地獄絵図。悠にとって付き合ってからはよく見てる光景だ。最初は驚いたがもう驚かない。取り敢えず今は、煮詰まっているであろうこの恋人を休ませるという使命がある。
「巳波」
「っ、…亥清、さん?」
背後まで歩いていき、ぽんぽんと肩を軽く叩くと酷く驚いたように細い肩が跳ねた。ヘッドフォンを外しゆっくりと振り返った巳波は、何日目の徹夜なのだろう目の下に隈が出来て疲れきった酷い表情をしている。
「すみません、集中していて気付きませんでした。冷蔵庫に飲み物が何かある筈ですから、好きに飲んでください」
「巳波は?ちゃんと飲んで食べてる?」
「ええ」
「嘘つき。ほら、1回休も?」
嘘をつくのが今日は下手くそだ。そんな彼を1度リビングへ連れて行こうと手首を掴むものの、ぱっと振り払われてしまう。余裕が無い時の巳波は、キツくてたまに傷付く。それを素直に顔に出した悠は、しゅんと眉を下げながらも再度、強請るように服の裾をくいと引いた。
「巳波」
この顔だと言う事を聞いてくれるのを、知っているから。
「……はぁ、分かりました。では30分程休憩します」
悠を今一瞬傷付けた事も、この作曲期間中寂しい思いをさせている事も巳波は理解した上で折れる。その瞬間に寂しげに下がっていた悠の眉はぱっと上がり表情も明るくなる。
「何か食べよ?お粥温めようか」
「ええ、お願いします」
「任せて!」
巳波の手をきゅうと握った悠は少し弾んだ声で問い掛ける。その姿を愛おしげに見詰める巳波の表情もまた、つられたように無意識に和らいでいた。
「椅子に座っててよ、オレ勝手にやるし」
「良いんですか?甘えて」
「巳波を甘やかす為に来たの」
「……ふふ、ありがとうございます。亥清さん」
1度繋いだ手を名残惜しそうに離すと巳波はダイニングテーブルへ、悠はキッチンへと別れる。手頃な深い皿にレトルトのお粥の封を開けて移すとレンジに入れて温める。
「巳波、スポーツドリンクも一応買ってきたけど。何飲みたい?」
「では炭酸水を」
「ん、了解」
2つのコップを取りながら問い掛けるとその返答に頷き冷蔵庫から炭酸水と、悠用に買っててくれているオレンジジュースを取り出し注いだ。それを先にダイニングテーブルに運んでやる。きっとまともに水分もとってないと思ったから。
「はい、もう少しでお粥出来るから取り敢えず飲んで」
「ありがとうございます、何だか喉が渇いたと思ってました」
しゅわしゅわと炭酸が中で小さく弾けるコップの中身をゆっくりと口にする巳波を確認すると、ちょうどレンジが温め終わった電子音を立てた。悠は再度、キッチンへ向かうとミトンをはめてお皿を取り出す。
「熱いから気を付けてね」
「何から何まですみません…」
「良いって、ほら。食べて?」
「いただきます」
再びスプーンと共にダイニングテーブルに戻ると巳波の前に置いてやる。息を吹きかけ熱を少し飛ばし、ゆっくりと口に運ぶ。何日まともにご飯を食べていなかったか、優しい味が胃を満たしていく様子に巳波の表情も少しずつ穏やかになるのを、向かい側でオレンジジュースを飲みながら悠は見詰めていた。
「ご馳走様でした」
「どういたしまして。じゃあ、寝よっか」
「え、寝ませんよ」
「30分でも1時間でも寝ないと、もう頭働かないよ?」
「慣れてますので」
「あーもー!巳波のバカっ、わからず屋!良いから来る!」
「ちょ…っ、亥清さ…!」
このまま言い合いになると確実に巳波に負ける。その前に寝かせなければと思った悠は、強行突破に出た。ぐいと相手の腕を掴みソファまで連れていくと先に自分が端っこに腰掛け肉付きの少ない太腿を軽く叩いた。
「おいで」
「……え?」
「膝枕、してあげる」
唇を尖らせ、自分で言いながらちょっと照れたように目元を赤らめる様子はとても可愛らしく、巳波は驚きを通り越して直ぐにその感情は愛おしいに変わり、何となく笑いが込み上げてくる。
「っ、あはは…ふふ、…っ、」
「えっ、ちょ、なんで笑うの!?」
「ふ、…すみません。亥清さんがあまりに可愛いから、…っ」
「い、意味わかんないんだけど!」
「ごめんなさい、もう笑いません。…失礼しますね?」
いきなり笑いだした巳波の反応は予想外だったか、悠は本格的に不貞腐れたような表情になってきて唇を歪める。機嫌を損ねて膝枕もやめるなんて言い出さないうちにと、まだ込み上げてくる笑いを堪えながら巳波はそっと悠の膝に頭を乗せて見上げた。
「…眠れそう?」
「ええ、多分。30分経ったら起こしてくださいますか?」
「分かった」
「…ありがとう、ございます」
そう呟いた巳波は、近くに感じる愛おしい人の気配と自分より高めの体温に心地良さそうにゆっくりと瞼を下ろしていく。
「ゆっくり休んで、巳波」
その悠の言葉に返事は無く、代わりに聞こえてきたのは穏やかな寝息だった。
終