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    廃景棺

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    廃景棺

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    牙√長義。何度でも恋をする話。

    二度目にこいねがう 夢を、見ている。

     ぬるい風に吹かれてふわりと翻る、夜空を映したようなダークブルー。すっきりとしたシルエットのシンプルなオフショルダーワンピースにはたっぷりとしたドレープが波打つように施され、ウエストを絞るリボンと合わせて彼女の薄く細い体を飾り立てる。膝下を隠すくらいの丈のドレスの裾は薄い布なのかそのように作られているのか、光の当たり加減できらり、きらりときらめく布の向こう側にある足元の肌が少しばかり透けて見えた。
     そのドレスと同じダークブルーのリボンと一緒に編み込んだ、ミルクティー色よりはほんの少しばかり色素の薄い色をした長い髪も。
     耳元を飾る明るいオレンジカラーの小さな石を中央にあしらった真鍮製の花が咲いているようなイヤーカフも。
     軽い化粧を施した、その顔も。
     普段の彼女を良く知る分、全く違う人間を前にしているような気さえして、異性に免疫のない心臓がどくどくと早鐘を打ったのはごく自然なことだった。
    「……なぁ、義乃」
    「はは、なんだよ。改まっちゃって」
     僅かな明かりの下に晒された細い首は生白く、なめらかな肌には到底不似合いな薄い傷痕が少しばかり目についたが、戦時下というにはおよそ不釣り合いな華やかさだった。気恥ずかしそうに困った顔をした令嬢の如き出で立ちの彼女も、洒落た洋服に着られているような状態の自分も。
     けれど、この日は、この日だけは、特別だった。少なくとも、彼女と自分にとっては特別だった。お互いの少ない休日に都合を合わせて、大事な話があるなんて言ってみれば受け持っている牙の少女からあれこれと飾り立てられた彼女は誰よりも綺麗だった。
     そうだった。綺麗、だった。誰よりいとしい、あの蜜色の瞳に恋をしていた。愛していた。焦がれて。ただ、冀って。

     ――夢を、見ていた。

     仕立ての良いリングケースの中に収まった、ちいさく輝く永遠の石を飾った銀色をした指輪を差し出せば、熱した飴のような蜜色が潤んで微笑んだうつくしいひと。
     思い返せば、「愛している」とたった一言伝えるだけでも難しい時代だった。昨日笑って酒を飲み交わした誰かが、また次の日にと手を振り合った誰かが、夢のような未来の先を話し合った誰かが、必ず帰ると微笑んだ誰かが、明日には死体となって帰って来るような時代だった。
     だから、自分はずいぶんと恵まれていた。伝える機会もあれば、愛しい人間がすぐ隣にいてくれたのだから。
    「よしの」
     熱っぽい声で彼女の名を呼んだ。緊張で少し上擦ったような発音になってしまったのは目を瞑ってほしいと誤魔化すように微笑んで、その細く傷の残る指先を掬って、女性にしてやわらかさよりもかたさを感じる手の甲に唇を寄せるなんて柄じゃない気取った事をして。
     そうして、「あいしてる」だなんて言ってみせればきっと、彼女はおかしそうに、それでも嬉しそうに笑う。笑ってくれる、“はずだ”。
    「阿賀野、もう起きろ」
     その、はずだった。もしもを夢見ている時点で、分かり切っていたことだった。告げられた言葉は夢の終わりを報せるもので、誰よりいとしい彼女の顔さえもう、黒く塗りつぶされてしまってなにも分かりやしない。
     けれど、あの日にこんな風に伝えられていたならば。恥ずかしさとかなんだとか、そんなもの掻き捨てだと放り捨てて愛を告げていれば。ああ、もしも。もしも、あの時、渡せなかったそれを渡して抱きしめていたのなら。

     そんな、後悔を抱き続けている。こんな、くだらない夢から目覚めることを未だ――


    「っよし……の……」
     夢。夢。……妄想ゆめ。終わった戦争時代、交わせなかった誓いの続き。もしもやたらればの夢想。それを人は、妄想ゆめと呼ぶ。
     彼、阿賀野長政が見たそれは、夢だった。妄想だった。妄想ゆめの中でさえ、夢を見ていた。
     何度同じ夢を見ても、何度同じ愛を伝えても、“あの”彼女は二度と戻らない。愛しているなんて伝えたくても伝わらない。
     居るのは、国の為にあらゆる“何か”を捨て去った彼女だけだった。ヒトではなくなった、恋しくも愛しい女。日ノ本の赤い稲妻――日ノ本七三式対拠点破壊兵器落雷型零式。名を、渦雷。それが、平賀義乃あいしたおんなだった。平賀義乃という女のからだを用いた、生体兵器だった。
     それ曰く、平賀義乃は既に死んだと言う。本来ならばそれぞれの牙の個体に応じて実装されている日ノ本という国そのものに従順で、そして人を殺す事を厭わないという程度のごく薄い味付けをされたベース人格に本人の人格をインストールするという人間の残り香を流し込む工程の際に恐らく、何らかがあってまるごと消し飛んだのだろうとのことだった。
     牙化施術というものはとにかく脳に強い負荷がかかる。脳というのは科学が発達した今現在であろうとも分からない事の多い繊細な臓器であり、人間の体で一番のブラックボックスだった。
     そのため、人間から後天的に牙となった後には良くある話ではあるが、部分的な記憶の欠落や改竄が確認されるような個体も存在した事を長政も知っている。
     渦雷のような例は特殊なケースだったと言えるだろうと言う事も、渦雷の言うように平賀義乃は既に死んでいると言っても過言ではないのだろうとも。
     悪夢を見たついでにぼんやりとそれを思い返し、枕とシーツに埋めたままだった上体を起こす。渡せないまま仕舞い込んだあのリングケースの所在がふと気になって、寝ぼけまなこのまま棚を漁り、引き出しを探してみるがこれがなかなか見つからない。
     引き出しを閉めて、そういえばやけに静かだなと思い至って寝室の扉を開けてリビングを見回し、今度こそしっかりと目が覚めた。
    「……い、ない……?」
     白い色をしたその影が、部屋のどこにも見当たらなかった。

     ◇

     リノリウムの床を蹴る。毛先にかけて赤いグラデーションのかかる白く長い髪をなびかせて、5cmほど高い踵をカツカツと鳴らして長い長い廊下を歩く。
     何度歩いてもどこか懐かしさを感じる白亜の壁。渦雷という牙が知らないはずのなにかを知る体が懐かしいとはしゃいでいる。当然、体の動きには決して出ないのだが足取りだけはいやに軽やかなあたり、やはり浮かれているのだろうと自分の体に少しだけ呆れてみせた。
     渦雷がやって来たのは中央塔と呼ばれる施設だった。正式名称は他にあるが長ったらしい上に牙と爪を管理する政府施設である事は周知の事実であるので区画に住む牙や爪はそれを中央塔と呼んでいる。
     その中央塔に渦雷は何の用事があるのかと言われれば特に用事はないが、眠る同居人を起こすのも忍びなく、かといって何かやる事があるのかと言われると何もないので彼が起きるまでの暇潰しにやって来ただけである。
     ただ、朝もそこそこに早いというのにエントランスは人で賑わっていた。内部まで入り込むとしんと静まりかえっていたが、渦雷はどちらかと言えばこの静けさの方が好ましかった。
    「……渦雷中佐」
    「んー? あ、黒鋼大将だ。元気?」
    「元気、ではあるな。君も変わりないようでなによりだ」
     背後から声をかけられ、振り向いてみれば懐かしい顔があった。
     切れ長で形の良い満月のような黄金の瞳に、短く切り揃えられた濡羽色の髪。見上げるほどの大柄な体格の男がそこに居る。義乃の友人で、渦雷の上司にあたる男――人間の身でありながら大将を務めあげた黒鋼大和が、声をかけてきた相手だった。
     進行方向をくるりと変えて、渦雷は大和の隣へと歩みを進める。珍しくあのアイデンティティとも呼べる特徴的なガスマスクを着けずに素顔を晒している事を指摘してみせれば「元大将と言えども規則には逆らえないからな」と肩を竦められたあたり、どうやら没収されているらしい。
     二人並んで鍵のかけられた部屋ばかりの長い廊下を歩きながらくだらない世間話に花を咲かせて歩く途中、大和は少しばかり陰のある表情を浮かべていてじい、と渦雷を見つめていた。
     それは、誰か帰って来ない人間を渦雷の中に探すように。渦雷の中に確かに居るはずなのだと縋るように。
     その祈りに対して、渦雷が持つ答えはたったひとつだけだった。
    「義乃はもう居ない」
    「同じ声で、顔で、そう言われると堪えるものがあるな」
    「そういうもんか?」
    「そういうものだ」
     同じ問い。同じ答え。何十何百と繰り返した同じ問答の後は決まって沈黙が落ちる。
     沈黙が落ちてもお互いの歩みは同じペースを保ち続けている。これは最早、一種の確認作業のようなものだった。
    「そういやなんか騒がしいな。今日なにかあったっけ」
    「ああ、バレンタインデーだからじゃないか」
    「ばれんたいん、でー?」
     沈黙が落ちれば遠くで賑わう声を思い出す。大和の言うバレンタインデーという言葉になんだか懐かしい気持ちになって、渦雷はことりと首を傾ける。
     それは人間の幼子が不思議がるような顔と良く似ていたし、当時の義乃がしらばっくれる表情にも近かった。
    「ざっくり言えば、想いを寄せる誰かや日頃世話になっている誰かに贈り物をする日だよ。みんな大体チョコ菓子を用意していたと思うが、花を用意していた奴も居たなあ」
     愛を伝える日。それは、兵器である渦雷に覚えはない。けれど、義乃にはあるのだろう。きっと、渦雷を未だ「義乃」と呼ぶ阿賀野長政とそういう時間を過ごしたのだろうとすぐに理解出来るほど、それは渦雷にとってひどく身近な感覚だった。
     身近だからこそ、渦雷の心臓は軋みを上げた。人を殺すより、誰かを踏み躙るより、弓をつがえるより、自分が呼び寄せた雷が体の上を走るより、ずっと、ずっと痛かった。その痛みがなんなのか、渦雷が知る由はないのだが。
    「……あんたはさ、寝て起きたあとの自分が正しく自分だって確証はあるか」
    「は?」
     藪から棒に投げられた問いに、答える言葉は持たなかった。つかつかと先を歩く渦雷の表情を、大和が窺い知る事がないのと同じように。
     耳に痛いほどの静寂が落ちている廊下に淡々と零される言葉がいやに鼓膜に響く。まるで、直接耳元で囁かれているような気さえするが、渦雷の姿は大和の隣にはなく、一歩か二歩ほど前を変わらずに歩いていた。
    「眠っている間に自分が入れ替わってるんじゃないかって、思ったことはないか」
     かつ、かつ、と規則的な足音が二人以外に誰も居ない廊下の中をあちらこちらに反響する。
     何か言いかけて喉から出かかったはずの言葉は変わらないトーンの声に制されているように飲み込みも出来なければ吐き出しも出来ないまま、エントランスや他の階に続くエレベーターホールへと足を踏み入れた。
    「渦雷は――俺は、あるよ」
     くるりと大和の方へと向き直った渦雷は普段となんら変わりはなかった。いっそ、違和感さえ覚えるほどに口元が微笑んでいる。微笑む口元に、思い出す。義乃は良く笑っていた。なんだかんだと言って、義乃のあの無責任で無根拠な笑顔には大和も救われたものだった。
     もう一度渦雷の顔を目に映せばいま、目の前に居る渦雷の浮かべる表情は、その笑顔とまるっきり同じ表情だった。
    「俺が渦雷なのか、義乃なのか、分からなくなる」
     そう言って、笑っていた。笑顔以外を忘れた顔をして笑っている。大和は冷や水を頭から被せられたような心地だった。
     義乃であって、義乃ではない。その事は既に渦雷の口から語られている。牙化施術の際に平賀義乃と呼ばれる女は死んだのだ、と。体は確かに平賀義乃であるが、その中身は既にその体がこれまで生きて来た平賀義乃ではない、と。魂だけが死に、器だけが生き残ったのが現在の平賀義乃であり渦雷なのだと。
     大和たちが義乃を焦がれ渦雷を見て嘆くように、渦雷もまた己が義乃でない事を知っている。
    「でも義乃じゃないのは分かるんだ。俺は、義乃じゃない。みんなが帰ってきてほしいって願ってる、義乃じゃない。それだけははっきり、分かる。でも、みんな義乃が好きなのも分かってる。義乃を愛してるから、みんなにとって義乃は忘れがたいひとだから、だからみんな俺を義乃だと呼ぶ。帰って来ない事も分かって、そう呼んでる。そりゃそうだ、義乃が“渦雷”になったんだから」
     多くの落胆を見た黄金よりも眩い蜜色が、まっすぐに大和を射抜く。思惑の裏側まで見透かされそうなほどの視線が大和を確かに貫いていた。
     渦雷は知っている。ヒトの積み重ねた数多の罪過の一端であるからこそ、戦争に勝利するという大義名分のために牙という兵器に身を窶した人間の数だけ、それ以上の悲嘆が、後悔が、そらされる目の中にあるのだと。
    「別に悪いなんて言うつもりないんだよ。義乃が愛されてるっていうのは渦雷にとっては喜ばしいことだ、嫌われてるよりはずっと良い。だってほら、守ったって感じがしてさ、達成感? ってやつ? うん、そういうのがある」
     そして、牙であるからこそ渦雷は理解していた。人の身に戻れやしない体がどんなに恐ろしいもので、泰平の世となるこれから未来さきを生きるものには不要なものでしかないのかを。兵器であるこの身に希望も展望もなにもない事を。
     それを渦雷自身が口にする事は、ただの自己否定には留まらない事も、知っている。だからこそ渦雷はそれを口にせず、おくびにも出さず、ただ義乃という女が愛されている事は幸福だと笑った。
    「……でもさ、ときどき、ここに穴があいたみたいになるんだ。俺が義乃のままだったら、もっとみんなよろこんでくれたのかなって。阿賀野もあんなに魘されずに済んだのかなって。そもそも、義乃おれが何を考えて、どうして牙になったのかなんて渦雷おれには分からないけどさ」
     大和には笑ったまま憂うその顔が義乃のそれとはまた違うように映ったし、渦雷かのじょは感傷を隠さないと知って心のどこかに安堵さえ覚えた。
     そして、その安堵の次に来たのは疑問だった。たずねられたのは確か、中央塔のエントランスがやけに賑わっている理由。そしてそれが恐らくはバレンタインデーというかなり昔に外つ国から流入した文化が日ノ本という島国の中でかなり独自に発展し、本来の意味合いからは若干……いやかなりズレたイベント事なのだという事。
     何がどうしてこの話に繋がったのだったかと今度は大和が首を傾ける番だった。
    「……俺はバレンタインの話をしたよな?」
    「そうだな」
    「今の話は関係ある、のか……?」
    「うん、ある。ばれんたいんは好きな奴に好きって言う日だってあんたはさっき言ったけど、好きな奴に好きって言えない時はどうしたらいいんだろうな」
     聞き返してはみたが、渦雷からの返答はいまいち要領を得なかった。寧ろ、余計難解になったのは気のせいだろうかと考えて、難解なのは話の繋がりよりも渦雷の方だろうと頭を抱えたくなっただけだった。まあ、後天牙というものは概ね複雑難解なものであるのは戦争時代からのお約束のようなものである。
     大和自身、何度頭の中で話の前後をつなげようとしても上手くいかず、やはりバレンタインのざっくりとした概要と渦雷が話した内容と返答は噛み合わないように思えた。
    「……すまん、話が見えないんだが」
    「結構察し悪いよな、あんた。そういうところがある意味身を助けてるんだろうけど」
     渦雷の返しから察するに、どうやら要領を得られなかったという形容の方が正しかったらしい。
     呆れと皮肉を混ぜた軽口を間髪入れずに叩く渦雷がううんと唸った。少しの逡巡のあと、渦雷は言葉を選び、つまりな、と悩める年頃の女のように口を重たげに動かす。
    「渦雷と義乃は同じだけど違う。渦雷は義乃じゃないし、義乃は渦雷じゃない」
    「まあ、そうだな。終戦前に君と義乃は違うと嫌というほど思い知らされた」
    「そういうの一言余計だって言うんだぞ。まあ良いけど。……あー、つまりさ、阿賀野は義乃にもう言えないだろ。好きだって。俺に言っても仕方ないし、そういうの」
     そこまで言われて大和は合点がいった。あまりにも回りくどいとも嘆息したくなったが、渦雷がここまで回りくどい言い回しをするのは大和が平賀義乃という人間の関係者である事も原因のひとつなのだろう事は想像に難くなかった。
     更に言えば語った事はすべて、本心なのだろう。渦雷は平賀義乃である事を求められたが、渦雷にそれはかなわない。平賀義乃という人格が喪われる形で死を迎え、渦雷という人格が新たに誕生したのだからそれは当然の話だった。まるっきり同じ人間が二人と居ないのと同様に、渦雷は「平賀義乃」そのものには成れない。
     渦雷は元より、酷な事を周囲から望まれていたのだ。消失した人格とよく似た言動をするのはそれこそ周囲の望みをなぞったからだろうし、阿賀野長政という男に対して他よりも強い負い目を感じている。渦雷かのじょはまさしく、鏡だった。
     尤も、渦雷が負い目に感じている後悔が義乃の頃からあったものなのかは、大和に知る術はない。しかし恐らくはきっと、渦雷に“そう”させるのは大和たち周囲の人間に他ならないし、渦雷がこうして自身は義乃ではないと繰り返すのは渦雷なりの優しさで、「俺に言っても仕方がない」と言うのも長政を慮るひとつだった。
    「義乃が阿賀野をどう思ってたのか、とか、それは分かるんだよ。でも、それは義乃のものであって渦雷のものじゃないからはっきりはしない。……けど、俺も阿賀野の事好きだし」
     一見落ち込んでいるようにも見える様子でぽそぽそと呟く渦雷の言葉に大和は目をまるくした。それはもう、ネコの瞳のように。
     まあ、素直に零した言葉がそれはそれは意外の一言に尽きるものだったし、戦時中に麾下に居た頃はほぼほぼゼロだったように記憶している情緒がいつの間にそんなに育ったのかという驚きの方が強かったのだが。
    「……好きなのか?」
    「うん。好き。義乃と、きっとおなじ。でも義乃の方がもっと好きだったのかもしれないけど」
     どこか懐かしそうに、大事なたからものを抱えるようにして渦雷は笑った。
     屈託のない笑顔と何の混ざり気もない好意は確かに渦雷が自分ではぐくんだものなのだろう。義乃と同じように、同じ人間に恋をしたのは何かのいたずらなのか、あるいは運命という名の必然なのか。それは誰にも決して、それこそ本人たちでさえ分かりはしないのだろう。
     あるいは、その恋こそが渦雷が正しく平賀義乃である証左であるのかもしれない。そう思い至った大和の顔には穏やかな笑みが浮かんだ。
    「……そうか」
    「なんでそこで笑うかなァこの人はよー」
    「いや、喜ばしいなと思って。本人に伝えてやってほしい。喜ぶだろうから」
    「……そうかな」
    「そういうものだ」
     初期設定の通知音のままのメッセージアプリを開いた渦雷が「あ」と言葉を漏らす。
     画面には数分置きの着信履歴と、今どこに居るのかというメッセージの山。山。山。ついでに言えば通知は99+という表記になっていた。
    「……なんで?」
    「義乃はどうしてすぐに報連相を忘れてしまうんだろうなあ……」
     そういえば、阿賀野長政という男はいま自分の隣に居る女が突然行方知れずカッコカリになる事がド級のトラウマになっているらしい……と聞いた記憶を大和が口元だけ引き攣らせた真顔のまま思い出すのと、渦雷がメッセージアプリをタスクキルして首を傾けたのはほぼ同時だった。

     ◇

     大和と別れ、中央塔を出てすぐ。血相を変えた長政に渦雷は早々に捕まった。
     片手で首根っこを親猫が子猫の首を銜えるかのように捕まれ、もう片方の手で手首を捕まえるものだから端から見ると結構な体勢だったが、指摘する他人というものは残念ながらこの場には居なかった。
    「義乃!!」
    「阿賀野おはよーメシ食った?」
    「お、おはよ……じゃなくて! 起きてんなら起こせよバカ!! 朝から体感温度十度くらい下がったんだけど!? メシはまだだよ!!」
    「起こすのちょっとかわいそうかなと思って。あとメッセージは入れたじゃん、出かけて来るな~って」
    「行き先! を! 入れろ!! つってんだよォ!!」
     のんきにけらけらと笑う渦雷と、肩で息をする長政の対比はひどくアンバランスだった。
     普段はそう釣り上げる事のないトパーズのような色の瞳がいっそ泣きそうになっていてまるでいじめっこといじめられっこの構図だが、蓋を開けてみれば心配性な同居人相手に報連相の不足をキメただけ、という至極単純且つ痴話喧嘩もいい加減にしておけと頭の一つでもはたきたくなるような理由でしかないので、まあ世話がないものである。
     ぜえぜえと息を切らせている様子から方々を走り回ったのであろう長政の、あちこち探したんだからなという恨み言に渦雷は苦笑いを返した。
     何せ、渦雷は牙である。誕生から成人するまではヒトであったといえども、今現在は日ノ本政府に管理されている牙の一個体。中央塔の管轄する区画から出られるはずもないのは当然の話だった。
     というのも中央塔が管轄する区画にはゲートと呼ばれる、それはそれは立派な門が備えられた壁のようなものが分かりやすく聳え立っており、そのゲートから向こう側にある日ノ本帝国という国が擁する領土に牙と爪は原則出る事が出来ない。
     これぞ政府の必殺・先送り対応……にしては良く出来た門構えをしてはいるものの、御上の意向というものはいつの時代も下々の民草には理解不能であるものというのが一般的なので渦雷は特に気にした事はなかった。
    「ごめんってばー反省してるしてる」
    「義乃がそう言う時大体反省してねーよな」
    「そうだっけ、そうかも」
    「ああああもう……ほんと、ほん、マジ義乃ほんとそういうとこだぞ……!!」
    「まあ善処するする、ほんとほんと」
    「善処は実質ノーだろうが!!」
     渦雷の投げる言葉全てに条件反射なのか息を整える暇もなくツッコミを入れきり、渦雷を捕まえた時よりも荒い息を落ち着けるように長政は深く、深く溜息を吐き出した。それはもう幸せの十や二十は裸足で逃げ出してしまいそうな様相である。
     原因の渦雷はと言えば、ほんの少しばかり涙が目尻の方に滲んだのは指摘しないでおくのが人情というものだろうとそれ以上の言葉を続けず、長政の息が整うのを大人しく待つ事にしたらしい。……が、まず人情の使いどころはどう考えてもそこではないし、それ以前に指摘する人間が誰も居なかった。
     長政は元より己は体力が無い方だと自覚はしているが、それはそれとしてなんだか情けなくて仕方がなくて、おまけに相手取った女は話は聞いているのかいないのかいまいち分からない。というか原因はその話の聞く聞かないをはっきりしない女である。
    「そーいや阿賀野、今日はバレンタインっていうんだってな」
    「へ……? あ、そ、そう、だな……?」
     とくればやり場のない怒りのような悔しさのような、心配損をしたような感情が心中をぐるぐると渦巻いても仕方のない事だし、呼吸が落ち着いたら文句のひとつやふたつ、いや十くらいは言ってやると意気込んですぐのこと、藪から棒に浴びせられたのはバレンタインという単語だった。
     当然鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった長政がクエスチョンマークを頭に浮かべながら返事を返せば、手触りのよさそうなふかふかの耳がぱたりと機嫌良く揺れる。しなやかな尾が長政の手首にくるりと絡んで、そのついでのように渦雷は自分を掴む手首を外して握り直した。
    「だからさ、一緒にチョコ買いにいこーぜ。おいしーやつ! 阿賀野、あまいものすきだろ?」
     当然のように手を引き、ショッピングモールの方角へと足を進める。ぐいぐいと引っ張る力は強くはあるが痛くはなく、力を加減している事が十分に察せられた。
     渦雷の思い付きは割と良くある事で、長政は毎回振り回される立場だが大抵はどこかに出掛けたいだったり、中央塔のシミュレーションシステムを使いたいだったり、とにかく長政が同伴でないと難しい事ばかりだった。
     だからだろうか、一緒にチョコレートを買いに行こう、食べに行こうと手を引っ張られて咄嗟に立ち止まりも出来なければ「どうして」と聞き返しも出来なかった。
    「え、あっちょっ義乃!? おい待てばか引っ張んなよ!!」
    「やぁだ。あ、でも渦雷って呼んだら考えてやってもいーよ、阿賀野」
     太陽の光が蜜色の瞳をきらりと輝かせる。モノクル越しに見たそれはいやにきらめいて、真昼の月が目の前にあるようだった。
    「そこは止めるじゃないのな……ていうか、なんで……」
     ふと、脳裏に忌まわしい記憶が呼び起こされる。愛という情でさえなかった狂気を体現した、あの狂い果てた男。平賀義乃いとしいおんな渦雷へいきにした男。
     私の渦雷と、あれは呼んでいたから。彼女は確かに、平賀義乃であったから。だからもう一度手元に手に入れてから現在に至るまでに渦雷を正しく「渦雷」とは呼びならわさなかった。忌まわしい記憶とその名は確かに、長政の記憶に紐づいて苦い記憶となっていたからだった。
     張り詰めた表情に変わったのを、長政は自覚していた。長政が自覚出来るような変化を目の前の渦雷が見逃すはずもなく、口元だけで微笑んで見せた。
    渦雷おれが阿賀野に恋してるだからだよ」
     はっと目を見開いたのは、微笑んだ渦雷の口から恋を報せられたからか。あるいは、聞き覚えのある声の甘さに引き戻されたからなのか。それは長政にもわからなかった。
     ただ、見つめられていた。きらきらとひかるうつくしい瞳にまっすぐ射抜かれていると理解した時に思い出したのはあの頃と同じ感覚だった。
    「義乃の方が好きだったかもしれないし、阿賀野が義乃を好きなのは知ってるよ。知ってるけど……俺は阿賀野が会いたい、阿賀野が愛してやまない義乃を呼び戻せやしないから。だから、さ」
     懐かしいような、目新しいような、あるいは見覚えがあるようで初めて見るような、陽光の下の瞳は熱くあつく熱した飴のように色を濃くして、一度その瞳は瞼の裏へ隠される。
     すぐそばの雑踏が、やけに遠い。再び開いたまなこの色は夢で見たあの色とまるっきり同じ色だった。
    「二度目はちゃんと、悔いのないようにしてくれよ。阿賀野長政」
     花がほころぶようにわらったその顔が在りし日の彼女のままなにも変わらなかった事に、その日彼はようやく気が付いた。
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