1.きみの好きな人
「それでね、結局来週の日曜日に一緒にライブに行くことになったんだ。ほら、繁華街に出来たビルの上の。」
「ふ~ん。今ってどのバンドが出てるんだ?」
「えっとね…」
スマートフォンを操作して、彼女はたどたどしくバンドの名前を読み上げた。オレは首をかしげる。
「なんだよ。きみは知らないバンドってこと?」
「実はそうなんだ~。先輩が、行きたいって言うから。」
「で、きみは行きたいの?」
「どうだろう。先輩とのお出かけは嬉しいんだけどね。」
ふぅ、と物憂げに溜息をついて、綺麗に梳かれた前髪がふわっと揺れる。彼女から華やかなトリートメントの香りが鼻を掠めた気がして、罪悪感に喉を鳴らした。
無防備な彼女はそんなことには気づかずに机に身を乗り出して、オレは内心ギョッとして椅子をこっそり引く。だから、近いんだって。
眉をしかめて言う。
「それでね、本題なんだけど。希くん、今週末空いてたらお買い物に付き合ってくれない?服を新調したくって。」
「もちろん、付き合うよ。でも例の先輩と、この間のデー…出かけた時も新しい服で行ってなかったっけ。また買うんだ?」
「あんまりあの服、好評じゃなかったんだ。もっと可愛いのがお好みだそうでした。」
「そっか。それは残念だったな。」
「う~ん…。先輩の好みってよく分からなくって。」
彼女が座ったままグイッと腕を伸ばし、教室の窓を開けると、途端に外の音がワッと飛び込んできた。グラウンドで頑張る野球部の声。わいわい談笑しながら歩いている生徒たちの声。どこかオレたちだけ切り取られていた放課後の教室が現実味を取り戻していく。
夕焼けに染まるグラウンド。どこか遠くに視線をやりながら、ぽつりと漏らす。
「最初の頃はデートっていうだけでドキドキしたのにな。」
ぼんやりしたパステル色のオレンジが彼女の横顔を照らして、その頬にまつ毛の影が黒々と落ちる。そしてオレは思う。
最初の頃の彼女は、どうだっただろうか。
なんて、な。
思い出すふりなんてしなくても、あの時の彼女はオレの脳裏にべったり張り付いたまんまだ。窓から入る風が彼女の髪を乱す。秋、出かけた帰りの海岸。あの時も、どろりとした濃厚なオレンジが彼女を飲み込んで、なんか別世界って感じで。逆光で彼女の表情は上手く見えなくて、そのくせ、はしゃいで上がった口角だけ、やけにくっきりと見えた。
「希くんに、わたしの恋を応援してほしいの。」
あぁ、とも、うんともとれない、無意味なうめき声が出る。きみの恋は、オレより先に始まっていたんだな。
「希くんに応援して貰えたら、わたし、なんでも頑張れる気がするんだよね。ほら、凄い人だから、希くんは。」
ねっ!とオレに笑いかけた気がする。本当は見えないけど。
ひく、と痙攣する頬。海風から叩きつけてくる冷たい風が鼻先をジンジンと痺れさせ感覚を奪っていく。やっぱりオレは陸上バカだもんな。諦念。脳裏に浮かんで、消える。タタタと無数の選択肢が浮かんでは脳内を過ぎ去っていく。やけに頭だけは冷静なのが自分でも煩わしい。
オレは、きみが幸せなら、いいな。
オレを幸せにしてくれたきみが、幸せならいい。だから。
「もちろん。普段きみの応援で力貰ってるからさ。今度はオレがきみを全力で応援する番ってことだな!」
その白い歯だけ浮き上がって見える。彼女は、多分ありがとうって言った。オレは、それを他人事に聞いて…
「オーラーーーーイッ!」
耳に飛び込んできた怒号と湧く歓声にハッと意識が引き戻される。
『すごいねぇ~』なんて、ぼんやりした様子の現在の彼女は、ファッション雑誌をパラパラめくる。そんで、また小さくため息。なぁ、その雑誌、普段読むやつじゃないだろ。
きみが幸せだったらいい。
きみが幸せなら、オレは諦められるんだ。
だけど最近のきみは、しんどそうな事が増えたな。
あの時、オレだってきみが好きなんだけどって言っていたら、どうなっていたのか。詮無い妄想だ。だけどつい考えてしまう。
得意なはずの脳内シミュレーションはこんな時ばっかり動かなくて、ただ今日も、どろりとした夕焼けの海辺で残酷に笑うきみの姿をリフレインするだけだった。
・・・
2.わたしの好きな人
壁にある電気のスイッチを押し込むと、パチパチ…と不安定な音を立てて蛍光灯が点灯した。
ホッと息をつく。放課後の部室って、誰もいなくてなんだか気味が悪いなぁと思っちゃう。それが自分が1年以上過ごした教室でも。
ちょっと曇り気味の冬空はどんよりとしていて、夕方なのに仄暗い。いくら蛍光灯の白で満たしても、なんとなく暗い気がする。
さて、と机を2つ寄せて自分のホームを作る。カバンを置いて、壁際に設置された資料用ラックに足を向けた。
一昨日、パッチワークの作品は作り終わってしまった。我ながら良い出来だったから、次はやったことのない刺繍に挑戦したい。
同じことを繰り返し高めるのも大切だけど、大きな手芸という世界の中でわたしの一番を見つけたいんだ。…なんていうのは、誰かさんの影響を受けているのかなぁ?
ラックに収納されたファイルに手を伸ばす。先輩たちの過去の作品をファイリングされた白いファイルで、使った素材や手法が記載されている。
だけど、腕を伸ばしても背伸びしてもあと数センチ届かない。もう、面倒くさいな。視線をめぐらすと、教壇脇に脚立が立てかけられているのが見えた。
「もう。生徒が閲覧する用なのになんで取りにくい場所にあるんだろう。」
脚立に手をのばそうとした瞬間。
音もなく、右手側にある教室の扉が開いた。反射的に顔を向ける。逆光で姿が視認できない。ただ、黒い。ひょろりと長い真っ黒いその影は、固まったわたしを不思議そうに睥睨すると、腕をにゅうと伸ばしてー…
「きゃーーーーーっ!」
「うわっ!?ちょっ、」
「やだやだ、助けて―っ!」
「落ち着いて、僕だよ、僕。ほら、見て。見なさい。」
「…へっ?」
あれ、聞いたことある声…。
驚いて腰が抜け、床にぺたりと座ったまんま恐る恐る顔を上げる。と、そこにはわたしの大好きな先輩がいた。
1つ上の先輩で、2年生の頃から部長を勤めている落ち着いた人だ。その姿を認めた途端、一気に頬が熱くなる。
「ご、ご、ごめんなさいっ!わたしお化けかと思って…っ」
「お化け?…あぁ、はばたき学園の七不思議があったね。確か、誰も居ない教室で遅くまで残っているとー…」
「や、やめてください…っ。」
「ごめん。君の反応があまりにも可愛くて、ちょっとからかっちゃった。ふふ。」
「うぅ…。」
先輩、楽しそう。
今日は機嫌が良いみたい。腕を引いてくれて、わたしはよたよたと立ち上がった。
「ところで、先輩も何か作業があったんですか?」
「ん?ないよ。君が部室に入るのが見えたから、僕もつい、ね。今日は君に会えてなかったから。」
「あ…そ、そうですか。」
ニコッと色素の薄い瞳で微笑まれて、わたしもへらりと笑い返す。
「で、君の作業は何?僕が手伝えることかな?」
「今日は過去の作品ファイルを閲覧しようと思って。」
「あぁ、だから脚立を取ろうとしてたの?僕が代わりに取ってあげるよ。ほら、君は短いスカートだからね。」
「あっ…は、はい。ありがとうございます。」
ふっと笑って先輩が壁の資料用ラックに向かう。
彼が背を向けた瞬間に慌ててスカートの丈をひざ下に調節する。あぁ、もう。今日は会えると思ってなかったから油断したなぁ…。
「ねぇ、何冊かあるけど何年度のものを見たいの?」
「去年のです。そこの、白い…」
「オーケー。去年のものだね。」
わたしじゃ到底届かない位置にあるファイルに、その腕を伸ばして軽々とピックし、渡してくれた。未だに先輩が隣に立っていると胸がどきどきとはち切れそうになってしまう。
王子様みたいな、きれいな人。白い肌に、色素の薄い髪と瞳の色。スラっとモデルみたいで、ショートカットの女性って言われてもちょっと信じちゃうくらい。
この細い指でつむがれる世界観が好きで、一目みて恋に落ちたのが入部してすぐだった。それから、先輩と仲良くなって週末にはよく出かける関係になった。
今でも目が合うだけでドキドキして、未だに上手く話せない。それに、微細な作業をこなす彼は作品と同じくらい、繊細で危ういところがある。もちろんそれも素敵なんだけど、たまにぼんやりなわたしが変なことを言って、不機嫌に睨まれてしまう時がある。
もっと素敵な女性になって、彼を理解して、笑顔で過ごせるようになれればいいなぁっていうのが、当面の目標だ。
蛍光灯がついていても仄暗い部室に2人きりって、なんだか少女漫画みたいでドキドキする。椅子に腰かけながら一緒に見ようと誘う先輩は、きっとそんなこと意識してないに違いないけれど。
わたしは先輩の正面に回る。と、先輩が自身の隣の椅子を引いた。どうやらこっちに座れという事らしい。嬉しさに緩む頬をバレないようにきゅっと引き締めて隣に座ると、柔軟剤の良い香りがした。ふわふわして落ち着かない。震える手でファイルを開き、パラパラとページをめくる。
「次に作るのは刺繍だっけ。今までパッチワークが多かったのに、急に方向転換?」
「方向転換っていうか、新しいチャレンジをしてみたくって。自分の幅を広げて、いろんな表現方法を試してみたいんです。」
「へぇ。それは勉強熱心だなぁ。」
ぱら、と次のページが現れたところで、先輩の手がめくられるページを止めた。そして、ある作品をトンと指で指し示す。
「この作品なんて、君好みかなぁ。」
「あ、先輩の名前だ!すごい…1年生の時点でこんな作品を作っていたんですね。」
「あはは、ありがとう。でも中学からやってたんだから、こんなものだよ。…君は高校生から始めて2年目でしょ?だけど他の3年よりよっぽど上手だ。本当に努力家だね。」
「そんなこと。わたしなんて努力家だなんて言うほどのものじゃないんです。これくらい、普通なんです。」
脳裏にある男の子の顔が浮かんだ。
大きな才能を鼻にかけることなく、毎日努力をする人。ああいう人が本当の努力家というんだと思う。
彼にとって努力は当たり前のことで、辛いという次元にないというのだから笑ってしまう。
ふっと影が落ちた気がした。ついと横を向くと、先輩の切れ長の目とパチリと目が合った。それだけで胸がぎゅうっとつぶれて、ハァと息が上がる。
「…てっきり、僕の作品を見て君が刺繍を始めようとしたのかと思っちゃった。」
「えっ!えっと、わたし…」
「思い上がりだったみたいで恥ずかしいな、僕。」
なんて返したらいんだろう。少し残念そうに目をすがめる先輩の顔が少しづつ近づいてくる。やばい、わたし、今日肌のコンディション良くないんだけど…!
汗がじわりと滲んで、また息がー…
ーブーッブーッ。
「あ、ごめんなさい。友達から連絡が。」
「あぁ…うん。どうぞ。」
先輩が興をそがれたみたいに肩をすくめる。
緊張するようにピンと張り詰めていた空気が急速に緩んでいく。ホッとしてスマホを見ると、それは希くんからの連絡だった。
ー部活終わったよ。もしまだ学校にいるなら、一緒に帰らない?
どうですか?の文字を背負う馬のスタンプが来て、思わず笑う。
これは羽ばたき動物園の公式スタンプで、希くんが好きな馬のキャラクターだ。この前、動物園に行ったときに盛り上がって2人で買ったんだっけ。あの時の希くんのはしゃぎようったら。
思い出して笑って、タップする。
ー部活おつかれさま。まだ手芸部に残っているから、校門で待ち合わせしよう。
ー良いよ、オレそっちに迎えに行くから待ってて。
ーそんな、良いよ。今から準備するから、あと5分で校門まで行けると思う。
ー走ったら5秒!良いから待ってて。
「ふふ、5秒で着くわけないのに。」
「…例の陸上部の友達から?」
やけに冷めた声に慌ててスマートフォンをポケットに捻じ込んで、先輩に笑顔を向ける。
「あ、ごめんなさい。そうです、颯砂くんです。部活が終わったみたいなので、一緒に帰ろうって。」
「ふ~ん。で、君は一緒に2人で帰るんだ。君って、男女の友情はあるって思うタイプ?」
「えっ。男女の友情、ですか?特別考えたことは…」
暗ったい夕方のオレンジがギラギラと先輩の髪に反射している。
不愉快そうに眇められた、瞳。
あ、何かわたし不味いことを言ったんだ…そう自覚した瞬間、指先から温度がザァッと引いていく。
「君は僕が他の女の子と一緒に登下校をしていたらどう思うの。ランチタイムを過ごしていたら?それでも友達だってしれっとしてたら。」
「わ、わたし…」
「君はその時に怒る権利はないわけだ。だって男女の友情は成り立つって思ってるんだろ。一緒に遠出をして、ホテルに泊まるってなっても友達だから大丈夫なんて言うタイプ?本気かよ。」
「せ、先輩、待ってください、わたしー…」
バクバクと心臓が嫌に跳ねて呼吸が浅くなる。どうしよう。なんて言ったらいい?先輩はどうして怒っているの。早口にまくし立てられて、ただ頭が真っ白になっていく。口唇が震える。呆れた先輩が深いため息をつく。その音に胃がギリギリと締め付けられた。
意味のない『えっと…』を繰り返していると、背後でがらりと勢いよく扉が開いて、影が飛び込んできた。思わず先輩と2人でそちらを向く。
「お待たせーっ!」
静かな手芸部部室に似合わない大声。
いつもみたいに口角を上げたニコニコ笑顔で飛び込んできたのは、希くんだった。
びっくりして固まっているわたし達を見て、慌てて頭を下げる。
「と、お疲れ様です。…先輩もいらっしゃったんですね。」
「お疲れ様。僕はもう帰るところだよ。先にひとりで失礼しようかな。」
先輩がわたしにニコッと笑いかける。さっきまで怒っていたのが嘘みたいに、柔らかく、ゆっくりと。
「どうやら、彼女は君と帰るみたいだからね。」
ひゅっと喉がしまる。『あの…』と漏らしたわたしを遮るように希くんが言う。
「オレが彼女を誘ったんです。すみません。」
「そうみたいだね。じゃあ、2人とも気を付けて。」
わたしの肩をぽんと叩く先輩に、2人でペコリと頭を下げてその背中を見守った。
ガチガチに固まっていた身体から、ぷしゅーと音を立てて空気が抜けていく。呆けて先輩が去っていった扉をぼんやり見つめていると、希くんが申し訳なさそうに眉を寄せた。
「オレ、邪魔したよな。先輩といるって知らなくてさ…ごめんな。」
「…ううん。そもそも、今日は希くんの部活終わりを待つつもりで手芸部に来たんだよ。ほら、次に作る作品の構想を練りたくって、そのついでに…。そしたら偶然先輩がきて。」
「偶然、ね。」
…妙に含みのある言い方だなぁ。なぁに?と小首を傾げても、希くんはただその肩を竦めるだけだ。
「それにしても、希くんナイスタイミングだよ~。わたし、また先輩を怒らせちゃって…」
「う~ん。きみは悪くなかった気がするけど。」
「えっ。なんでそんなことが分かるの?」
「シックスセンス、みたいな?」
「なにそれ…。希くんって意外とそういうの信じるよね。」
まぁね~と笑って、机に乗せていたわたしのカバンを持つ。
「とにかく、待っててくれてありがとう。暗くなる前に帰ろう。きみん家まで送ってく。」
「うん、ありがとう。でも、カバンは自分で持てるよ。」
「良いって、待っててくれたお礼。…と、いう名のトレーニングってことで。」
「ふふ、そんな軽いカバンでトレーニングになる?」
「んじゃ、きみを背負って帰るってのはどう?それでも余裕だよ、オレ。」
「えぇ、やだよ。帰り道みんなの注目浴びちゃうよ。」
「オレは、注目なら大歓迎だけどな。」
冗談なのか本気なのか。
なんだか本気でわたしを背負って帰ろうとするような迫力を感じて、わたしは慌てて希くんの隣に並んで自分のカバンを奪う。希くんならやり兼ねないし、行動に移す前に無事に歩きで帰路につかなければならない。と、茶化すように希くんが言う。
「きみとしては、先輩に見られちゃ困るもんな~?」
「もうっ。先輩がどうこういう問題じゃないよっ。先生にも生徒にもご近所さんにも見られたくないよ。」
「あっはは、そりゃそっか。」
もう、とまた希くんの腕をぽすりと叩く。
ちょっと気が抜けたみたいに笑う希くんに笑い返して、わたしたちはようやく部室を後にした。
冬の日が落ちるのは早い。薄暗い道を照らすのは、ぽつぽつと一定間隔で設置された街頭だけだ。ときおりスピードを早めて通り過ぎる車からかばうみたいに、希くんはごく自然に車道側を歩いてくれる。ありがとうって言っても、当然じゃんと笑って。
「そういえば、今月末の日曜日は他校との練習試合になったよ。気温も低いし、身体痛めないようにしっかりストレッチしないとな~。」
「きっと希くんのライバルになるような選手はいないよ。ばんばん記録残してきてね。がんばって!」
「あっはは、ありがとう。きみに応援されたら気分が上がってきたっ。ライバルはいつだって自分!やるぞ~!」
「ふふっ!」
人より長めの両腕を天に突き上げて、希くんは今にも走り出しそうな勢いだ。その真っ直ぐさに、胸がぽかぽかと温かくなる。
希くんは、才能あふれる人だと思う。
さっき言った『希くんのライバルになるような選手はいない』というのも、お世辞抜きでそう思ってる。だって、恵まれた身体と頭脳を持っているのに、その上で毎日の努力を怠らない人に勝てる人なんていないから。
そんな希くんが隣にいつも居てくれるから、わたしも頑張ろう、新しいことにどんどん挑戦しようと思えるんだ。先輩はわたしのことを努力家だとか、新しい挑戦をするアグレッシブな後輩だと評価してくれているけれど、それは希くんのおかげなんだよって胸を張って言いたい。
先輩といえば、さっきの質問を思い出す。君は男女の友情があると思うタイプなんだね…なんて。考えたこともなかったけれど、それがそんなに怒りを買うことなのかな。
隣を歩く、この頭の良い人はどう思うんだろう。希くんならあっけらかんとした答えをくれる気がして問いかける。
「ねぇ、希くんは男女の友情についてどう思う?」
「んぇ?な、なんだよ急に。男女の友情について?」
「うん、実はね…」
ぎょっとしたような顔の希くんにさっきの先輩とのやりとりを説明する。と、ちょっとづつ希くんの表情が険しくなっていくのが見て取れた。
「希くん?あの…怒ってる?」
「あ、あぁ~…ごめん。オレそんな顔してた?違うよ、きみに怒ってるわけじゃないって。」
「でも…」
「…あ、自販機っ。オレ、ちょっとホットドリンク買ってくる。きみはココア?」
「えっ、あ、う、うん。」
了解、と言い終わらないうちにわき道に設置された自販機にダッシュして行ってしまった。なんだか希くんにしては珍しい表情をしていたような…。というか、誤魔化された?と、さっきの険しさは嘘だったみたいにいつも通りの希くんが戻ってくる。
「ほい、お待たせ~。きみの好きな銘柄があったよ。」
「わ~、あったかい…!ありがとう。ふふ、希くんはやっぱり冷たいのなんだね。」
「まぁね。オレ、キンキンに冷えたやつが好きだからさ。」
ごくごくと喉を潤わせてから、希くんが言う。
「で、男女の友情について、だっけ。あのなぁ、陸上バカのオレがそんな難しいこと分かるわけないじゃん。」
「もう。希くんはバカじゃないよ。」
「あ~…はは、ありがとうって言うべきなんだろうけど。はぁ、ダメかぁ…。」
黙ってしまった。考えてくれているのかな?
沈黙のなか、2人で海沿いをゆっくり歩く。海岸から音を立てて拭き寄せる冷たい風にぶるりと震え、温かいココアを握りしめていると、ぽつりと希くんが話し出した。
「…物事に絶対なんてないだろ?だから、あるとも言えるし、ないとも言えるんじゃないかなって思う。先輩の口ぶりからすると、あの人にとっては『ない』んだろうなって思うよ。だけどさ、少なくともオレたちにとっては『ある』わけじゃん。」
「わたしたちにとってはある…。」
つまりは、人によって違うという事がいいたいのかな。
じゃあやっぱり、怒るようなことじゃない…と思うんだけどなぁ。海風で口唇が乾くのか、希くんは唇をしめらせて、それから迷った風にボソッと漏らす。
「まぁ『ある』ってコトにしてるだけ…とも言えるけどさ。」
「えっ、なに?聞こえないよ。」
「別になんでもないよ。余計なこと言った。」
「えぇ~、気になるよっ教えてっ!」
「うわっ!あっはは、くすぐりはナシ!あ~もう、バンバン叩くなって!」
「だって希くんが意地悪するから!」
「えっ、オレ?どっちかっていうと、意地悪なのはきみだって!」
「もうっ!なんでわたしが意地悪なのっ。」
「あっはは、痛い痛いっ。きみ筋肉ついたな~。教えた筋トレ、効果出てるじゃん。」
「また誤魔化した!」
もう。
精一杯背伸びをして希くんの頭をぐしゃりとやると、『犬じゃないって!』と笑った。希くんの笑顔は迫力大だ。
大きな口を犬歯が見えるくらい開けて、からっと笑うんだ。
「とにかく、きみが男女の友情について頓着していないってことが悪いってことはないって思うよ、オレ。」
「そうかなぁ…。でも、また先輩を怒らせちゃったし。」
「気にする人もいるってだけだって。そんなん、きみが反省したってどうにならない事じゃないの?」
「う~ん。そっかぁ…。」
「…モヤモヤするときは走るのが一番だぜ?一本、走ってみる?」
「えぇ~?」
「ほら、行こっ!」
「あっ、わたしのカバン!もう、希くんっ!」
自分の大きなスポーツバッグに加えて、わたしのカバンを持っても希くんはどこ吹く風。力強くすいすいと前に走っていく。
なんだか、希くんを見てると前を自然と向ける気がする。走るのも、悪くないかも。ぐっぐと足のストレッチをして、わたしも全力で走り出した。