翌る年は、飽くほどに 今、僕たちの目の前には小さな箱がひとつ。
正面に座る幼馴染みがその蓋をそっと取り払って、ちゃぶ台の上へことんと置いた。らしくない一連の仕草を見守ってから、示し合わせたようにふたりして中身を覗き込む。
「……で? どっちが食いてーの、冬居は」
洗練されたデザインの箱に並んで鎮座しているのは、ふた粒のチョコレートだ。ひとつは赤いハート型のフォルム、もうひとつはクマのキャラクターを象ったもの。形状は違えど、どちらも繊細なつくりをした美しいチョコレートたち。
「って、聞くまでもねーか。どうせクマのほうだろ? あんだけ熱心に見つめてたんだもんな」
幼馴染みが片眉を上げてにやりと笑う。そんな彼とは対照的に、話題に上げられたクマは無表情のまま僕の決断をじっと待っているのだった。
山田さんとふたりでショッピングモールへ出掛けた今日、バレンタイン特設売り場を通り掛かった時のこと。大きな関心もなく通り過ぎようとした僕の目を釘付けにしたのは、とあるチョコレートブランドのアイコン的存在らしい丸顔のクマだった。とびきり愛らしくてちょっと間の抜けた顔立ちが、ひときわ目立って見えたのだ。ちょうど人波の引いたショーケース前に立ち止まり、華やかに飾られたガラスの向こうをまじまじと眺めた。——ねえ山田さん、この子すっごくかわいくないですか? 同意がほしくて訊いたわけではなかったのに、返ってきたのは「んじゃ買うか?」という意外な一言だった。うわ、やっぱたけーのな。潜めた声でぽそりと呟いてから、「一番安いやつ、半分こしようぜ。割り勘な!」と僕の返事も待たず、彼はあっという間に会計を済ませてしまったのだった。
そんな顛末でお迎えしたのが、ちゃぶ台にちょこんと置かれたこのチョコレートである。二個入り税込八百六十四円也。どちらを選んだとしても味は間違いないだろうけど、かわいいクマの顔をもぐもぐと噛み砕くのはちょっと可哀想な感じがするかもしれないな、と想像して顔を顰めた。
「いつまで悩んでんだよ、冬居。さっさと食っちまおーぜ」
気まぐれで時にせっかちな幼馴染みが、僕の顔を覗き込んで急き立ててくる。機嫌を損ねる前に決断しなくちゃ、とまたチョコレートに向き直ろうとしたその時——自分がどっちを食べたいかではなく、「彼に食べてほしいのはどちらか」を選べばいいんじゃないだろうか——と、唐突に扉が開けたような心地がした。直感の赴くままにチョコレートと山田さんの顔を行ったり来たり見比べて、僕はようやく答えを導き出すことができたのだった。
「……それじゃ、僕はクマさんのほうをいただきます」
「ん、オッケー。なら俺はこっちな」
僕の決断を見届けるなり、彼は即座に箱の中へと手を伸ばす。人差し指と親指が、ハートのチョコレートをそうっと慎重につまみ上げた。普段とはずいぶんかけ離れた丁寧な所作に、値段相応の扱いというものが見て取れる。彼は持ち上げたそれを検分するようにひと通り眺めてから、ついにその口元へと運んだ。ひと口大のお菓子なんて、いつも通りなら口の中へぽいっと放り込んでしまうだろうに——どうやら今日は、大事に味わうつもりでいるらしい。控えめに開いた唇のあいだへハートが半分差し込まれ、赤く艶やかな表面に歯が立てられた。美しい曲線を描くコーティングに、ぴしりと一筋ひびが入る。一瞬にして広がった割れ目からハート型はほろほろと崩れ、その片割れが口内へとこぼれ落ちていくのが見えた。風味をじっくりと確かめるように、唇がむにむにと動く。
「んん……? ……なんつーか、食ったことねえ味する」
眉間に皺を寄せ、なにやら難しそうな顔をした山田さんが最初の感想をこぼす。記憶を辿るように、なにかを見つけ出すように、視線を宙に彷徨わせながら。
「……口に合いませんでした?」
明らかに不安の滲んだ声が出て、しまった、ちょっと不自然だったかとこっそり動揺する。今のはまるで、チョコレートを作った側みたいな台詞じゃないか——実際はただ身勝手に、己の心のうちをハートのチョコへ重ねているにすぎないのに。もちろん、山田さんにしてみれば自分の食べるぶんの代金を出したという認識でいるのは間違いない。一方僕はと言えば、せっかくの機会だからとこのひとに贈るという体で、あのハートを差し出すに至ったのだった。ひとりで勝手に始めて、気付かれぬまま勝手に終わらせる。これが僕の、今年のバレンタインデーのすべてだ。とは言っても、この小さなひと粒にはとても収まり切らないほどの気持ちを抱えていることなんて、自分がいちばん理解している。好きだとか付き合ってほしいとか、そんなシンプルで耳触りのよい言葉じゃ表現し尽くせない代物なのだ——僕の中で渦巻く「これ」は。そんなふうにどろどろとしてじとりと重たい、不定形の感情をこの美しいチョコレートに委ねようだなんて、ひょっとしてひどくおこがましい行為なんじゃないだろうか——知らぬ間に僕は、バレンタインというイベントに踊らされていたのかもしれない。必要以上の意味を持たせようとする己を省みた途端、後悔と恥ずかしさが立ち所に襲いかかってくる。膝に置いた拳を無意識にぎゅっと握る。断罪を言い渡されるような心境で、次に彼が口を開く瞬間をじっと待った。
尋ねてから後悔するまで、時間にすればおそらくほんの数秒。ハートのかけらを溶かし終えたらしい唇が、ついに薄く開かれる。
「……いや? すげえ美味い」
難しげだった表情が、ほどけるようにふわりと笑顔へ変わる。その一部始終を正面から受け止めて、鼓動がひとつ大きく鳴るのがわかった。想いを受け入れてもらえたわけでもないのに、好きなひとの笑みを前にすれば手のひら返しに嬉しくなってしまうなんて、僕は自分で思うよりずっと単純なのかもしれない。
「なんか複雑な味すんのな、お高いチョコって。おもしれーわ」
そう言った彼は残りの半分をひょいと口に放り込む。上唇にくっついた赤いかけらも素早くぺろりと舐め取られ、その口内へと消えていったのだった。ハートを余すことなく味わい尽くした彼が、満足そうな笑みを浮かべる。
「ほら、冬居もはやく食えって。こっちもぜってー美味いぞ」
山田さんの右手によって、小さな箱がちゃぶ台上をすすっと移動する。僕の方へ手ずから箱を寄せる、たったそれだけの仕草で。チョコレートを贈られたような気分になってしまった僕はやっぱりとても現金だし、バレンタインの雰囲気に酔っていると認めざるを得ない。
「……いただきます」
かわいい顔が砕けるところは見たくないから、思い切りよく丸ごとひと口。クマを頬張る僕を、やけに上機嫌な様子の幼馴染みが目を細めて眺めている。どうしたって意識してしまうその視線にちょっと居心地の悪さを感じ、とは言えその点僕は完全におあいこなのだった。視線の主の期待通り、「美味しいですよ」と言ってあげるつもりではいるけれど——本当に告げたい言葉たちは、今少し先まで取っておこうと思った。どうだ美味いだろ、となぜかドヤ顔で笑うこのひとには、チョコレートひと粒じゃ足りないほどに伝えるべきことがあるから。
「美味いけど、一個じゃ食い足りねーよなあ。やっぱ」
惜しむような台詞を耳にして、じゃあ来年は僕から彼に贈るひと箱をきっちり準備しようと、密かにそう決意する。かわいい見た目の割にほろ苦く溶ける味わいを、舌の上でじっくりと転がしながら。