兄弟ふたり、仲良くしてね お兄ちゃんでしょと母親が初めて言葉にしたのは、多分ふたりが幼稚園に通い出した時だったと思う。母親と兄弟ふたりで家にこもってミニカーや積み木や、広告の裏の白に蜜ろうクレヨンでお絵描きをしていた頃には意識していなかった他人が、堅志朗と幸志朗の生活になだれ込んで来て、幸志朗は毎朝、お腹を壊した。
「ようちえん、いかない!」
玄関で靴を投げて泣いた。 ふたりでおそろいの、クルマを模したマジックテープ式の運動靴は母親の肩に当たって落ちた。母親は困り果てて「でも、幸志朗」と泣いている、小さな息子を抱きしめる。
「早くしないと、幼稚園のバス行っちゃうよ」
幸志朗はいやいやと首を振り、母親の胸を叩く。
「いかない!こうしろ、やなの!ようちえんいかない!おうちいるのぉ!」
怪獣みたいに泣き出した、弟の声を堅志朗は聞いていた。園服を着て、黄色の帽子を被り、だいもんけんしろうと大きく書かれた名札をつけて、堅志朗はずうっと玄関に立ち尽くして待っていた。そうして立っているうちに、本当に母親の言う通り幼稚園のバスが自分たちを置いて行ってしまう気がしてきた。堅志朗も幸志朗もまだまだ幼くて、時計もよめないし、世界も狭い。幼稚園には幼稚園のバスでしか行けないのだと純粋に思っていて、バスに乗れなかったらせっかく同じクラスのおともだちと約束した砂場遊びもできなくなる。堅志朗は焦って、困って、ついには腹が立ってきた。自分はきちんと幼稚園に行く準備を終えて、良い子で待っているのに、幸志朗が駄々をこねるせいで幼稚園に行けないかもしれない。幸志朗が悪い。幸志朗のせいだ。
「はやくいくよ!」
投げられた靴を拾って、堅志朗は幸志朗の頭を思い切りに殴った。ぽかん!と音がして、幸志朗は目を丸くして痛みに気が付いて泣いた。火がついたみたいに泣いた。母親は慌てて幸志朗を腕から解放し、帽子を脱がせる。たんこぶができていないのを確認して、また幸志朗を抱いた。
「痛かったね、よしよし」
堅志朗はもう一度靴を振りかぶった。幸志朗の靴、ふたりでお揃いの、クルマを模した運動靴。パトカーそっくりの、白と黒と赤の靴。
「堅志朗!だめ!」
母親が止めた。堅志朗はそれでも振りかぶった。堅志朗は幼稚園に行きたかったからだ。幼稚園に行きたいから、ちゃんと歯磨きをして、顔を洗って、朝ごはんも残さず食べた。園服を着て、靴下を自分で履いた。ハンカチもたたんで、ポケットにきちんと入れた。なのに今、幸志朗のせいで幼稚園に行けないかもしれない。堅志朗は怒っていた。堅志朗は悪くないのに、幸志朗が、幸志朗が……。
「こうしろ!ばか!」
ぽかりと音がした。今度は幸志朗の頭には当たらなかった。母親の背中が幸志朗を守ったからだ。
「や!おかあさん、や!なんで!こうしろわるいこでしょ!や!けんしろ、いいこでしょ!?」
堅志朗は訳が分からなくなって、何度も靴を振り上げた。母親は黙って、堅志朗に殴られ続けている。堅志朗は何度も何度も、幸志朗の右足用のパトカーを母親の背中にぶつける。
「わああああん、おかあさんばかー!ようちえん、いけなくなっちゃうよお!」
勢いよくぶつけた靴は吹っ飛んで、玄関を飛び越え、廊下に転がった。堅志朗はもう、何で自分がこんなにも怒っているのか分からず、地団駄を踏み、母親の背中に抱きついて鼻水と涙でべしょべしょの顔を擦りつけた。母親は幸志朗から腕を離し、振り向いて、堅志朗を抱きしめてくれた。
「そうだねえ、堅志朗、幼稚園好きだもんね。行きたいね、行きたいよねえ」
幸志朗はぽかんとしている。堅志朗は顔をくしゃくしゃにして、母親の胸にすがりついて泣いている。その時の母親の顔を、兄弟はふたりとも覚えていない。お互いの表情は覚えているのに、履いていた靴の事は鮮明に思い出せるのに、母親の腕の中が暖かったことも、声が優しかったことも忘れられないのに、表情をちっとも覚えていないのだ。困っていたか、笑っていたか、呆れていたか……。
「堅志朗、幼稚園行く?」
「いく……」
「幸志朗は、どうする?」
「いや……」
「そっかあ、じゃあ堅志朗は幼稚園に行って、幸志朗はおうちにいよっか」
「いいの?」
「ほんと?」
「いいよ。バスもう行っちゃった時間だから、お母さん車出すね。ふたりとも、お鼻かんでお顔きれいにしたら一緒に行こう」
「こうしろもいくの?」
「幸志朗も車までは、行こう?一緒におうちに帰ろうね」
「やったあ!」
幸志朗が帽子をリビングに放り出して、お気に入りのミニカーを持ってくる。堅志朗は母親に連れられて温めた濡れタオルで顔を拭われ、弟が楽しそうにミニカーを持って走り回ってるのを見ている。
「堅志朗」
「ん」
「ごめんなさい、できる?」
「んー」
でも幸志朗はごめんなさいしてないよ、と堅志朗は思った。言おうとして、やめた。母親が堅志朗の頭を撫でて諭したからだ。
「堅志朗はお兄ちゃんでしょ、ごめんなさい、できる?」
母親をぎゅうっと抱きしめて、堅志朗は「できる」と言った。お兄ちゃんと呼ばれたのは、この時が初めてだった。堅志朗はこの響きが嬉しくて、嬉しくて、背伸びしてしゃがんでいる母親に抱きついたまま「できるよ!」と言った。できるよ!お兄ちゃんだから……。
「こうしろがね、こんどね、ようちえんいかないっていったらね」
「うん、うん」
「いっしょにいこうねって、してあげる!」
幸志朗の楽しそうな声を、堅志朗は大人になった今も覚えている。パトカーのサイレンの真似をしていた。ウーウー。ウーウー!楽しそうに走り回っている、かわいい弟。庇護すべき存在。自分の守るべき対象。導かなくちゃいけない。優しくしなきゃいけない。一歩前に進んでやらなきゃ。その時はそんな事思っていなかった。ただ母親に頬擦りされて「堅志朗はいい子だねえ!」と喜ばれたのが嬉しくて、頼られたのが誇らしかった。幸志朗の、お兄ちゃんになれたあの瞬間。
「ウー!ウーウー!」
幸志朗が走り回る。母親が温めた濡れタオルを持って幸志朗を捕まえて顔を拭っている。
「やあーだあー、おかおいたあーい!」
キャッキャと笑いながら、幸志朗は母の胸に抱かれている。自分より数分間だけ幼い弟。
「こうしろ!」
呼んだら、こっちを向いた。
「たたいて、ごめんねぇ!」
謝ったら、にこりと笑った。
「いいよぉ!」
忘れられない思い出。今は遠い過去。
真っ黒のパーカーを深く被って、堅志朗は車の中でうたた寝をしている。車は、白と黒と赤で出来ていない。スモークガラスの真っ黒のハイエースの、チャイルドシートではないただの後部座席に堅志朗は横たわっていた。運転してきたドブが、ここで待っていろというものだから。
「なんだ、大門くん寝てたの」
「……ん、ああ」
「疲れてんの?警察官大変そうだもんね」
「お前が大変にさせてるんだけどな」
「好きでやってんだろ、お前も」
コンビニ袋を下げて帰ってきたドブが、運転席に座り、エンジンをかける。堅志朗は今見た夢を思い出しながら、ドブの持ってきたコンビニ袋を受け取り、中を漁る。缶コーヒーの無糖が二本入っていたのを見つけ、勝手にプルタブに指をかけた。
「もしもの話なんだけど」
「ん?」
「俺が謝ったら、弟は俺を許すかな」
ドブが手を出した。開けた缶コーヒーを、自分のためだと思っているのだろう。堅志朗は仕方なく彼に缶コーヒーを渡す。自分のためにもう一度、プルタブに指をかけ直す。二度目の開封。
「謝るって、何にだよ」
嘲るようにドブが笑った。車が動き出す。堅志朗は苦いコーヒーを飲みながら「何にだろうな」と一人言みたいに返した。何にだろう。悪いことをしていることを?悪いやつらと繋がっていることを?それとも、彼を守り、許し続ける、正義のお兄ちゃんでいられなかったことを?
「許してほしいなあ……」
ドブからの返答はなかった。コーヒーは苦くて、そのうちにスピードを上げ始めた車の乗り心地は最低で、堅志朗はため息をつく。大人になったのに、幸志朗は今でも毎朝お腹を壊す。堅志朗は大人になったらごめんなさいが出来なくなった。母親は、もういない。ふたりを抱きしめてくれる母親はもういない。ずっといない。なんでかなぁ。