ガラス玉の価値 炭酸が飲めるようになったのはいつからだったのだろう?少なくとも、両親が生きている時は無理だった。あの事件の前の年、近所の神社のお祭りでビー玉のはいったラムネを父に買ってもらった弟の隣で、母と手を繋ぎながら缶のオレンジジュースを抱きしめていた。
「このびぃ玉どうやって取るのかなあ」
カラコロカラコロ、瓶のビー玉を鳴らす弟が大門には眩しく見えた。弟はいつでも欲しいものを買ってもらう。好きなものをすきって言う。
「堅志郎はいいの、それで?りんご飴買ってあげようか」
母が頭を撫でて、しかめっ面の大門をあやす。大門は首を横にふる。
「ねーっチョコバナナ食べたい!」
弟の、朗らかな声。欲しいものを、欲しいと言う。好きなものを好きだと言う、素直な声。
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片手鍋に水を入れ、火にかける。出汁入りの味噌を適当にお湯に溶かし、良い香りがしてきたらパックの豆腐を切らずにいれてお玉で軽く崩す。
「たまごとネギ、入れてもいいだろ?」
「俺はたまごは味噌汁じゃなくて、焼いてくれよ」
「は?面倒なこと言うなよ。じゃあお前何もなしな。飯抜き」
「大門くんが聞いたんじゃん」
「味噌汁の話してんだよこっちはよ」
リビングとは名ばかりの居間兼寝室兼キッチンであるこのアパートの一室で大門はこの男、かつて男を慕う者や嫌う者たちにドブと呼ばれ、今は自分しかドブと呼ばない出涸らしのような男と寄り添って生きていた。ドブは昔の仲間を失い、敬愛するボスと離別し、今はもう首に悪趣味な金のネックレスなぞは掛けてはいなかった。日雇いや短期の募集での、交通整理や荷運びなどの力仕事で僅かばかりの金を稼ぎ、あとはだらだらりと部屋で寝そべったり、テレビを見たり、こうやって大門を茶化して遊んだりして毎日を過ごしている。
大門はぶつぶつ言いながら、結局ドブのためにたまごを焼いてやっている。たまごは小さなボウルに割り入れて醤油を垂らし、かさ増しのためにほんの少しの水を入れ、手早くかき混ぜる。色が薄いとドブが「また水を入れた」「こんなのは玉子焼きじゃなくて貧乏焼きだ」と茶々を入れて拗ねてむくれるので、味噌汁にいれるはずだったネギも入れてやる。
「いい匂い。もしかして俺のためにたまご焼いて、くれてんの?」
もしかしても何も、分かっていてドブは言っている。だのに大門はドブがこうやって鼻をすんすん動かして、幸せそうに口角を歪めるのが嬉しいのだ。自分のわがままを叶えさせてやっているのだとふんぞり返っているこの男が見たいのだ。その気持ちひとつのために、大門の食事は今日もほんの少しだけ貧相になる。味噌汁にいれるたまごとネギをドブのために焼いたので、食卓に並べる味噌汁にはどちらも入っていない。たまご焼きは当然のようにドブの目の前にだけ置かれ、ドブもまたそれを否やとしない。
「美味い。お前、飯作るの上手くなったなあ」
大門は黙って、予定よりもずいぶんと寂しくなった味噌汁をすすり、米を食む。ドブは美味い美味いと大げさに喜んで、大門からの反応がなくなるとプイとテレビのほうを向いてしまう。
「今日アレやんだよ、アレ」
リモコンのボタンを何度も何度も押し変えて、ドブはへらへらりと笑っている。大門は小首を傾げ、できるだけ平坦に「7チャン」と教えてやる。ドブは素直に数字の7を押して、目当ての番組が映ったことを喜んでいる。
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目が冴えるようなピンクや黄緑の服を大門はもう着ていない。
「弟くんに連絡すりゃ、いいじゃねえか。たぶん大事にとっておくだろ、手入れできているかは別としても」
「今さら、着れるかよ。年甲斐もなく」
「あの頃だって、若作りみたいなもんだったろ。三十後半であの色はやばいって」
ドブは性懲りもなく、あの頃と同じ紫や濃い赤の上着を着る。それも大門が着ていた若者向けの比較的手の届きやすいブランドショップのものではなく、一着で両手分は札がとぶ、仕立ての良い嗜好品。
もちろん今は二人とも決して裕福なわけでも余裕があるわけでもない。ドブの着ている上着は大門が切り詰めて切り詰めて、ぐうと鳴るお腹の音を我慢した結果ようやく買えている。そうだ、ドブは自分の服に、金を出さない。大門が激安や大セールと書かれたのぼりが年中店の前ではためいている衣料量販店で買った、数枚いくらの無地のTシャツを大事に着ている横で「大門くん、俺そろそろ冬服欲しいんだけど」と事も無げに言う。大門は家計簿代わりの大学ノートを閉じて「裸でいりゃいいじゃん」と返す。ドブが笑い、大門はため息をつく。そうして休日に二人で連れ立って、ATMに金を下ろしに行く。その繰り返しだ。
「今日の飯どうする?」
「どうするったって……」
「大門くん、何食いたい?」
大学ノートを指でなぞる。簡単な表を自分で作り、レシートを貼り付けて、蛍光ペンで線を引いて、毎日せせこましく背中を丸めて書いている。だから表紙はよれよれで、角なぞはめくれかけている。
「食いたいものなんて、ねえよ」
嘘だった。本当はたくさんあった。
肉が食べたい。底値の豚コマ肉や鶏胸肉なんかじゃなくて、安売りのウインナーやハムでもなくて、分厚いステーキが食べたい。焼肉店でタレと油たっぷりのカルビが食べたい。ラーメン屋でラーメンどんぶりのふちを隠すほどに並んだチャーシューを噛みしめたい。
野菜が食べたい。しなびたキャベツや、もやしや、半額マークのついたネギじゃなくって、ぱりぱりのレタスや水菜にプラスチックみたいにカラフルなパプリカが乗っているサラダが食べたい。ブロッコリーを山ほど茹でてマヨネーズをつけて好きなだけ食べたい。ナスとカボチャとししとうを買って、天ぷらを揚げたい。残った野菜で冷蔵庫を満たしたい。
魚が食べたい。真空パックにはいった味付きの煮魚や、一切れ100円の鮭の切り身や冷凍のシーフードミックスなんかじゃなくって、鱈の切り身を好きなだけ買って牡蠣も追加して鍋がやりたい。明太子としらすを買い込んで炊きたての白米にのせてかきこみたい。焼きたての秋刀魚に、大根おろしをのせて醤油をたらす。あの香りを胸いっぱいに吸い込みたい。
「そんな金もねえし」
「はは、よだれ垂らしながら言われてもなぁー」
笑われたのが恥ずかしく、慌てて袖で口元をこすった。ドブはぷかぷかと煙をはきながら、大門の手元の大学ノートを眺めている。
「捨てちゃえよ、そんなの」
「は?」
「そんなのがあるから、大門、お前どんどん駄目になるんだよ。捨てろよ。んで、ぱあっと飲みに行こうぜ。俺が奢る、何せ今日は大勝ちしたんだから……」
灰がぱたぱた……よく磨かれた床に落ちていく。家賃の安いアパートの床は、入居の手続きをとった時からすでにうっすら黒ずんで汚かったが、大門は休みの度に濡らした雑巾で擦り擦り根気よく磨き、くすんで茶色に近くなった床から、古くてもつるつるのオレンジの床にまで戻した。その床に、ドブはたばこの灰を落としていく。真剣な目で大門を諭すみたいな口調で、手元のたばこがどんどん減っていくのを気にもせず。
「おい」
「ンだよ」
「灰」
「灰ィ?あ、悪ィ。やべえ燃えてねえよな。あぶねえ」
指摘するとドブは慌てる。少し早足でシンクに置いてある、灰皿代わりの空き缶の元にたばこを運び放り込む。
「あーあ」
大門はじいっとその場で固まって、ドブの一挙一動を待っていた。ここで灰をそのままにしておくのなら、今日からこいつとお別れだと心に決めて、唾を飲む。大門はこの数年で何度も同じように「心に決めて」いる。ドブといることに限界を感じ、離れる理由を探して、それに賭けている。
「せっかく大門くんが、きれいにしたのにねえ」
なのにドブは肝心要の場面では決して間違えてはくれないのだった。雑巾を濡らし屈んで床をふいている。灰がついた雑巾を捨てたりもしない。よくよく手で擦り洗いをして、力強く絞って干す。大門の努力を踏みつけることはしても、踏み抜いてはくれない。ひどい。
「堅志郎?」
心配そうに眉を下げたドブの顔が、いつの間にか真横にまで近寄っている。大門は唇を噛み、ドブから顔を背ける、今顔を見たら泣いちゃいそうだから。
「堅志郎ォ、どうしたよ。なんか、嫌か?俺さぁ、もうお前しかいないんだからさ、お前にいなくなって貰っちゃ困るんだよ」
ドブの手が、大門の頭を撫でる。中指と人差し指を擦り付けるみたいに強くあてて、何度も頭上を往復し、今度は抱きしめて耳元でささやく。
「泣くなよぉ」
これは幾度となく、繰り返した茶番劇でもある。大門が生活に耐えきれなくなり、すんでのところでドブが受け止める。こうして二人で抱き合って「いつも、ごめんな」「ありがとうな」とドブが大門の頬や額にキスをして、辛さも悲しさも虚しさもひもじさもうやむやにする。そうしたら大門は明日からまた文句を言わずに、ドブのわがままをきいてやる。まるで取り決めがあるみたいに、凹凸ぴったりハマったやり取りは、しかし必要不可欠な儀式でもあるのだ。
「堅志郎、俺のこと好き?」
ドブが大門の首すじを撫でながら聞く。聞いてくれる。大門が答えやすいように、グズグズに泣かせてから聞いてくれる。
「うん……」
堅志郎もドブの首元に手を回す。目を合わせたら、ドブも泣きそうな顔をしていた。捨てられる子犬みたいな、どこに行ったら良いのか分からない迷子の男の子みたいな顔。
「すき」
抱き合って泣いていると、腹が減る。冷蔵庫は空っぽだ。かろうじてマヨネーズとソースと、食パンとたまごがあるぐらい。大門はドブの首にかじりつき、ビールが飲みたいな、と思う。しゅわしゅわ炭酸の苦い酒。大して好きでもないけれど、今は一気に煽りたい。そしてぐでんぐでんに酔って、布団に倒れ込んで好きなだけ寝たい。
「すき、すき」
でもそんなこと言えないから、言わない。ドブの背中を撫でて擦って、せめてこの男がそばにいて良かったと祈るみたいに。
「好きだよ……お前のこと……」
堅志郎はいいの、これで。